静かに壊れていく日常

井浦

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第8話:満員電車

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朝の満員電車は、いつもどおり人で溢れていた。
肩が触れ、カバンが当たり、息が詰まる。
それでも、日常の景色として、目を閉じればすべてはただの雑音だった。

目を開けると、となりの男の顔が、少しずつ歪んでいることに気づいた。
口元の笑みが、ありえないほど長く伸び、目は濁った黒い水のように光った。
混雑のせいで目眩でもおこしたのかと思った。
でも、視線をずらすたび、周りの人々の表情も、わずかにおかしい。

次の駅で、押しつぶされるように体をずらすと、
向かいの女性が、まるで粘土を押しつぶしたように顔の輪郭を変えた。
指先も、溶けた飴のように伸びている。

息が詰まった。
頭の中で「これは夢だ」と何度も繰り返す。
でも、身体の感覚だけが、異様なほど研ぎ澄まされていく。

駅ごとに、変化は加速した。
汗で湿った背中に、人の体温を感じるはずの肩が、
いつの間にか冷たい金属のように変わっていた。

手が触れ、髪が当たり、
それが生き物ではなく、無数の形を持たない何かであると、肌が理解した。

誰かに声をかけようとしても、声が出ない。
息を吸い、吐くたびに、喉の奥が遠のいていく。

やがて、自分の手も、腕も、少しずつ輪郭を失い、
周囲と同じ、不気味な存在のひとつに溶けていく感覚があった。

電車が止まり、ドアが開いた。
人々が流れ出す。
その中で、ただひとり、私は立ち尽くしていた。

誰も振り返らない。
声も、視線も、存在も、すべて変わり果てていた。

ふと、駅名表示を見上げる。
知らない文字が光っている。
見覚えのない駅。
見覚えのない空気。

電車の中の温度、匂い、体の感覚だけが、
現実だったことをかすかに告げていた。

もう、きっと戻れない。

私の足が、なにかに導かれるように動き始めた。
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