ラヴィニアは逃げられない

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6話

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 急激に遠のいていく意識。暗闇の天井を見上げると懐かしい光景が蘇った。初めてキスをした十二の歳。シルバース夫人にお茶会へ招待されたラヴィニアは婚約者のメルに引っ付いて人気の少ない場所に来ていた。その時招待されていたのは夫人と懇意にしている家の夫人と娘。ラヴィニアは一人。同伴者はいない。メルが同伴者のようなものだったから。出発ギリギリまで連れて行けとプリシラに泣き叫ばれるも、迎えに来ていたシルバース家の馭者が招待されているラヴィニアしか乗せられないと断言したので乗り込むことが出来た。出発した時に見えた、プリシラの恨めし気な眼と義母の怨念の籠った顔。楽しいお茶会も家に帰ると欝となる。


 ――懐かしい……


 人気の少ない場所へ行ったのはメルを女の子達が囲むからだ。メルはラヴィニアの婚約者だと大抵の貴族なら知っているというのに。後に思うが父である侯爵に大事にされておらず、妻を殺した娘として嫌われているラヴィニアがシルバース家の跡取りと上手くいく筈がないと、メルにアプローチを掛けていた令嬢達や母親達は高を括っていたのだろう。


『疲れたわね、メル』
『母上もよくやるよ。無駄な事なのに』
『そう? 夫人はお茶会で仕入れる情報はとても貴重だと仰っていたわ。それにね、私も大人になったらいつか、夫人のようにお茶会を仕切りたいの』
『ラヴィニアはしなくていいよ。俺がさせたくない』
『ありがとう。けどそうも言ってられない。公爵夫人になるのだから』


 後ね、と子供のラヴィニアは無邪気にメルへ笑う。


『夫人に憧れているの』
『どんなとこが?』
『夫人はすごいよ。嫌いな相手にも絶対に優しさと微笑みを忘れないって。私だったら絶対無理だわ。嫌いな人に優しくしたくないし、笑い掛けたくもない』
『俺も同感。その話で言うなら、キングレイ侯爵はかなり嫌われているよ』
『そう、なの?』
『うん。母上、とびきり良い笑顔と態度で侯爵に会うと披露するだろう? あれ、顔も見たくない声も聞きたくない害虫でもラヴィニアの父親だからって相当我慢してるんだ』
『し、知らなかった』


 亡き母と夫人は友人で、子供を結婚させようとまで約束していた仲だ。出産に命を使い果たしてしまった妻を恋しく思うのはまだしも、命懸けで産んだ忘れ形見を仇のように憎み、冷遇し、後妻と異母妹と明らかな差をつけている父を夫人は嫌っていたのだ。


『とても素敵ね夫人』
『そう? 腹黒いだけだよ』
『私には出来ないもの。どんな人にも優しく笑顔でいられるのは、強い忍耐を持たないと。私じゃ顔に出るし、態度にも出ちゃうよ』


 淑女教育と公爵夫人としての教育を受け続けていくと立派な淑女の仮面を完成させ、滅多な事では感情を荒げなくなったものの、メルが絡むと心の波はざわつき時に大荒れとなる。

 もう夢に出ている関係には戻れないのに見てしまうのはメルと会ってしまったから。あの口振りからするに、言い合いをした後シルバース家を飛び出してそのまま街を出てからずっと探していたのだろう。
 広大な空を彷彿とさせる綺麗な空色はどこへいったのか、濃い翳りを浮かばせどんよりとした昏い色が滲む瞳は空色とは程遠い。

























「……んん……」


 上から押さえ付けられるような瞼の重みが消えてゆっくりと開いていく。何度か瞬きを繰り返し、一月見続けた質素な木の天井から一切の汚れが無い真っ白な天井へ変わった。ぼんやりと天井を見上げていれば鼻孔を擽る美味しそうな香りが。
 意識が段々と明確になっていく頃、聴覚はメルの声を拾い上げた。「起きた?」と。
 がばっと勢いよく上体を起こしたラヴィニアは改めて室内を見渡した。
 清潔感のある真っ白な部屋。家具に色がなかったら何もかもが白かった。自分がいるのはベッドの上。上質な肌ざわりといい、お日様の香りがするシーツといい、掛けられていたデューベイといい。
 全て一級品。

 呆然と室内に目をやっていると隣室へと続く扉付近にいたメルがいつの間にかラヴィニアの隣に立っていて。ハッとなった直後、シーツの上に押し倒された。すぐに起き上がろうとしても、上から両肩を押さえ付けられ身動きが取れない。暴れて見せてもメルの力が何倍も強くて無駄に終わった。


「っ……」


 抵抗の証として睨み付ければ、翳りの濃い空色の眼が無感情に見下ろしてくる。強制的に眠らされてから運ばれたのだろうが、此処は何処なのかどれだけ眠っていたのか知りたい。勝手に修道院から居なくなったから、心配されている。
 メルに抱く恐怖心を隅に追いやり、気丈に振る舞うもメルが衝撃的な言葉を放った。


「修道院にはもう戻れない。正規の手続きをしてラヴィニアを引き取ったんだ」
「な、なんで……」


 報復のつもりで引き取ったのなら無駄にも程がある。後妻がラヴィニアを除籍していなくても、勝手に出奔した大嫌いな娘がどうなろうがあの父が気にする筈もないのに。
 理由を問うてもメルは答えてくれない。じっとラヴィニアを昏い目で見るだけ。


「私に拘るのは何故っ? メルはプリムローズ様が良いのでしょう!? 勝手に家を出た元婚約者を引き取るなんて殊勝な事ね!」
「元? 何を言ってる。俺とラヴィニアの婚約は継続されている」
「な……」
「勝手に婚約が解消されていると思っているのはラヴィニアとキングレイ家だけ。シルバース家は解消しないし、応じるつもりもない」


 規律に厳しく、自分にも他者にも厳しいシルバース夫人に気に入られていると言えど、今回ばかりは夫人に愛想を尽かされていると思っていたラヴィニアだが逆だと知らされた。


「俺達が此処にいるのは母上も父上も承知の事だ。暫くは此処で俺と暮らそうラヴィニア」
「……どうして……私を引き取ったって、此処に置いたって、メルやシルバース家には何の利益もないのにっ。大体メルは――んん!?」


 場所が何処にしろ、メルやシルバース家がラヴィニアを匿って得する事柄は何一つない。自分より、大公夫妻の愛娘プリムローズと婚約を結んで結婚した方がシルバース家にとって利益となる。
 プリムローズの名前を出そうとした直後、顔を急に近付けられた挙句メルにキスをされた。驚いた拍子に口内を開けてしまい、間髪を容れずに舌を入れられた。


「んん! んんー!!」


 嫌だ、嫌だ、と顔を動かして逃げようにもメルの両手が今度はラヴィニアの頬をしっかり包んでおり。キスから逃れられない。体もメルの魔力を重力に変えられ全体に掛けられているせいで動かせない。
 一月前見たプリムローズとメルのキス。メルの顔はプリムローズの後頭部が邪魔をして見えなかったにしろ、プリムローズから漏れる声からして幼馴染でもしないキスをしていたんだ。

 瞳から頬を伝って熱い物が流れた。
 メルが漸く顔を離し、顎まで流れた雫を指で拭った。
 眉間に似合わない皺が寄る。


「……泣くほど嫌か」


 詳しい事情も聞かされないまま、剰え他の女性とキスをしていた唇でキスをしてきたんだ。暴れてでも逃げたくなる。涙で瞳が濡れたままねめつけ「嫌に、決まってるでしょうっ」と言うと目を逸らした。
 本音は嬉しさと悲しさと言いようのない怒りが身を支配していた。


「そうか……」


 ゾッとする冷たい声を発したメルを見やると空色の眼も声色と同じ冷気を纏っていて。
 無意識に震え出したラヴィニアを愉しげに見下ろし、頬に触れるだけのキスをするとラヴィニアの上から退いた。
 拍子抜けするくらいにあっさりと退いたメルの行動よりも、唇にされたキスが嘘に感じ取られる頬の優しいキスの衝撃が強かった。


「おいで。食事にしよう」


 起きられない、動けないラヴィニアの顔を覗いたメルの瞳に濃い翳りも昏さも無かった。

 初めから存在していなかったみたいに。



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