月下美人  頑張った母ちゃんの闘病記

酒原美波

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第五章 多忙

月下美人

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1.自治会役員 
 数年に一度、団地自治会役員が回ってくる。自治会役員は町会役員も兼ねるので、かなり多忙だ。これまでは父が役員の仕事をしていた。書紀の役職を取ってくると、私に書類作成を丸投げする。会長に運悪く就任すると、やるべき事が増えて母も忙しくなり、私も手伝いに駆り出された。
 今回は環境係という、比較的楽な役員を引き受けてきた。だが父は体が辛いからと、役員を私に押し付けた。
 3月の総会前に行われる顔合わせ兼、打ち合わせが既に行われている。父がその時の報告を黙っていたため、あとあと、私は役員の一人に責められ、痛まれない気持ちとなった。
 それでなくとも先の顔合わせで、他の役員は団結している。後からノコノコやってきた私は、基本的に蚊帳の外だった。

 まあ、自治会役員の権限で、班の中では決まり事を変えさせてもらった。それについて、班内の実力者から怒られたが、「ご不満なら、次回の役員就任で撤回してください」と、私は言った。私が行った小さな改革とは、「役員任務が負担な会員は、辞退届提出をすれば、持ち回りリストから外す」だった。これには過去の苦い経験があったからだ。

 母が危篤になった2005年の翌年、2006年度の持ち回り役員予定だった。父には「母の状態からして無理だから、今回は断って」と伝えておいた。ところが役員顔合わせの前日に、たまたま自治会内の別班の幼馴染宅に立ち寄ったとき「あんたのトコ、来年度の役員平気なの?」と言われて仰天した。幼馴染の父親も出てきて、「今日中に別の人に代わってもらいなさい」と忠告された。
 慌てて帰宅して父を問い詰めると、今年度役員から「規則だから駄目だ」と断られたらしい。もっと早く報せてほしかった。私は今年度役員の、癖のある小父さんのもとへ怒鳴り込んだ。小父さんは「規則だし、別に父親やアンタは役員ぐらい出来るだろうと」と返してきた。コッチは母が腸閉塞入院中で、帰宅後もリハビリが必要になる。父1人で役員はこなせない。裏方は全て、母が行っていたからだ。口論の末に、「じゃあ他の班員に代わってもらえばいい!」と言われて終わった。
 私は班内の交流のあった小父さんに事情を話し、「突然だが役員を代わってもらえないか」とお願いした。その小父さんも「持病があるので自分は無理だが、他の班員にお願いしてみよう。それはこちらが手配するから、アンタは家で報告を待ちなさい」と言われた。そして小父さんは、「同じ班の人に承諾を得た」と報告してくれた。
 私は心から感謝した。そしてこれまで交流がなかったにも関わらず、引き受けてくれた新たな班員(それでも引っ越してから5年以上は経っていた)に感謝した。新たな班員は、母のためにお見舞いの花まで持ってきてくれた。

 私はあのときの恩を忘れたくなかった。今回の役員回りは、あのときぶりである。我が家と小父さんの家を飛び越して持ち回りで班員が役員を務めていたのだ。そして来年度の役員の話が来る前に、長老格の家から、「今回も引き受けないつもり?」と言われたので、「今回は役員をやります」と答えた。
 父から丸投げされた仕事だが、ならばコチラもやりたいようにやらせてもらおうと、班内の規則を変更した。これは、あのとき助けてくれた小父さんへの恩返しでもあった。その後、本格的に体調を崩した崩した小父さんには、同居人が小父さんと同じ年の高齢の奥さんしかいない。ウチが役員を引き受ければ、次は小父さん宅だ。融通の利かない古参の班員は何人かいる。だから、私は班規定を変える回覧板を、まず役員を正式襲名してから、恒例の新役員のご挨拶文と共に、この文章を打ち込んで回覧した。古参からはやはり批判が出た。 
 だが世話になった小父さん宅からは、感謝された。自治会脱退を考えるほど追い詰められていたのだ。
 そして交流はないが、新たに引っ越してきた別の老婦人が訪ねてきた。こちらは若い世代の3軒とは別方向の家を購入したお宅である。お婆さんは涙を流しながら言った。「ウチはお爺さんが体が動かなくて、息子も病気を患って働けない。だから前回の役員も、ご近所に助けてもらいながらこなしたが、ほとんど役に立たず肩身が狭かった。あの回覧を見たとき、すぐにお爺さんから詳細を確認してこいと、言われてー」
 嗚咽混じりに話すうちに号泣されて、私は慌てた。まさかそんなに追い詰められていた人もいたとは。私は宥めながら、「後日、役員不可届の書類を作成して、回覧し、提出のあったものは班の公文書として残します。ですから大丈夫ですよ」と言うと、「ありがとうございます、ありがとうございます」と何度もお礼を言われて帰っていった。 

 団地内にもカーストがある。強気に出れるのは、団地創生時に移住した住人だ。昔はもっと、初老の権威のある人達が無理難題を押し付けてきたが、その長老陣が亡くなると、次の世代の長老格が上がってきた。全員が頭が固いわけではない。現に他の班では、役員どころか公園当番免除の家も認められている。ウチの班は特に癖のある長老格の創成期メンバーが揃っていたのだ。ウチも団地創成期メンバーであるが、父は前に出る人ではない。代わりに元気だった頃は、母が喧嘩を吹っかけていたが。
 班の中で言い出せる権限を持っていた家は半分もない。自治会拘束が嫌で引っ越していった家も多かった。だから、いずれ握り潰れる可能性が高くても、私は改革に乗り出した。握り潰れても、次回また復活させてやると意気込んで。

 会長によって、自治会運営は変わる。今回の会長は途中から引っ越してきた人だが、団地の貢献度が高くて相談役も兼ねる、生真面目な人だった。だが生真面目なおかげで、月に一度は会長宅で役員が集まり会合を開くことになった。
 ウチが会長だった時は、必要事項のあるときだけ、町会役員会の後に引き続き会館を借りて、簡単な相談で終わらせていたようだ。自治会の大仕事は、初夏の合同草むしりと、年度末の自治会員総会である。その時ぐらいしか、両親が招集をかけた記憶はない。
 脱線した話を冒頭に書いたのは、本当にこの2015年度は、やることが多くて参ったのだ。
 4月最初の町会役員顔合わせの前に、午前中に班員から自治会費徴収して会計に持っていく。町会役員顔合わせの前に、自治会総会後に引き継いだ役員会合。スケジュール帳を読んでいて、当時の苛立ちが蘇り、つい書いてしまった。

2.通院
 4月10日、都内の大学病院内分泌内科を母が受診。帯状疱疹入院の退院3日後に予定通りの外来。せめて入院中に今月分は済ませてほしかった。
 4月17日、都内の大学病院皮膚科で、母の帯状疱疹の経過観察。

 4月20日、地元の大学病院腎臓内科を、父が受診。その日は病院を終えた後、父と市議会議員の期日前投票に行き、蕎麦屋で父は天ざるそば、私は湯葉とろろざる蕎麦を食べた。
 この日、父が期日前投票に行く気になったのは、大好きなマイナー歴史小説家の文庫発売日だったからだ。これは病院道中の本屋では手に入らず、駅ビルまで出る必要があった。そして地下で刺し身を購入して、アイスティーで休憩をしてから、バスで帰宅した。
 4月27日、天敵先生クリニック受診。皮膚科の事情を説明すると「やはり大学病院へ回して良かった。普通の帯状疱疹なら、ウチでも治療はしているが」と言っていた。母の入院中、近所の人と話した際に「私も帯状疱疹患ったけど、天敵先生クリニックで治してもらったわ」と言っていた。母の発疹をみせたときは悪態ついていたのに、他の患者の帯状疱疹は治してるじゃないかと、聞いたときには納得いかなかった。

 別件だが4月中、2度も自治会役員に私は怒られた。今年度が始まる前の父が顔合わせのとき、依頼された仕事を父が放置していたからだ。何も知らない私は悔しさから、あのときは腹いせに、父を無視していた。

 5月1日、都内の大学病院皮膚科を母が受診。母の帯状疱疹経過確認のため。特に異常はなし。念入りに確かめるのは、帯状疱疹は後遺症で、激しい痛みが残るからだ。

 別件だが、この月の3日に箱根大涌谷で大涌谷の蒸気が勢いよく噴き出す。先月からの地震は150回を超えていた。
 3代目愛犬の狂犬病予防接種。恒例の竹槍注射。何もメモがないから、順調に終わったのだろう。
 制度が変わったのはこの年からだったか。難病保険証は、初交付された月の前に更新手続きをするのが、これまでの手法だった。だが、難病の種類ごとに更新手続きを行なうように改革されたのだ。お陰で半年以上も更新が繰り上がって更新手続き書類を作成することになり、保健所に出向くと、特別受付所が開設され、多くの人が押しかけていた。順番待ちカードが交付され、受付まで時間を要した。
 これまでは保健所の難病支援科に、それぞれが長めに設けられた期日までに更新手続き書類を持っていき、受け付ける手法だった。だから待ち時間もせいぜい2、3人待ちで済んでいた。

 5月15日、都内の大学病院皮膚科の受診で完治を宣言され、母の皮膚科通院はこれで終わった。この日は内分泌内科の受診もあった。採血と採尿のあと、いつものランチを食べに行こうとしたが、この日は夏日で暑かった。
 母も私も蕎麦気分で、いつも食べに行く格安ランチ店と同じ施設内の蕎麦屋で、ランチ蕎麦セットを頼んだ。蕎麦の他にもお惣菜や天麩羅がついた、見た目も楽しめる美味しいランチセットだった。料金は若干、いつもの店より足が出たが、良心的な価格だった。

 この月も自治会役員から怒られているな。新旧役員懇親会なんて聞いてないし、私1人が出向いたら「どうしてお父さんを連れてこなかったの!基本は夫婦単位だから、あなたのお父さんの分も予約しちゃったじゃない!」と、役員の1人に怒られたのだ。そもそも私は「新旧役員懇親会が、翌月あるから何日何時に集合」としか、前回の役員会で聞かされていない、人数確認もされていない。 
 連れて来いと言われても、いったん帰宅して父に言うと、「嫌だ、面倒くさい」と断った。
 そもそも、いつからこんな恒例行事が始まったかさえ、記憶にない。以前は役員を終えると、労いの豪華な花鉢が贈られていたのだ。もう1人の役員は直前に子供が病気になって奥さんが付き添わねばならないからと、前日に1人分断りの電話を入れていたらしい。
 豪華な食事が出されても、美味しいと思えるはずもなかった。だが落ち込む私を、旧役員で昔からよく話していた小母さん達が会話に入れてくれたので、次第に気持ちは浮上した。前役員だったら、もっと和気あいあい楽しめただろうな。父の膳は、新旧役員がそれぞれ食べて片付けた。

 5月21日、長年活躍してくれた車を手放した。前年に父が免許更新を打ち切ったのだ。「高齢者更新試験が頻繁で面倒くさい」というのが理由だった。
 数年前から、母と「いつ父に免許返納タイミングを言い出すか」と相談していた。当時はまだ一般道を危なげなく運転していたが、年齢的なものと、ご近所の高齢者の免許返納に家族中が苦労した話を聞いていたのだ。だから父が自ら運転をやめると言い出すとは思わなかった。
 兄は車を手放すのに反対したが、車の維持費は馬鹿にならない。古い車なので車検もかかる。交通手段は田舎だけに不便になるが、それでも毎日乗るものでもない車に高額のお金を支払うぐらいなら、タクシーを使ったほうが安上がりだと結論づいた。
 いざ手放すとなると、数々の思い出があっただけに感情的になるが、最後に写真を撮ってから「さようなら」をした。本当に、今までとてもお世話になりました。

 5月26日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の受診。5月にも関わらず真夏日で、暑さに弱い母を熱中症にしないよう、凍らせたペットボトルを2本持っていき、電車の中のエアコンで体がクールダウンするまで、首元を冷やした。 

 5月29日、天敵先生クリニック受診。母の定期受診。
 6月6日、天敵先生クリニックで母の健康診断。今更、健康診断必要がかかるというぐらい検査三昧だが、天敵先生の指示なので仕方がない。

 この翌日の自治会役員会合で、会長夫人から「何もしてない」と言われてブチ切れたんだよなぁ。何もしていないわけじゃない。毎年同じところに巣を作る、公園掃除道具入れの蜂の巣を除去したり、自治会専用駐車場の貸出要請に記載して、何月何日から何月何日まで〇〇様使用の看板をつけたりしている。
 そもそも指摘された書類作成は、書記の仕事だ。それを「やってない」と攻撃されて、怒ったわけで。それで帰宅後すぐにパソコンで書類を作成し、自治会役員分全員の印刷をして、自分の班を除く書類を、会長宅に叩きつけたんだったわ。「あんた、少し頭を冷やしてきなさい」と母に言われて、駅へ出てお茶して、やっと落ち着いたんだったな。ほんと、このときのことは、思い出すだけでイライラする。

 6月10日、地元の大学病院内分泌内科に父を受診に連れて行く。

 6月14日、恒例の自治会員全員による公園草むしり。役員に話しかけられても、無視したんだった。私は私の最低限の仕事だけすればいいんだって。ただ公園の桜の木には気になった。ところどころ葉のない枝にキノコが生えている。邪魔な枝を会員がノコギリで切り落としているが、桜を素人が切っていいのは鉛筆の太さまで。防腐剤も塗らないのは悪手だ。私は自宅から植物用防腐剤を取りに行き、塗るようにお願いした。バラに使用しているものだが、桜もバラ科だ。
 私は顔馴染の長老格(今年の自治会役員にあらず)に桜の枝について相談した。
 数日後、市役所とパイプのある長老からの要請できた業者に、桜の木の危ない箇所を切り落としてもらう。長老からは「剪定を見守るように」と言われた。桜の大木は数本あった。それにしても長老、仕事が早くて感心した。

 6月19日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。

 6月22日、地元の大学病院腎臓内科、父の受診。
 6月29日、天敵先生クリニックで、母の健康診断結果は良好と説明された。

 この日は、近所の人から聞いた話が、本当かどうか確かめるために、夜8時頃に近所の川に出向いた。こんなところにに出るのかなと思ったが、出た。ホタルだ。数は2匹だけだったが、感動した。実は最近、友人たちと鎌倉へホタルを見てきたところだった。あそこほど沢山のホタルではないが、こんなところでホタルとお目にかかれるとはと感動した。帰宅後に母から「暗い川に1人で出かけるな!」と怒られたが。

 7月1日、私は近年できた胃腸科クリニックへ出かけた。精神科の薬を飲んでいても、たまに気分が悪い時が頻発した。これまで市販の胃薬で、何とか両親の付き添いをこなしてきた。だが、市販薬での対応も限界がある。両親が小康状態を保っている間に、胃カメラで調べてもらうため、その手続きに行ったのだ。
 7月22日、胃腸科クリニックで胃カメラを飲む。麻酔点滴をしてもらったが、全く効かずに、胃カメラを入れる時に苦しくて身悶え、看護師に押さえつけられた。麻酔が覚めるまでの休憩室で、胃カメラを受けた人達の寝息が聞こえる。目覚めた人は看護師と会話しているのが聞こえる。結局、麻酔は私には全く効かずに、さりとて休憩室で、時間まで横になっているよう伝えられていたので、去る患者のそばから、胃カメラを受けて眠る人が新たに簡易ベッドで運ばれるのを遮断されたカーテンの中で聞いていた。胃にポリープの異常はなかった。たが逆流性食道炎が認められ、機能的ディスペプシア(神経性胃炎)の薬を処方された。

 7月23日、地元の大学病院内分泌内科の看護医療に父を連れて行く。父の足の親爪が変形しているうえに、固くて私では爪が切れないため、看護師に今後は切ってもらうことになった。これは足の状態確認の意味もあった。
 7月24日、朝9時30分、トイレで用を足した母が胸痛を訴える。時間にして8分程度。ベッドに横にさせ、痛みが治まってから計測した血圧と脈に異常なし。

 7月28日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の受診。この日は34℃。院内のカフェで母はアイスコーヒー、私はアイスティーを飲みながら診察予約時間まで待つ。強風で帰路の電車が遅れ、母が「お腹すいた」というので、処方箋薬局に薬を依頼してから、駅ビルレストラン街で蕎麦を食べた。母はいつもの天ざる蕎麦、私は大根おろしざる蕎麦にした。
 都内へ出る日は、よほど朝早く出ない限りは、夕食を支度して冷蔵庫に入れておく。父の昼食も同時進行で作っておく。夕飯は、私たちの分も用意してあるが、遅くなって外食の時は翌日に食べていた。父が待っていることはない。食いしん坊の父は、夜18時には夕飯を食べ始まるからだ。膠原病内科受診の時はさすがに間に合わないため、先に食べててくれる方が都合が良かった。たまに足りなくて私の分まで手を付けた跡があるのには閉口したが。食事は個人分を皿に盛り付けていた。大皿だと、父に食べ散らかされるからだ。

 7月31日、天敵先生クリニックでは母の定期診察。

 別に8月1日に記念日はない。この日の記録は岐阜県多治見で39.9℃を記録したぐらいだ。
 だが父は寿司を取った。ビールもいつもより良いものを買ってきた。母以外は飲めるので、父と兄と私はビールを飲んだ。日頃は缶ビールだが、この日は瓶ビール。「やっぱり瓶ビールのが美味いなぁ」父は上機嫌で言った。確かに、瓶の方が美味しく感じる。不思議だ。
 8月8日は、夏祭り用の花を作った。テッシュの丈夫版のような紙で作る、幼稚園や小学校のお祭り行事で活躍するアレである。町会役員は全員参加だったが、有志も応援にて会館は大賑わいだった。自治会の同じ班の小母さんは、「早稲田実業のハンカチ王子、恰好いいわよねー」と、近くの小母さん達と盛り上がっていた。私も話を振られたが、「ええ」と愛想笑いを返すに留まった。私の母校は、その早実にボコボコに予選で負けたからだ。まあ、早実が甲子園に行ったのは良かった。私の幼馴染、子供の頃は仲が良かったが、いまは用件以外話さない現自治会役員の母校が負けて溜飲を下げたから。
 子供の数は、随分と減った。昔は盆踊りやらクリスマス会やら様々な行事を行っていたが、参加者の減少により取りやめになった。この夏祭りも、盆踊りの代替えとして始まったものの、この年も子供は5人ほどしか来ず、後は大人たちの酒盛りになったと聞く。有志参加者が多かったので、開催日の一般役員は希望者のみとなり、私は参加しなかった。
 近所に、子供はそこそこにいる。しかし私らの世代から下は、町会に入らない家が多い。町会長からも、「役員にならなくてもいいから、会費を集めるためにも、町会に入ってもらうよう頼んでくれ」と、先の役員会でも言われた。ウチの自治会も、昔は全世帯が自治会と町会両方に入っていたが、いまは両方に加入しない家も少しだが増えつつあった。気持はよく分かる。両親はいざというときの保険代わりに、特に東日本大震災の後は自治会脱退は有り得ないという考えの持ち主だった。私は町会だけ入れるシステムなら良いのにと、思っていた。自治会の役員をするようになって、さらにその気持ちは増した。役員免除と言われても、何かあれば依頼されるだろう。だから若い世代はは入りたがらない。防災対策に特化して、無駄を省けば、町会加入者も増えると思う。そのぐらい田舎の慣習化した催しにはウンザリしていた。

 8月14日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。この日は夕飯を作る余裕がなく、東京駅構内最大の駅弁屋で弁当を買って帰ったと記載してある。駅弁の種類も記載されていた。父は「東京物語」。母と兄は「水戸黄門弁当」、私は「牛タン弁当」だった。

 8月24日、地元の大学病院腎臓内科を父が受診。
 8月31日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
 9月10日、地元の大学病院内分泌内科看護師による父の足の爪切り。この前日、台風18号による近所の川の水位が避難判断水位まで上がった。バスで川を渡るとき、水位は下がっていたが、濁流の勢いは怖いほどだった。
 9月16日、地元の大学病院内分泌内科を、父が受診。これまで長年お世話になった主治医が病院を退職する。先生の柔軟な対応のお陰で、本当に助かりました。心から、お礼と共に、もっと居てほしかったと思わずにはいられなかった。

 9月18日、都内の大学病院内分泌内科を母が受診。

 翌日19日、母が昼に狭心症発作を起こす。舌下にニトロを置き、ゆっくり溶かして治まった。ニトロは時間をおいて2回まで使えるが、それでも治まらない時は、即刻救急車を呼ぶ必要がある。

 9月29日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母が受診。加えて、糖尿病栄養指導が1時間設けられた。
 この日も膠原病内科の主治医は、朝から患者60人待ちで、トイレにも行けてないと愚痴をこぼされた。いや、コッチもヘトヘトだっだが、そんな風に言われると同情しますとも。文句なんて言えません。たとえ予約時間が15時半だったのが、19時まで待つ羽目になったとしても。

 9月30日、母の薬を取りに行く。前日はとてもじゃないが処方箋薬局には間に合わなかった。そして、いつもより待たされた原因は、前日の時間外会計で、難病ノートに診察記録が記載されておらず(一般会計が閉まると救急外来での支払いとなるが、ノート記載は後日となるためこの日の記録がなかった)、病院に問い合わせたためだ。やっと病院会計係と話が通り、公費で負担金ゼロになった。難病保険証には条件額が記載されており、収入によって上限額は異なるが、母の場合は診療対象が、膠原病内科と呼吸器内科、内分泌内科も対象だったので、上限額クリアは多かった。

 10月5日、天敵先生クリニックの、母の定期診察。
 10月10日。19時半、母の狭心症発作。舌下にニトロを置いて落ち着いた。
 10月11日、21時に父が倦怠感を訴える。血糖値を測ると、このときの数値は書かれていないが低血糖と記載され、砂糖たっぷりのホットミルクを飲ませて通常値に戻したとなっている。
 インスリン注射使用者で最も気をつけるべきは、低血糖。気づくのが遅れて血糖が下がり続けると、意識を失うこともある。打ちどころが悪ければ。それこそお陀仏だ。

 10月19日、地元の大学病院腎臓内科を、父受診。
 ついに坂道を転がり始めたようだ。腎臓のエリスロポエチン(ホルモン)が低下して、腎臓貧血を起こしていたのだ。疲労感やめまいがあっても、当人は慣れてしまって感じていなことが多い。普通の貧血と違って、鉄分を補えばいいわけではない。
 月1回、注射ネプス60ミリグラム投与。2ヶ月で改善が見られれば、注射は休むこともあるという。風邪薬は腎臓に悪く副作用も起こしやすいため、高熱のとき以外は飲ませないようにするという注意事項メモが残されている。
 
 10月23日、都内の大学病院内分泌内科、母受診。ヘモグロビンA1c9.9(前回8.9)。
 母の糖尿病指導入院が決定した。

 10月10日、市外の病院から呼び出される。兄が会社で倒れたのだという。病院に駆けつけると、当人はピンピンしていた。土曜日なので、細かい検査は出来ないという。こちらにかかるか、地元の病院受診するかで、父と同じ地元の大学病院を希望した。紹介状を書いてもらう。
 10月26日、地元の大学病院へ兄を連れて行く。「もう大丈夫、なんともないから!」とごねたが、「ブッ倒れた人間を、詳細が分からなくては、人材派遣に断られぞ」と脅すと、渋々ついてきた。消化器内科と、循環器内科に紹介状を出して受診。心臓には異常なしと、言われた。けっこー高飛車な言い方にムッとしたが、田舎の大学病院じゃ仕方がない。つい、「都内の先生のが、皆さん丁寧ですよ」と言ってやりたくなった。うん、ライヴ感のあるメモだ。
 消化器内科の方では、肝臓が悪いらしい。
 10月29日、市役所に兄の高額寮費限度額証明書をもらいにいく。
 10月30日、入院前に母の目薬を処方して貰うために眼科に行く。これまで書いてなかったが2ヶ月に一度、母は眼科に通っていた。全ての受診を書くと切がないので、省けるところは省いている。

 11月2日、都内の大学病院へ母入院。今回は内分泌内科病棟。症状は血糖コントロール不良。病名は「2型糖尿病」だが、他に考え得る病名に「ステロイド糖尿病」と、入院計画書には書かれていた。当初の退院予定日は11月11日だった。
 入院手続きをして、病棟へ連れて行く。病棟で簡単な説明を看護師から受ける。簡単なのはデータを見て「頻繁にご利用されているので、説明は必要ありませんね」と言われたのだ。書類のサインは、入院ごとに沢山求められる。母に手伝ってよと言っても、「イヤ」の一言。私のが字が汚いから嫌なんだけどね。
 病室で寝巻きに着替えて、採血と採尿、レントゲンと心電図と、入院のときに必要な検査を行う。だが今回は驚いた。母の尿が血が混じってオレンジ色だったのだった。
 今回の病院食は不味いと、半分残した。そりゃあ、糖尿病患者用の徹底した管理の塩分量とカロリー食だから、濃い味付けの好きな母には不味かろう。 
 11月5日、都内の大学病院、母の面会と主治医からの病状説明。血尿は収まってきているという。何処か強くぶつけたのではないのかと。
 そして循環器の医師にチェンジ。このところ狭心症発作が気になると、入院ときの問診用に書いたからだ。循環器医師から、「入院していることだし、カテーテル検査もしてしまいましょう」ということで、カテーテル検査のリスクを説明される。
 11月7日。都内の大学病院に母の面会。まさか誕生日を入院で過ごすとはね。「本当なら今夜は、お寿司の出前を食べていたはずなのに」悔しがる。ご飯は平らげているようだが、味付けは相変わらず不満らしい。母を不満にするほど塩分ひかえないと、やっぱり駄目なんだろうなぁと思う。
 父が糖尿病の指導入院を地元の大学病院でしたときも、家族参加で糖尿病講座を受講させられた。しばらくは購入した糖尿病の本の通り、薄味に拘ったが、何でも醤油とソースで味付けを濃くする父に次第に諦めたのも不味かったな。ご飯も最初は量って出したいけど、コンビニでお菓子を買ってきて食べてるくらいなら、ご飯二膳でもいいと許したのだ。 
 11月9日、都内の大学病院に母の面会。この日は朝に母のカテーテル検査が行われた。
 11月11日、都内の大学病院に母の面会。その際に東京駅近くの本屋で医療本を立ち読みしまくる。
 11月12日、母に気を取られて父の糖看護受診日なのを忘れていて、慌てて父を地元の大学病院へ連れて行く。糖看護とは、看護師の爪切りと足のチェックだ。

 11月14日、都内の大学病院に母の面会。いつもは母の夕飯を見届けるまで居るが、さすがにこのところ色々ありすぎて疲れたため、汚れものと着替えを交換し、2時間母の話に付き合ってから帰宅する。
 電車で仮眠、夕飯作って父と食べた後、強烈な眠気が襲いかかり、洗い場に汚れ物だけ持っていって皿洗いは明日に回し、限界フラフラで布団を敷くのも億劫で、ホットカーペットをつけて毛布をかけてそのまま眠り込んだ。

 11月16日、地元の病院へ兄と父を連れて行く。まず父の腎臓内科診察と、ネプス注射。これがかなり痛かったらしい。思わず父が「痛い!」と叫んでいた。
 その後は兄の消化器内科受診。血液検査と腹部エコー、診察でアルコール性肝硬変の一歩手前と診断される。循環器内科では、24時間心臓ホルダーを装着された。

 11月18日、都内の大学病院を母が退院。だがこれは一時帰宅。午前10時退院に合わせて行ったが、既にベッドか片付けられていて、着替えた母が談話室で待っていた。ベッドを片付けたのだろうからすぐ帰宅出来るかとおもいきや、次の受診予約が取れてなくて待たされる。
 11月24日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、そして予約外で内分泌内科の受診。レントゲン、採尿、採血を終える。
 内分泌内科か、膠原病内科だったか、詳しくは書いてない。母の膀胱に菌が付着したとの説明され、左腰をトントン叩いていた。抗生物質のクラビット250を院内処方で出すから、もらったら直ぐ飲むように言われる。悪化すると39℃の熱が出ると言われた。そしてバイキンの特定のためにもう一度採尿。こちらは培養が必要なため、すぐには結果が出ない。

 母のカバンが、壊れた。遅めの誕生日プレゼントを買いに行く。ついでに悪運退散をお願いしておこうと、某有名神社へ行き参拝。気まぐれに上野まで歩く。その途中で鞄専門店を見つけ、少し変わったデザインのショルダーバッグを購入した。母は喜んでいた。喜んで、アレもコレもと鞄に詰め込むものだから、不格好な見た目になった。

 11月30日、地元の大学病院へ、兄を連れて行く。消化器内科の医師から精神科を受診するよう言われるが、片っ端から当たったクリニックからアルコール依存症患者の外来は断られた。仕方なく、超不便だがアルコール外来のある病院に問い合わせると、数日後に予約が取れた。

 12月は私の耳鼻科から始まった。扁桃腺が真っ赤に腫れていた。道理で痛いはずだ。 
 翌日は天敵先生クリニックの、母の定期受診。その後は駅へ出て、まず母はクリームソーダとクラブサンドウィッチを食べる。知られたら糖尿病主治医に怒られる。だが血液検査は正直だから、きっと数値でバレルだろう。駅に来たのは、補聴器のメンテナンス。部品が消耗して聴こえが悪くなっていたとのことだった。

 12月4日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。プラス栄養指導、耳が痛かった。
 内分泌内科受診で告げられるのも何だが、母は膀胱がんだった。手術の最終決定は後日、泌尿器科で行なうことになった。

 12月5日、兄をアルコール依存症専門外来へ連れて行く。コッチは扁桃腺の腫れにくわえて副鼻腔炎も悪化してら本当にしんどい。兄の態度はすこぶる悪い。しかも私が薬を受け取っている間に、市外のショッピングモールに遊びに行ったというから、もう腹が立つやら鼻は痛いやら。
 12月7日、地元の大学病院循環器内科、兄の受診。兄の心臓に異常はないと正式に言われた。
 12月8日、私は耳鼻科へ行く。治療と吸入のお陰で、気持ち悪い色をした痰が幾つも出た。どれだけ鼻腔に膿が溜まっていたのやら、これでは顔面激痛も当然だ。
 この日は腎臓結石だと父が言いながら、のたうち回る。翌日には痛みが治まったが、体外に出た出た様子はないとのこと。
 12月14日、天敵先生クリニックに母の定期受診。そして母は点滴を打つことに。何の点滴かは記載がないが、おそらく咳喘息用だろう。
 私は母を家まで送り届けると耳鼻科へ。ちょうど空いている時間に当たったため助かった。その後、大勢の患者が訪れる。風邪が流行っているんだね。

 12月15日、都内の大学病院泌尿器科、母の受診。母の膀胱がん手術の説明。

 12月15日、地元の大学病院内分泌内科予約受診と、予約外の泌尿器科を父が受診。泌尿器科で父はCT検査、レントゲン、採血、採尿をする。結石はなしとの診断。泌尿器科受診中、ドクターヘリが屋上ヘリポートに着陸。いや、あんな爆音と窓の外の舞い上がる落ち葉に驚いたわ。

 12月19日、都内の大学病院と提携しているMRI施設で、母の画像撮影。土曜日だから大学病院は休み。
 帰りにお寿司が食べたいという母に、地元へ帰ってからねと言い聞かせて、駅ビルのお寿司屋さんに行く。これが最後の母との外食にならなければいいと、祈りつつ。いまは糖尿病を忘れて、母に好きなものをたくさん食べさせたかった。

 12月21日、地元の大学病院腎臓内科へ父を連れて行く。注射を打ったあと、病院外の鍋焼きうどんが食べたいというので連れて行く。
 帰宅後、落ち着くまもなく、母が狭心症発作。一回の舌下ニトロが効かないので、二度目のニトロを使う。これで駄目なら救急車だと思ったが、発作は治まった。
 12月22日、耳鼻科で治療してもらう。冬休み前で混雑しているかと思いきや、すぐに呼ばれて驚いた。今回で治ってくれと、切に願う。だが28日、診察日ラストにもう一度耳鼻科へ。

 年末の晦日と大晦日は町会で夜回りを、役員と有志で行なう。その実態は酒盛りだ。女性は台所の片付けや料理の配膳、酒瓶の回収を行なう。そして2回の夜回り。何班かに分かれて、地区を回る。皆、酒が回っているから「火の用心」の声が揃っていない。懐中電灯片手に、10名ほどのグループが専任エリアを担当する。なかなか広い。
 私は晦日に参加したので、大晦日は休んだ。正月料理を作らねばならないし、天ぷらを揚げなくては。
 そういえば今年の年末は、父と試飲兼買い出しに行けなかった。年末の忙しさと、鼻の調子の悪さを考えたら、それどころじゃないけれど。そして昨年で、父との正月の買い出しは終了だったことに、このときの私はまだ気づいていない。

3.入院と手術、その後の経過
 クリスマスどころではなかったので、恒例の友人とのクリスマス会は不参加だった。だが翌年の初詣は昨年と同じ伊勢山皇大神宮だった。
 毎年初詣場所を変えていたが、今年、同じ場所にしたのは、昨年たまたま行ったレストランが絶品だったという不純な動機からだった。久々に息抜きできた心地だった。
 その後に待ち受ける試練に立ち向かう英気をもらった。

 1月4日、都内の大学病院内分泌内科病棟に母、再入院。入院手続き、病棟到着してサインの束。病室で寝巻きに着替えて、いつものメニューの検査出発。午前中から夕方18時半まで付き合ったので、ヘロヘロに疲れた。母は病院食があったが、私は何も食べていなかった。
 1月6日、都内の大学病院、母の面会。夕食を食べたのを見届けて帰宅。

 1月7日、地元の大学病院泌尿器科、父の予約受診。父の調子が、年末から悪い。当人は結石だという。なら受診しようと言うと、嫌がる。面倒だからタクシー呼んで、父を病院まで連行した。私だって「異常無し」と言われた泌尿器科になんて行きたくない。それでなくとも、母の膀胱がんで頭がいっぱいで、泌尿器科はウンザリだ。
 レントゲン、採尿して受診。帰路に採血していくよう、言われる。
 1月8日、地元の大学病院消化器内科を父、受診。前に大腸がんを患っているので、今回も大腸内視鏡検査を受ける。その説明を受けているときに父を激痛が襲う。内科処置室で、点滴。点滴で症状が治まってから、採血と採尿を行なう。
 1月9日は、私の耳鼻科受診。休まもないため、鼻がなかなか治らない。

 1月10日、都内の大学病院、母の面会兼新たな着替えの持ち込みと、汚れ物回収。父の様子が気になるので、2時間ほど母と話した後に帰宅。
 1月12日、都内の大学病院、母の面会。病棟が移動になる。今回は検査の付き添いもあり、夕食を食べ終えるまで付き添う。

 1月14日、地元の大学病院で父の大腸内視鏡検査検査が行われる。それに備えて、11日から食材制限していたが、母の面会もあるので付ききっきりで見ていられるわけにはいかない。
 1月15日、耳鼻科。その後はストレス発散のため、駅ビルでパスタを食べる。ウィンドーショッピングをしている時に、母から電話。明日、尿取りパッドを持ってきてくれという。帰路に食材と尿取りパッドを買って帰る。
 父が「おまえには負担をかけてばかりだな」と、今夜は寿司を取るから夕飯の支度はしなくていいとのこと。寿司は嬉しいが、父は食べて大丈夫なのかと心配したら、やはり腹痛を起こす。胆石でなければ膵炎の疑いも出てくる。

 1月16日。母の面会。そして泌尿器科主治医と面談。もちろん着替えと一緒に尿取りパッドを持っていく。後で気づいたが、多少お金がかかっても、自宅から尿取りパッド大袋持参するより、院内購買で買ったほうが嵩張らず、恥ずかしくもなかっただろう。帰りに東京駅のハンズに立ち寄り、母の壊れてしまったニトロを携帯するネックレスを購入。お金をかければ、アクセサリーらしいカワイイのが手に入るが、安いくて無骨の方が母が乱暴に扱っても、無くしても悔いはない。

 1月18日、都内の大学病院で母の膀胱がん手術が行われた。15:30から17:15と記載されている。行きは歩いて手術室へ、帰りは担架ベッドで病室に運ばれる。
 手術後、主治医から2センチの白っぽい癌と、小さいのを2つ、レーザーで焼ききったと説明された。道理で尿取りパッドの血尿が半端はないわけだ。
 この日は朝から雪が積もり、犬の散歩と家の前の前の雪かきを行なう。今日は帰りが遅くなるので、父の付き添いをさせる兄が必要だったが、出かける直前にようやく兄が夜勤から帰宅した。バスは順調に動いたが、電車がなかなか発車しない。車掌さんに聞いたら、「2番線の電車に乗って待っていてください」と言われる。出発は11時20分だったが、駅についたのは1時間半後だった。
 手術後、4時間は起きてはいけないため、母を17時から20時まで監視。その間、事前に買っておいたカロリーメイトで栄養補給。
 帰りの電車も雪で遅れたため、目の前で自宅方面バスを逃す。仕方がないのでコンビニで時間を潰した。
 1月20日、都内の大学病院、母の面会。ともかく尿パックに溜まった血尿がすごい。
 前日に母は膠原病と呼吸器内科の外来へ行ったらしい。「え?手術の翌日に外来診察室まで行ったの?」、私は驚いた。しかも看護師付き添い無しで、1人で行ったという。さらに仰天した。「術後は歩いたほうがいいんだって」という母。いやいや、この血尿の量で1人で歩かせるって、貧血で倒れたらどうするんだ?
 私は昨日、面会に行かなかったのを後悔した。看護師の説明があったら、来ていたのに。
 それで母が言うには、「呼吸器内科は1年経過したから一旦終了、今後は膠原病内科の〇〇先生が管理するって」と言っていた。
 その後、たまたま診察に訪れた泌尿器科の主治医と話した。まず血尿について尋ねた。
「血液をサラサラにするヘパリン点滴をやめたら、血尿は薄くなります。ですが便で力んだりすれば、血尿が出るでしょう。あと、尿カテーテルを外すときにも」と。また、「尿カテーテルを取るときのタイミングが必要です。膀胱の伸縮のため、血尿がさらにでる可能性もあります」と先生は言った。
 昨日と今日も、患部は膀胱炎予防のために入念に洗っているらしい。点滴が外されたので、母は「やっと楽になれる」と言っていた。寝返りも打ちにくいものね。
 母は痛みを感じないからとケロリとしているが、血尿の溜まった尿パックに私はドン引きだ。その日も夕飯を食べ終えるまで付き添った。

 1月21日19時、病院から電話があった。母だった。「土曜日に退院させる予定だったけど、降雪予報が出たから、月曜日まで延長するんだって」とガッカリした声。そりゃあ、有り難い。私がそちらへ迎えに行くことさえ、微妙な予報だと思っていたからだ。

 1月22日、地元の大学病院消化器内科を父、受診。医師は「大腸に、ポリープが7ミリと5ミリが確認されました。半年後に内視鏡を使って除去手術を行なう予定ですが、血液をサラサラにする薬をその数日前から止めないといけせん」と言った。「一般人なら、大腸内視鏡検査を行ったついでにポリープ除去もできますが、血液サラサラの薬(名前を覚えていない。母の使うバイアスピリンと違った血をサラサラにする薬だったのは記憶している)を使用しているため、今回は見送りました」とも言っていた。

 1月23日、都内の大学病院、母の面会。雪はこのとき、不発だったのではないかな。
 やっとシャワーを使えると喜んでいたが、シャワー室を使うには事前に空き時間を調べて予約して、鍵を借りなければならない。その鍵を戻し忘れたことで、シャワー室の貸出管理から注意を受けた。父が前夜も腹痛を訴えていたので、この日は母のシャワーを付き添い、母とお喋りして面会を2時間で切り上げた。

 1月24日、自治会新旧役員の顔合わせが行われる。
 一応、これまでも自治会員の仕事はしていた。毎月の自治会役員会、町会役員会の出席。駐車場管理は、1人は廃車にするため、残り期間の前金の返還。これは苦手な会計係を通すのでストレスだった。もう1件は、普通車を軽自動車に替えたので、その変更手続きだった。軽自動車専用駐車場に替えると、駐車料金が若干安くなる。またしても苦手な会計係に出向いた。
 この席で、私は役員の鬱憤も溜まっていたので、「隣の団地は数年前に自治会廃止して、町会一本にしました。この団地もそろそろ自治会は閉鎖しても良いのでは?」と言った。
 そしたらまあ、蜂の巣を突いたかのような大騒ぎ。特に来年度の会長候補は創成期メンバーの中でも一番の実力者。「そんなことは有り得ない!」と怒られた。現会長から顔合わせ終了後「どうせ数年も経てば、自然消滅するから放っておけばいいんだよ」と達観した慰め?をくれた。
 以前、久々に高校時代の仲良し5人組が集まってのランチの席で、町会費の話になった。その時、皆のところより、ウチの団地の料金が倍だったことに驚いたのだ。友人たちも「そんなに高いの?」と驚いた。自治会費と町会費を両方支払うので、かなり出費は痛かった。だからせめて、自治会だけでも消えれば負担は軽減される。それを話すいい機会だと思ったのだ。
 来期会長候補の猛反対で、総会の議題にさえ取り上げてもらえなかったけど。

 1月25日。都内の大学病院を母は退院。荷物は院内コンビニから宅急便で送ることにした。帰りに母のリクエストで、地元の駅ビルでトンカツ定食を食べる。まあ。あれだけ出血したし、手術ストレスもあるから食べたいもの食べさせてあげたくもなる。内視鏡手術リスクは低いと聞いていたが、やはり心配だった。だからこうして、母と外食できたのも感慨深かった。

 1月28日。地元の大学病院で、父の糖看護。父の足の浮腫みが気になったようだ。看護師から足の手入れがてら、「塩分と水分をもっと控えてください。今よりも体重が3キロ増えたら、直ちに病院へ来ること」と、言われた。
 1月29日、天敵先生クリニック、母の定期受診。母の状態は良好だった。先生も母に「手術、よく頑張りましたね」と、ねぎらった。
 いや、手術は頑張ったけどその後がね。先生には、言わなかったけど。両親は共に病気ストレスの発散で、父はアイズ、羊羹、煎餅。母はアイスと饅頭、コンビニホットスナックを、2人共、私の見ていない間に買いに行って食べていた。怒っても逆に2人して攻撃してくる。2人共、こういうときは共闘する。そういえば同じタイミングで、膀胱がんと大腸ポリープを発病したね。そんなところまで合わせなくてもいいのに。

 2月6日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。思えば先生から指導入院を言い渡されなかったら、母の膀胱ガンが見つかるのが、もっと遅れていたのだろうな。先生には感謝しかない。母が暴飲暴食しているとは、言えなかったけど。

 2月10日、母に血尿が出る。すぐに都内の大学病院泌尿器科に電話すると、直ちに来てくださいとのこと。紙パンツの上から尿取りパッドを敷き、スペアの紙パンツを何枚か鞄に入れた。
 診察室隣の処置室のベッドは空けておくとのことだった。だが着いた時に、立て続けに救急車搬送の急患が2人入って、空きベッドがなくなった。まー仕方がない、救急患者ならば。私は母を泌尿器科の待合席椅子に寝かせた。時間外だったので、外来患者はいない。
 救急患者を入院病棟送りにして、母の診察。膀胱に血の塊がたくさん詰まっていたとかで、スペアに多めに持ってきた紙パンツも使い果たした。看護師から購買で買ってくるように言われる。
 そして母も緊急入院が決まった。なんとなくそうなるかもと、最低限の入院グッズは持っていた。診察室で膀胱洗浄一回。
 病棟に移ってから、主治医ではない先生が膀胱洗浄。そして主治医がまた膀胱洗浄を行った。
 入院計画書には、病名『膀胱癌(経尿道的手術後)、膀胱タンポナーデ』と記載されている。他に考え得る病名は『尿路感染症』。
 症状は血尿、排尿困難、下腹部痛。治療計画は、尿道カテーテル留置、止血剤投与、保存的に止血が得られない場合は手術と記載されている。
 退院予定日はこのとき未定と印字されている。

 翌日2月11日、改めて入院グッズ一式を持って、都内の大学病院へ赴く。この日も母は主治医の膀胱洗浄を受けていた。
 2月13日、都内の大学病院へ母の面会。自動膀胱洗浄器具が取り外される。そして血液サラサラのバイアスピリン服用再開。入院直後から、バイアスピリン使用は中止されていた。母はこの日、微熱を出していた。
 2月15日、都内の大学病院泌尿器病棟へ母よ面会。大部屋患者からインフルエンザ患者が出たということで、ベッドが入口側に移される。
 医師との面談で、退院予定日が決められる。
 2月16日、母から電話があり、おむつとアルコール綿を届けてほしいという。それで連日の都内の大学病院面会へ赴くことになった。最低限の要件なので、1時間程度母の相手をして帰宅する。病院からも、インフルエンザ警報で、必要のない面会と、面会しても短時間でというお達しが出ていた。
 2月18日、都内の大学病院へ母の面会。ちょうど病棟についたとき、別の病室に入ろうとする母を見て驚き、引き止めた。だが前日に病室が移動となったらしい。そして退院が延長されたと聞いて驚愕。病室移動のことを、私に電話かけに行こうとしたら立ち眩みがして、連絡が出来なかったという。
 主治医の診察で、血尿が再び出ていたことが分かった。それで主治医が何度も膀胱洗浄をしてくれたらしい。看護師も夜通し世話をしていたとか。本当に申し訳ない。着替えも使い果たして、病室からズボンを借りていた。
 病室を移動したのは、その部屋で次々とインフルエンザ患者が発症したからだという。
 私は退院目前ということで、最低限の着替えしか持ってきていなかった。慌てて購買に走り、パジャマと下着を2つずつ、おむつパンツ、ティッシュを届けた。面会時間は限られている。私は最低限のことをして、病棟を去る。
 母が以前のように、名残惜しむように見送る。今回はエレベーター前まで見送りにきた。さぞ不安だったんだろう。
 それでも私は立ち去らねばならなかった。側についていて、愚痴不安やを沢山聞いてあげたかったけど、インフルエンザ警報のせいで、病室に長くはいられなかった。いや、病室に入れてくれただけでも、特別待遇だった。他の面会人は、よほど状態が悪くなければ、談話室でのみの面会しか許されていなかったからだ。

 退院前祝いで寿司を取ろうという父の提案も、パーになった。私は有り合わせで夕飯を作り、父と食べた。

 2月20日、都内の大学病院、母の面会へ。この日は談話室で2時間お喋りをした。母は話すことに飢えていた。
 帰路に焼き鳥を買って帰る。父から食べたいと、頼まれたのだ。
 父は私が都内へ出ることをいいことに、大きな本屋で本を買ってくるように依頼することも多い。面白そうだと地元の本屋で買ったものが、すでに連載途中のもので、既刊が地元だと手に入らないから買ってきてくれというのだ。まあ、気持ちはよくわかる。地元の本屋もそれなりに大きいが、何故か1巻が見つからないということを、私もよく経験しているのだ。そうなると、近隣最大の駅(父と正月試飲にいく駅)周辺の本屋で探す。マイナーすぎて、たまに見つからないときは、新宿まで出向いて購入した。

 時間が前後するが、2月17日に精神科クリニックを受診した。その際に、兄のアルコール依存症のことを主治医に話したら、たまたま本院である病院で、前日にアルコール依存患者の最期を立ち会ったと言う。もう、吐き捨てる勢いだった。
「アルコール性肝硬変の最期はいつもながら酷いものだ。食道破裂で、天井まで血が噴き出るんだぞ。掃除は大変だし」と、その後もここでは書けない罵詈雑言の嵐。
 あのー、先生、お忘れみたいでしょうけど、私はクリニックの患者であって、カウンセラーじゃないんですよ? 
 まあ、長年の付き合いなので、話しやすいのだろう。たまにうっぷん晴らしに使われる。どっちが患者なのか。ともかく、処方箋は貰えたので助かった。

 2月22日、地元の大学病院腎臓内科で、痛い注射を父が受けた後に受診。検査の結果、腎臓に胆石はないが、泥のようなものが溜まっているという。アルブミンが低下しているので、年末辺りから透析を始める必要性を、主治医から告げられた。よいよ、透析が迫ってきたか。
「次週の診察で、足の浮腫みが酷ければ、利尿剤を使います。ただ、利尿剤を使うと、腎臓が一気に悪化する場合があるので、それは覚悟しておいてください」
 主治医は言った。爆弾投下が多すぎて、気が沈んだ。
 夜、母から電話があって、明日の退院が決まったとのこと。突然すぎて声も出なかったが、母のメンタルのためには最良の選択なのだろう。

 2月23日、都内の大学病院へ赴く。帰りは電車を使い、いつもならバスに乗り継ぐが、母の体力が相当消耗していたので、電車は使ったが、最寄り駅からはタクシーで帰宅した。
 2月25日、都内の大学病院循環器内科、母の受診。帰りに母が「東京駅で、前に行ったカフェのクリームソーダが飲みたい」という。だがあの場所までは若干遠い。電車乗り場とは真逆の場所を、さらに歩かなくてはならない。代わりに、確実にクリームソーダがある、地元近隣最大のデパートレストラン街へ連れて行くからと、約束した。
 途中下車して、駅の目の間のデパートのレストランへ母を連れて行く。母はまずクリームソーダを食前に持ってくるよう注文し、天ざる蕎麦定食を頼む。私はランチ御膳にした。
 その後、よく当たると評判の宝くじ売り場に行きたいと言い出した。若干歩くが、行きたいというから連れて行った。
 母の髪が随分伸びていたので、格安カット店に連れていき、髪を切ってもらう。そこでで母が体力を使い果たしたので、地元まで電車に乗り、駅前からはタクシーで帰宅した。財布が痛い。
 だが母は満足したようだった。タクシーもリッチ気分に浸れて好きなのだ。確かに楽だが、財布が軽さを増す。 

 2月29日、確定申告を提出。書類の書き方はマスターしているから、書き上げる事自体は問題ない。苦痛なのは、膨大な数の両親の病院領収書を分けて、パソコンでリストを作ることだ。交通費もちゃんと請求する。ただ付き添いは範囲外なんだよね。
 うるう年だからオリンピックイヤーか。せめてオリンピックテレビ観戦を、今年はゆっくり楽しみたいものだ。
 
 3月2日、地元の大学病院内分泌内科、父の受診。腎臓内科からの、インスリン量を減らす伝言を伝える。そこで夜のインスリン注射は中止となり、朝の8単位だけになった。
 診察室に呼ばれたとき、私は立ち眩みを起こした。看護師に心配され、内科処置室のベッドで暫く休むよう言われたが、平気ですと断って、父と診察室に入った。
 父は診察終了後、院内食堂のチャーシュー麺を久しぶりに食べたいと言い出した。塩分には気をつけるように言われていたが、透析が始まれば食欲も失せる場合がある。リスクより、父の『いま』を選んで、チャーシュー麺を食べに行った。
 実は翌日の自分の耳鼻科受診の際にも、立ち眩みを起こしていた。もともと強健には程遠い体だ。だがそれも、年度末に自治会役員が終われば、負担は減る。もう少しの辛抱だった。

 3月4日、天敵先生クリニックの母の定期受診。母の二度目の泌尿器科入院のことを話す。貧血を調べるからと採血され、結果は後日。それと疲れやすいと訴えても、母に栄養剤を飲ませないよう指示された。

 3月6日、待ちに待った自治会総会が行われた。これで実質的に、自治会役員からは解放される。あとは町会総会が過ぎれば、無事に役員から解放だ。私は仕事の発表を終えて、その後の懇親会で仲の良い小母さん達とのグループに混じって、ビール片手にお弁当を食べた。本当に心から安堵した。グループの小母さん達とは班が違っていたが、我が家の事情を把握していたので、労ってくれた。 

 3月7日、天敵先生クリニックから午後に電話があり、前回の母の貧血検査結果を説明される。結果は貧血で、鉄剤が処方された。この時は予約なしの合間での報告で、検査報告なので、母の受診は必要なかった。

 自治会役員は終わったものの、前年度会長夫人(書類上は3月中は前年度役員となっている)から呼び出されて、来年度の環境係の駐車場申込みの案内レクチャーを命じられる。そんなの私だって受けたことはない。今回だって総会後に渡された資料を見ながら独自に行った。そもそも、駐車場抽選は5月か6月に行われる。やっと総会が終わって実質的には解放されたのに命令されて、嫌な気分だった。

 3月14日、地元の大学病院腎臓内科を、父が受診。父はネプス注射を打たれる。

 3月15日、都内の大学病院膠原病内科を母が受診。検査結果、貧血なし、血尿なし、腫瘍マーカー異常なしだった。
 3月18日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。この前日に、私はストーブ用の灯油タンクを持ち上げた際にギックリ腰を患った。そして母も何かの拍子で足を捻挫した。母を支えて来院。帰りは猛烈に辛くて、電車を降りてタクシーで帰宅した。

 3月23日、母がベッドから転落。天敵先生クリニックには整形外科があるが、その日の診察は終わっていた。ダメ元で電話をかけると、天敵先生が特別に診てくれた。とりあえず頭は大丈夫そうだが、詳しくは翌日に整形外科で診てもらってと言われた。
 3月24日、天敵先生クリニック内の整形外科を受診。レントゲンの結果、左胸肋骨2本骨折、1本にヒビ。肋骨の場合はコルセットで固定するしかないが、きつく締められたコルセットは母には苦しいらしかった。

 母のベッド転落は、ベッドに手すりがないからだった。入院生活で、ベッド柵を掴んて立ち上がる習慣が、出来ていたらしい。ベッドから転げ落ちたのも、そのせいだ。
 実は退院に間に合うよう、ベッドの手摺をネット通販で購入した。だがトラブルが発生して到着が遅れ、電話催促してようやく、届いたのが3月31日だった。ベッドを重しとして手摺を固定させるタイプで、兄と2人でベッドを持ち上げた際に、治りかけのギックリ腰を再発した。

 2015年度は、こうしてバタバタして終わった。
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