誘発

第一章 慧

見栄

「それじゃあ私たちは失礼しますわね」

母の弘子が、父が運転する高級車のドアを開けて、他の保護者へ挨拶した。

「慧くんはどうする？」

少し離れたところにいた息子へ、大声で呼びかける。

「俺は歩いて帰るからいいよ」

「あら、そう。じゃあちょっと買い物して帰るから、お留守番よろしくね」

慧は返事をせずにチームメイトの輪に戻る。

６年生にもなって「くん」をつけて、名前を呼ばれることを恥ずかしく思っていたが、何度注意しても変えてくれないので、もはやあきらめていた。

そのとき、背後から女の声が聞こえてきた。

「わざわざ車でくることないのにね」

慧は、周りでバカ騒ぎをしている友達に合わせて笑っていたが、心ここにあらずで、女たちの会話に耳をそばだてる。

「自慢したいのよ、きっと」

「でも本当のお金持ちってあんなにひけらかさないものよね。わざわざ車の前で挨拶までしちゃって」

誰の親が話しているのか確認したい気持ちもあったが、そちらに目を向けると、話を聞いていたことを勘づかれそうで、ぐっとこらえた。

彼自身も、母の見栄っ張りにはうんざりしていた。

"うちはお金に恵まれているのよ"

それが弘子の口癖であり、自慢だった。

父が大手商社に勤めているため、よその家よりも高収入だというのだ。

しかし、小学生の慧から見ても、父が決して出世しているようには見えない。

毎日、19時までには帰ってくるし、家では仕事の話を一切しない。

この前も、寝室に落ちていた名刺をたまたま目にしたが、名前の上には肩書とみられるものが何もなかった。

平社員と呼ばれる下っ端には名刺の肩書がないということは、テレビドラマで見て、慧も知っている。

それを知ってか知らずか、母は周りから見えるところに優先的にお金を使う。

彼女自身の洋服やバックだけでなく、慧が着る服もブランドものしか許さない。

幼いころは、高そうでかっこいい服を着られることに喜びを感じていたが、最近は自分だけ浮いているような気がして嫌だった。