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荷車押します
【四】
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川のほとりに男があった。ぽつんと釣り糸を垂れている。ちょうど走るのに飽きた助六は、
「なにが釣れる?」
と傍に寄った。
「性にあわん」
男はぶあいそうにいった。
恰好が紺の袴に大小の拵えを手元に置いてあるから武家さんだと助六はおもった。
「わしの顔になんかついちょるか」
と、土佐訛りのあるこの男は今度はめんどくさそうにいった。頭の後ろで結った曲毛が適当にほつれ肩に垂れている。
「釣りをしたのはこれで三度目じゃ」
ひとり言のように男はいった。
一度目は幼なじみらと行ってみたものの、自分だけが釣れず泣いて家に帰ったところ父上と兄上に叱られまた泣かされたらしい。二度目は乙女姉やんと行ったときで、このときもまったく釣れずそれ以来きょうが三度目なのだとこれまたひとり言のようにいった。
どことなく食えぬ雰囲気のある男である。背中がおおきい。助六はおもった。
「お武家さん。おなごに騒がれるだろう」
ここまで丁寧にいったのは豪農や御用商人が力をつけてきた幕末ただよう天下の江戸にあって、いまだ権威は武士にあったことへの助六の皮肉であった。
「はあ?」
と、男のぶあいそうは変わらない。
「おなごじゃ。おなごいるのか」
地方の武士は色恋に厳しいことを知っての助六のこの言い草であった。男は助六をちらりと上目で見て、
「ひい、ふう、みい、よお、いつ……」
と、これまたでかい掌の指をひとつずつ折って数えだした。
物の勘定ができないのか、はたまたよほどおなごがいるのか、数えた指をいったりきたりして十を過ぎたあたりから言葉がでなくなってきた。
「で、何人でェ」
しびれをきらして助六がたずねる。
「やめた! おなごは苦手じゃあ!」
と、男は頭の後ろで腕を組んで寝そべった。空をただ茫洋と見つめ、
「父上からの訓戒がある」
と閉口しながらいった。
「なんでェ」
と助六はおおげさにずっこけてみせたが、この男はずうっと空を見つめたままであった。
(……変わった奴だなあ)
お互いがそうおもった。
「なにを考えてる」
助六はもろ手を両膝に突いて男をのぞき込んでいった。
「考えているように見えるか?」
「ああ、黙っているとそりゃあ思慮深そうだ」
「乙女姉やんにもおなじこといわれた」
男から乙女姉やんの話がでてきたのはこれで二度目である。よほど慕っているのであろう。その言葉を口にするときだけ男はどこか嬉しそうであった。
「なんちゃあわからんがぜよ」
「なにがだ?」
「わからんことがわからん」
「そうかあ」
と助六はこれ以上のことをいうのをやめた。
垂らした釣り糸にはいっこうに魚がかからない。
助六も男を真似て寝そべってみた。寝太郎の異名を持つ助六である。寝そべったこのときから荷押しのことなどとうに忘れてしまっていた。
男は空を見たまま微笑してみせ、どことなく柔らかくなってこういった。
「ペルリ、って知っちゅうか」
「なんだそれ」
「黒船じゃあ」
「はあ」
と今度は助六がぶすいに返事をしたが、いまや江戸中子どもでも知っていることであった。気にせず男はつづけた。
「けんど、こんげな刀なんぞ持っちょってても異人には勝てんがぜよ」
「土佐も異国みたいなもんだろ」
男は空を見るのをやめ、右足を袴にいれてからもう一方を膝立てて起き上がった。
「いや、勝てるだろ」
「なしてそげなことがいえる」
「だって、おっかねェもんよ。そんなもん腰に差されて」
男の傍に置かれた大小をみて助六はいった。
「これかえ」
「ああ」
「刀が怖いがか?」
「ああ」
「あっはっは」
男は大笑いをして、なんぜえ? と助六の目をはっきりみてたずねた。助六はむっとしたのか、
「俺ァ刀持ってねェもんよ」
と声を低くしていい、
「あれだ、苗字帯刀じゃねェだろ」
とつづけていった。
「そうじゃ」
と男が相づちをうつ。
「持ってるモン同士だったら喧嘩にならねェだろ」
といった途端、あっ、と男の顔つきが急に険しくなった。
「……持ってるモン同士だったら……」
などと何度も繰り返しつぶやくものだから、そのうち助六は気味悪がってとうとうほったらかしにした。
「――そういうことか!」
突然、男はパッと顔つきが明るくなって人懐っこい笑顔をみせた。
「おまん、名はなんちゅう」
と勝手に興奮していわれても、こんな薄気味悪い奴になんぞ名など名乗れぬといった感じで助六は仏頂面のまま男を見遣った。
「わかったんじゃあ!」
「なにがじゃ」
やっと助六がこたえた。
「俺なりの尊王攘夷がぜよ!」
「……それは食えるんか」
「はあ? あっはっは。食えんかったけんど、おまんの話で食えるようになるかもしれんぜよ!」
「なんじゃそら」
「釣りなどしちゃおれんき」
と慌てて立ち上がれば、これが背丈が五尺八寸、目方が十九貫もあろうかという大男であった。大小を腰に差し直し、
「桂さんにききにいくがぜよ」
といろいろ忙しくした。
(……やっぱり変な奴じゃ)
とおもいつつ、
「おまえ名はなんていう」
と、今度は助六がたずねた。
「坂本じゃあ」
「はあ?」
「土佐の坂本竜馬っちゅう」
背中ごしでそう名乗り、そのまま行こうとするこの竜馬に、
「ンなあ! 釣竿俺にくれんかァ」
と助六がいった。竜馬は一度だけ振り返って、
「あっはは。いいぞ、持ってけ」
といって走っていった。
「なにが釣れる?」
と傍に寄った。
「性にあわん」
男はぶあいそうにいった。
恰好が紺の袴に大小の拵えを手元に置いてあるから武家さんだと助六はおもった。
「わしの顔になんかついちょるか」
と、土佐訛りのあるこの男は今度はめんどくさそうにいった。頭の後ろで結った曲毛が適当にほつれ肩に垂れている。
「釣りをしたのはこれで三度目じゃ」
ひとり言のように男はいった。
一度目は幼なじみらと行ってみたものの、自分だけが釣れず泣いて家に帰ったところ父上と兄上に叱られまた泣かされたらしい。二度目は乙女姉やんと行ったときで、このときもまったく釣れずそれ以来きょうが三度目なのだとこれまたひとり言のようにいった。
どことなく食えぬ雰囲気のある男である。背中がおおきい。助六はおもった。
「お武家さん。おなごに騒がれるだろう」
ここまで丁寧にいったのは豪農や御用商人が力をつけてきた幕末ただよう天下の江戸にあって、いまだ権威は武士にあったことへの助六の皮肉であった。
「はあ?」
と、男のぶあいそうは変わらない。
「おなごじゃ。おなごいるのか」
地方の武士は色恋に厳しいことを知っての助六のこの言い草であった。男は助六をちらりと上目で見て、
「ひい、ふう、みい、よお、いつ……」
と、これまたでかい掌の指をひとつずつ折って数えだした。
物の勘定ができないのか、はたまたよほどおなごがいるのか、数えた指をいったりきたりして十を過ぎたあたりから言葉がでなくなってきた。
「で、何人でェ」
しびれをきらして助六がたずねる。
「やめた! おなごは苦手じゃあ!」
と、男は頭の後ろで腕を組んで寝そべった。空をただ茫洋と見つめ、
「父上からの訓戒がある」
と閉口しながらいった。
「なんでェ」
と助六はおおげさにずっこけてみせたが、この男はずうっと空を見つめたままであった。
(……変わった奴だなあ)
お互いがそうおもった。
「なにを考えてる」
助六はもろ手を両膝に突いて男をのぞき込んでいった。
「考えているように見えるか?」
「ああ、黙っているとそりゃあ思慮深そうだ」
「乙女姉やんにもおなじこといわれた」
男から乙女姉やんの話がでてきたのはこれで二度目である。よほど慕っているのであろう。その言葉を口にするときだけ男はどこか嬉しそうであった。
「なんちゃあわからんがぜよ」
「なにがだ?」
「わからんことがわからん」
「そうかあ」
と助六はこれ以上のことをいうのをやめた。
垂らした釣り糸にはいっこうに魚がかからない。
助六も男を真似て寝そべってみた。寝太郎の異名を持つ助六である。寝そべったこのときから荷押しのことなどとうに忘れてしまっていた。
男は空を見たまま微笑してみせ、どことなく柔らかくなってこういった。
「ペルリ、って知っちゅうか」
「なんだそれ」
「黒船じゃあ」
「はあ」
と今度は助六がぶすいに返事をしたが、いまや江戸中子どもでも知っていることであった。気にせず男はつづけた。
「けんど、こんげな刀なんぞ持っちょってても異人には勝てんがぜよ」
「土佐も異国みたいなもんだろ」
男は空を見るのをやめ、右足を袴にいれてからもう一方を膝立てて起き上がった。
「いや、勝てるだろ」
「なしてそげなことがいえる」
「だって、おっかねェもんよ。そんなもん腰に差されて」
男の傍に置かれた大小をみて助六はいった。
「これかえ」
「ああ」
「刀が怖いがか?」
「ああ」
「あっはっは」
男は大笑いをして、なんぜえ? と助六の目をはっきりみてたずねた。助六はむっとしたのか、
「俺ァ刀持ってねェもんよ」
と声を低くしていい、
「あれだ、苗字帯刀じゃねェだろ」
とつづけていった。
「そうじゃ」
と男が相づちをうつ。
「持ってるモン同士だったら喧嘩にならねェだろ」
といった途端、あっ、と男の顔つきが急に険しくなった。
「……持ってるモン同士だったら……」
などと何度も繰り返しつぶやくものだから、そのうち助六は気味悪がってとうとうほったらかしにした。
「――そういうことか!」
突然、男はパッと顔つきが明るくなって人懐っこい笑顔をみせた。
「おまん、名はなんちゅう」
と勝手に興奮していわれても、こんな薄気味悪い奴になんぞ名など名乗れぬといった感じで助六は仏頂面のまま男を見遣った。
「わかったんじゃあ!」
「なにがじゃ」
やっと助六がこたえた。
「俺なりの尊王攘夷がぜよ!」
「……それは食えるんか」
「はあ? あっはっは。食えんかったけんど、おまんの話で食えるようになるかもしれんぜよ!」
「なんじゃそら」
「釣りなどしちゃおれんき」
と慌てて立ち上がれば、これが背丈が五尺八寸、目方が十九貫もあろうかという大男であった。大小を腰に差し直し、
「桂さんにききにいくがぜよ」
といろいろ忙しくした。
(……やっぱり変な奴じゃ)
とおもいつつ、
「おまえ名はなんていう」
と、今度は助六がたずねた。
「坂本じゃあ」
「はあ?」
「土佐の坂本竜馬っちゅう」
背中ごしでそう名乗り、そのまま行こうとするこの竜馬に、
「ンなあ! 釣竿俺にくれんかァ」
と助六がいった。竜馬は一度だけ振り返って、
「あっはは。いいぞ、持ってけ」
といって走っていった。
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