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馬蹄橋の七灯篭――『四天王寺ロダンの挨拶』より
その8
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8
キーボードを叩く指に気配が圧し掛かった気がしたので佐竹は思わず顔を上げた。
顔を上げればそこに女性が立っている。若い女だった。いや女は先程、少し前の向かいの席にいた女性ではないか?
キャップ帽の下から自分を覗き込む眼差しが見える。
それは酷く美しい。
睫毛の下で黒くて大きな瞳、真っ直ぐに伸びた鼻梁。唇に薄く塗られたルージュ、映画やテレビに出て来る女優の様な顔立ちに思わず見とれた佐竹は心で呟いた。
(老人は夕方だったな…)
キーボードを叩く指が止まる佐竹の表情を探るかのように女が言った。
「…失礼ですが、あなたは佐竹亮さんですか?」
女が自分の名を言ったので佐竹は驚いた。驚いて尚、女をまじりと見る。
「もし違うのならば、すいません」
女の唇は断点的ではない、懐疑的に動いている。
「…いや」
佐竹は掠れる喉に唾を流し込みながら、言葉を選ぶように応える。
「私は…佐竹です」
そこで思った。もしやこの女が自分に連絡を取って来た匿名の人物ではないだろうか?
思いきるように佐竹が彼女に問う。
「もしや…昨日『東京オリンピック』のことでメールをいただいた方ですか?」
要点を端的に尋ねる。
果たして女は応えるように頷く。それを見て軽く驚く。
「いや、すいません。丁寧な文面から…、そのぉ…少しご年配の方かと思ったものですから」
軽く頭を掻く佐竹。
「座っても、いいですか。立っていると目立つものですから」
鋭さはあるが言葉遣いは丁寧だ。
まだ二十歳を少し超えたばかりに見える。帽子を目深く被っているが、その表情は若々しい。だが帽子を被っているのは日差しを避けるためだけではないのかもしれない。
女は対面に椅子を引いて座ると再び帽子を被りなおし、鍔を引いて目線が佐竹に映らないようにした。もしかすると佐竹だけではない。周囲を憚るようにその存在を消そうとしているようにも佐竹には受け取れた。
その一連の仕草はまるで自分の顔が映像として残らないようにしているように見えて仕方が無かった。
佐竹は思わず、それに反応して職業的行動が出た。スマホをごく自然に取り出すと机のやや真ん中に置く。
「失礼、時間をこれで知らないと次の方との待ち合わせがありますので」
頷く女を尻目にスマホを僅かに動かす。相手にその指先があるものを捉える為に調整された動きであることは知られてはならぬ。
佐竹は指を止めた。
それからスマホに目を送る。そこには女の鍔下から覗く表情が見えた。スマホの画面に反射して映る美しいその表情。
女は分からないだろう。
佐竹は素知らぬふりして女に向き直る。それから佐竹は話を切り出した。
「失礼ですが、お名前は?」
帽子の鍔が揺れる。
「…それでは匿名の意味がありません」
間を置いた女の返答。佐竹は軽く首を左右に振る。
「いやいや、それは新聞の紙上面でのことだけで、実際はお名前やお住まいなどを伺わなければなりません。理由は勿論、情報の正確さや事実を確認する必要もありますし、それに場合によっては幾分かの謝礼もありますので」
「謝礼は必要ありません」
反発入れない女の返答。佐竹がスマホに触れる。女の伸びた睫毛が見える。
「ええ、それは。勿論、お話を伺った後のことですから」
スマホから手を戻す。それでより鮮明に女の表情が映る。
「ならば、匿名でもいいのでは?別段それでいいのであれば。それにこちらとしては住所など勿論言いたくはありません、だってそうでしょう?初めて会うあなたがどんなかたかもしれませんし、それに事後あなたが心変わりしてストーカーとかに変身されない保証もありませんから」
「ストーカーですか?」
佐竹の表情に苦笑が混じる。
女の強い口調にやや白ける自分を佐竹は感じた。
偶にこうした輩が居る。
情報は提供するが自分の身は隠しておきたい。確かに情報を扱う自分としては守秘義務があるが、情報の入手経路が全く分からないでは真実であったかを争う時が来たら何も出来ない。
もしも掲載した記事が個人の多大な妄想であった、もしくは何の関係も無い第三者の名誉などを損なうものであったとなれば真実の報道に相反する。
「違いますか?」
そう婉曲に佐竹は女に言った。
「そうかもしれませんが…」
焦れた様に女が鍔を上げる。上げて佐竹を見て短く言った。
「嫌です」
言って直ぐに目深く被る。それから押し黙る、仕草が不意に自分の記憶をなぞる。
(…おや、この仕草、口調…どこかで…)
黙る女が佐竹に与えた沈黙は彼の網膜に残った残像から記憶を呼び起こすには十分な時間だった。佐竹は既に女の表情から記憶をシャッフルするように動かしている。これは長年の職業的訓練で培われている病気と言えないことも無い。
(…彼女の…この顔つき…見たことがあるぞ…)
佐竹はちらりとスマホの画面を見る。女の長い鼻梁が白く映っている。
(…だが、どこでだろう…とても良く知っているようなんだが、一体…誰だったか)
不明瞭な記憶が何かを繋ぎとめようとして苦労している。何かというのは『答え』である。その『答え』が真実であるという仮定をすれば、しかしながら有り得ないのだと思う自分と格闘させている。
そんな内心の格闘とは無遠慮に女が佐竹に言った。
――それでアカシノタツはあなたに何を言ったのですか?
佐竹は思惑の世界に居た。別の答えを探す自分に女の声は届かない。
――アカシノタツは何を言ったのですか?
女の言葉は響かない。『答え』探しをしている佐竹には声は届かない。あまりにも反応がない佐竹に強く焦れた女が、声を大きくして佐竹を呼んだ。
「佐竹さん!!」
その声に思わず、はっとして我に返る佐竹。目の前の女が自分を睨む顔がはっきりと見える。だが見えた時、佐竹は思わず手を叩きなる自分を感じて「あっ!!」と声を上げた。
「アカシノタツです!!」
一喝する女の声は佐竹の頬を叩き、思惑の世界から佐竹を呼び戻した。
確かな『答え』を連れて。
キーボードを叩く指に気配が圧し掛かった気がしたので佐竹は思わず顔を上げた。
顔を上げればそこに女性が立っている。若い女だった。いや女は先程、少し前の向かいの席にいた女性ではないか?
キャップ帽の下から自分を覗き込む眼差しが見える。
それは酷く美しい。
睫毛の下で黒くて大きな瞳、真っ直ぐに伸びた鼻梁。唇に薄く塗られたルージュ、映画やテレビに出て来る女優の様な顔立ちに思わず見とれた佐竹は心で呟いた。
(老人は夕方だったな…)
キーボードを叩く指が止まる佐竹の表情を探るかのように女が言った。
「…失礼ですが、あなたは佐竹亮さんですか?」
女が自分の名を言ったので佐竹は驚いた。驚いて尚、女をまじりと見る。
「もし違うのならば、すいません」
女の唇は断点的ではない、懐疑的に動いている。
「…いや」
佐竹は掠れる喉に唾を流し込みながら、言葉を選ぶように応える。
「私は…佐竹です」
そこで思った。もしやこの女が自分に連絡を取って来た匿名の人物ではないだろうか?
思いきるように佐竹が彼女に問う。
「もしや…昨日『東京オリンピック』のことでメールをいただいた方ですか?」
要点を端的に尋ねる。
果たして女は応えるように頷く。それを見て軽く驚く。
「いや、すいません。丁寧な文面から…、そのぉ…少しご年配の方かと思ったものですから」
軽く頭を掻く佐竹。
「座っても、いいですか。立っていると目立つものですから」
鋭さはあるが言葉遣いは丁寧だ。
まだ二十歳を少し超えたばかりに見える。帽子を目深く被っているが、その表情は若々しい。だが帽子を被っているのは日差しを避けるためだけではないのかもしれない。
女は対面に椅子を引いて座ると再び帽子を被りなおし、鍔を引いて目線が佐竹に映らないようにした。もしかすると佐竹だけではない。周囲を憚るようにその存在を消そうとしているようにも佐竹には受け取れた。
その一連の仕草はまるで自分の顔が映像として残らないようにしているように見えて仕方が無かった。
佐竹は思わず、それに反応して職業的行動が出た。スマホをごく自然に取り出すと机のやや真ん中に置く。
「失礼、時間をこれで知らないと次の方との待ち合わせがありますので」
頷く女を尻目にスマホを僅かに動かす。相手にその指先があるものを捉える為に調整された動きであることは知られてはならぬ。
佐竹は指を止めた。
それからスマホに目を送る。そこには女の鍔下から覗く表情が見えた。スマホの画面に反射して映る美しいその表情。
女は分からないだろう。
佐竹は素知らぬふりして女に向き直る。それから佐竹は話を切り出した。
「失礼ですが、お名前は?」
帽子の鍔が揺れる。
「…それでは匿名の意味がありません」
間を置いた女の返答。佐竹は軽く首を左右に振る。
「いやいや、それは新聞の紙上面でのことだけで、実際はお名前やお住まいなどを伺わなければなりません。理由は勿論、情報の正確さや事実を確認する必要もありますし、それに場合によっては幾分かの謝礼もありますので」
「謝礼は必要ありません」
反発入れない女の返答。佐竹がスマホに触れる。女の伸びた睫毛が見える。
「ええ、それは。勿論、お話を伺った後のことですから」
スマホから手を戻す。それでより鮮明に女の表情が映る。
「ならば、匿名でもいいのでは?別段それでいいのであれば。それにこちらとしては住所など勿論言いたくはありません、だってそうでしょう?初めて会うあなたがどんなかたかもしれませんし、それに事後あなたが心変わりしてストーカーとかに変身されない保証もありませんから」
「ストーカーですか?」
佐竹の表情に苦笑が混じる。
女の強い口調にやや白ける自分を佐竹は感じた。
偶にこうした輩が居る。
情報は提供するが自分の身は隠しておきたい。確かに情報を扱う自分としては守秘義務があるが、情報の入手経路が全く分からないでは真実であったかを争う時が来たら何も出来ない。
もしも掲載した記事が個人の多大な妄想であった、もしくは何の関係も無い第三者の名誉などを損なうものであったとなれば真実の報道に相反する。
「違いますか?」
そう婉曲に佐竹は女に言った。
「そうかもしれませんが…」
焦れた様に女が鍔を上げる。上げて佐竹を見て短く言った。
「嫌です」
言って直ぐに目深く被る。それから押し黙る、仕草が不意に自分の記憶をなぞる。
(…おや、この仕草、口調…どこかで…)
黙る女が佐竹に与えた沈黙は彼の網膜に残った残像から記憶を呼び起こすには十分な時間だった。佐竹は既に女の表情から記憶をシャッフルするように動かしている。これは長年の職業的訓練で培われている病気と言えないことも無い。
(…彼女の…この顔つき…見たことがあるぞ…)
佐竹はちらりとスマホの画面を見る。女の長い鼻梁が白く映っている。
(…だが、どこでだろう…とても良く知っているようなんだが、一体…誰だったか)
不明瞭な記憶が何かを繋ぎとめようとして苦労している。何かというのは『答え』である。その『答え』が真実であるという仮定をすれば、しかしながら有り得ないのだと思う自分と格闘させている。
そんな内心の格闘とは無遠慮に女が佐竹に言った。
――それでアカシノタツはあなたに何を言ったのですか?
佐竹は思惑の世界に居た。別の答えを探す自分に女の声は届かない。
――アカシノタツは何を言ったのですか?
女の言葉は響かない。『答え』探しをしている佐竹には声は届かない。あまりにも反応がない佐竹に強く焦れた女が、声を大きくして佐竹を呼んだ。
「佐竹さん!!」
その声に思わず、はっとして我に返る佐竹。目の前の女が自分を睨む顔がはっきりと見える。だが見えた時、佐竹は思わず手を叩きなる自分を感じて「あっ!!」と声を上げた。
「アカシノタツです!!」
一喝する女の声は佐竹の頬を叩き、思惑の世界から佐竹を呼び戻した。
確かな『答え』を連れて。
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