抄編 水滸伝

N2

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第30回 梁山泊の豪傑、仕置き場から宋江をたすけ出すこと

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いったい呉先生の計略の何がいけなかったのでしょう?そいつはこれからの講釈をお読みになればわかります。

こちらは戴宗、神行法の快速とばして、はや八日目には江州のお城に戻ってまいりました。
李逵はといえば、きっちり言いつけを守って断酒していたうえ、寝るときさえも牢屋の前を動かぬ徹底ぶり。鬼の形相ぎょうそうで見張っていますから、野良猫いっぴき近づけません。
「道中梁山泊に立ちよって、呉軍師から秘策をさずかってきましたよ。どうやら助かりそうですぞ」
宋江と三人、たがいに肩を抱いて安堵あんどしあったことは言うまでもありません。

ところが翌々日になって、ふたたび戴宗に呼び出しが。内心冷や汗が止まりませんが、さあらぬ体をとりつくろって、知事のもとへ向かいます。
「おお院長、こたびはお役目ごくろう」蔡九知事はえびす顔して出迎えます。
「なに、たいした用事ではない。東京のことなど聞こうと思ってなあ。父上はお達者であったか?」
「はい。宰相閣下は大変ご健勝で」
「みやこは落ち着いておるか、なにか悪い噂などないか。朱雀すざく門の建て替えはおわっていたか」
「はあ、わたくし急いで書状を送れとのお召しに従い、夜に日をついで移動しました。東京の城門をくぐりましたのが夕方、お宅にうかがってご返書を頂戴したのがもう暮れる寸前、それからすぐ出立しましたもので、みやこには数刻と居りません。おまけに何ぶん不案内、街のうわさも官衙かんがのようすもよく存じません」戴宗、尻尾をつかまれぬよう必死にはぐらかして答えます。
家司けいしはどんなのが出てきたかね」
「どうと申されましても、夕闇せまる時刻でしたゆえはっきりとは顔を見れませんでした。背は高からず、かといって低からず。色は黒くもなく白くもなし、中年体型で髭のかたちは……」
蔡九ここで形相を一変、
「ええいしれ者めが!午後に着いたら返信は翌朝というのがわが家の決まり事。それに取り次ぎ用人はシュッとした若者だ。デタラメぬかしおって、誰かこいつに縄うて!」
戴宗とび上がって、
「わたくしはお使いをしただけ。何の罪とがでございますか!?」
「盗っ人ふてぶてしいやつ。だいたい貴様が持ち帰った書状からしておかしいのだ。わしは今まで父上から何通となく手紙をもらったが、あんな大仰おおぎょうな印は押してなかったぞ」
つづきは衝立のかげから出てきた黄文炳が教えてくれました。
「蔡京さまは書道の名手で現代の四大家のおひとり。その書体はひろく世間の知るところだ。ちょっと器用なやつなら真似はできるが、それにしたってなかなか良く書けている。問題は印鑑のほうだよ。『翰林かんりん蔡京』とはいただけないね、若い頃の役職の印を押すのは謙譲けんじょうのため、つまりこれは帝に上奏するときに使う極めて正式なもんだ。自分の息子あいてならサインでじゅうぶん。習字のお手本とにらめっこの田舎儒者がやらかしそうな失敗ではある」
策士策におぼれるとはまさにこのこと!呉用軍師の才気が裏目に出た、なんとも迂闊うかつな手抜かりでした。
戴宗もまた死刑を宣告されて牢屋に叩きこまれましたが、どんなに厳しい拷問をうけても、なにひとつ口を割りませんでした。
「手紙まで偽造してくるとは、いったい敵は何者だろうか」いまは蔡知事も反乱者の存在をうたがいません。
「ある程度以上の組織をもつ賊徒でしょうな。二竜山か、少華山か、あるいは梁山泊か。いずれにせよこの街にまだ同志が残っていれば厄介です。獄中の二名は早いとこ処刑して、みやこへは事後報告で済ませましょう」

とにかく急ぎで殺したい蔡九知事、裁判なんてほとんどすっ飛ばして、つぎの日には首切り役人から護送の手配まで死刑の準備をすっかり整えてしまいました。
ところがありがたいことに、じっさいの刑執行を監督する法務書記ほうむしょきは戴宗のふるい友人です。
「あしたは国家の祭日。あさってはお盆ですな。そのまた明日は大忌日だいきじつ。ぜったい血を見てはいけません。そのつぎはまたまた祝日で……」となんのかのと理屈をこね、五、六日も先延ばしにしてくれました。


さていよいよ処刑当日。仕置しおといっても日本のように町外れの野ッ原にはありません。街いちばんの目抜き通り、その巨大な四辻よつつじに高札をかかげ、往来を制限し臨時の広場を作ってその中でやるのです。
ひったてられて来たのは戴宗、そして宋江。ふだんはコソ泥の処刑なぞ見向きもせぬ蔡知事ですが、国家反逆罪となれば話しは別です。臨時の席を仕立てさせ、自らの目でふたりの首が落ちるのを検分してやるという意気込みでした。
むかしから公開処刑は庶民の娯楽、四辻は悪党の死にざまを見物しようと黒山のひとだかり。もう立錐りっすいの余地もありません。
「これ以上ひとが集まっては危ない。こりゃ役人ども、はやいとこ首を斬って連中を解散させい!」
書記官、「まだ刻限こくげんではございません」と食いさがります。そうこうする間に仕置き場にはさらなる人波が。
辻の東からヘビ使いの一団が、逆に西側からは薬売りの武芸者たちが往来をわたろうと進んでまいります。
「ダメだダメだ、いま処刑ちゅう。ほかの路をゆけ」軍卒ぐんそつども、必死に抑えようとしますがだれも言うことを聞きません。
こんどは辻の南側からぼてふり人足たち、北からは旅あきんど、これは二台の大八車だいはちぐるまいています。
「押すな!押すな!」「前に行かしてくれ!」観衆の悲鳴も大きくなってきました。
「もういい構わん、さっさとやらんか!」蔡知事も声を張り上げます。「執行せよ!死刑執行!」
その声を待っていたのでしょうか、旅あきんどのひとりがパッと大八車にとび乗るや、かねを取り出してジャンジャンジャンと叩きだします。
「梁山泊見参!このお仕置きに疑念あり!」
これが“合図”だったようです。東西南北から先ほどのヘビ使いに薬売り、人夫にあきんどたちがだんびら抜いて一気に刑場になだれ込んで来ました。言うまでもありませんが、彼らこそおなじみ水塞すいさいの頭目たちが変装したもの。
呉用の失敗が発覚した梁山泊は、宋江を見捨ててはなるまじと早速切り込み部隊をつのり、四つのグループにわかれて江州へ急行していたのです。その面子はといえば、花栄に黄信、王矮虎といった青州組に朱貴、阮三兄弟に、なんと総元締そうもとじめの晁蓋じしんも参加しておりました。

さあ慌てたのは野次馬たち、四方八方へ逃げようといたしますがあいにくの大混雑。将棋だおしになるものあり、踏みつけられるものあり、早くも阿鼻叫喚あびきょうかんのちまたとなる中を、「どけどけ!黒三郎をかえせ!」と梁山泊の豪傑たちは遠慮なくわけ入ります。
軍卒ども、死刑囚を渡すまいと人垣ひとがきつくってぐるりを囲み、外に刃を向けて立ちはだかりました。辻の四方で小さな合戦がはじまります。
ちょうどそのとき。刑場わきの二階からおおきな黒いけものがウォーッと叫んでまりのように跳ねたかと思うと、地上の首斬り役ふたりに踊りかかりました。そう、かの黒旋風李逵です。空中から振り下ろされた二丁のまさかりを防ぐ手だてなどありません。役人ふたり、頭をカチ割られて同時に絶命しました。
囲いの内側に猛獣が放たれたいじょう、もう支えることはできません。兵隊どももなかばは反撃をあきらめ、群衆と一緒になって逃げ散らかします。気づけば蔡知事もおりません。こういう嗅覚きゅうかくだけはするどい人ゆえ、危険を察知するやパッと官庁へとのがれてしまいました。

そこから先はもう虐殺と変わりありません。李逵は当たるをさいわい大根か菜っ葉でも切るように暴れまわり、屍山血河しざんけつがをこさえます。広場の中心で宋江と戴宗を大八車に乗せた晁蓋、考えますには「こいつが戴宗どのから聞いた黒旋風にちがいない。わしら江州は不案内だが、やつは地元民、落ち延びかたを知っているだろう」
そこで梁山泊の面々に呼びかけます。
「野郎ども引き上げだ!あの黒い兄さんの後ろに付いていこう!」

ここに殺戮さつりくマシーンに率いられた奇妙な一団が生まれました。先頭をゆく李逵はただがむしゃらに斧を振るい、一直線に進んでゆきます。通りみちにあるものは軍人庶民、老若男女おかまいなくみな殺し。市門をぬけ、城下町をぬけ、大川につき当たってもまだ李逵は殺すのをやめません。
「おおい黒いの、もうそのへんにしな!」
たまらず晁蓋が呼びかけますが、トランス状態の李逵は止まりません。川ばたを上流に向かって一里ばかりもまた斬りすすみ、ようやく壊れかけたほこらを見つけて、囚人ふたりをかつぎ入れます。

拷問で弱りきった宋江はこの救出劇のさなかにも夢うつつの心地でしたが、ようやく意識がはっきりしてくると、命びろいした嬉しさに晁蓋たちと抱き合います。
「ああ、晁旦那、花栄、みなと生きて会えるとは!これは死ぬ前に見るまぼろしじゃなかろうな?」
「安心するのはまだ早い。ここはどんづまりの一軒家。まえは血の海、うしろは大河、もう逃げる場所がない。じきに江州城から追手が寄せるだろう。おいまさかり野郎!一体ぜんたい何を考えて連れて来たんだ?」
李逵は大あくびをひとつ、「うんにゃ、ついて来たのはそっちだろ。おれはただ好き放題に殺したかっただけだよ」
あい変わらずとち狂った男ではありますが、ここまでどうにか逃げおおせたのは矢も刀もおそれぬ彼の度胸と暴力があったればこそ。今日いちばんの働きぶりは否定できません。
「あっ、もう兵隊がきやがった!」
物見があわただしく駆けてきます。
「えいままよ、このお社をまくらに斬り死にするまで!」
「捨て鉢になんなさんな、どこかに船かいかだでもないか探してくるぜ」阮三兄弟はドボンと川にとびこみ対岸めざして泳ぎはじめました。ところがそこに、川上のほうから三艘の早舟が漕ぎ寄せてまいります。乗りこんでいるのはいずれも刀や槍で武装した男たち。
「いかん、官兵の水軍だ!」
「ああ、わしは本当に運がない!せっかく命を拾ったと思えば、ただ死ぬのが一刻ほどおくれただけ。かえって兄弟たちを巻き添えにするとは!」宋江、おもわず天を仰ぎます。
さあこのピンチ、どうやって切り抜ければ良いのでしょう?
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