パラント戦記

小説もどき家

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第一章 サレンロア

不吉な胸騒ぎ

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サーヴェの月(九月)
10日。

 その夜、月は雲一つない空に凛と輝いていた。見上げれば満月。サーヴェの月と呼ばれるこの時期にふさわしく、月は夜の大地を白銀に照らしていた。

 月に祈りを捧げた後、ダリオンは静かに床に就いた。しかし、眠れない。ただ横になって目を閉じることすら苦痛だった。胸の奥がざわつく。不安とも、予感ともつかぬ、つかみどころのない焦燥。 

 ふと隣を見る。長年連れ添った妻が静かに寝息を立てている。起こすまいと慎重に体を起こしたが、その配慮は無駄に終わった。

「また眠れないの?」

 微かな月明かりに照らされた白い肌、浮き出る鎖骨。毛布で体を隠しながらレリアが起き上がった。柔らかな声には眠気が混じっていたが、すぐに切れのある眼差しに変わった。

 今、ダリオンはその妻が注いでくれたワインを手に、深夜の静寂と向き合っている。部屋の灯火はドラゴンの脂を燃やす特製の燭台で、暖かい橙の光が揺れていた。

「いつから胸騒ぎがするの?」

「昨日の朝からだな」ダリオンはグラスを揺らし、ワインの波紋を眺めた。「……でも大丈夫。何ともない」

 お決まりの口癖だった。安心させようとして、いつもこう言う。

「あなたが『大丈夫』って言う時は、いつも大丈夫じゃないって知ってるの」レリアは微笑むが、その瞳は真剣だった。「何歳の頃から一緒にいると思ってるの? お見通しよ」

 黙りこむダリオン。否定も肯定もせず、ただ沈黙で答えた。本をめくる音が部屋に柔らかく響く。小さなページをめくる音さえ、静寂を裂くように思えた。

 レリアは光に照らされ、静かに本を読み進めていた。丁寧に整えられた長い髪、その顔立ち。不老不死だから当然だが、彼女は昔のような美しさを保っていた。

「倦怠感は?」

「ない」

「食欲は?」

「ある」

「じゃあ──あー……これは大丈夫」

 レリアは少しだけ頬を赤らめて次のページを捲る。

「ゴホン……じゃあ、ストレスや不安は?」

「ないよ」ダリオンは小さくため息をついた。「レリア、俺は病気じゃない。気にしすぎだ」

「黙って」レリアの口調が少し強くなる。「眠れないのは異常よ。あなたが何と言おうと」

 軍団では病にかかりかけの部下を問答無用で休ませるダリオンだが、自身の体調となると話は別だ。剣を置くことを極端に嫌い、どれだけ具合が悪くても平気な顔をしてやり過ごそうとする。そうでなかったのは、唯一、ウェダ人に敗れて大怪我を負ったあの時だけだ。

 レリアは何度も手をかざし、古代エルフ語の治癒の呪句を唱えた。「エマレ、リアンヌ、センテモセ──」と。しかし、ダリオンの不調が癒える気配はない。むしろ、悪化の気配すら感じられた。

「ずいぶん良くなった」とダリオンが嘘をついても、レリアはそれをすぐに見抜いた。長い付き合いという以上に、彼女には確かな洞察があった。

 やがてベッドに戻ったダリオンは、それでも眠れなかった。彼はただ天井を見上げていた。レリアもまた、再び目を閉じることはなかった。





「いけ! いけぇぇ!」
 「《頑張れ! ティムル! 腕をへし折ってやれ!》」

 テーブルを囲む兵士達の喚声が夜の空気を震わせていた。火を囲む男たちが歓声を上げ、勝敗に賭けた食糧や酒を手にした者が笑い、沈んだ者が舌打ちをする。まるで一種の戦場だった。

 巨大なティムルの腕に対抗するのは、意外にも普通の体格をしたサレンロア人──オルサだった。だが侮るなかれ、パラント人は見た目では判断できないのだ。年齢はもちろん、筋力も外見には表れない。

 額に汗を浮かべながらオルサは必死に抵抗していた。ティムルの力に押され、手の甲がテーブルに触れそうになるたび、彼は渾身の力を振り絞り、僅かに形勢を戻す。

「オルサ、がんばって!」

 声を上げたのはタミナだった。彼女の顔には不安が浮かんでいる。隣のエミリは肩をすくめた。

「兄さんの腕はドラゴンの骨みたいに丈夫だから平気よ。多分、ね。それにレリアさんがいるし、最悪でも……」と軽口を叩こうとして、タミナの鋭い視線に気づいたエミリは、慌てて言葉を濁した。「あ、いや、冗談よ。ほんとに」

 オルサが歯を食いしばり、ぐっとティムルの腕を押し返す。

「へへ……そろそろ降伏したらどうだ? 腕が折れる前にな……──がぁぁ!」

 絶叫とともにオルサの手が机に叩きつけられ、勝負は決した。野営地に歓声が響き渡り、ティムルは勝者として仲間たちの喝采を浴びる。

「《中々強かった》」

 ティムルは潔く敗者の肩を叩き、勝負の場を後にした。

「また……負けた……」

 オルサはうなだれ、仲間達の反応が彼の周囲を包む。

「お前のせいで賭けが外れたぞ!」 
「おう、ありがとな! いい酒が飲める!」

 責める声と笑い声。オルサは応じるように「すまねぇ」だの「次は勝つ」だのと応じたが、中には「黙れ、裏切り者」と口にする者もいた。その言葉には傷のような鋭さがあった。

「兄さん、また負けたわね。これで四連敗よ」

「三回だ! 酒の勝負はノーカウントだ! あれは競技じゃない!」

「でも兄さん、あのとき下呂したでしょ。実質、不戦敗よ」

 エミリの言葉にオルサは絶句し、しばらく黙ってから口を尖らせた。

「……勝手にしろ」

「知力なら負けないと思うわ」タミナが言った。「チェスで勝負すれば? あの野蛮人、ルールも知らなさそうよ」

「それで勝っても、ちっとも嬉しくな──ん?」

 突然、野営地の空気が変わった。門の方角──南から騒ぎが聞こえる。異変を感じ取り、オルサが立ち上がる。焚き火の向こうで、誰かが走っていた。

 レリアだった。彼女は息を切らしながら門の方へ向かっている。そして──タミナに気づくと、手招きして叫んだ。

「タミナ! ついてきて!」

「は、はい!」

 タミナが急いで駆け出す。その後ろ姿を見送りながら、オルサとエミリは視線を交わした。





  第十大隊の生き残りはピピトの戦士達によって助け出され、ナムラ浅瀬の帝国軍陣地へ運ばれた。数百いた大隊の中で生き残ったのは僅かに一人の女、その女も暴行を受けた際の傷が原因で命を失った。

 レリアら治療魔法の使い手が対処するには手遅れの状態であった。

 ダリオンは帰ってきた仲間達をじっと見ていた。新兵に古参兵、顔なじみの百人隊長。荷馬車で運ばれてきた仲間達は衣に包まれ、司祭の祈りを受ける。百人隊長ストンレンと数人の兵士は見つけることができなかったが、第十大隊の殆どの者を獣から守ることができた。死肉を食らうデルザやダユ・ウルフから。

 まさか輸送中に全滅の憂き目にあうとは、さぞかしストンレンも無念だっただろう。ダリオンは戦友の無念さを嘆き、悲しんだ。死体が見つからなかった彼や数人の兵士が今も生きている等という希望は抱いていない。ストンレンは逃げるような男ではないし、命乞いをする兵士でもない、ましてや敵は慈悲なきシカンリ。現実的に考えて友たちは生きてはいないだろう。

 第十大隊の犠牲者の魂が迷わずにサーヴェの元へたどり着けるようダリオンらは祈り、死者たちを弔った。



「エリスロム将軍は配下の全軍団をこっちに寄越すと思うね」

「へぇ、どうしてそう思うの?」

 エミリの問いにオルサは答えた。十人隊の炊事係である彼は泥のように煮えた鍋の中身をゆっくりとかき混ぜている。

「そりゃ、わが隊長がいるからよ。お前も知ってるだろう? 将軍が隊長と旧知の仲だって」オルサはそう言うと、料理を一口味見し、眉をしかめた。「……クソ。ひでぇ味だ」

「……本当にそれ、ペルトと肉のスープ?」エミリは鍋の中を覗き、苦笑いする。「……手伝おうか?」

「手伝いが必要に見えるか? 心配すんな、すぐ良くなる」

「そう」エミリは数十分後に仲間から総スカンを食らうオルサを想像して笑った。そして彼女は話を戻す。「そりゃ、知ってるわよ。隊長が将軍の親友だって。だけど本当にそうかしら?」

「ん? 本当は違うって言いたいのか?」

「まぁね。だって本当に隊長が将軍と友達なら、未だに百人隊長止まりなのは何故?」

「オレはソウはオモワナイ」オルサはエミリの後ろを見ながら淡々と言った。

「大隊の指揮官でもなく百人隊の指揮官よ? ……そりゃ、私は隊長を尊敬しているけど、将軍の親友にしては酷い扱いじゃない?」

「タイチョウはスバラシイ」

「軍団の百人隊には経験のある隊長が必要なんだよ」

 後ろから声がし、エミリは固まった。ダリオンだ。

「た、隊長!」

 立ち上がろうとするエミリを止め、彼女の隣に座った。

「随分と言ってくれるじゃないか」

「え、えっとこれは」エミリは目を泳がした後、責めるようにオルサを睨む。

「止めようとしたんですがね。コイツったら止まらなくて」

 エミリのムッとした表情にオルサはニヤリと笑う。

「隊長……私」

「まぁ、いい。気にするな」ダリオンは微笑した後、鍋の中を見る。「それより、オルサ。お前何を作ってるんだ?」

「ペルトと肉のスープです」

「これが? まるで煮えたクロック草じゃないか」

 形勢逆転の瞬間だ。エミリは仕返しとばかりに「ほんとですね。本当に酷い炊事当番!」と兄に言い放つ。「この料理下手!」

「文句ならモザグに言えよ。あいつがエペネの戦いで帝都送りになってなきゃ、俺が炊事係になることもなかったんだからな」オルサはダリオンの顔を見た。「俺の妹は文句が多くて困りますよ」

 笑うダリオン。

「公平な指摘よ」エミリは言った。「隊長? 今からでも兄さんを炊事係から下ろすか、まともな食事をどっかから都合してくれませんか?」

「ハッ、それは無理だな。炊事係を選んだのは十人隊長のエムグだし、そもそも配給以上の食糧は出せん。おとなしく“クロック草”を食べろ。……まぁ、エムグもこれを食べたらオルサを炊事係から下ろすだろうが」

「そう願いますよ」と、エミリ。

 エミリの肩を叩き、立ち上がるダリオン。

「隊長、いつ俺たちは出撃するんですか?」オルサがダリオンにそう言った。「……皆、仇を討ちたくてウズウズしてます」その表情は真剣だった。

「私も同じだ」と、ダリオンは言った。「そのうちにな」かすかに笑うと、立ち去った。

 
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