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15.生き続ける名誉
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不幸な知らせがパウサニアス王に届いたのは、彼がプラタイアを発してテスピアイへ向かう途上であった。王の軍勢が臨戦体制を保ちながらハリアルトスに着いたころ、トラシュブロス率いるアテナイ軍もまた、テーバイから到着した。
パウサニアスは停戦を協議したうえで戦死者の遺体を回収しようと考えていた。スパルタの長老たちはこれに反発して仲間うちで怒っていたが、やがて我慢がならず王を訪ねると不満を露わにした。「どんな好条件を示されようと、リュサンドロスの亡き骸を取り返すのに交渉をもってするのは合点がいきません。我らみな正々堂々武器をとって戦えば良いでしょう。勝利できたならば彼を埋葬してやれますし、万一負けたとしても、大将のそばで死ねるのは武門の本懐ではありませんか」
こう老人たちは言うものの、パウサニアスは勝利に沸き立つテーバイ勢を撃退することの難しさを悟っていた。さらにはリュサンドロスの遺体が城壁近くに横たわっている以上、いくら勝とうと戦そのものが止まぬかぎり回収など不可能にちかい。決心した王は軍使を送って休戦協定を結び、兵をまとめボイオティアを後にした。リュサンドロスの亡き骸は国境を過ぎて最初に辿りついた友邦パノペウスの地に葬られた。デルフォイとカイロネイアを結ぶ道の傍らに、いまでも彼の記念碑は立っている。
さて、軍勢がパノペウスで休息をとっていたころ、フォキス出身のある兵士が先ほどの戦に居合わさなかった者らにいった。「敵が突然襲い掛かってきたのは、リュサンドロスが“ホプリテス”を渉ったすぐ後だったね」この会話を聞いたリュサンドロスの友人は驚いて、「ホプリテスとは何のことだ?」と尋ねた。“ホプリテス※1”に別の意味があるとは知らなかったのだ。
「そこで最初の戦死者が出たんですよ」とフォキス人。「ホプリテス川といいましてね、街のそばを流れとるんですわ」
これを聞いたスパルタの男らは、はらはらと涙を流して慨嘆した。「ああ、何人も運命からは逃れられないのか!」リュサンドロスは次のような神託を受けていたのである。
――ホプリテスに用心せよ そは音を立てて来る 地より生まれし竜に用心せよ そは背後から迫る――
しかし、“ホプリテス”はハリアルトスを流れる川ではなく、コロネイア近くにあるフィラロス河の支流だと考える者もある。その小川の名は現在はイソマントスだが、当時は“ホプリアス”と呼ばれていたらしい。またリュサンドロスの命を奪ったのはネオコロスというハリアルトス人で、彼の盾には竜の紋章が描かれていた。“竜に用心せよ”とはこのことであろう。
かつてテーバイ人がペロポネソス戦争の折にイスメノスの聖域で授かった神託は、デリオンの戦いと、30年後に起きたこのハリアルトスの戦いを予言したものとされている。
――槍もて狼を狩るにあたっては 辺縁の地を見定めよ 狐の絶えぬオルカリデスもおなじく――
“辺縁”というのは、ボイオティアとアッティカの境を占めるデリオンの地の暗示である。オルカリデスは今アロペコス※2と呼ばれている丘を指し、ハリアルトス市のうちヘリコン山に向いた一帯を指していう。
スパルタの人々は、リュサンドロスがかような最期を遂げたことを嘆き悲しんで、王の用兵のまずさを責めた。パウサニアス王は裁判にかけられ死刑相当であるかが争われたが、結果を待たずに逐電したのち、テゲアに亡命した。彼はこの邦のアテナの神域を駆け込み寺にして、そこから動くことなく余生を送ったと伝わっている。
リュサンドロスの死後、彼が変わらず清貧を貫いたことが白日に晒されて、名声はさらに高まった。テオポンポスが著作に記すとおり、ギリシアじゅうの都市やペルシャの王侯から限りない権力と尊敬を一身に浴びておきながら、ただ金銭に関してはわずかも私腹を肥やそうとはしなかったのである。テオポンポスという人物は、誰かを評価するより非難し欠点を探すことを得意とするだけに、彼が褒めている事柄は信憑性が高いと見てよい。
ところが歴史家エフォロスによれば、その後しばらくしてペロポネソス同盟内で取り決めをめぐる論争が起こったとき、リュサンドロスが保管していた文書にあたる必要が生じた。そこでアゲシラオス王が彼の屋敷を訪れたのだが、そこで例のスパルタの国体変更のための演説原稿が見つかってしまった。そこにはエウリュポン、アギアス両家から王権を剥奪し公に共有すること、王は市民のうち最も優れた者から選ぶべきことなどが書かれてあった。
当初、王はその内容を暴露することで、スパルタ人にリュサンドロスの真のすがたを見せつけてやろうと息巻いていた。そこへ監督官の首座を務めるラクラティダスという賢人が待ったをかけた。彼はいう。「それはリュサンドロスを塚の中から甦らせるのと同じですぞ。この原稿はじつに巧妙に大衆をつき動かすべく書かれていますから、彼と一緒に埋めてしまった方がよろしい」
スパルタ政府は、その他にもリュサンドロスの名誉を保つ努力を惜しまなかった。遺された彼の娘たちはつぎつぎに婚約を破談されたのだが、無礼な求婚者たちには重い罰金が課された。彼らはリュサンドロス家の豊かな財産を当てこんでいたが、死後彼が貧困に耐える善性を持っていたことが分かると、たちまち態度を変えて結婚を撤回したのだった。
どうもスパルタでは、結婚しない者、結婚を遅らそうとする者、そして不誠実な結婚にはそれぞれ刑罰があったようで、このうち3番目の罰は、姻族を選ぶのに善良さや友情を判断材料にしないで、金持ちと親類になりたいがために結婚するような者も該当したらしい。
以上が、筆者がリュサンドロスについて語りうることの全てである。
―― 完 ――
※1:本来のギリシア語の意味は“重装歩兵”
※2:“キツネ”という意味の地名
パウサニアスは停戦を協議したうえで戦死者の遺体を回収しようと考えていた。スパルタの長老たちはこれに反発して仲間うちで怒っていたが、やがて我慢がならず王を訪ねると不満を露わにした。「どんな好条件を示されようと、リュサンドロスの亡き骸を取り返すのに交渉をもってするのは合点がいきません。我らみな正々堂々武器をとって戦えば良いでしょう。勝利できたならば彼を埋葬してやれますし、万一負けたとしても、大将のそばで死ねるのは武門の本懐ではありませんか」
こう老人たちは言うものの、パウサニアスは勝利に沸き立つテーバイ勢を撃退することの難しさを悟っていた。さらにはリュサンドロスの遺体が城壁近くに横たわっている以上、いくら勝とうと戦そのものが止まぬかぎり回収など不可能にちかい。決心した王は軍使を送って休戦協定を結び、兵をまとめボイオティアを後にした。リュサンドロスの亡き骸は国境を過ぎて最初に辿りついた友邦パノペウスの地に葬られた。デルフォイとカイロネイアを結ぶ道の傍らに、いまでも彼の記念碑は立っている。
さて、軍勢がパノペウスで休息をとっていたころ、フォキス出身のある兵士が先ほどの戦に居合わさなかった者らにいった。「敵が突然襲い掛かってきたのは、リュサンドロスが“ホプリテス”を渉ったすぐ後だったね」この会話を聞いたリュサンドロスの友人は驚いて、「ホプリテスとは何のことだ?」と尋ねた。“ホプリテス※1”に別の意味があるとは知らなかったのだ。
「そこで最初の戦死者が出たんですよ」とフォキス人。「ホプリテス川といいましてね、街のそばを流れとるんですわ」
これを聞いたスパルタの男らは、はらはらと涙を流して慨嘆した。「ああ、何人も運命からは逃れられないのか!」リュサンドロスは次のような神託を受けていたのである。
――ホプリテスに用心せよ そは音を立てて来る 地より生まれし竜に用心せよ そは背後から迫る――
しかし、“ホプリテス”はハリアルトスを流れる川ではなく、コロネイア近くにあるフィラロス河の支流だと考える者もある。その小川の名は現在はイソマントスだが、当時は“ホプリアス”と呼ばれていたらしい。またリュサンドロスの命を奪ったのはネオコロスというハリアルトス人で、彼の盾には竜の紋章が描かれていた。“竜に用心せよ”とはこのことであろう。
かつてテーバイ人がペロポネソス戦争の折にイスメノスの聖域で授かった神託は、デリオンの戦いと、30年後に起きたこのハリアルトスの戦いを予言したものとされている。
――槍もて狼を狩るにあたっては 辺縁の地を見定めよ 狐の絶えぬオルカリデスもおなじく――
“辺縁”というのは、ボイオティアとアッティカの境を占めるデリオンの地の暗示である。オルカリデスは今アロペコス※2と呼ばれている丘を指し、ハリアルトス市のうちヘリコン山に向いた一帯を指していう。
スパルタの人々は、リュサンドロスがかような最期を遂げたことを嘆き悲しんで、王の用兵のまずさを責めた。パウサニアス王は裁判にかけられ死刑相当であるかが争われたが、結果を待たずに逐電したのち、テゲアに亡命した。彼はこの邦のアテナの神域を駆け込み寺にして、そこから動くことなく余生を送ったと伝わっている。
リュサンドロスの死後、彼が変わらず清貧を貫いたことが白日に晒されて、名声はさらに高まった。テオポンポスが著作に記すとおり、ギリシアじゅうの都市やペルシャの王侯から限りない権力と尊敬を一身に浴びておきながら、ただ金銭に関してはわずかも私腹を肥やそうとはしなかったのである。テオポンポスという人物は、誰かを評価するより非難し欠点を探すことを得意とするだけに、彼が褒めている事柄は信憑性が高いと見てよい。
ところが歴史家エフォロスによれば、その後しばらくしてペロポネソス同盟内で取り決めをめぐる論争が起こったとき、リュサンドロスが保管していた文書にあたる必要が生じた。そこでアゲシラオス王が彼の屋敷を訪れたのだが、そこで例のスパルタの国体変更のための演説原稿が見つかってしまった。そこにはエウリュポン、アギアス両家から王権を剥奪し公に共有すること、王は市民のうち最も優れた者から選ぶべきことなどが書かれてあった。
当初、王はその内容を暴露することで、スパルタ人にリュサンドロスの真のすがたを見せつけてやろうと息巻いていた。そこへ監督官の首座を務めるラクラティダスという賢人が待ったをかけた。彼はいう。「それはリュサンドロスを塚の中から甦らせるのと同じですぞ。この原稿はじつに巧妙に大衆をつき動かすべく書かれていますから、彼と一緒に埋めてしまった方がよろしい」
スパルタ政府は、その他にもリュサンドロスの名誉を保つ努力を惜しまなかった。遺された彼の娘たちはつぎつぎに婚約を破談されたのだが、無礼な求婚者たちには重い罰金が課された。彼らはリュサンドロス家の豊かな財産を当てこんでいたが、死後彼が貧困に耐える善性を持っていたことが分かると、たちまち態度を変えて結婚を撤回したのだった。
どうもスパルタでは、結婚しない者、結婚を遅らそうとする者、そして不誠実な結婚にはそれぞれ刑罰があったようで、このうち3番目の罰は、姻族を選ぶのに善良さや友情を判断材料にしないで、金持ちと親類になりたいがために結婚するような者も該当したらしい。
以上が、筆者がリュサンドロスについて語りうることの全てである。
―― 完 ――
※1:本来のギリシア語の意味は“重装歩兵”
※2:“キツネ”という意味の地名
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