抄編 水滸伝

N2

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第29回 神行太保、偽りのふみを運ぶこと

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さて江州こうしゅうから川づたいにちょっと下ったところに、無為軍むいぐん(軍とは行政単位のひとつ)というひなびた田舎町がございます。ここに屋敷を構えるのが、黄文炳こうぶんぺいという退官した判事。ところが歳をかさねると権力欲はますます盛んになるというもの。手柄を立てて復職さきを世話してもらおうと、日ごろからアンテナはってことあるごとに対岸の江州府へご注進に出かけます。
今日もヒマにあかせて街をそぞろ歩き、かの潯陽楼で一服しておりました。二階の白壁には酔客の書きつけた詩文うたぶみがそこここに残されています。
「まあ素人しろうと文芸ならこんなもんだろう。ひと並み三割、下手くそ七割といったとこだな」
黄はにわか批評家になって端から順に読んでまわっていたのですが、途中でハタ、と足が止まりました。
「や。。こりゃあ反詩はんし(叛逆をほのめかすうた)じゃないか!?」
じっとそばに寄ってみれば墨あとも生々しく、ごく最近の詩作だとわかります。
「“潯陽江をくれないに”とはまこと穏やかならぬ文言。しかも黄巣といえば唐末の世を乱した大反乱者ではないか。その上をいこうとは言語道断。ほかの部分は許してやっても良いが、この二ヵ所はどうあっても見逃せん。学問もかじっておるようだし、ただの自信過剰のやからではあるまい。フーム……“鄆城うんじょうの宋江つくる”……宋江、はて宋江。。どこかで聞いたような、聞かなんだような……」

あくる朝、黄のすがたは早くも江州城の知事官舎にありました。
府知事はあの誕生祝いを奪われた宰相蔡京さいけいの九番目の息子で、蔡九さいきゅうどのと呼ばれています。もちろん親父の七光り、苦労知らずの坊ちゃんですが、奸臣佞吏かんしんねいりからみればこんなに操縦しやすい主人はまたといません。
「なに城下にて兵乱のきざしありと?ハハハ泰平の御代に、いまどき謀反人など出るものか。父上もお主も、ちと神経質が過ぎるのと違うかね」
「みやこの宰相閣下からは何のおたよりで?」
「それがなあ、あっちも気弱なのさ。天文台の連中が南の空に凶星きょうせいを見つけたと騒いでおるとか。おまけにいま開封府の往来ではこんな物騒なわらべ歌が流行っているらしいーー

家の木を ひとつゆすれば
国はぐらぐら
兵隊の やいばきらきら
水のわざ
斬った張ったは たてとよこ
そのかず 三十あまり六
のろしは上がるよ 山東からだ

お前のとこもくれぐれも用心せよ、だと。なぞかけ歌ごときで滅入めいるとは、父上も老いた。まったく嫌になるよ」
「いえいえ閣下、いにしえより天の意思はいつわり少ない子供の声や星宿せいしゅくの動きにあらわれると申します。これはてっきり真実の予言かも知れませんぞ」
そう言って黄が取り出したのは例の潯陽楼の詩を書き写したもの。
「……馬鹿らしい、自分を黄巣と重ねるようなうぬぼれ者の戯れごとではないか。おまけにどうやら流罪人。こんな奴が街を血の海にできるはずないぞ。どこの何者かね?」
「ご丁寧に“鄆城の宋江”と署名がありますが、これがなぜか先ほどのわらべ歌にみこまれているんです。いいですか、まず“家の木”とはウかんむりに木で“宋”の字、“水の工”とはさんずいに工で“江”。“三十六”はハキとわかりませんが、年齢か手下どもの数でしょう。鄆城県とはまさに山東地方。どうです、不思議なほどの一致ではないですか。さいわい相手は囚人、監獄をお調べになればすぐ分かりますよ」
ここまで熱心に説きつけられては、捜査せぬわけにはいきません。

さっそく呼び出しを受けた戴宗、数刻のちには真っ青になって牢営に飛び込んできました。
「お、戴院長。どこ行ってたんです、一杯やりに出かけましょう」なにも知らない宋江はニコニコ待ち構えていました。
「のんきな人だなあなたは!きのう潯陽楼でみょうな詩を書いたでしょう。それが知事の目に触れたんです。おわかりですか、悪ければ内乱罪に問われるかも知れん」
「えっ。あの詩が!……しまった、迂闊うかつだった。軽率だった」嘆いたところでとり返しはつきません。「かくなる上は頭がおかしくなったフリでもして乗り切るしかない」

蔡九知事のまえに引っ立てられた宋江、髪はざんばらに振り乱し、目は真っ赤、ひざまずきさえいたしません。
「やいやいやい木偶でくの坊!ワシを誰だと思って呼びつけた!?きいて驚け、この宋さまはな、玉皇大帝ぎょっこうたいてい(道教の最高神)の娘むこさ。十万の天兵ひきつれて、貴様らを退治しに降りてまいったのだ。閻魔大王が先ぶれ、五道ごどう将軍がしんがりよ。さあいざ勝負!勝負!」こんな調子で泡を飛ばして吠えかかりますので、知事も左右のものもたまらず、
「ああ、やはり気がふれておったか。もう結構、結構。うるさくてかなわん、もとの牢に戻してやれ」
と不問にして帰そうといたします。ところがそばにひかえる黄文炳、さすがに目ざとい男です。
「あいやしばらく!わたくし長らく判事をやっておりましたゆえ、悪党が罪を逃れたい一心でもの狂いの演技するのを嫌というほど見てまいりました。こやつ、どうも怪しゅうござる。だいいち潯陽楼の白壁の詩といい、筆跡といい、狂乱状態のものとは思えません。どうかさらなるお調べを」
獄卒たちに聞き取りすれば、昨日まで正気だったことなどすぐバレてしまいました。
あわれ宋江、お釈迦さまの生涯ほども長いあいだ鞭で打ち据えられました。血だるまのまま反乱計画の罪で死囚牢へぶち込まれます。
「これは国家への叛逆ですから、我々が独断で裁けることではございません。中央政府におうかがいを立ててみてはいかが?」と黄判事。
「よしよし、わかった。ついでに今回のそなたの活躍も父上に伝えよう、かならず良いポストを用意してもらえるだろう」
蔡知事はさっそく書簡をしたため、ふたたび戴宗を招きます。
「お使いの任務を頼みたい。この手紙を東京開封とうけいかいほうにある父の役宅へ届けてくれ、お前の『神行法しんこうほう』を使えば十日で往復できるはずだ」
戴宗、命令とあれば従うのみですが、まさかこの書簡に宋江の生殺与奪せいさつよだつがかかっているとは知りません。
李逵を呼びだすとこうふくめます。
「宋あにきの命が危ないというのに、俺はお役目でここを離れにゃならん。なるだけ早く帰ってくるから、お前はあにきの牢屋を見張って、食事の世話をしてやってくれ。くれぐれも酒を飲んで寝坊すんじゃないぞ」
「みくびってもらっちゃ困る。おいら院長が戻るまでキッカリ断酒すらあ!天子てんしが来ても通さねえぞ」
「よしよし、そこまで決心してくれるんなら文句はねえ」
戴宗、後ろ髪を引かれつつ出立の用意をいたします。

ところで『神行法』とは何でしょうか?これこそ世界で戴宗ひとりが体得している摩訶まか不思議の道術で、一日に何百里も進むことができるというすぐれもの。飛脚よりも馬よりも遥かにはやく目的地に向かうことが出来るのです。
さて旅装束の戴宗、脚絆きゃはんに四枚の御守りを結え付け、むにゃむにゃと秘呪ひじゅを唱えてあるき出せば、足は地面から少し浮き上がり、身体はたちまち弾丸のように飛んでゆきます。街道を行き交うひとも並木も走馬灯の早送りのよう、耳元では風の音だけがゴーッと鳴るばかり。


こうして北に旅をつづけること二日。神行法の力はすさまじく、彼のすがたはすでに山東の地にありました。
「このぶんだと明日あさってにゃ東京に着けそうだ」
歩きどおしで疲れた戴宗、きゅうに腹が減ったので酒屋に駆け込みます。野菜を食い、湯豆腐をたいらげ(神行法は聖なる術なので、肉食禁止)「おうい、飯を持ってきてくれ」と伸びあがったせつな、頭はグラグラ重く、足はふわふわ軽くなり、糸のきれた操り人形のように回ってパタリと地に倒れてしまいました。どうやら料理にしびれ薬を盛られていたようです。

人事不省じんじふせいのまま厨房に引きずりこまれた戴宗。あとはコマ切れにされるばかりかと思いきや、奥から出てきたのはあの“旱地忽律かんちこつりつ”の朱貴しゅきでした。そう、ここはかつて林冲も訪ねた梁山泊の見張り小屋だったのです。
さっそくと出刃包丁でばぼうちょうを振り上げる手下を制して、
「おい、そうせっかちにバラそうとするんじゃねえ。このご時世、どこで好漢にめぐり会うともかぎらん。ほれ、こいつだってなかなかのつらだましい。まずは文書箱を検分だ、なにか身元のわかるもんでも持ってりゃいいが」
中に入っていたご大層な手紙の封をきると、身元どころかえらいことが書いてあります。
「なんてこった!宋江さんが反逆罪のおとがめだと!?」
朱貴、おお急ぎで梁山泊に使いをおくり、戴宗には解毒げどく剤を飲ませます。

ようやく息を吹きかえした戴宗はとりでにかつぎ込まれます。待っていたのは旧知の呉用。二人して再会を喜びあい、ここまでのいきさつを伝えるところに、「なんだなんだ、宋三郎の旦那が危ないって」晁蓋以下の頭目たちも集まってきました。
「こうしちゃおれん、十日で戻ってこいと言われてるんだ。俺は開封府へ行って宋先生の首がつながる道を探さねば」
「そう慌てなさんな、わたしに妙案がある。宋江どのの命、ぶじ助けてみせましょうぞ」

呉軍師の策はこうです。
ーーみやこに行っても死刑の命令をもらうだけで、何の意味もない。むしろ梁山泊のほうでニセの返書を用意して、蔡九知事をだましてしまうほうが良い。内容は「よくぞ謀反人を未然にとらえた。宰相臨席のもと厳重に取り調べをいたすゆえ、監車かんしゃで東京へ運んでくるように」
蔡九が父からの命令にそむくはずもなし、宋江はみやこに向かって護送される。一行が梁山泊の近くを通りかかったところを、ちょうど青州でそうしたのと同じように不意打ちして宋江の身がらをうばってしまえば、最小の労力で彼を救い出せるーー
「こいつは鮮やかな策略だ。いにしえの呂望りょぼうも裸足だろう!」晁蓋は手を叩いて喜びます。
「たしかに名案だが、わずか五日やそこらで手紙や印鑑をどうやって偽造するんです?相手は息子、よっぽど上手くやらねば親の筆跡じゃないとすぐバレてしまいますぞ」林冲の心配ももっともなこと。
「なあに、こっちもよっぽどの奴を呼んでくりゃいい。わたしの知り合いに筆真似ふでまねの天才とハンコ彫りの達人がいる。ふもとの済州さいしゅうに住んでいるから、おびき出して山にさらってしまおう」

かくして書の名人蕭譲しょうじょうとハンコ職人の金大堅きんたいけんは、半ば無理矢理のかっこうでとりでに連れてこられました。
「何かの間違いではないですか、わしらは鶏を絞め殺す力さえないただ一介の庶民。山賊しごとに関わり合いはない」
最初は断っていたふたりも、大小の頭領たちにかわるがわる頼みこまれると、ついに折れて協力することを決めました。

数日後、はたして達人ふたりはそれは精巧な偽物の返書を完成させました。流れるような筆さばきに、涼しげな印章は「翰林蔡京かんりんさいけい」の四文字。どこをどう比べても蔡京そのひとが書いたものとしか見えません。
「細工は流々といったところかな。あとはこの手紙を連中に読ませるだけだ」
一同の期待を背負って、戴宗はもと来た道を江州さして帰っていきました。

ところがつぎの日、みなで晩餐ばんさんを楽しんでいるその最中。ハッと何かを思い出した呉用軍師、椅子を蹴って立ち上がり、真っ青になって叫びます。
「ああ、なんとしたこと……!戴宗と宋旦那の命は、あの書状のせいでおしまいだ!」
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