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第1章 ひとりの世界
家の中の影
しおりを挟む4月21日
放課後の校門をくぐると、春の陽射しがやわらかく頬に当たった。さっきまで教室で聞こえていた笑い声やチャイムの音が遠のき、通りに出ると一気に世界が静かになる。
私は手にしたスマホをちらりと見て、誰からも通知が来ていないことを確認すると、そっとポケットに戻した。
「…はぁ。」
無意識に漏れたため息…それを自分で聞いて、慌てて表情を整える。誰かに見られていたわけでもないのに、ため息すら許されていない様な、そんな気がしてしまう。
歩き慣れた帰り道にある色鮮やかな花壇も、電柱にかかった夕陽も、どこか他人事みたいな気がして…重たい脚を引きづって家に帰らないとならない。
家の前に着くと鞄の中から鍵を取り出した。扉の前で小さく深呼吸をしてから、静かに鍵を差し込む。音を立てない様にそっと扉を開けて、玄関の中へ足を踏み入れた。
お兄ちゃんが帰る前には家に居たくて、帰宅時間は慎重に選んだつもりだったのに、お兄ちゃんのボロボロなスニーカーはそこにあった。そしてリビングから音がした瞬間、私の背筋は凍りつく。
(…今日は早かったんだ)
買い物袋を抱えたまま動けずにいると、壁越しに聞こえていたテレビの音が消えた。そして続いて響くのは、ビール缶を開ける乾いた音。それはこの家で、恐怖の鐘と同じ…。口元を噛み、ぎこちなく靴を脱ぐと、私はリビングに目を向けずキッチンへ向かった。
「ただいま」
とだけ声を掛けると、お兄ちゃんはソファーから立ち上がって、こちらを睨み付けていた。
「おい、遅ぇじゃねぇか」
いつから呑んでたんだろう?出掛けない日は、朝から呑んで物や私に当たり散らかすお兄ちゃん。空になった缶がすでに数本、テーブルに転がっていた。
「ごめんなさい…スーパーが混んでて…」
顔を上げないまま謝った。声が震えていないように努め、買い物袋をそっと流し台に置き冷蔵庫へ…できるだけ背中を向けて作業しようとした矢先、強い腕が肩を掴んだ。
「言い訳か?あ?」
「ちがっ……」
振り返る間もなく視界が揺れた…足元がぐらついて、キッチンの床に尻もちをつく。視界の端に見えるのは、割れた卵のパックだ。冷蔵庫のドアは開いたまま冷気を吐いている。
(あぁ、やっぱり今日はダメな日か)
そう悟りなが腕に入る痛みに耐えていると、お兄ちゃんは私を見下ろして蹴り始めた。
「お前、最近調子乗ってんだろ。何でお前だけ…笑ってんじゃねえぞ?こっちがどんな思いで!」
「…ご、めん…」
蹴りが顎に入った時に口の中が切れたのか、鉄の味がじんわりと広がっていく。お兄ちゃんは私が学校生活を送るのが羨ましいと言った…仕事も上手く行かず、稼ぎも無く自分は妹を食わせて行かなきゃならない…そんなプレッシャーと現実に、押し潰されそうなお兄ちゃん。
けど、そんなお兄ちゃんは最近さらに変なんだ…
「お前、今日男と居ただろ!」
「え?誰とも居ないっ…」
「嘘つくな!」
“痛い”“やめて”
そんな言葉が無意味なのは知ってる
「お前、俺が何のためにやってるか分かってんのか!?遊び歩きやがって!」
幻覚症状…最近になって出てきた。
私がどんなに良い子になろうとしても、お兄ちゃんは私を遊び人で金遣いの荒い子供だと思ってる。こうなったら、お兄ちゃんが落ち着くのをただ待つしかない。
暫く暴行に絶えていると、お兄ちゃんは舌打ちして離れて行った。まだ殴られた身体中がじんじんと火照っているのに、私は胸の奥でほっとする。
(…終わった)
私はそっと立ち上がり、冷蔵庫を閉め、割れた卵を片づけ、血の味をごまかすために水を飲んだ。
「おいメシ、まだか?」
「いま、作る」
冷蔵庫を開けると、食材はあまり残っていなかった。お兄ちゃんは「遅せぇよ」なんて舌打ちしたけど、それだけで済んだ。私は冷凍しておいた野菜ミックスと鶏肉、卵で何が作れるか瞬時に考える。
(…親子丼なら)
包丁を持つ手が震えるのを意識してはいけない。刻む音をにすら気を付けないとだから…。以前、トントンと手際よく切っていたら「うるせぇ」と叱られたことがある。それ以来、音量にも気を配るようになった。
夕食を出す時も食べる時も、食卓での会話はほとんどなかった。お兄ちゃんはテレビを見ながら黙々と食べ、私はその横顔をうかがいながら、ご飯の残り具合や表情の変化を細かく観察するのが癖になってる。地雷を踏まないように…ただ、それだけを願う日々を過ごして居れば、こんな事は大したことでは無い。
食事を終えて洗い物を済ます頃には、日がすっかり落ちていた。カーテンの外には街灯の光がぼんやり映っている。時計の針は夜九時を回っていた…
自室に戻ると明日の用意を済ませ、早々と灯りを消した。カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、薄暗い部屋の中に長い影を落としている。
「…なんで、あんな風になっちゃったんだろ」
天井を見上げてつぶやいた言葉は誰も答えない。
母が事故で亡くなった後、頼れるのはお兄ちゃんだけだった。初めは家事もしてくれて、テスト勉強も一緒に悩んでくれたし、進路も背中を押してくれた。
それが、ある日を境に変わったんだ最初はただ、怒りっぽくなっただけ…次に、酒を飲むようになった。そして気付いた時には部屋中に薬が置いてあった。
「叱る」が、「怒鳴る」に変わり、「叩く」になった。
最初は気になってたけど、今では理由も必要ない。だってお兄ちゃんの機嫌次第で、その日の全てが決まるんだよ?理由を知って何になるんだろう?
涙を流すことすら許されない環境で、笑顔を鎧の様に纏って生きてきたけど、最近のお兄ちゃんはその笑顔にすら苛立ちを向けてくる。
誰かに助けを求めたい。でも誰に? どうやって?告げたところで「家の問題」として処理され、お兄ちゃんが一時的に消えても、また戻ってくるんでしょ?
(逃げ場なんてある訳無い…)
携帯の画面を見詰めると、何となく公園で出会った“あの人”の笑顔が頭に浮かんだ。名前も、連絡先も知らないけど、あの日のあの数分間が、どれほど心を救ってくれたか…ただ、自分を“普通の子”として接してくれた事が、どれほど嬉しかったか。
スマホを胸に抱いて、私は目を閉じた。
「…また会いたいな」
そんな些細な願いすら許されないのは分かってる…だけど、同じ制服を着ていたのだから学校で会えるかも知れない。
そんな事を考えていると、お兄ちゃんの部屋のドアが乱暴に閉まる音がした。咄嗟に息を止め、鼓動が速くなる…条件反射が起きる中、私は何も起きないことを祈るしか出来なかった。
(次に会ったとき、名前くらい聞いてみよう)
その小さな勇気が大きな一歩になるなんて、この時は思いもしてなかった私は、無事に今日を終えられるように、目蓋を閉じ夢の中へ逃げ込んだ。
ーーーーーー
蓮side
俺の一日は煩い幻聴とタバコの煙で始まる。
“本当に使えない”
“私に関わらないで、さよなら”
“お兄ちゃんのせいだよ!消えてしまえ!”
そんな事を放つ結衣の幻聴。俺は吹かしていた煙草を灰皿に擦り付けて時計を見つめた。まだ早朝4時…ここ数年、まともに寝れた事なんてあっただろうか?
四六時中聞こえるそれは俺を嘲笑って、貶して、侮辱し続ける。何故こうなってしまったのか、俺にも分からない…だけど1歩部屋を出て結衣の顔を見ると、アイツが俺を否定している様に見えてしまう。
元々仲の良かった俺と結衣…そんな事絶対に有り得ないと分かっている…分かっていて俺はアイツに手を挙げてしまったんだ。
三年前に母さんが事故で死んだ日、結衣は泣いていた。今まで明るく優しかった結衣が心を病み、一週間閉じこもった。そんな結衣の姿を二度と見たくなくて、俺は“護る”と決めた筈だった…。
けど現実は残酷だ。親の遺産は最低限しかなく、日々の生活に消えていく。食費や学費を稼ごうと夜勤のバイトをしても、朝には疲れきって帰宅し朝食を作ってやれない日々が続いた。結衣は「大丈夫」と微笑んでくれたが、結衣が笑って受け入れる度に自分が“兄失格”な気がした。少しでも気を抜けば、“良い兄”でなくなるような錯覚が常に隣にいた。
それでも俺は、必死に頑張ってたと思う。日中は仕事して、帰って結衣の勉強を見て寝付いた頃に夜勤の仕事をして…そうしてやっと学費が払えた。
なのに今の俺は職を失い、バランスを考えた食事どころかインスタントすら与えてやれてない。手を上げ怒鳴り散らし…いつの間にかクズな男になっていた。
止まない幻覚消す様に部屋で暴れると、いつの間にか結衣の登校時間となっていた。せめて「行ってらっしゃい」って言ってやりたい…そう思って外に出たが、目の前に現れた俺を見て、結衣の身体が震えた。
(俺を怖がってる…)
そう理解出来ても、幻覚は消えない。
震えた声で笑顔を向けた結衣は「おはよう」なんて言ったが、直ぐに携帯へと視線を戻しキッチンへ逃げて行った。
(俺の事を友人と馬鹿にしてるのか?)
(その笑顔は…俺を呆れてるのか?)
(俺が頑張ってお前を守ってるのに、俺を裏切った)
次第にそんな思考回路が働き、我に返った頃には痣だらけになっていた結衣。
(ごめん)
なんて思っても怯えていた筈の結衣は、俺に向かって“クズ”と笑った。もちろん幻覚なんだと思う…たぶん…現実であって欲しくない。俺は謝罪なんて口に出来ず、舌打ちをして幻覚から離れる事にした。
結衣が学校へ行く。今日も「行ってらっしゃい」を言ってやれなかった…そんな後悔を噛み締めて、俺も職探しに外へ出かけた。
元々の仕事がクビになって、その後も仕事を転々としている。直ぐに職が見つかっても幻覚と幻聴が邪魔して、仕事に遅刻したり酒に逃げたりと支障を来たしている…次こそは…なんて思ったこの日も、俺は幻覚を見てしまう。
外で腕を組み歩く高校生カップル。どことなく結衣に似てる気がする…だが結衣は授業をサボるような子ではない…そう判断出来ているのに、女子高生はこちらを見て結衣の顔で俺を笑った。
俺は直ぐにその場から逃げ出して家の中へと戻った。そして帰って来た結衣に、その恐怖と苛立ちをぶつけた。理不尽極まりない暴力に静かに耐えた結衣は、俺に飯を作る。
本当に自分が嫌になる…
ごめんな。結衣
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