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第1章 ひとりの世界
仮面の笑顔
しおりを挟む4月16日
今日の空も、私の悩みなんて無視する様に明るかった。新学期が始まって一週間…校門の傍には、まだ少しだけ桜が残っていて、風が吹くたびに花びらがふわりと舞い落ちている季節。
そんな風景を思い浮かべながら、重たい溜め息をついた私は「今日も、がんばろっ」なんて小さく呟いた。別に気合を入れたい訳でも誰かに聞いて欲しい訳でもないけど、私は笑顔で居なきゃいけない…そう言い聞かせる為の一言には調度良い。
母子家庭だった我が家…私とお兄ちゃんを支えていた母は、四年前に交通事故で亡くなった。それ以来、兄がこの家の生計を立ててるけど、まぁ…めちゃくちゃに等しい。
制服の襟を整え、いつもの様に鏡に向かって笑顔をつくった。
私、こんな家で育っても学校は好きだ。みんな居るし、私が“結衣”になれる場所だから。でも朝になるたびに心が重くなるのは…たぶん、家を出る前のあの静けさのせい。
「…いってきます」
いつもの如く返事はない。
閉まったままの兄の部屋のドアを見つめたけど、やっぱり何も返ってこない。
叩かれなかっただけマシか…。
そんな考えが頭をよぎる自分が、少しだけ悲しかった。
ーーーーー
「おはよう!あれっ髪切った?似合ってるじゃん!」
「ねぇ今朝の占い見た?A型一位だったんだよ!」
道で出会った同級生に声をかけ笑い、手を振って会話を交わす。そんなたわいもない会話が、私を普通の高校生にしてくれる。仮面の様なこの笑顔も、今ではもう“顔の一部”になってる。
校門をくぐれば、にぎやかな声が一斉に耳に飛び込んでくる。生徒たちの笑い声、走る足音、誰かの告白を冷やかす声。なんてことのない、平和な朝。
そんな一部になろうと、私はいつも深呼吸してから校舎の中へ入る。
「 おはよ、結衣!」
「おはよッ今日も髪巻いてる~! かわいい!」
昇降口で靴を履き替えていると、クラスメイトたちが声をかけてくれる。もちろん私は明るく笑って、手を振った。
「おはよッ今日ちょっと湿気あるけど、まだ巻き残ってる?」
「完璧! どうやって巻いてるの?今度教えて~」
「うん時間あったら一緒にやろ!」
軽く返しながら教室に入ると、席に向かう途中でまた誰かが声をかけてくる。
「ねえ放課後、寄り道しない?駅前のクレープが半額なんだって~!」
「えっホント!?行こう行こう~!」
「結衣も行くよね?」
そんな友達の誘いに結衣は一瞬、迷った。ほんのコンマ何秒か…だって行きたい気持ちは当然あるけど、帰りの寄り道をお兄ちゃんは、きっと許してくれない。
(帰らなきゃ。遅くなると機嫌が悪くなる…)
「ごめんね。今日はちょっと…用事があって」
「えー、残念!」
「また今度、絶対誘ってね!」
「もちろん!」
笑顔でかわすのは慣れている。
誰にも気づかれない様に断ることも。
…行きたい
その言葉は、もう何年も口にしてない。
席に座ると窓の外には雲ひとつない空が、まるで自由の象徴みたいに晴れ渡っていた。
「…いいなあ」
そう呟きながら私はノートを取り出した。
表紙には自分で描いた小さな猫が書かれてある。中には英単語の書き取りと、一番後ろのページには…
(いつか、ぜんぶ終わったら)
なんて日記のような文字が並んでいた。
書いては消して、また書いて。
夢を見ては打ち消して、そんなことの繰り返し。
ボーッとノートを眺めていると、チャイムが鳴って先生が入ってくる。ホームルームの始まりだ。
「はい着席。今日は進路のガイダンスもあります。三年生ですからね、時間はあっという間ですよ」
教室の空気が一瞬、ぴりっとする。
「進路か~…」
誰かがぽつりとつぶやいた。
(私に進む“路”なんてあるの?)
私は誰にも気付かれない様、そっと唇を噛み締めた。
昼休み…お弁当の時間だ。
私は屋上へと続く階段の踊り場に向かった。人目の少ない此処は、お気に入りの場所だ。屋上でランチする人も居るんだろうけど、そういう人達は大抵別の階段を使ってる。何故ならこの上に行っても貯水タンクとか置かれて、景色を眺めるには適さない。
だからこの場所は誰にも見られず、誰にも詮索されない。そしてそんな時間が、私を救ってくれる。
弁当箱を広げ、母が残してくれたレシピを思い出しながら作った卵焼きを口に運んだ。少しだけしょっぱかったけど、それでもあったかい味がした気がする。
「…がんばろう」
ぽつりと、呟いて空の弁当箱の蓋を閉じた。
*
その日の帰り道。
クラスメイトたちが笑って駅に向う中、私はひとり逆方向の住宅街へと歩き出す。
今日はちょっとだけ、寄り道をして帰ることにした。図書館の近くにある古びたベンチがある公園は、春になると菜の花が咲いて、誰もが足を止めるような明るい場所となる。でもこの時間なら、まだ人が少ない。
ベンチに腰をかけて、スカートを整える。通り過ぎる風が頬に優しく触れ、思わず一息ついてみた。
「…ふぅ」
深く息を吐くと、まるで胸の奥にあった何かが、軽くなっていく気がした。
そこで私は空を見上げる。
(よく晴れてる…)
なんて感心していたら、突然「気持ちの良い天気だね」なんて声が耳に入った。ふと横を見ると、同じ学校の制服を着た男子高生がメロンパンを片手に持ち、柔らかい笑顔を見せていた。
「え、いつから居たの?」
「君がここに腰かける少し前だね。パン食べるかい?」
変わった人だ。
クリーム色の髪の毛は少しパーマ掛かって、如何にも草食男子って感じの癒し系なのが見た目から分かる。けど、その名前も知らない男子は「食べないの?元気出るよ?」なんて、心を見透かした様な口ぶりで笑顔を崩さない。
「お腹空いてないし、てか何で元気無いと思ったの?」
「だって溜息を吐いていたでしょ?」
そうだった…私がここに座る前から居たなら、彼は私の重たい溜息を聞いていたんだ。騒ぎになる前に黙っててもらう約束をしないと…
「あ、あれはホラ!よっこいしょとかン~ッとかそんな感じだったの!だからえっと…元気だよ!」
そんな苦しい言い訳を必死になってバカみたいだ。こんな時になんて言えば良いのか思い付かないなんて、バカ丸出しじゃない?そう思って居たら、目の前の男子はプハッと可愛らしい笑みを見せた。
「な、なによ。バカにしてる?」
「ううん、バカになんてしないよ」
「??」
頭に疑問が浮かんだけど、その疑問を解く前に携帯のアラームが鳴りだした。そろそろ此処を出ないとやばい時間だ。私は急いでベンチの上の鞄を手に取り、挨拶もせず帰ろうとした。なのに男子は再び柔らかい笑顔で…
「またね」
なんて手を振ってくれる。
久しぶりに人の優しい部分に触れた気がした私は不思議と、少し心が軽くなっていた。
久しぶりに落ち着いた心でスーパーに寄ると、特売の食パンと牛乳を買った。レジで財布を開くと、折りたたんだ千円札が一枚と小銭が数枚だけ。
(これで、今週はなんとか…)
買い物袋を抱えて重たい玄関の鍵を開ける。
そしてドアを閉めた瞬間、空気が変わった。
「…遅かったな」
リビングの暗がりから、お兄ちゃんの低い声が響く。…機嫌が悪い…そんなのはたった一言でも充分わかる。
「ごめん…寄り道してないよ。買い物してきた」
「あァ?」
「今日の特売だったから…牛乳無くなりそうだったし」
「勝手に金使うなって言ったよなァ?」
「…で、でも何もなかったから」
バンッ――
テーブルを叩く音に、身体が反射的にすくんだ。有無を言わせないお兄ちゃんは、ソファから立ち上がってこちらへ一歩、また一歩と歩み寄る。
(だめ、怖がっちゃだめ)
そう思っても身体が震えは止められなかった。
頑張って笑顔を向けるけど、震えているのを見たお兄ちゃんは私の髪の毛を掴んでお腹に膝蹴りを入れた。
お兄ちゃんは、私がお兄ちゃんを怖がる事を嫌う。
お兄ちゃんは、生活が苦しい事に苛立つ。
お兄ちゃんは、私が“いい子”じゃない事に不安がる。
お兄ちゃんは、私を愛してる。
だから私がお兄ちゃんを守らなきゃ行けない…
なのにそのやり方は、まだ見つからないんだ。
夜。
お風呂の後、私は鏡の前に立った。
お腹には、また新しい痣。腕や脚にも消えては増えての痣が無数にある…これは私が下手くそな証拠だ。お兄ちゃんに安心して貰えたら、お兄ちゃんはきっと昔みたいに笑ってくれる。
(大丈夫、隠せる。明日も学校行ける)
携帯の画面を見ると、クラスメイトからグループチャットに今日のクレープの写真が、楽しそうなコメントと一緒に送られてきていた。
「いちごチョコ最高~!」
「結衣いなくて残念だったよ!」
画面の中の友人に、そっと指を添えた。
「…」
笑いたかった。
一緒に笑っていたかった。
(明日がんばろ。私、ちゃんと…学校行けてる)
そうやって、自分に言い聞かせる日々。
(私が崩れたら、お兄ちゃんはどうなるの?)
(お兄ちゃんが優しかったあの頃に戻りたい…)
(…でも、あの頃なんて本当に有るの?)
(もしかしたら夢だったのかも…)
そんな自問自答を繰り返しながら部屋に入って、バッグを床に置く。制服をハンガーにかけ、リボンを解き、ほっとひと息。ようやく自分だけの空間だ。窓のカーテンを半分開けると、空が少しずつ藍色に変わっていた。
——今日も、何も起こらなかった。
少しお腹は蹴られたけど、それだけで済んだ。怒鳴られてないし、物も壊れてない。その事実に少し安堵したけれど、すぐに胸がぎゅっとなる。
“何も起こらないこと”に安堵する毎日って
普通なのかな?
誰かに聞いてみたいと思った。
でも誰に?友達には言えないし、先生にはもっと言えない。相談窓口とか、ネットの掲示板とか、いろんな選択肢は有るかもしれないけど、知らない誰かに言葉を吐き出すのは怖かった。
だから、私はまた黙るんだ。
何も起きていないから、大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、私は机に向かった。
夕飯はおにぎりと、昨夜作った味噌汁の残りを温めた。なるべく早く済ませないと、お兄ちゃんの苛立ちに触れてしまうかもしれない。テレビはつけなかった。音が大きいと文句を言われるし、かといって無音も寂しい…だから、小さくスマホで音楽を流しながら食べる。お気に入りのプレイリストには、優しいピアノ曲ばかりが並んでいる。
食事を終えると明日のお弁当を作って食器を洗い、元に戻し何もなかったように整えておく。平穏な一日を守るための儀式みたいなものだ。
再び部屋に戻ると、ベッドサイドに置いたぬいぐるみを強く抱き締めた。小さなクマのぬいぐるみは、小学生のころ母に貰った物だ。今は毛も少しくたびれて、色も少し褪せてしまったけど、それでも私にとっては、たった一つの“安全な記憶”の象徴だった。
「…今日もありがと」
ぬいぐるみに向かって、小さな声で言う。
永遠に続くかも知れないこの生活…けど、それでも。
私は、どこかで私は期待してしまった。
——あの公園で、またあの人に会えたら…。
あの、ふわっとした優しい声で話しかけて、私の痛みに気づきながら、無理に聞こうとしなかった人…名前も知らないしら連絡先も知らない。でも、あのときの「またね」が、私の中に静かに残っていた。
「…また、会えたらいいなぁ」
私は布団をかぶり、目を閉じた。
今日も一日、無事に終えられたことに感謝して。
誰にも届かない願いを
胸の奥で繰り返しながら……
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