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第1章 鐵男は運転士にリクルートされる
鐵男は古都の市電の運転士に転移した
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知る人ぞ知る。
都電荒川線の三ノ輪橋停留場は、到着ホームと発車ホームが向かい合わせになっていない、珍しい設計になっている。ほかにも、いくつかホームの位置がずれている例はあるのだが、此処が始発駅でもあり終着駅でもあるというポジションを考えると、写真ネタとして人気があるのも頷ける。
王子方向から来た車輛から降りて到着ホームから見ると、発車ホームが20メートルくらい先の右手に見える。
到着ホームで乗客たちを降ろした車輛は、空車のまま先へと進んでポイントを渡り、発車ホームへと収まることになる。
さて。
降りた客たちの半分くらいは王子寄りに在る踏切の方へと歩いて行き、残りは発車ホームを右に見ながら進行方向へと通路を出て行く。
ジモティたちは脇目もふらずに進んで行くが、物見遊山で都電に乗ってみるかという手合いは辺りを見回しながらノンビリと行くので、さっき降りた前後の運転席が吹き抜けになっているレトロな車輛が発車ホームへ進む光景を目にする事が出来ただろう。
つまるところ、三ノ輪橋停留場は終着駅であり、始発駅でもあるということで、発車ホームには独立した車止めが設けられている。
到着ホームから先へと突き抜けると国道4号、別名で日光街道へと出るが、鐵男は自分が乗って来たレトロな車輛を目にする事なく、国道4号へ突き抜ける路地の手前を左へと折れて商店街の先へと歩き始めた。
だから、発車ホームへと走り始めた車輛の運転台で制服姿のキツネ耳美女が7本の尻尾を広げて、始発待ちの乗客たちからヤンヤの喝采を浴びている情景は目に入らなかったのだ。
ましてや、キツネ耳美女の視線が鐵男の背中を追い続けていることなど、知る由も無かった。
昭和レトロな商店街を抜け、住宅街を、暫く歩いて。
自宅へと帰り着いた鐵男は、早速に「古都の市電の運転体験シミュレーション」を走らせてみようと、パソコンとゲーム機を起動する。
なに、自宅とは名ばかりの、さほど大きくはない一戸建てを祖父母から受け継いだだけの骨董級のシロモノではあるが、リフォームによって生活に必要な設備器具は問題を起こすことなく動いてくれている。
鐵男の祖父は一代で事業を起こして成功させた逸物で、その後継者である鐵男の父や兄たちはスーツを着る生活を送っている。
まぁ、子孫全員が先祖の才能を引き継ぐというのはメンデルの法則とやらにそぐわないという事で、鐵男だけはカメラを担いで日本全国を歩き回り、明日をも知れない放浪の日々を送っているというのが家族の共通認識になっている。
祖父がカメラマニアだったという偶然なのか必然なのか?は知れないが、自分の居場所を持てない鐵男に、遺産相続で渡されたのが現在の自宅だ。
そんな自宅の一部屋だけは完全防音仕様の壁材を貼り付け、床はコルクフローリングで、初期型から最新型までのゲーム用運転台が並んだデスクの向こうには、壁に取り付けられた大画面の液晶ディスプレイと、3ウェイスピーカーたちが鎮座ましましている。
しかも。
デスクに向き合う形で据え付けられているのは、どこぞの鉄道用品オークションで手に入れた運転士用の椅子という凝りようなのだ。
どう見ても、放浪のカメラマン(英語では、フォトグラファー)という生活では無いのだが、家族や友人達に本人を含めて誰も気にしないので、それでいいやということになっている。
で。
トリセツに指示された通り、旧式の運転台を繋いで目の前に置き、ディスクを突っ込むと画面に目を凝らす。
なにしろ、トリセツに書いてあるのは使用する機器の種類と接続手順だけで、あとはチュートリアルが教えてくれる程度の事しか書かれていない。
「やっぱ、バッタものだもんなぁ」
呟くほどでもない独り言は、珍しさに釣られて手を出したという楽しみのほうが、製品としてのイイ加減さを上回っている自覚があるからだ。
例の如く、「アクセスを許可しますか」に始まって「インストールを実行する」までの手続き画面が現れて来るが、それらには無意識のうちにオーケーを出して、スタート画面まで突っ走る。
チンチンチンチンチンチンチン!チンチンチンチンチンチンチン!
「あん?、どこの街の絵だ?」
鐵男にとっては生活の一部となっている市電のベルが鳴り響くと、目の前のディスプレイには見知らぬ街の風景が展開された。
正面に延びているレールの両脇には、ちょっと見、子供の頃に時代劇の映画で見た京都か何処かを思わせる街並みが広がっている。
と言うよりは、台湾の九分(正しくは人偏付きの分)とか、ちょっと前に見たアニメの舞台設定みたいな、知っているようで知らないという不思議な懐かしさで揺さぶって来るデザインの街並みだ。
フリーカメラマンという職業柄、日本各地はおろか世界各地を彷徨ってきた鐵男でさえ、見た筈など無いのに記憶の底から浮かび上がって来た風景というところだろうか。
「この街は、帝都市だよ。コン」
運転台のブレーキハンドルを握ったまま硬直している鐵男の耳に、王子で聞いたばかりで記憶に新しい、ケモ耳美少女の声が注ぎ込まれた。
「うお!」
思わず声が漏れたのは、条件反射のようなものだ。
出たな!と言わなかったのは日頃の鍛錬の賜物と、鐵男は心中で自画自賛しているのだが、脚は震え膀胱は悲鳴を上げて眼は泳いでいる状態だ。
その、泳いでいる鐵男の目玉が右へと彷徨って、こちらを見ているケモ耳美少女の目と視線が交差する。
金髪にも見える髪の毛の上には、大きな耳が生えている。
そう、コスプレ用の飾り物のようにアタマに乗っているのではなくて、生えているのが鐵男には判る。
何故なら、髪の毛と同じ金髪に見える毛に覆われている耳の耳介の内側には白い毛が見えていて、その耳がピコピコと揺れている。
いや、単に揺れているというよりは、ケモ耳美少女が意志を持って揺らしているというほうが正しいだろうか。
小首を傾げて、鐵男の欲望を刺激するように、彼女の唇から甘美なひとことが漏れて来る。
「チビっても、いいコン」
まさか、彼女自身が此処でチビって下さるというイベントの事では無く、恐怖に縛られて身動きならずトイレに行けない鐵男を慮ってのお言葉なのだろう。
ケモ耳美少女から、実に有難いお許しを頂戴した鐵男ではあるが、自宅のプレイルームで然様なプレイに溺れるわけにはいかないと、お江戸の水道水を三十二年間も飲んでいる独身男の、知性の欠片がブレーキを掛ける。
鐵男もフリーカメラマンという仕事柄、普通の人間が立ち入ってはいけない場所に行くこともあるし、見てはいけないモノに出会う事も珍しくはない。
妖怪や物の怪を相手に、銃や刀を持ち出しても対抗など出来ない事は百も承知の独身男。
此処はチビらない程度に下腹に力を溜めて、悪魔ならぬ妖狐の誘惑を振り切ると、始業点検に取り掛かる。
「動力切断中。ブレーキ中央。アクセル定位置。速度計ゼロ。・・・パンタは・・・ないぞ?」
「パンタグラフなんて、付いて無い。コン」
「あ?」
思わぬところで、ケモ耳美少女との会話が続行されて、鐵男は焦る。
「パンタが無いって、この車輛はレールバスかよ?」
まぁ、電車という名前ではあるものの、レールの上をエンジンなどの動力で走るシロモノがあることくらいは鐵男だって知っている。
日本で目にする機会が多いのはローカル線の気動車で、こいつはディーゼルエンジンなどを積んで電気を起こし主電動機を動かして走るのが一般的だが、「ガス・エレクトリック方式」、「ディーゼル・エレクトリック方式」、「ターボ・エレクトリック方式」などに細分化されていると聞いたが、詳しい事は鐵男も知らない。
ほかには簡易型のレールバスとして、バスやトラックなどのディーゼル車やガソリン車をベースにして、車軸に鉄道用車輪を組み合わせてレールの上を走ることが出来るようにした軽車輛がある。
他には鉱山などで使われているバッテリーを積んだモーターカーもあるが、最近の二酸化炭素の排出がどうだらという世間の風潮によって都市交通などに持ち込まれているとか聞いている。
あるいはまた。
路面から電磁波なるモノを吸い上げて?車輛のモーターを回すという最新技術のシロモノもあると聞くが、ゲームとして発売されたとは聞いていない。
しかし。
鐵男は電車系の「運鉄」であって、ディーゼルエンジンやガソリンエンジン系のマニアでは無いので、そんな事態は想定外だ。
「この車輛は、タヌ電だ、コン」
「え?」
わざわざ、一音節だけの間を開けて、ケモ耳美少女からのご託宣が下され。
鐵男の思考が停止する。
「帝都市ではエコとサステナブルを考慮して、タヌ電を運用することにしたんだ。コン」
「タヌ電って、動力は何なんだよ?」
うっかり、相手との会話に嵌り込んでしまった鐵男であった。
こういう妖を相手にする場面では、相手の言い分をシカトしておくのが無難なことくらいは知っている鐵男だが、事が鉄道となれば無関心を貫く事など鐵男にはできない。
世に「XX馬鹿」と呼ばれるマニアは多けれど、真にご無理御尤も左様でござるか然と存ぜぬ・・・を乗り越えて無理筋を通そうとするのが「運鉄」の宿命なのだ。
そのため。
「よし。上手く化かせた。取り憑いてやったぞ。コン!」
という不穏当なケモ耳美少女の呟きは、鐵男の耳には入らなかった。
結果として。
いつの間にか、自宅に設置されたプレイルームは消えていて、制帽・制服に白手袋を着けた鐵男は帝都市のタヌ電なる車輛の運転席に座っているのだ。
左を見れば外へ出る運転席のドアがあり、右を見れば外へ出る運転席のドアとの間に、制帽・制服を着けたケモ耳美少女が。
にっこりと満面の笑みを湛えて、立っている。
唇の端から覗いているのは犬歯であって牙じゃぁ無いよなと、無理やりに己を納得させて、目の前の状況に意識を戻す。
運転席が車輛の左側にあるので、この帝都市の市電は日本と同じ左側通行らしい。
あ?
いやいや、コトは左側通行などという問題では無くて、東京にある鐵男の部屋は何処へ行ったのだ?
「ようこそ、帝都市へ!コンコンコン!」
「あ、どうも?」
おっちょこちょい、が売り物の江戸っ子の習性で、ケモ耳美少女の声に、つい返事をした鐵男だが。
その、チョイの間にケモ耳美少女の呪術に囚われたことまでは気が回らなかったのが一生の不覚。
「帝都市への転移を鐵男が了解したと、確認しました」
「帝都市タヌ電の運転士として、鐵男に仮免許を発行しました」
どこからともなく、ケモ耳美少女の声とは異なる、天の声?が聞こえて正気に戻る。
「え?俺って転移したの?」
「うん!鐵男運転士は帝都市に転移した、コン」
運転席に腰掛けた鐵男の右側から、ケモ耳美少女が2項目をひっくるめて、確認の返事を宣った。
「では、鐵男の仮免許を本免許にするためのチュートリアルを始める、コン」
ギクリとした鐵男の視線などシカトして、ケモ耳美少女変じてケモ耳教官の声が運転席に響き渡る。
「このタヌ電は、あっちの運転方法とは違うから、文句なんかは受け付けない、コン」
「おい!待てってば!!」
事態を把握できていない鐵男の叫びも空しく、前方の出発信号機が青く輝く。
運鉄の悲しい習性が発揮されて、条件反射的に鐵男は背筋を伸ばして称呼する。
「乗降ドア閉鎖確認。車掌の乗車確認。行き先表示は回送。前照灯点灯。尾灯点灯。出発信号機確認。前方障害物無し。発車します」
車掌は車輛の後部にいるものだけど、今回は空車だし、制服姿のケモ耳美少女が隣にいるから、オーケーってことにしておこう。ついでに、足回りの目視確認と打音検査は省略でいいよな?と、ケモ耳美少女の顔を見る。
「ゴー、ヘ!」
どうやら、出発の許可が出たらしい。
頭上のワイヤーを引くと、チンチンチン!とベルが鳴る。
ブレーキのノッチをカチリと回し、アクセルを倒して、時速15キロで車庫から本線へとタヌ電が進み始めた。
「転轍器標識確認。速度制限解除標識確認。逓減標無し。・・・勾配標ゼロ。力行標確認。・・・・・・・」
普通のシミュレーションゲームでは、注意喚起されることなど滅多に無い項目を読み上げて行く。
そして、タヌ電なる車輛は走り始める。
何処へ~~?
そういうフレーズが流行ったという記憶があるが、チャラ気ている場合では無い。
「おい!路線図とダイヤは無いのかよ?」
今さらという鐵男の疑問は、手遅れどころか運転士にとっての必要情報だ。
「このタヌ電は、走ってるのが仕事だからタイムテーブルなんか要らない、コン」
ケモ耳美少女が、とんでもない事を平然と宣ったような気がする。
もしかして、いや、もしかしなくても。
俺はキツネに化かされてるのかよ?という疑念が、沸々と沸き上がるけれど。
「ふん、これは現実だからね。ちゃんと前を見てないと衝突するよ?」
言われて、ブレーキハンドルを握り直す鐵男の目に、いつの間に出現したのか、前方にある停車場の情景が写り込む。
おまけに、路盤の前方を、箒を持ったナニモノかが露払いの如く腕を振りながら走って行くのが見えた。
都電荒川線の三ノ輪橋停留場は、到着ホームと発車ホームが向かい合わせになっていない、珍しい設計になっている。ほかにも、いくつかホームの位置がずれている例はあるのだが、此処が始発駅でもあり終着駅でもあるというポジションを考えると、写真ネタとして人気があるのも頷ける。
王子方向から来た車輛から降りて到着ホームから見ると、発車ホームが20メートルくらい先の右手に見える。
到着ホームで乗客たちを降ろした車輛は、空車のまま先へと進んでポイントを渡り、発車ホームへと収まることになる。
さて。
降りた客たちの半分くらいは王子寄りに在る踏切の方へと歩いて行き、残りは発車ホームを右に見ながら進行方向へと通路を出て行く。
ジモティたちは脇目もふらずに進んで行くが、物見遊山で都電に乗ってみるかという手合いは辺りを見回しながらノンビリと行くので、さっき降りた前後の運転席が吹き抜けになっているレトロな車輛が発車ホームへ進む光景を目にする事が出来ただろう。
つまるところ、三ノ輪橋停留場は終着駅であり、始発駅でもあるということで、発車ホームには独立した車止めが設けられている。
到着ホームから先へと突き抜けると国道4号、別名で日光街道へと出るが、鐵男は自分が乗って来たレトロな車輛を目にする事なく、国道4号へ突き抜ける路地の手前を左へと折れて商店街の先へと歩き始めた。
だから、発車ホームへと走り始めた車輛の運転台で制服姿のキツネ耳美女が7本の尻尾を広げて、始発待ちの乗客たちからヤンヤの喝采を浴びている情景は目に入らなかったのだ。
ましてや、キツネ耳美女の視線が鐵男の背中を追い続けていることなど、知る由も無かった。
昭和レトロな商店街を抜け、住宅街を、暫く歩いて。
自宅へと帰り着いた鐵男は、早速に「古都の市電の運転体験シミュレーション」を走らせてみようと、パソコンとゲーム機を起動する。
なに、自宅とは名ばかりの、さほど大きくはない一戸建てを祖父母から受け継いだだけの骨董級のシロモノではあるが、リフォームによって生活に必要な設備器具は問題を起こすことなく動いてくれている。
鐵男の祖父は一代で事業を起こして成功させた逸物で、その後継者である鐵男の父や兄たちはスーツを着る生活を送っている。
まぁ、子孫全員が先祖の才能を引き継ぐというのはメンデルの法則とやらにそぐわないという事で、鐵男だけはカメラを担いで日本全国を歩き回り、明日をも知れない放浪の日々を送っているというのが家族の共通認識になっている。
祖父がカメラマニアだったという偶然なのか必然なのか?は知れないが、自分の居場所を持てない鐵男に、遺産相続で渡されたのが現在の自宅だ。
そんな自宅の一部屋だけは完全防音仕様の壁材を貼り付け、床はコルクフローリングで、初期型から最新型までのゲーム用運転台が並んだデスクの向こうには、壁に取り付けられた大画面の液晶ディスプレイと、3ウェイスピーカーたちが鎮座ましましている。
しかも。
デスクに向き合う形で据え付けられているのは、どこぞの鉄道用品オークションで手に入れた運転士用の椅子という凝りようなのだ。
どう見ても、放浪のカメラマン(英語では、フォトグラファー)という生活では無いのだが、家族や友人達に本人を含めて誰も気にしないので、それでいいやということになっている。
で。
トリセツに指示された通り、旧式の運転台を繋いで目の前に置き、ディスクを突っ込むと画面に目を凝らす。
なにしろ、トリセツに書いてあるのは使用する機器の種類と接続手順だけで、あとはチュートリアルが教えてくれる程度の事しか書かれていない。
「やっぱ、バッタものだもんなぁ」
呟くほどでもない独り言は、珍しさに釣られて手を出したという楽しみのほうが、製品としてのイイ加減さを上回っている自覚があるからだ。
例の如く、「アクセスを許可しますか」に始まって「インストールを実行する」までの手続き画面が現れて来るが、それらには無意識のうちにオーケーを出して、スタート画面まで突っ走る。
チンチンチンチンチンチンチン!チンチンチンチンチンチンチン!
「あん?、どこの街の絵だ?」
鐵男にとっては生活の一部となっている市電のベルが鳴り響くと、目の前のディスプレイには見知らぬ街の風景が展開された。
正面に延びているレールの両脇には、ちょっと見、子供の頃に時代劇の映画で見た京都か何処かを思わせる街並みが広がっている。
と言うよりは、台湾の九分(正しくは人偏付きの分)とか、ちょっと前に見たアニメの舞台設定みたいな、知っているようで知らないという不思議な懐かしさで揺さぶって来るデザインの街並みだ。
フリーカメラマンという職業柄、日本各地はおろか世界各地を彷徨ってきた鐵男でさえ、見た筈など無いのに記憶の底から浮かび上がって来た風景というところだろうか。
「この街は、帝都市だよ。コン」
運転台のブレーキハンドルを握ったまま硬直している鐵男の耳に、王子で聞いたばかりで記憶に新しい、ケモ耳美少女の声が注ぎ込まれた。
「うお!」
思わず声が漏れたのは、条件反射のようなものだ。
出たな!と言わなかったのは日頃の鍛錬の賜物と、鐵男は心中で自画自賛しているのだが、脚は震え膀胱は悲鳴を上げて眼は泳いでいる状態だ。
その、泳いでいる鐵男の目玉が右へと彷徨って、こちらを見ているケモ耳美少女の目と視線が交差する。
金髪にも見える髪の毛の上には、大きな耳が生えている。
そう、コスプレ用の飾り物のようにアタマに乗っているのではなくて、生えているのが鐵男には判る。
何故なら、髪の毛と同じ金髪に見える毛に覆われている耳の耳介の内側には白い毛が見えていて、その耳がピコピコと揺れている。
いや、単に揺れているというよりは、ケモ耳美少女が意志を持って揺らしているというほうが正しいだろうか。
小首を傾げて、鐵男の欲望を刺激するように、彼女の唇から甘美なひとことが漏れて来る。
「チビっても、いいコン」
まさか、彼女自身が此処でチビって下さるというイベントの事では無く、恐怖に縛られて身動きならずトイレに行けない鐵男を慮ってのお言葉なのだろう。
ケモ耳美少女から、実に有難いお許しを頂戴した鐵男ではあるが、自宅のプレイルームで然様なプレイに溺れるわけにはいかないと、お江戸の水道水を三十二年間も飲んでいる独身男の、知性の欠片がブレーキを掛ける。
鐵男もフリーカメラマンという仕事柄、普通の人間が立ち入ってはいけない場所に行くこともあるし、見てはいけないモノに出会う事も珍しくはない。
妖怪や物の怪を相手に、銃や刀を持ち出しても対抗など出来ない事は百も承知の独身男。
此処はチビらない程度に下腹に力を溜めて、悪魔ならぬ妖狐の誘惑を振り切ると、始業点検に取り掛かる。
「動力切断中。ブレーキ中央。アクセル定位置。速度計ゼロ。・・・パンタは・・・ないぞ?」
「パンタグラフなんて、付いて無い。コン」
「あ?」
思わぬところで、ケモ耳美少女との会話が続行されて、鐵男は焦る。
「パンタが無いって、この車輛はレールバスかよ?」
まぁ、電車という名前ではあるものの、レールの上をエンジンなどの動力で走るシロモノがあることくらいは鐵男だって知っている。
日本で目にする機会が多いのはローカル線の気動車で、こいつはディーゼルエンジンなどを積んで電気を起こし主電動機を動かして走るのが一般的だが、「ガス・エレクトリック方式」、「ディーゼル・エレクトリック方式」、「ターボ・エレクトリック方式」などに細分化されていると聞いたが、詳しい事は鐵男も知らない。
ほかには簡易型のレールバスとして、バスやトラックなどのディーゼル車やガソリン車をベースにして、車軸に鉄道用車輪を組み合わせてレールの上を走ることが出来るようにした軽車輛がある。
他には鉱山などで使われているバッテリーを積んだモーターカーもあるが、最近の二酸化炭素の排出がどうだらという世間の風潮によって都市交通などに持ち込まれているとか聞いている。
あるいはまた。
路面から電磁波なるモノを吸い上げて?車輛のモーターを回すという最新技術のシロモノもあると聞くが、ゲームとして発売されたとは聞いていない。
しかし。
鐵男は電車系の「運鉄」であって、ディーゼルエンジンやガソリンエンジン系のマニアでは無いので、そんな事態は想定外だ。
「この車輛は、タヌ電だ、コン」
「え?」
わざわざ、一音節だけの間を開けて、ケモ耳美少女からのご託宣が下され。
鐵男の思考が停止する。
「帝都市ではエコとサステナブルを考慮して、タヌ電を運用することにしたんだ。コン」
「タヌ電って、動力は何なんだよ?」
うっかり、相手との会話に嵌り込んでしまった鐵男であった。
こういう妖を相手にする場面では、相手の言い分をシカトしておくのが無難なことくらいは知っている鐵男だが、事が鉄道となれば無関心を貫く事など鐵男にはできない。
世に「XX馬鹿」と呼ばれるマニアは多けれど、真にご無理御尤も左様でござるか然と存ぜぬ・・・を乗り越えて無理筋を通そうとするのが「運鉄」の宿命なのだ。
そのため。
「よし。上手く化かせた。取り憑いてやったぞ。コン!」
という不穏当なケモ耳美少女の呟きは、鐵男の耳には入らなかった。
結果として。
いつの間にか、自宅に設置されたプレイルームは消えていて、制帽・制服に白手袋を着けた鐵男は帝都市のタヌ電なる車輛の運転席に座っているのだ。
左を見れば外へ出る運転席のドアがあり、右を見れば外へ出る運転席のドアとの間に、制帽・制服を着けたケモ耳美少女が。
にっこりと満面の笑みを湛えて、立っている。
唇の端から覗いているのは犬歯であって牙じゃぁ無いよなと、無理やりに己を納得させて、目の前の状況に意識を戻す。
運転席が車輛の左側にあるので、この帝都市の市電は日本と同じ左側通行らしい。
あ?
いやいや、コトは左側通行などという問題では無くて、東京にある鐵男の部屋は何処へ行ったのだ?
「ようこそ、帝都市へ!コンコンコン!」
「あ、どうも?」
おっちょこちょい、が売り物の江戸っ子の習性で、ケモ耳美少女の声に、つい返事をした鐵男だが。
その、チョイの間にケモ耳美少女の呪術に囚われたことまでは気が回らなかったのが一生の不覚。
「帝都市への転移を鐵男が了解したと、確認しました」
「帝都市タヌ電の運転士として、鐵男に仮免許を発行しました」
どこからともなく、ケモ耳美少女の声とは異なる、天の声?が聞こえて正気に戻る。
「え?俺って転移したの?」
「うん!鐵男運転士は帝都市に転移した、コン」
運転席に腰掛けた鐵男の右側から、ケモ耳美少女が2項目をひっくるめて、確認の返事を宣った。
「では、鐵男の仮免許を本免許にするためのチュートリアルを始める、コン」
ギクリとした鐵男の視線などシカトして、ケモ耳美少女変じてケモ耳教官の声が運転席に響き渡る。
「このタヌ電は、あっちの運転方法とは違うから、文句なんかは受け付けない、コン」
「おい!待てってば!!」
事態を把握できていない鐵男の叫びも空しく、前方の出発信号機が青く輝く。
運鉄の悲しい習性が発揮されて、条件反射的に鐵男は背筋を伸ばして称呼する。
「乗降ドア閉鎖確認。車掌の乗車確認。行き先表示は回送。前照灯点灯。尾灯点灯。出発信号機確認。前方障害物無し。発車します」
車掌は車輛の後部にいるものだけど、今回は空車だし、制服姿のケモ耳美少女が隣にいるから、オーケーってことにしておこう。ついでに、足回りの目視確認と打音検査は省略でいいよな?と、ケモ耳美少女の顔を見る。
「ゴー、ヘ!」
どうやら、出発の許可が出たらしい。
頭上のワイヤーを引くと、チンチンチン!とベルが鳴る。
ブレーキのノッチをカチリと回し、アクセルを倒して、時速15キロで車庫から本線へとタヌ電が進み始めた。
「転轍器標識確認。速度制限解除標識確認。逓減標無し。・・・勾配標ゼロ。力行標確認。・・・・・・・」
普通のシミュレーションゲームでは、注意喚起されることなど滅多に無い項目を読み上げて行く。
そして、タヌ電なる車輛は走り始める。
何処へ~~?
そういうフレーズが流行ったという記憶があるが、チャラ気ている場合では無い。
「おい!路線図とダイヤは無いのかよ?」
今さらという鐵男の疑問は、手遅れどころか運転士にとっての必要情報だ。
「このタヌ電は、走ってるのが仕事だからタイムテーブルなんか要らない、コン」
ケモ耳美少女が、とんでもない事を平然と宣ったような気がする。
もしかして、いや、もしかしなくても。
俺はキツネに化かされてるのかよ?という疑念が、沸々と沸き上がるけれど。
「ふん、これは現実だからね。ちゃんと前を見てないと衝突するよ?」
言われて、ブレーキハンドルを握り直す鐵男の目に、いつの間に出現したのか、前方にある停車場の情景が写り込む。
おまけに、路盤の前方を、箒を持ったナニモノかが露払いの如く腕を振りながら走って行くのが見えた。
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