記憶のフタ

seizansou

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記憶のフタ

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 出勤時刻が16時ということもあり、駅に向かうバスを待っているのは私だけだった。
 塗装のはげたベンチの左端に一人で座り、午後の日差しに目を細めながら、バスが来るであろう右側、車道の先をぼんやりと眺めていた。
 ずっと右側を向いていると首が疲れるので、時折左側にも首を向ける。
 何度かそうしていると、ふと、左側、私の座るベンチの横あたり、猫の姿が視界の隅に入った。
 猫に視点を合わせると、猫はちょこんと座り、私をじっと見上げていた。
 私はどうにも猫に対する苦手意識があったので、ふいと目をそらし、バスが来るであろう右側に首を向け、視線をそらした。
 視線は右に向けていたが、意識は頭の後ろの方にいるであろう猫にばかり向いてしまう。
 視線の先の車道から走ってくる車が、何台も私の前を通りすぎていく。
 流石にもういなくなっているだろうと、ちらりと先ほど猫がいた場所を視界に入れると、どうもまだ同じ姿勢でこちらを見上げているようだった。
 ようだった、というのは、しっかりとその猫を視界に入れることに抵抗感があり、視界の隅にちらりと入れてすぐ視線を外したためだった。
(まだいるのか……)
 私が猫に対して苦手意識を持つようになったのはいつからだったか。
 幼いころは猫を見つければ喜んでかまいに行き、時には威嚇されて引っかかれることもあった。
 親には注意されたが、それでも近所の野良猫を見つけてはかまいに行ったことを覚えている。
 だというのに、今の私はこうやって猫に強い苦手意識を抱いている。
 なぜだろう。何かきっかけがあったんだろうか。記憶をたどるがそれらしいものは見当たらない。
 そうやって記憶を探っていると、車道の向こうにバスの姿が見えた。
 バスを目にすると、ちょっとした安心感がうまれ、それが次第に、早く早くとバスを急かすような心持ちへと変化していった。
 バスが停車するのに合わせて、私はベンチから立ち上がり、音を立てて開かれたバスの乗車口に足をかけた。
 ちらりと猫を視界に入れると、じっと、私の方を見つめていた。
 私は足に力を入れて乗車口の階段を上がり、バスの中へそそくさと乗り込んだ。



 仕事が終わり、翌朝帰宅する際にも私はバスを使う。
 その帰路、駅を出たバスに乗り込んだところで、ふと、出勤時にいた猫のことを思い出す。
 降りるバス停にもいたりして、などと思うが、さすがにそれはあまりにもお話的だ、と思いなおす。
 実際、私は猫の何が嫌なんだろうか。
 姿は? 可愛らしいと思う。
 鳴き声は? 愛らしい。ただし夜中は静かにして欲しいとは思う。
 猫にまつわる怖い話? 聞いた記憶もないし、そもそもあまりお化けのたぐいは信じないタイプだ。
 ……一体なぜ、私は猫を嫌がるようになったんだろう。
 そんなことをつらつらと考えていると、次が私の降りる停留所だったことに気付き、あわてて停車ボタンを押す。
 バスが停留所に止まり、降車口が開く。私は席を立つ。
 なんとなく不安な気持ちを抱えながら降車口に向かう。
 少しばかりゆっくりと、バスから降りる。辺りを見回す。
 猫はいない。
 まあ、当たり前か。
 胸の辺りが少しだけ軽くなり、呼吸も心なしか楽になったような気がする。
 走り去るバスを見送り、車が来ないことを確かめて、車道を渡って向こう側の歩道へと小走りに移動する。
 ここから横断歩道は遠い。今は朝方で車も少ない。そういう状況に、怠け心が顔を出し、私にそんな行動をとらせた。
 車道を渡りきったところで、家に向かって歩を進める。
 駅行きのバス停、昨日自分が座っていたベンチの後ろを通りすぎる。
 ふと、昨日猫がいた場所に目をやる。
 そこには、よく道端で見かけるような、雑草の中に埋もれて咲く、小さな白い花が落ちていた。
 その花は白く小さな花弁が集まり、一つの丸い花のようにみえた。
(シロツメクサだ)
 多くの人が「クローバー」と呼ぶその花を、なぜか私は、心のなかでそう呼んだ。
 アスファルトの上にぽつんと落ちている白い花に意識をとられていると、なぜだか少し、ぐらりと地面が傾くような感覚に襲われた。
 夜勤の疲れだろうか?
 その違和感はすぐに治まったので、私は朝の澄んだ青空をしばらく見上げてから、自宅へと歩を進めた。



 その日以降、毎日毎日、猫に見上げられた。
 人より遅い出勤時間に、バス停のベンチに座る私。
 ベンチの横に座り、私をじっと見上げる猫。
 帰り際に見かける、ベンチ横に積み重なるシロツメクサ。
 そのうちに気付いたのだが、あのシロツメクサは、猫がやってくるときにくわえてきて、座るときにぼとりと落としているようだった。
 なにか、私への贈り物なのだろうか?
 猫にはそういう習性があったのだろうか?
 だが、あの猫はこの間初めて見た……はずだ。
 猫はただ座ってこちらをじっと見上げるばかりで、なついてくるような様子もない。
 一体何だというのだろうか。



 その日の出勤時は、だいぶ暗かった。
 空が真っ暗なぶ厚い雲に覆われていた。
 車道を走る車も、ちらほらとヘッドライトを点けているのを見かける。
 私がなんとなく重い気分でバス停まで歩いていると、遠目に、ベンチ横に座る猫が見えた。
 私にはもう、その猫はただの猫だとは思えなくなっていた。
 私の人生を圧迫するような、恐ろしい何かであるように感じられた。
 あまり猫を視界に入れないようにしながら、そのわきを通りすぎようとした。
「ニャァ」
 反射的にびくりと一歩後ずさり、鳴き声のする方に視線を向けた。
 アスファルトに敷き詰められたシロツメクサが猫と一緒に目に入る。
 それを見た瞬間、膝の力が抜けて、後ずさった勢いで尻餅をついた。
 眩しい。
 なぜか私は、車道側に飛び出してしまっていた。
 車が急ブレーキをかける音が聞こえる。
 とてもゆっくりと、車のヘッドライトが近づいてくる。
 そこで私はようやく認識した。
 そうだ、あのベンチの横に座っている猫も、三毛猫だった。


■■■


 私には幼なじみとも呼べるような人がいた。
 その人とは家が近く、学区なども同じだったため、幼稚園から中学まで同じだった。
 家にもよく遊びに行った。
 その人は色々なことを知っていて、折に触れて知識を披露してくれていた。
 とはいっても、うんちくを押しつけるような事をせず、困ったことには問題を解決する知識を、悩んだときにはどこかの偉人の言葉をそっと伝えてくれるような、そんな気遣いのあるやり方だった。
 中学時代、高校受験の時期、その人は早いうちに推薦で進学先を確定させていた。
 私は別段成績が良いような人間ではなかったから、塾に通うなどして、これまであまり真剣に取り組んでこなかった勉強というものを必死でこなしていた。
 私が志望する高校の受験日の数日前に、その人に呼び出された。
 私はその時、かなりナーバスになっていたことを覚えている。
 待ち合わせ場所は、近所の公園だった。『こども、とびだしちゅうい!』と、でかでかと書かれた看板が入り口に立てられている公園だった。
 日が暮れて、辺りが暗くなった時間に、その人と公園で二人きりになった。
 贈り物があると言われた。
 その人が取り出したのは、クローバーの花冠だった。
 公園の外灯にぼんやりと照らされて、白い花がいくらか黄色がかっていた。
 私は数日後には高校受験を控えていた。そのため、ひどくピリピリしていた。
 受験までの大事な時間を、こんな子供の遊びのようなものを渡すためだけに潰された。
 そのことにひどく腹が立った。もしかしたら、思春期で精神面が不安定だったということもあるのかもしれない。
 私はそのクローバーの花冠を受けとらなかった。
 私はきびすを返し、自宅に向かって歩き出した。
 後から声が聞こえる。
「待ってくれ、これには意味があるんだ。このシロツメクサの花言葉は」
 その人の声は、車の急ブレーキでかき消された。
 驚いて振り返ると、広がる血溜まりに倒れるその人がいた。
 車の運転手が降りてきて、何かを騒いでいたようだった。
 なんとなく耳に入ってきた言葉は「死んでる」だった。
 その血溜まりにゆっくりと歩み寄る影があった。
 その人が飼っていて、外出するときに良く連れ歩く三毛猫だった。
 まるで心配するように、その三毛猫は血まみれになったその人の頬をしきりになめていた。
 しばらくすると、地面に転がった、その人がシロツメクサと呼んだ花冠を口にくわえて、少し引きずり、私の方をじっと見上げた。
 私は、私が拒んだ贈り物を、その猫が私に持ってくるのではないかと恐ろしくなった。
 恐ろしさに負けた私は、逃げた。

 結局、私は受験を受けることが出来なかった。
 しばらくの間、精神科に通い、カウンセリングを受けたり、薬を処方されたりした。
 だいぶ時間が経って、立ち直りが見え始めたころ、私はずっと気になっていたことを調べた。
 あの人が言いそびれていた、シロツメクサの花言葉。
 それを調べることにした。
 結果、次のようなものだった。

 Good Luck、幸運
 Be Mine、私のものになって
 Think of Me、私のことを考えて
 Promise、約束
 Revenge、復讐

 あの人は、私の幸運、つまりはあのときで言うなら、合格を祈ってくれていた。
 あの人は、私に対して好意を抱いてくれていた。
 あの人は、それを二人の約束にしようとしてくれていた。
 じゃあ、それをすべて裏切った私はどうなるのだろうか? 復讐されるのだ。あの人に。
 倒れたあの人の首がぐるりと私の方に向き直り、じっと私を見上げる。
 傍らには、飼われていた三毛猫が座っていて、こちらをじっと見上げている。



 結果私はそれまで以上に強い不安に襲われ、情緒不安定になり、精神病院に入院することになった。



 それからなのだろう。
 猫が苦手になったのは。


■■■

 なぜ今まで忘れていたんだろう。今すべてをはっきりと思い出した。
 目前にはヘッドライトが迫っている。
 しかし、なぜか安心感があった。
 やっと私は罪を償えるのだという安心感なのだろう。
 けれどただ一つ、心残りがあるとするならば。
 せっかくあの三毛猫が地面に並べてくれた、シロツメクサの花冠を、受けとることが出来ずに終わることなのだろうと思う。
「ニャア」
 三毛猫の鳴き声が聞こえる。
 これから死ぬ私への、許しの言葉なのか。
 それとも結局シロツメクサの花冠を受けとらなかった私を責めているのか。

 最後の胸の中に満ちる気持ちはただただ一つだけだった。
 これで許してもらえますか?
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