暇つぶしのクレーマー

島村春穂

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第一章 無限ループ

【1】

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 正午過ぎ、中二の息子と一緒に昼食を済ませ、手早く洗い物を終えると矢作志緒は寝室に戻った。姿見の前に立ち、軽く櫛で髪を撫でつけた。心もち大げさに笑顔をつくってみたあと、ランドネックの白ブラウスとテーラードジャケットをととのえる。それから膝上五センチのタイトスカートに皺が寄っていないか身だしなみには余念がない。


 母親から働く女の顔つきにかわったところでスマホからビデオ通話をした。課長である大堀にこれから業務にあたる旨を伝え、身だしなみのチェックをされる。上司とはいえ、大堀が男性だったということがあり、矢作志緒はなるべくここが寝室だとわからないように壁を背景にスマホを自分に向けていた。


 大堀課長からOKがでると、会社からあらかじめ渡されている携帯の電源を入れることになっている。


 半年前から始めたテレワークは新型×××××××の影響により、全面的に在宅勤務となった。日本にはまだ六大都市にしか支社がなく、本社をインドのニューデリーに構える新鋭のパソコンメーカーだった。矢作志緒は都内にいくつかある営業所のパート社員であった。


 携帯が鳴った。コールは三回鳴り終えるまで待たなければならない。そして、電話対応は必ず正座。これも会社の方針で決まりになっている。


「お電話ありがとうございます」、耳馴染みのよい一段階トーンのたかい声で応じる。「サイバープレースお客様相談を承っております担当の矢作……」


 言い終わらないうちに怒号が遮った。矢作志緒がわざわざ寝室でテレワークをしなければならない理由がここにあった。


「おお! 課長だせ!」


「申し訳ございませんが……」、中二の息子に、母親が平身低頭で謝る姿など見せられるはずがなかった。「課長と申されますと、どのようなご用件でしょうか」


「だから! クレームだっつってんだろ!」、しゃがれた声が捲し立てる。「早く変われ!」


「ご用件は担当の矢作が承っております」


「あんた課長なの?」


 矢作志緒は黙った。


「なあ」


「……いいえ。お客様のご相談を担当させて頂いております」


「で、あんた責任とれんの?」


 矢作志緒はまた黙らされた。


「おい!」


「お客様のご相談を……」


「責任能力のある奴じゃなきゃ話したって意味ねえだろ!」と男のつよい口調が遮った。


 その一瞬、殴りかかられたように目をほそめ、矢作志緒はせつなそうに美眉を歪めた。


「誠にご迷惑をお掛け致しております」、マニュアルをひろげ、赤ペンで印をつけたところを目でなぞる。「お手数でございますが、お名前とご住所のほうをお伺いしてもよろしいでしょうか」


 暴力的なクレーマーには個人情報を尋ねる対応がとられていた。


「だから課長だせっつってんだろ、バカ」


「……お名前と、ご住所のほうをお願い致します」


 うっせえな、と舌打ちをし、男は北折と名乗った。そのあとに東京都世田谷区……と住所をつづけた。


「復唱させて頂きます」


 電話口の男は苛立たしげにまた舌打ちをした。


 パソコンに入力したばかりの情報に間違いがないことを確認したあと、矢作志緒は懇切丁寧に言った。


「北折様。只今大堀のほうは連絡が取れないもので、ご用件は担当の矢作が承ります」


「なんで? 同じ建物に居るんじゃねえの?」


「いいえ。在宅でテレワークをさせて頂いております」


 息を詰まらせたように電話口が沈黙した。へえ……と間延びした合槌と共に毛布を剥いだような気配が立った。


「そのオオホリって人が課長なの?」、しゃがれた声と重なりながら、くちゅ……という水っぽい音がした。「そいつ男? 女?」


 男性です、と矢作志緒が答える時にも、くちゅ……と鳴った。


「番号教えろ」、男の湿っぽい溜め息が喉にからんだ。


「……申し訳ございませんが、お教えすることは致しておりません」


 今度は、ライターを擦るのが二、三度聞こえてきた。


「あんたが俺の立場ならどうするよ。責任能力のねえ奴と時間とらされたら頭くるだろ」


 どうやらタバコを吸っているらしい。傲慢なその態度のまま、なあ、とつづけた。


 矢作志緒は空中を見つめ、聞き耳を立てていた。黙っていると、くちゅくちゅ……という音はあからさまになってきた。


「おいこら! 黙るな」


「お客様……申し訳ございませんが……なんの音でございましょうか」


「今の話となんか関係あんの?」


「いえ……気になったものですから」と矢作志緒は不快がった。


「エアコンの水垂れてんだヨ」と男は弁解したが、矢作志緒にはそうは思えなかった。「これ録音とかしてねえんだろ」


「……はい」


「ったく……水漏れひでえな」と独り言のように言い、くちゅくちゅくちゅくちゅ……変な音を立てられるものだから、矢作志緒は電話口の前で一人赤面した。


「……申し訳ございません。ご迷惑をお掛け致しております」、携帯を両手に持った恰好で仕切りに頭を下げた。「速やかに解決できるように努力致しますので、この度はどういったご用件でしょうか」


 かかってくる電話には、今回のように要点の不明なクレームが少なくない。


「質問に質問で答えるな。こっちは頭にくるだろって聞いてんだよ」


「はい……」


「はいじゃなくてよお、頭にくるだろ?」


 あれこれ言葉を探してみるが、はい、以外に適当な返事が見当たらない。


「だから、はいじゃねえよ。バカかおまえは、言い直せ」


 どのみち揚げ足取りのようなクレームに受け答えの正解などないような気がした。「頭にくるかもしれません……」


 こちら側がどこかで折れなければ永遠に終わらない。


「だろ」


 理不尽な同意を求められ、胸の内で思っていた不満が返事に出てしまった。


「は?」、そう言ったあと、男は脅すように言葉を途切れさせた。「……なにそれ。俺に頭にきてるって言いたいわけ?」


 電話口の息づかいが荒っぽくなった。それが怒っているせいなのか、卑猥な音に原因があるのか判断しかねた。


「なんだその態度。教育なってねえな」


 おそらく黙ったままでいることを言われているのだと、矢作志緒は思った。


「おまえさあ。今これ仕事だよな」


 先ほど、『はいじゃなくてよお』、と凄まれたせいで返事さえできなくなっていた。


「さっきから黙るってなんなの?」


「……申し訳ございません」、ようやくしゃべることができた。


「おたくさあ。頭にきてんの?」


「……そのようなことはございません。誠に申し訳ございませんでした」


 すると嘲笑うかのように、くちゅくちゅくちゅくちゅ……粘つく音が募ってゆく。


「もっと真剣に謝ってくれる?」


 矢作志緒はせり上がってきた溜め息を呑み、ぬかずいて謝罪した。誠に申し訳ございませんでした、と。


「それよお、なんの謝罪なの?」


「……黙ったことについてのお詫びでございます」


「で、どうなの?」


「どう……と申されますと」


「ナメてんのかこの野郎! オオホリの番号だヨ!」


「ヒイッ」


 思わず上体が跳ねあがった。その勢いで携帯を落としてしまった。慌てて携帯を拾いあげ、耳にあててみたが既に切れたあとであった。


 矢作志緒は複雑な表情を浮かべ、羞じらいつつスカートの中に手を入れた。――アソコが、ジュンと濡れてしまっていた。




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