隠世の門

海谷ノ

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第二章

第18話「輪郭」前編

九曜の白い床に落ちる影は、今日も半拍遅れていた。

それはもう変わらないものとして、晴飛の足元にある。

消えていない。
隠れてもいない。
ただ、昨日までより少しだけ、見る側の気持ちが変わっていた。

半拍遅れても、自分は先に立つ。
影はあとから来る。
それでいい。

そこまでは、ようやく身体に入り始めている。

でも斗泉は、それで終わらせなかった。

「立てるのと、保てるのは別だ」

朝一番にそう言って、斗泉はいつも通り壁際へ立った。

机の上には留め札と懐中電灯、それから鏡は今日は出ていない。
水皿もない。

今日はもっと単純な形で見るつもりなのだと、その並びだけでわかった。

晴飛は部屋の中央へ立ったまま、斗泉の言葉を反芻する。

立てるのと、保てるのは別。

「昨日の続き、ってことか」

「続きだ」

斗泉の声は低い。

「半拍を保てても、輪郭が抜けることはある」

晴飛は少しだけ眉を寄せた。

「輪郭って、そんな簡単に抜けるのか」

「簡単じゃねぇ。だが、気づかねぇうちに薄くなる」

斗泉はそこで一拍置いた。

「遅れそのものより、そっちの方が危ねぇ」

部屋が静かになる。

晴飛は足元を見る。
影は相変わらず、半拍遅れてそこにある。

遅れている。
でも昨日の時点で、それだけでは崩れていないとわかった。

なら“輪郭が抜ける”というのは、別の話なのだろう。

斗泉が言う。

「今日は静止を見る」

「歩かないのか」

「歩く方がまだ楽だ」

その返しに、晴飛は少しだけ意外そうな顔をした。

「そうなのか」

「ああ。動いてる時は身体が先に決まる。止まると、遅れとずれに意識が引っかかる」

確かにと思う。

歩いている時は、半拍遅れる影を見てもまだ流れがある。
でも止まってしまうと、その遅れだけが目につく。

どこまでが自分で、どこからが影なのか。
そういうことを妙に考えてしまう。

斗泉は懐中電灯を取り、斜めに床へ光を落とした。

影が長く伸びる。

「まず歩け。止まれ。そのまま保て」

「保て、って」

「呼吸と重心だ」

短い答えだった。

晴飛は一歩踏み出した。

影が遅れる。

もう一歩。
止まる。

影も半拍遅れて止まった。

そこまでは昨日と同じだった。

晴飛はそのまま、動かずに立つ。

吸う。
吐く。

最初の一呼吸は問題なかった。
二呼吸目で、少しだけ肩が浮く。

三呼吸目で、足の裏の感覚が薄くなる。

「……あ」

晴飛はそこで初めて、自分の中に起きている変化へ気づいた。

影が遅れているのは変わらない。
でも今、気になっているのは影そのものじゃない。

身体の外側が、少しだけ曖昧になる。

ちゃんと立っているはずなのに、腕の位置や肩の高さが、自分の感覚の中で薄くなっていく。

「斗泉」

呼ぶと、斗泉はすぐに返した。

「どこだ」

「肩が……浮く」

「その前は」

晴飛は呼吸を整えながら、自分の中を探る。

「呼吸だ。浅くなった」

斗泉が短く頷く。

「そこからだ」

その答え方に、晴飛は少しだけ驚く。

「わかってたのか」

「順番がある」

斗泉は懐中電灯を持ったまま、少しだけ近づいた。

「影が遅れても、それだけで輪郭は抜けねぇ」

声は低く、落ち着いている。

「抜ける前は、呼吸が先に浅くなる」

晴飛は黙って聞く。

「次に肩が浮く。足の裏が薄くなる。そこから先が危ねぇ」

その言葉は、思った以上に具体的だった。

ただ“気をつけろ”じゃない。
崩れの手前に、ちゃんと順番がある。

呼吸。
肩。
足の裏。

たしかに今、そうなった。

「……遅れを見たから、じゃないんだな」

晴飛が小さく言うと、斗泉は首を横に振った。

「遅れに引っ張られたからだ」

その言い方が、妙に腑に落ちる。

影が遅れていること自体ではなく、
それに意識を持っていかれた自分の方が先に輪郭を手放しかける。

つまり、危ないのは影そのものじゃない。
それに対して、自分の中心を譲ることだ。

「もう一回」

斗泉が言う。

晴飛は小さく息を吐き、また歩いた。

一歩。
二歩。
止まる。

影が遅れて止まる。

そのまま立つ。

今度は先に、自分の身体へ意識を戻した。

胸元の固定具。
呼吸。
足の裏。
肩の位置。

影は遅れている。
それでもすぐには見ない。

まず自分が立っていることを確かめる。

吸う。
吐く。

一呼吸。
二呼吸。

さっきより、肩は浮かない。
足の裏もまだある。

「……まだ大丈夫だ」

晴飛が言うと、斗泉が「そうだ」と返す。

「遅れはあるか」

「ある」

「輪郭は」

晴飛は少しだけ考えた。

「抜けてない」

その言葉を言った瞬間、少しだけ身体の中の感覚が繋がる。

遅れていても、抜けていない。

その二つは、同じではない。

今までそこが一緒くたになっていたのだと、ようやくわかる。

影が遅れる。
だから危ない。
だから変だ。
だから自分もおかしい。

そうやって全部をまとめてしまっていた。

でも本当は違う。

遅れは遅れ。
輪郭の崩れは崩れ。

そこを分けられるだけで、半拍の見え方がまた少し変わる。

斗泉は懐中電灯の角度を変えた。

今度は影が短くなり、輪郭が濃くなる。

「向き、変えろ」

晴飛はその場でゆっくり向きを変えた。

影も遅れて向きを変える。

そのまま止まる。

今度は、影より先に自分の輪郭の方を確かめた。

呼吸は浅くない。
肩も浮いていない。
足の裏もまだ床にある。

手首の留め具が、冷たさではなく細い輪としてそこにある。
胸元の固定具も、重さではなく中心としてある。

「……遅れてても、俺はまだここにいる」

ぽつりと出た言葉に、斗泉の目が少しだけ細くなる。

「そうだ」

短い返事だった。

でも、その短さで十分だった。

晴飛は足元を見た。

影はやっぱり半拍遅れていた。
ぴたりとは合わない。
それでも、自分の形をなぞっている。

遅れはある。
でも輪郭はまだこっちにある。

それがわかっただけで、立っている感覚が少し変わる。
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