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第六章 終わりの足音
月下美人
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1.最悪の年、幕を開ける
2016年度から、我が家は一気に坂道を転がり落ちていく。スケジュール帳の空白欄も次第に多くなった。どんどん気力が失せていたのだろう。これまでは日記代わりに楽しかったこと、悔しかったことなどを書き殴っていた。
母が亡くなってから、スケジュール帳は買っても、書き込むことは少なくなった。書く気力がなかったとも言える。
この少し前から、兄はおかしくなっていた。4月2日、私は兄に殴られた。優しくて今まで手を上げるフリはしていても、本気で手を出してこなかった兄に、である。
このときの原因は、お漏らしを放置していたのを注意したからだった。そもそもこれまで、お漏らしなんて、したことがなかった。
4月6日、都内大学病院泌尿器科を母が受診。泌尿器科は午前診察のため、朝早く家を出なくてはならない。
待合時間中に、母の様子がおかしくなった。まさかと思って、持ち歩いている血糖測定器で測ると、血糖値が68だった。普段高血糖の人は、90でも低血糖処置をする必要がある。下がりすぎた。慌ててブドウ糖と、ジュースを買ってきて飲ませる。少し経ってから測ると通常値に戻り、母も普通に戻った。
帰りにお肉が食べたいという母。駅構内で買う牛タン弁当はお気に入りだが、あの店は食べる場所が狭いしなぁ。スマホ検索すると、駅の外だが近くに別のチェーン店の牛タン店があった。
母は喜んで完食した。麦とろご飯、懐かしい。昔はよく、母が山芋を買ってきて、卵と自家製麺つゆを少しずつ加えながら、作っていた。麦飯も好きだった。だが兄だけは麦飯が嫌いで、蕎麦を茹でて食べていた。
4月12日、日曜日の夕方、一本の電話がかかってきた。知らない人からだったが、「お父さんが飼い犬に噛まれました、すぐに広場へ来てください!」とのことだった。
犬の散歩は、最近ではほぼ私の役目だった。父は調子の良いときに、たまに散歩に出かけた。駆けつけると、広場のベンチに人だかりが出来ていて、父の右手をタオルで止血してくれる人がいた。足元には血溜まりが出来ている。
3代目のリードの金具部分が壊れて、慌てて首輪を掴んだら噛みつかれたとのことだった。犬は鎖から外れていたままだが、まずいことをした自覚があるのか、父の側にいる。私はリードに犬を繋いだ。私用と父用の散歩バッグは違う。
父は散歩バッグに、大きめなシャベルと、シャベルでよそったフンを入れるためのトイレで流せる市販のペットの用足し袋、犬用お菓子袋、なにかのときの護身用と雨に備えて小型の折りたたみ傘を入れていた。
私は 重ねたティッシュにビニール袋で直にフンを掴んでごみ処理するので、使い古した穴の空いてないビニール袋にテッシュを数枚重ねた自家製のフン用袋を持ち歩いている。私はフンを家庭ゴミとして処理している。リードは通常用とロングリード、それとボールを入れている。ロングリードは父に使わせない。何度か他の犬とトラブルを起こしたことがあるからだ。
私はスマホで救急車を呼ぶ。血液サラサラの薬のせいで出血が止まらないのだ。そして親切な方々に、「犬を家に戻して、保険証と財布を取ってくるので、見守っていてくれませんか?」とお願いして、ダッシュで犬を自宅に連れ帰り、父用のポーチをカバンに入れる。家族皆が通院しているので、お薬手帳と保険証は、それぞれポーチに分けているのだ。
私が広場に戻ってまもなく、救急車が到着した。救急隊員に、「本来ならこのくらいの怪我で救急車を呼ぶのは躊躇いがありましたが、持病の薬を飲んでいるので、出血が止まらなくて」と説明した。父の足元の血溜まりに、「それで正解でしたよ」と言われ、血まみれのタオルを広げる。傷口には私も絶句した。右手の親指と人さし指の間が、少しだが噛みちぎられていたのだ。
救急隊員が新たな止血の布でぐるぐる巻きにして、父に肩を貸して救急車へ運んだ。
救急車の中で、かかりつけ医はあるか尋ねられる。私は病院名を告げ、お薬手帳を見せた。すぐにかかりつけの病院から許可がおり、救急車で運ばれた。私は救急車がこれが初めてではない。そして手持ちの薬を口に放り込む。本当は水が必要だが、私は1錠ぐらいなら水なしでも飲み込める。だが服薬がおそかった。横すわりの座席、外がカーテンの隙間からしか見えないため酔った。そりゃあもう、病院到着してフラフラになりながらステップを下りた。
形成外科がいないので、宿直の整形外科が噛みちぎられた両サイドを縫い、噛みちぎらた真ん中は、自然治癒力に任せるしかないと言われた。そして緑内障持ちだが、犬に噛まれたので破傷風の注射をされた。
「明日、形成外科を改めて受診してください。ああ、ちょうど明日は腎臓内科の受診日ですね」
と、コンピューターを見ながら宿直医は言った。
4月18日、地元の大学病院で父の形成外科の診察手続きをする。
まず採血と採尿のあと、予約外来の腎臓内科で、昨日のことを説明する。そしてネプス注射。看護師から透析の説明を受ける。
次に形成外科に行き、「当分は毎日通ってください」と言われながら、父の手の消毒をする。それがとてもつもなく染みるらしく、父は「いてぇ!」と、叫んでいた。まあ何もしなくても痛い、痛いって言っていたからね。痛み止めも、腎臓内科主治医から、なるべく飲まないよう念を押されたし。
朝早く来たので、診察後に父が「腹減った」という。会計前に食堂でモーニングセッドを食べる。父はクリームソーダを追加した。その間にも、「サドだ。俺が痛いと言っても、むしろ反応を楽しんでいた」と愚痴を言う。私には真摯に消毒剤してくれているように見えたけど?
4月19日、地元の大学病院形成外科受診。父は「いてえ!」と叫びながら消毒される。
4月20日、母も同行して、地元の大学病院形成外科へ。父の診察治療後、両親は食堂で揃ってクリームソーダを飲んだ。2人ともクリームソーダがマイブームらしい。仲が良いのはいいが、いま内分泌内科関連の人に見られたら、怒られるの私なんだけどね。でも地元で気軽にクリームソーダが飲める場所が、近隣だと当時はここの食堂ぐらいしかなかった。
母を同行させたのは、この後、都内の大学病院内分泌内科へ行くためだった。父をタクシーで先に帰宅させ、私たちは都内の大学病院へ向かう。
異変があったわけではなく、前回の処方の薬が薬が大幅に足りなかったのだ。それで前日に電話をかけたら、水曜日は主治医がいるというので、向かったわけである。
だが病院に着くと主治医は帰った後で、別の糖尿病医が、検査チップとインスリン、飲み薬を処方してくれた。
4月21日、地元の大学病院形成外科で父の消毒。痛みに少しは慣れたらしい。そして腎臓のために、弱めの抗生物質を処方してくれた。それが逆に拙かったのかも。
この日の夕方、父と喧嘩した。手が治っていないのに、私が行く前に、父が犬の散歩へ行ったのだ。本当に犬馬鹿父である。
4月22日、地元の大学病院形成外科、父の受診。父の手の状態が順調なので、毎日の通院消毒はこれで終了。これからは数日に一度に切り替わる。従って消毒は、私がやるようにと、やり方を教えられ、塗り薬が処方去れた。
それ以降、私は父の指の消毒をした。右手が不自由なので、母がシャワーで父の全身を洗った。母からは「よくそんなことが出来るわね」と、父の手の消毒をしているとき、顔を背ける。そりゃあ、最初はエグいと思ったものの、通院付き添いで見慣れたから。消毒を終えると大判絆創膏を張り、包帯を巻いた。
4月25日、母には1人で天敵先生クリニックへ行ってもらい、父を地元の大学病院形成外科へ連れて行く。
4月28日、都内の大学病院循環器内科を母が受診。帰りに地元に最近できた中華チェーン店で、母は海鮮あんかけ焼きそばを食べる。
4月30日、地元の大学病院形成外科、父の受診。父が以前、形成外科医をサドだと愚痴っていたが、あながち外してなかったかも。
「皮膚は固まりましたが、この黒い跡はいけませんね」
形成外科医は、せっかくできたカサブタをめくり出したのだ。父が悶絶する。そりゃ、痛いだろう。同情する。処方薬は細菌予防クリームに変更になった。
父が治療後、潤んだ目で「チャーシュー麺を食べる」というので、同意した。
5月2日、地元の大学病院形成外科受診。今度は違う箇所のかさぶたを取る。今回は血がドバッと噴き出す。父は「いてえ!」と悶絶する。まあ、あんな出血量なら痛いわな。
5月6日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。昼は天ざる蕎麦、帰りの処方箋薬局後に「甘いもの食べたい」というので、カフェでケーキを食べる。
5月9日、地元の大学病院形成外科で治療。食堂で父はクリームソーダ飲んだが、バスの乗り継ぎ駅で「蕎麦が、食べたい」と言い出し、カレー蕎麦を父は食べた。父にしては珍しいものを頼むなぁと思いつつ、私はなめこ蕎麦を食べた。
5月16日、地元の大学病院腎臓内科で父はネプス注射を打った後、受診。その後は形成外科で、消毒される。またカサブタの作り直しだから、消毒も染みるよね。
5月17日、都内の大学病院膠原病内科、母の受診。これまでお世話になってきた先生が異動したので、新たな先生が主治医となった。どんな先生か緊張したが、優しい物腰の先生で安堵した。
5月18日、地元の大学病院腎臓内科を予約外受診。前回の受診で、3キロ増えたら病院に来るよう言われていたのだ。父の体重は腎臓悪化により、浮腫みで徐々に増えており、これまでで10キロ増えていた。カリウムと塩分を減らすように指導される。
だが父は、食事と酒と読書を奪われるなら生きていたくないと言う。先生の前では言わないけど。この日もバスの乗り換えを利用して、天ざる蕎麦を食べていた。
…本当に、今でも思う。楽しみもなく生きながらえるのがいいのか、それとも自分の好きなことをして命を縮めるか。正解はない。どちらも正しくて、どちらも間違えだ。父の最期の日の状況を聞かされて、特に思う。少なくとも、このとき父の好きなようにしてて良かった。食べたいものを食べられるときに食べさせて良かった。それが確かに病を早めた結果になった。だが我慢して体を長らえてさせても、恐らく心は弱って潰れていたのではないか。人間は強くない。何か芯となるものが、生きるうえでの喜びが1つもなければ、先に死ぬのは心だ。
午後には獣医に予約を入れて、3代目愛犬を竹槍で狂犬病予防注射をしてもらった。
5月25日、地元の大学病院内分泌内科、父が受診。この新しい先生とは、相性が悪かった。
5月30日、午前中に天敵先生クリニック、母が受診。いつもの内科定期検診に加えて、整形外科を加える。肋骨骨折はほぼ問題なくなったが、ついでに診てもらっていた膝の痛みの受診である。
午後は地元の大学病院腎臓内科を父が受診。
6月1日、母が老眼鏡を作り直したいと言うので、駅へ行く。以前、老眼鏡を作った店は潰れた。老眼鏡のフレームをいくつか見て、ガラス細工が花模様のよう埋め込まれたお洒落なフレームの眼鏡に決める。もっと安いフレームでは駄目なのか聞くと「毎日使うものだから、心華やぐものがいい」と言う。店員さんも「気に入ったものを使うのが一番ですし、とてもよくお似合いです」と同意する。
そりゃあ、安いものに比べれば素敵なのは認めるが、お値段も目を剥くぐらい素敵なんだよね。まあアクセサリー兼用と考えれば、こんなものか。母が可愛いものを自ら選ぶのも、大変珍しいことだし。
6月2日、地元の大学病院で父の糖看護。爪を切ってもらい、足のチェック。看護師は浮腫みに顔をしかめた。
6月9日、母の老眼鏡が出来上がる。あの金額なんだから、気に入ってくれて良かった。母は外出先でも必要になるからと、眼鏡につけるお洒落な鎖も買って、早速首から下げた。老眼鏡、買い物のときに意外と外で必要になるよね。老眼鏡でよくみえるようになったなら、値段見ずにカートに食品を入れるのも、少しは減るかな?
6月10日、地元の大学病院泌尿器科を父が受診。帰路のバスの乗換えの際、父が腹痛で動けなくなる。仕方がないと、タクシーで帰宅。帰宅後に正露丸を飲んだら治ったようだ。
6月13日、母の首にブツブツが出来る。本人は平気そうなので、様子を見る。
6月13日、14日、父が食後に腹痛を起こすと記載あり。
6月20日、地元の大学病院腎臓内科を父が受診。いつもの痛い注射と診察を受ける。
6月22日、地元の大学病院内分泌内科、父の受診。病院に着いた途端、腹痛を訴えて動けなくなり、院内専用車椅子を借りる。心電図と心エコーを撮る。
6月24日、都内の大学病院内分泌内科を、母が受診。ヘモグロビンA1cが7から9へ上昇。甘い物を控え、運動(散歩)するように医師から言われる。地元の駅ビルでお寿司を食べるが、お寿司も酢飯に砂糖がかなり使われているんだよね。
以前はよく、握り寿司をお米五合炊いて作っていた。砂糖をこんなに酢に溶かすのかと、最初は驚いたものだ。手作り寿司は沢山作っても、一食で家族は全て平らげた。
6月25日、夜。愛犬を連れて近くの川へ行く。今年もほたるが2匹見れた。
6月30日、地元の大学病院腎臓内科の検査予約による頸動脈エコー。その帰り、バスの乗換えでまたしても父が腹痛で動けなくなり、タクシーで帰宅。腹痛は翌日の夕方にも起こしている。
7月日、天敵先生クリニックで、母は内科と整形外科受診。
7月8日、地元の大学病院内分泌内科、消化器内科(腹痛相談)、脳神経内科を父が受診。脳神経内科と消化器内科でCT検査。消化器内科では後日の胃カメラ予約。
脳神経内科での検査結果は、脳梗塞に異常は見られない。しかし頸動脈プラークで6割が狭窄、4割しか流れていないと判明した。
7月12日、地元の大学病院で父の胃カメラ検査。ここでは麻酔を使わないのだが、父は「別に麻酔なくても平気だぞ?」と言う。私は胃カメラが怖いから、麻酔のあるクリニックをわざわざ探したんだけどね。麻酔、効かなかったけど。
前回指摘された、大腸ポリープ内視鏡除去手術の日程も相談する。
7月15日、都内の大学病院で事前に予約していた、母の心臓エコー検査。
7月19日、都内の大学病院膠原病内科と泌尿器科を母が受診。泌尿器科は半年に一度、膀胱内視鏡検査を行なうことになっていた。その前に採血、採尿、心電図。膀胱内視鏡検査で異常はなし。院内処方で抗生物質が処方され、すぐに飲むよう指示されていたので母に飲ませる。母は「検査とはいえ、何度も膀胱検査するには恥ずかしくて嫌だね。仕方ないけど」と言っていた。
もしもこの病院にずっと通うことが出来たなら、後年、母はもっと楽に逝けただろうか?
7月21日、都内の大学病院循環器内科を母、受診。地元に帰ってから期日前投票を行い、寿司屋へ。ランチタイムはお得に食べることが出来るメニューがあるが、母は値段の高いちらし寿司を頼む。私はリーズナブルランチにした。マグロがトロか赤身の差で、安いランチも美味しいのだけどな。
7月25日、地元の大学病院で父の大腸ポリープ内視鏡切除。
同時に腎臓内科で、内視鏡検査室から、車椅子で下痢腹抱えて移動し、痛い注射を打たれる。父は数日間の食材制限が辛かっただろう。そして大腸ポリープ切除後も、病院食のようなもので数日間過ごさなくてはならない。その上で痛い注射もあって、散々な1日だったに違いない。
7月29日、天敵先生クリニックに、母の内科定期診察。
医者に言われた通り、散歩というほどではないが、率先して買い物には一緒に連れて行った。週に3度はコンビニを含めて、出かける。コンビニまでの距離は大した事ないが、スーパーへは往復時間とスーパー内で歩く時間をトータルすれば1時間かかる。まあまあの散歩だと思う。好きな食材を買い込まなければ。
8月4日、都内の大学病院と提携する心臓専門検査クリニックへ、母を連れて行く。ここはいつも使う駅と違い、それなりに歩く。病院からはMRI依頼だったが、クリニックの判断で造影剤CTに切り替えられる。検査結果は、母の冠動脈3本のうち、1本が90%詰まっているとのことだった。
2.父の透析
8月15日、地元の大学病院腎臓内科を、父が受診。夕方に病院から電話があり、入院手術を報せるものだった。父の腎臓はほぼ停止していて、人工透析のための準備段階に入っていた。
8月18日、地元の大学病院で、父の糖看護によるフットケア。「透析が始まれば、浮腫みが取れますね」と言われる。父の足は浮腫みでパンパンになっていた。
8月25日、都内の大学病院循環器内科、母の受診。外部クリニックの検査結果を持っていく。心臓カテーテル手術が検討された。
8月29日、天敵先生クリニック。母の定期診察。心臓の状態を伝える。
9月6日、都内の大学病院膠原病内科、母の受診。母の腎機能が4割しか動いていないとのこと。さらに悪化したら、腎臓内科受診も検討。こちらも腎臓か。母の顕微鏡的多発血管炎は、腎臓を攻撃する。こちらも要注意になってきた。
9月9日、父の介護用ベッドが届く。2つの柵が付いていて、片側に上下つけるか、両側に付けるか選択はその時の好みで。父が頭側の両脇にしてくれと言うので、その通りに取り付けた。
これまで父は蒲団で寝起きしていた。しかし透析が始まれば、ベッドのが立ち上がりが楽になると病院から言われたので、値段が比較的リーズナブルなノーブランドの介護用ベッドを購入した。
父の言動は確実に悪くなっていた。特にトイレの失敗が増えた。
それでも相変わらず、暇さえあれば読書をしていた。ベッドを入れる際に苦労したのが、前日に父の部屋中に散らばる本の片付だった。
いくつもの読みかけを片付けられて憤慨していたが、いざベッドが届くと、「こりゃ便利だ」と喜んでいた。そしてベッド脇の空にした上段押し入れは、高さ的にもちょうどいい、父の簡易本棚となった。
9月12日、地元の大学病院腎臓内科、父の受診。人工透析のため、利き腕とは逆の腕にシャントを作らねばならない。シャントとは、人工透析をするために動脈と静脈を繋げたものだ。血管が細いと人工血管を埋め込むが、父の血管は太いので大丈夫そうだ。
9月13日、地元の大学病院に父、入院。当初はシャントを作るための入院で、説明は移植外科から聞いていたが、あまりに浮腫が酷いと言うことで、腎臓内科の主治医にバトンタッチ。
尿毒症が出ていて、浮腫が酷く、腎臓機能はほぼゼロ。急遽、首カテーテル透析を行なうことになった。
9月15日、地元の大学病院、父の面会。病室が変わっていた理由は、父が状態悪いにも関わらず、勝手にトイレに行くので、看護室前の病室へ監視のため移されたのだった。そもそも腎臓機能停止で、よく尿が出たものだ。大だったかもしれないが。
9月16日、市役所に障害者申請書と、特定疾病書類を取りに行く。
9月17日、地元の大学病院、父の面会。首カテーテル透析。
翌日は私が過労のため動けず、着替えを兄に父の病院まで届けてもらう。
9月20日、地元の大学病院、父の面会。
9月22日、地元の大学病院、父の面会。
9月23日、地元の大学病院、父の面会。
面会の後に 市役所に障害者申請書を出しにいくが、保健所に行く必要があると言われたので、走って保健所に行く。閉館時間5分前に到着してギリギリまにあったが、汗と息切れがヒドかった。
9月26日、地元の大学病院。父の状態説明を受ける。首カテーテル透析でようやく浮腫みが治まったので、移植外科でシャントを作る手術が行われた。トータル4時間病院に拘束されて疲れた。
9月28日、地元の大学病院腎臓内科病棟へ父の面会。着替えの他に、父から退屈だから本を持ってきてくれと言われて、指定された作家の文庫5冊を持っていく。
9月29日、市役所に障害者手帳の申込み。前回、写真が必要と言われて困ったのだが、デジカメで撮影したもので良いと言われる。
いや、それも困ったのよ。病室で撮影するのは良い。パジャマも妥協する。しかし床屋に連れてく余裕がなく、おまけに眼鏡は踏んづけて片側が割れて、片方しかレンズの入っていないひどい状態だった。だが3ヶ月以内の撮影という規則から、仕方なくデジカメで撮影した、何処の哀れな老人かと思われる、ひどい姿の父の写真を持っていく。
9月30日、都内の大学病院内分泌内科へ母を連れていく。帰り時間は心配しなくてもいいので、地元駅ビルで、母の希望により寿司を食べる。ちなみに兄には夕食代を渡しておいた。
10月1日、地元の大学病院へ、父の面会。前回、このシリーズの別の文庫が欲しかったと言われても分からなかったので、今回は着替えの他に、10冊持ち込んだ。
10月3日、地元の大学病院へ、父の面会。
10月6日、地元の大学病院へ、父の面会。
さすがにこのところ緊張の連続で疲れたと、親友にメールで愚痴をこぼすと、「なら癒しに行こう!」と返信あり。メールで話し合って、
10月9日に江ノ島水族館へ行った。久々の海は気持ちがいい。親友と何年かぶりかの水族館を巡って癒された。
10月10日、地元の大学病院へ、父の面会。本を持ち込み、読み終えた本は汚れものと共に持ち帰る。
10月12日、地元の大学病院へ、父の面会。相変わらずの本の交換と、新たな着替えを戸棚に入れて、汚れ物と読み終えた本を持ち帰る。本の持ち出し持ち帰りは地味に負担がかかるが、父はスポーツ観戦しかテレビカードを使わないため、節約にはなっている。ただ新刊調べてくれと言われて、出版されていると分かると、買ってこいと言われる。まあ退院帰宅後、父には本代を請求したけどね。病院来る途中の本屋でメジャーな作家の文庫は買えた。しかし父の一番好きな作家の文庫は、駅ビルの本屋へ行かねばならなかった。
ちなみに新聞は院内コンビニまで買いに行くか、巡回コンビニワゴンから購入していた。
10月13日、都内の大学病院循環器内科を、母が受診。こちらもカテーテル手術が控えていた。
その説明である。付き添いで聞いててゾッとする。そりゃ、常に最悪の事態は想定せねばならないけど、冊子の内容がエグい。
帰りにあんかけ焼きそばが食べたいという母。都内だと私が電車酔いするので、地元の駅ビルで食べる。母としては、行きつけのリーズナブルランチのあんかけ焼きそばが食べたかったのだろうが、とてもじゃないが、私の胃はこのところのストレスで限界を迎えている。
10月14日、地元の大学病院へ、父の面会。看護師から、下痢用のおむつを買いに購買へ行かされる。家族って、本当に下僕要員なんだよね。まだこの病院は、入院中は検査に家族を使わないだけ優しい?けど。
10月17日、市役所で父の障害者手帳が交付される。機会があったら、この手帳の写真をどうにかしたいものだ。人に見せるのが恥ずかしい。
10月18日、都内の大学病院に、母が入院。検査はないが、問診がある。シャワー室を借りて、母を洗う手伝いをする。洗濯物は持ち帰った。
入院計画書の病名は『労作性狭心症』。症状は胸痛。手術内容『冠動脈造影検査後、待機的経皮的冠動脈インターベンション』と記載されている。手術名、こんな長がったのね。単なるカテーテル手術としか思ってなかったわ。
10月19日、都内の大学病院で、母のカテーテル手術が行われる。この日は朝のカテーテル手術に合わせて、家を6時半に出る。父が入院しているタイミングで、良かったかもしれない。
術後の説明を受ける。当初はドリル状のモノで血管の詰まりを除去、ステントという金具をつける予定だった。しかし目当ての場所は血管が交錯しており、ステントは困難。バルーン手術に切り替えたという。血管内に文字通り空気を吹き込んだのだ。この手法だと、何年か後に再び狭窄の可能性もあるが、ステントで他の血管を傷つけられるリスクを考えれば仕方のないことだった。
10月20日、都内の大学病院を母が退院。9時までに病院に来てくださいと言われていたので、この日も早くから家を出る必要があった。
10月21日、地元の大学病院へ、父の面会と着替えの交換の他に、医師の説明を聞く。腎臓内科病棟医師から、栄養指導の打ち合わせ。父の下痢は続いているようだ。
10月23日、地元の大学病院へ、父の面会。着替えと本の交換。母と違って父は本を渡すとそれに夢中で、自宅の時のように私とは無駄話をしない。用件をすませば、すぐに帰宅できた。医者や看護師にとっ捕まらない限りは。
10月26日、都内の大学病院へ母を予約受診に連れていく。泌尿器科で膀胱内視鏡検査。その後、膠原病内科受診。その途中でスマホが鳴り、地元の病院から、父を明日退院させるとの連絡があった。まだ下痢が続いている話も加えられた。
10月26日、父の退院。9時までに病棟へ呼び出されるが、透析クリニックへの紹介状の用意がまだできていないとかで、待たされた。タクシーで帰宅。
そういえばスケジュール帳に、透析クリニックとの話し合いのことが記載されていないな。
10月27日、透析クリニックへ父をタクシーで連れて行き、父の透析中、一旦私は帰宅。終わる時間に再び来院して、帰路もクリニックで呼んでもらったタクシーを使う。送迎バスが来るようになったのは、次回10月29日からだっただろうか。
ともかく週3回、父は人工透析のため、透析クリニックに通うことになった。
11月1日、透析クリニックへ保険証を提示。ついでに忘れていったタオルとパジャマの引き取り。保険証の提示のための来院は最初だけで、後は透析クリニックとの連絡帳に、月初めに保険証を挟んでおけば良かった。この日も父の透析日だった。その後の私の行動を見ると、帰りの父は送迎バスで帰宅したようだ。
11月2日、地元の大学病院内分泌内科、父の受診。その後、人工透析の栄養指導教室。その後は先に父をタクシーで帰らせて、私は会計と処方箋薬局へ出向いた。
11月4日、まず地元の大学病院へ出向き、父が入院時に忘れた靴を取りに行く。そして透析クリニックから依頼された、病院の腎臓内科だけでない診療科の診療情報データも依頼する。そして透析クリニックへ出向き、疾病証の呈示と、診療情報データを渡す。
父の透析は火曜、木曜、土曜に固定された。
11月7日、母と一緒に、兄を別の市にあるクリニックへ連れていく。アルコール肝炎を診察してもらうためだ。この市は兄も好きな場所なので(住んでる地域は嫌っている)、素直についてきた。その後はこの市の駅ビルで遅めのランチを3人で食べる。昔のデパートレストランのように、和洋中が揃っているので、母も兄も大喜びだ。財布はますます軽くなるけれど、まず病院に通ってもらわなくてはならない。
兄は地元の大学病院も、アルコール依存性精神科病院も勝手に辞めてしまったのだ。
11月8日、透析クリニックへ処方箋を取りに行く。父に渡したらしいが、父は何処かで無くしてしまったのだ。
透析クリニックでは、希望者は別途料金を支払って、お弁当を食べる。一度、食事風景を見たことがあるが、食堂のほとんど患者は弁当を半分捨てていた。父は多少残していたが、食べていた方だ。そんなに不味いのかと聞くと、父は「透析の直後はすごく疲れるから、食欲が出ないんだ」と言っていた。
11月18日、都内の大学病院内分泌内科へ母を受診させる。帰りにまたトンカツ定食食べている。当時、どのぐらいの頻度でトンカツ屋へ行っていたのか。こうして振り返ると恐ろしいものがある。
蛇足だが、私は14日からほぼ1週間、蕁麻疹に悩まされていた。一応、皮膚科クリニックで薬を処方してもらって治まったが、食べたものの中に蕁麻疹の出るようなものは含まれていなかった。
11月21日、兄を別の市のクリニックへ連れて行く。今年はおせちを注文したいと母の希望により、クリニック帰りにデパートでおせち料理を注文した。どちらにせよ、この分だと3人の通院付き添いと自分の不調で、正月料理を作る余裕はなさそうだ。
11月24日、都内の大学病院循環器内科を、母が受診。
11月25日、地元の大学病院へ、父が予約外で受診。心臓血管外科と皮膚科。心臓血管外科で造影剤CTを撮り、閉塞性動脈硬化症と診断される。いまのところ治療の段階までは至ってない。皮膚科は爪水虫治療のためだった。
私の判断ではなく、透析クリニックの指示による受診だった。
11月27日、父と炊飯器を買いに行ったと書かれている。懐かしいな。そうか、皆が亡くなるまで活躍してくれた、あの炊飯器か。
11月28日、天敵先生クリニック。母の定期診察。
12月9日、地元の大学病院皮膚科へ、父を受診させる。
12月12日、兄を別の市のクリニックへ連れて行く。ビルビリン数値が1.1以下になったら、2、3ヶ月ごとの通院でよいと言われた。通院が減るのは助かる。
12月18日、祖父の命日墓参に両親と出かけた。途中のスーパー前でバスを下りて、買い物をして帰宅した。
12月20日、都内の大学病院膠原病内科を母が受診。クレアチニンの数値が悪くなっている事を、天敵先生に伝えるよう指示される。
12月26日、天敵先生クリニックの母の定期診察。膠原病内科でのクレアチニンの数値が悪くなっていることを伝える。
大学病院の採血と採尿のデータは、そのつど自宅でコピーして天敵先生に渡していた。
12月30日、私以外の家族が風邪でダウン。
12月31日、おせち料理が届く。年越してんぷらを揚げるが、父は天ぷらも蕎麦もほとんど食べなかった。透析も大晦日にしてきて、余計に体調の悪さに拍車がかかったのだろう。
3.2017年 冬のバトル
2017年元旦。せっかくのデパートおせち料理だが、皆が風邪を引いているので、箸の進みが鈍い。私だけがせっせと食べていた。
毎年、家の東西南北に早朝、塩と酒を撒く。このとき北東にカラスの羽根が落ちていたと記載されている。そうだ、それであのとき不吉なものを感じていたのだ。その羽根にも塩と酒をまいて、外用のゴミ箱に捨てた。
1月2日、恒例の友人達との初詣があったが、家族が風邪でダウンしていたので、不参加。この日の朝、母が下痢で足まで汚れたので、床掃除と母を洗うので忙しかった。
1月4日、地元の大学病院皮膚科へ父を連れて行く。この日の朝、父がトイレと間違えて、洗面所で大をしたため、家中に悪臭。
1月5日、天敵先生クリニックで、母は点滴。このときの診察は天敵先生じゃなかった。
1月6日、都内の大学病院内分泌内科に母が受診。これまでずっとお世話になっていた主治医のラスト診察。アメリカで修行してくるのだという。母は喘息が酷くて、食欲なし。
1月7日、天敵先生クリニックへ母を連れて行く。天敵先生は、すぐに入院が必要だと行って、入院受け入れ病院を探すよう看護師に指示。市内の離れた個人病院へ、母を入院させることになった。
母が点滴している間、入院グッズを揃える。クリニックからタクシーで、指定された個人病院へ向かった。
1月8日、個人病院へ母の足り無い入院グッズを持っていく。病院によって必要なものが違うから、ややこしい。この病院は長時間面会を許さないので、私は1時間強で引き上げた。
1月9日、初詣。毎年、個人的に行っている神社。初めて訪れたときから、心が洗われたので、以来、初詣に伺っている。その道中で、母と参詣している不動尊のお参りもする。
1月10日、個人病院へ母の面会と着替えの持ちこみ。汚れ物回収。
1月12日、個人病院へ母の面会と着替えの持ち込みと汚れ物回収。足りないもの(おむつ)は病院近くのスーパーで購入して持っていった。
1月14日、個人病院へ母の面会。母の下痢でパジャマだけでなくシーツも汚したと看護師に言われた。言われ方が不快だったし、今年は初めからツキがない。厄落としに美容院で髪を切った。
1月16日、別の市のクリニックの、兄の受診付き添い。
この日は団地の人のお通夜があったので、夕方にバスで斎場へ出向く。これほど大人数のお通夜は初めてだった。会場待合室も人が溢れ、外のテントで待機。ご近所さんと「寒いねー」と言いながら世間話。ストーブは付けられていたが、1月の夜の冷え込みは半端ない。精進落とし会場もあったが、人が多くて入れたものではない。私は早々に駅に向かい、お店で温かい定食と小さいビールで、精進落としをした。
1月17日、個人病院へ、母の面会。
1月18日、個人病院へ、母の面会。
点滴が外れた。翌日は父の大学病院。しかし大雪予報が出ていたため、タクシー会社予約に苦労する。皆、同じことを考えているわけで。何件か問い合わせて、やっとタクシーを前日予約できた。
1月19日、地元の大学病院内分泌内科へ、父とタクシーで向かう。雪予報は不発だった。以前の穏やかな主治医と違って正義感熱血タイプ(一番私の嫌いなタイプ)で、血糖値の値に延々と怒られる。ただ父も間食を怒られていたので、多少はスッキリしたが。
1月21日、個人病院へ、母の面会。症状が落ちついたので、退院の相談を院長にする。しかし院長は、次回の膠原病受診日まで入院させた方がいいとの判斷だった。だが私は退院を主張した。それで院長と口論になる。
前にも記述したが、高血糖の人は血糖値90でも低血糖症状を起こすことがある。現に母が都内の大学病院で入院中、血糖値100を切ったときには、慌てて内分泌内科主治医がとんできて処置した。だがこの個人病院は、血糖値60以下にならないと治療しない方針だった。母から「血糖値80を切ってフラフラになっても、何もしてくれなくて、具合が悪くなった」と聞かされていたのだ。
血糖値のことで、口論はますますヒートアップして、最終的に院長は「なら退院しろ、二度と来るな!」と捨て台詞を残して去った。
言質はとった。私は余所余所しい看護師と退院日を決めた。
1月23日、個人病院を午前中、母は退院。タクシーで帰宅してすぐ、天敵先生クリニックの内科と整形外科の予約を取る。タクシーの中で聞いて驚いた。母は3日前に転倒して、肋骨を打っていたのに放置されていたというのだ。
クリニック予約は、骨折していないか、調べるためだった。レントゲンの結果、打撲のみと言うことでホッとした。しかし胸は強打の跡が残っていた。天敵先生に詳細を話し、「せっかく紹介してもらったのに申し訳ありません」と謝ったが、血糖値と肋骨の話に、逆に謝られた。
1月30日、都内の大学病院と提携するMRIやCT検査専門クリニックへ、母と向かう。造影剤CTを行なうためだった。結果は、カテーテルするほどではないが、冠動脈3本に動脈硬化が見られるという診断だった。
1月31日、天敵先生クリニック整形外科で、胸の打撲跡の診察。湿布の処方。
2月6日、天敵先生クリニック整形外科で、母の診察。
2月7日、都内の大学病院膠原病内科と泌尿器科、母の受診。この日は行きに人身事故に巻き込まれ、私鉄に乗り換えて病院へ向かった。
2月13日、別の市のクリニックを兄が受診。
2月16日、都内の大学病院循環器内科を母、受診。またしても人身事故に往路で巻き込まれて、私鉄に乗り換える。
2月24日、都内の大学病院内分泌内科で、初めて代わった主治医と、正月の入院先でのことを話す。すると「高齢者に血糖値を過剰に低下させると危険なのに、その病院は昔の知識で運営しているのですね。退院して正解でした」と言われて、ホロリときた。
2月27日、天敵先生クリニックを母、受診。今回は内科の定期診察。
3月7日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を母、受診。1月の喘息入院で、呼吸器内科も受診することになった。以前の先生とは変わっていた。
大学病院は、コロコロ先生が変わる。理由は他院への配属もあるが、アメリカ研修も多い。特に膠原病は様々な病症が発見されるため、知識を仕入れに渡米前する先生が多い。
3月8日、地元の大学病院皮膚科を父が受診。
…この月は割と平穏で終わりそうな気がしていた。確定申告書類作成、両親の介護保険申請、両親の眼科などのクリニック診察付き添いもあったが、薔薇の植え替え等も出来た余裕があった。違う友人と、それぞれ出かけてストレス解消した。
自治会総会には、母と一緒に出席した。近所の人達と母は、楽しそうに会話しながら食事をしていた。私はビールを飲みながら、ツマミを食べる。その年の役員によって、総会後の懇親会のメニューは変わる。今回はお弁当ではなく、定番化しているスーパーのお惣菜を買いこんで大皿に盛り付けた料理だった。本当に、まさか、こんなことが起こるとは誰も想像していなかった。
4.兄の異変
3月23日。私は自室で読書していた。22時30分と23時、隣の兄の部屋からうめき声と暴れる音。母を呼びに行き、鍵を開けると、兄は蒲団で寝ていたが、起こしても意識がない。私はスマホで、まず救急相談へ電話をかけた。症状を告げると、「すぐに救急車を手配します」との回答だった。
部屋が2階なので、まず消防隊が駆けつける。兄の部屋に案内すると、兄は目を開けた。呂律の回らない口で、消防隊の質問に答える。
「これ、酔っ払ってるだけですよ」と言われて、私は平謝りした。まもなく救急車が到着した。断ろうと思ったが「とりあえず病院へ連れていきましょう」と、担架に乗せて救急車に運ぶ。
「2次救急病院でいいな」と言う運転席の救急隊員。いざ出発というとき、兄の痙攣が始まった。目が虚ろになり、激しく動き出す。私の隣に座っていた救急隊員が慌ててタオルを手に取り、舌を噛まないよう、兄の口に押し込める。私も兄の体を押さえつけた。別の隊員も駆けつけ、3人がかりで兄を押さえつける。
「第三次救急に変更だ!」
押さえている隊員の1人が叫ぶ。行き先は中規模病院から、地元の大学病院に変更となった。兄の痙攣は収まらず、私たちが兄を抑えてたまま、救急車は走り出した。
救急車が到着するなり、待機していた看護師達がCT検査に連れて行く。
私はその間、救急隊員からの質問に答え、その後、夜間救急窓口で保険証の提示と、書類の書き込みをした。気を落ち着かせるために自販機でお茶を買い、精神安定剤を飲む。救急待合室には、数組の家族がいる。泣き崩れている人もいた。私は不安を感じながらも、待った。
どのぐらい経ったか、医師が説明に来た。
「脳出血を起こしています。これから集中治療室へ運びます」
目の前を、点滴を打たれながら静かになった兄が運ばれていく。看護師は汚れた衣類をビニール袋に入れて、渡した。
しばらくして、集中治療室に通された。荷物は貴重品以外預け、その前に厳重な消毒と、専門の白衣を着せられ、消毒した手ではなく足で看護師はドアを開けた。
驚愕した。左右に男女分かれて大勢の人たちがベッドで横たわっている。かつて聞いた血圧の警告音が、こだまする。兄は点滴に加え、酸素マスクが当てられていた。血圧は定かではないが、さほど悪くはなかったような気がする。でなければ記憶に残っていたはずだ。
祖母のとき、集中治療室に入った記憶はある。だが個人病院だったのでベッドは6つほど、窓の外も見えた。白い壁の明るい集中治療室。
だが真夜中のせいなのか、ここは薄暗かった。青い壁紙が印象に強い。私はまもなく退出を促された。帰宅は午前4時、タクシーで帰った。改めて兄の入院グッズを持っていかねばならない。帰宅すると母は起きており、父も部屋から出てきた。
「あの馬鹿が!」
両親が揃って悪態をついた。
仮眠をとってシャワーを浴び、市役所に出向く。兄の入院上限証明書を取るためだ。それと普段、パジャを着ない兄のパジャマ、下着も購入した。下着はヨレヨレのしかなかったのだ。それら入院に必要なものを持って、地元の大学病院へ行った。集中治療室には入れないので、荷物を専任看護師に渡す。
そして改めて入院窓口で手続きをして、保険証と入院上限証明書を提示する。
帰宅後、兄を可愛がっていた母の末っ子弟に、母が電話するという。報告ぐらいならと、私のスマホから電話をかけた。後悔した。2階から子機を持ってくるべきだった。私はスマホをデータ専門で使っているので、通話プラン未加入である。そのスマホで、母は叔父と、延々話しているのだ。次の請求書の額に驚いたが、家計費から差っ引いた。
このときの入院計画書、および救急医の説明メモが残っている。
入院計画書『左脳脳皮下出血』、症状、意識障害および痙攣。
説明メモ。3月23日(3月22日)、左脳の脳出血。今後残ると考えられる後遺症、
①右手足は改善。右側見落とし、注意力低下。
②発音
③長く喋ると、言い方がスムーズに出ない
④いくつかの事を一度にしようとすると、誤ることがある。
3月24日、都内の大学病院内分泌内科を母が受診。
翌朝25日、母の狭心症発作。ニトロを舌下に入れて溶かして収まる。
3月26日、地元の大学病院へ母と行く。兄の面会が許されたので、集中治療室に消毒してから入れてもらう。兄は意識を戻していたが、目が虚ろで話しかけても反応がない。
集中治療室を出てまもなく、母が狭心症の発作を起こした。私は慌ててニトロを取り出し舌下に入れる。看護師さんが車椅子を持ってきて救急室へ移動させた。発作はすぐに治まったが、暫く安静にしているよう言い渡された。母にとって、それだけショックだっのだろう。
3月27日、地元の大学病院へ着替えを持っていくと、兄は集中治療室からワンランク下がったHCUに移された。呂律は回らないが、言っていることは理解出来ているようだ。
とりあえず危機は脱したようだ。
2016年度から、我が家は一気に坂道を転がり落ちていく。スケジュール帳の空白欄も次第に多くなった。どんどん気力が失せていたのだろう。これまでは日記代わりに楽しかったこと、悔しかったことなどを書き殴っていた。
母が亡くなってから、スケジュール帳は買っても、書き込むことは少なくなった。書く気力がなかったとも言える。
この少し前から、兄はおかしくなっていた。4月2日、私は兄に殴られた。優しくて今まで手を上げるフリはしていても、本気で手を出してこなかった兄に、である。
このときの原因は、お漏らしを放置していたのを注意したからだった。そもそもこれまで、お漏らしなんて、したことがなかった。
4月6日、都内大学病院泌尿器科を母が受診。泌尿器科は午前診察のため、朝早く家を出なくてはならない。
待合時間中に、母の様子がおかしくなった。まさかと思って、持ち歩いている血糖測定器で測ると、血糖値が68だった。普段高血糖の人は、90でも低血糖処置をする必要がある。下がりすぎた。慌ててブドウ糖と、ジュースを買ってきて飲ませる。少し経ってから測ると通常値に戻り、母も普通に戻った。
帰りにお肉が食べたいという母。駅構内で買う牛タン弁当はお気に入りだが、あの店は食べる場所が狭いしなぁ。スマホ検索すると、駅の外だが近くに別のチェーン店の牛タン店があった。
母は喜んで完食した。麦とろご飯、懐かしい。昔はよく、母が山芋を買ってきて、卵と自家製麺つゆを少しずつ加えながら、作っていた。麦飯も好きだった。だが兄だけは麦飯が嫌いで、蕎麦を茹でて食べていた。
4月12日、日曜日の夕方、一本の電話がかかってきた。知らない人からだったが、「お父さんが飼い犬に噛まれました、すぐに広場へ来てください!」とのことだった。
犬の散歩は、最近ではほぼ私の役目だった。父は調子の良いときに、たまに散歩に出かけた。駆けつけると、広場のベンチに人だかりが出来ていて、父の右手をタオルで止血してくれる人がいた。足元には血溜まりが出来ている。
3代目のリードの金具部分が壊れて、慌てて首輪を掴んだら噛みつかれたとのことだった。犬は鎖から外れていたままだが、まずいことをした自覚があるのか、父の側にいる。私はリードに犬を繋いだ。私用と父用の散歩バッグは違う。
父は散歩バッグに、大きめなシャベルと、シャベルでよそったフンを入れるためのトイレで流せる市販のペットの用足し袋、犬用お菓子袋、なにかのときの護身用と雨に備えて小型の折りたたみ傘を入れていた。
私は 重ねたティッシュにビニール袋で直にフンを掴んでごみ処理するので、使い古した穴の空いてないビニール袋にテッシュを数枚重ねた自家製のフン用袋を持ち歩いている。私はフンを家庭ゴミとして処理している。リードは通常用とロングリード、それとボールを入れている。ロングリードは父に使わせない。何度か他の犬とトラブルを起こしたことがあるからだ。
私はスマホで救急車を呼ぶ。血液サラサラの薬のせいで出血が止まらないのだ。そして親切な方々に、「犬を家に戻して、保険証と財布を取ってくるので、見守っていてくれませんか?」とお願いして、ダッシュで犬を自宅に連れ帰り、父用のポーチをカバンに入れる。家族皆が通院しているので、お薬手帳と保険証は、それぞれポーチに分けているのだ。
私が広場に戻ってまもなく、救急車が到着した。救急隊員に、「本来ならこのくらいの怪我で救急車を呼ぶのは躊躇いがありましたが、持病の薬を飲んでいるので、出血が止まらなくて」と説明した。父の足元の血溜まりに、「それで正解でしたよ」と言われ、血まみれのタオルを広げる。傷口には私も絶句した。右手の親指と人さし指の間が、少しだが噛みちぎられていたのだ。
救急隊員が新たな止血の布でぐるぐる巻きにして、父に肩を貸して救急車へ運んだ。
救急車の中で、かかりつけ医はあるか尋ねられる。私は病院名を告げ、お薬手帳を見せた。すぐにかかりつけの病院から許可がおり、救急車で運ばれた。私は救急車がこれが初めてではない。そして手持ちの薬を口に放り込む。本当は水が必要だが、私は1錠ぐらいなら水なしでも飲み込める。だが服薬がおそかった。横すわりの座席、外がカーテンの隙間からしか見えないため酔った。そりゃあもう、病院到着してフラフラになりながらステップを下りた。
形成外科がいないので、宿直の整形外科が噛みちぎられた両サイドを縫い、噛みちぎらた真ん中は、自然治癒力に任せるしかないと言われた。そして緑内障持ちだが、犬に噛まれたので破傷風の注射をされた。
「明日、形成外科を改めて受診してください。ああ、ちょうど明日は腎臓内科の受診日ですね」
と、コンピューターを見ながら宿直医は言った。
4月18日、地元の大学病院で父の形成外科の診察手続きをする。
まず採血と採尿のあと、予約外来の腎臓内科で、昨日のことを説明する。そしてネプス注射。看護師から透析の説明を受ける。
次に形成外科に行き、「当分は毎日通ってください」と言われながら、父の手の消毒をする。それがとてもつもなく染みるらしく、父は「いてぇ!」と、叫んでいた。まあ何もしなくても痛い、痛いって言っていたからね。痛み止めも、腎臓内科主治医から、なるべく飲まないよう念を押されたし。
朝早く来たので、診察後に父が「腹減った」という。会計前に食堂でモーニングセッドを食べる。父はクリームソーダを追加した。その間にも、「サドだ。俺が痛いと言っても、むしろ反応を楽しんでいた」と愚痴を言う。私には真摯に消毒剤してくれているように見えたけど?
4月19日、地元の大学病院形成外科受診。父は「いてえ!」と叫びながら消毒される。
4月20日、母も同行して、地元の大学病院形成外科へ。父の診察治療後、両親は食堂で揃ってクリームソーダを飲んだ。2人ともクリームソーダがマイブームらしい。仲が良いのはいいが、いま内分泌内科関連の人に見られたら、怒られるの私なんだけどね。でも地元で気軽にクリームソーダが飲める場所が、近隣だと当時はここの食堂ぐらいしかなかった。
母を同行させたのは、この後、都内の大学病院内分泌内科へ行くためだった。父をタクシーで先に帰宅させ、私たちは都内の大学病院へ向かう。
異変があったわけではなく、前回の処方の薬が薬が大幅に足りなかったのだ。それで前日に電話をかけたら、水曜日は主治医がいるというので、向かったわけである。
だが病院に着くと主治医は帰った後で、別の糖尿病医が、検査チップとインスリン、飲み薬を処方してくれた。
4月21日、地元の大学病院形成外科で父の消毒。痛みに少しは慣れたらしい。そして腎臓のために、弱めの抗生物質を処方してくれた。それが逆に拙かったのかも。
この日の夕方、父と喧嘩した。手が治っていないのに、私が行く前に、父が犬の散歩へ行ったのだ。本当に犬馬鹿父である。
4月22日、地元の大学病院形成外科、父の受診。父の手の状態が順調なので、毎日の通院消毒はこれで終了。これからは数日に一度に切り替わる。従って消毒は、私がやるようにと、やり方を教えられ、塗り薬が処方去れた。
それ以降、私は父の指の消毒をした。右手が不自由なので、母がシャワーで父の全身を洗った。母からは「よくそんなことが出来るわね」と、父の手の消毒をしているとき、顔を背ける。そりゃあ、最初はエグいと思ったものの、通院付き添いで見慣れたから。消毒を終えると大判絆創膏を張り、包帯を巻いた。
4月25日、母には1人で天敵先生クリニックへ行ってもらい、父を地元の大学病院形成外科へ連れて行く。
4月28日、都内の大学病院循環器内科を母が受診。帰りに地元に最近できた中華チェーン店で、母は海鮮あんかけ焼きそばを食べる。
4月30日、地元の大学病院形成外科、父の受診。父が以前、形成外科医をサドだと愚痴っていたが、あながち外してなかったかも。
「皮膚は固まりましたが、この黒い跡はいけませんね」
形成外科医は、せっかくできたカサブタをめくり出したのだ。父が悶絶する。そりゃ、痛いだろう。同情する。処方薬は細菌予防クリームに変更になった。
父が治療後、潤んだ目で「チャーシュー麺を食べる」というので、同意した。
5月2日、地元の大学病院形成外科受診。今度は違う箇所のかさぶたを取る。今回は血がドバッと噴き出す。父は「いてえ!」と悶絶する。まあ、あんな出血量なら痛いわな。
5月6日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。昼は天ざる蕎麦、帰りの処方箋薬局後に「甘いもの食べたい」というので、カフェでケーキを食べる。
5月9日、地元の大学病院形成外科で治療。食堂で父はクリームソーダ飲んだが、バスの乗り継ぎ駅で「蕎麦が、食べたい」と言い出し、カレー蕎麦を父は食べた。父にしては珍しいものを頼むなぁと思いつつ、私はなめこ蕎麦を食べた。
5月16日、地元の大学病院腎臓内科で父はネプス注射を打った後、受診。その後は形成外科で、消毒される。またカサブタの作り直しだから、消毒も染みるよね。
5月17日、都内の大学病院膠原病内科、母の受診。これまでお世話になってきた先生が異動したので、新たな先生が主治医となった。どんな先生か緊張したが、優しい物腰の先生で安堵した。
5月18日、地元の大学病院腎臓内科を予約外受診。前回の受診で、3キロ増えたら病院に来るよう言われていたのだ。父の体重は腎臓悪化により、浮腫みで徐々に増えており、これまでで10キロ増えていた。カリウムと塩分を減らすように指導される。
だが父は、食事と酒と読書を奪われるなら生きていたくないと言う。先生の前では言わないけど。この日もバスの乗り換えを利用して、天ざる蕎麦を食べていた。
…本当に、今でも思う。楽しみもなく生きながらえるのがいいのか、それとも自分の好きなことをして命を縮めるか。正解はない。どちらも正しくて、どちらも間違えだ。父の最期の日の状況を聞かされて、特に思う。少なくとも、このとき父の好きなようにしてて良かった。食べたいものを食べられるときに食べさせて良かった。それが確かに病を早めた結果になった。だが我慢して体を長らえてさせても、恐らく心は弱って潰れていたのではないか。人間は強くない。何か芯となるものが、生きるうえでの喜びが1つもなければ、先に死ぬのは心だ。
午後には獣医に予約を入れて、3代目愛犬を竹槍で狂犬病予防注射をしてもらった。
5月25日、地元の大学病院内分泌内科、父が受診。この新しい先生とは、相性が悪かった。
5月30日、午前中に天敵先生クリニック、母が受診。いつもの内科定期検診に加えて、整形外科を加える。肋骨骨折はほぼ問題なくなったが、ついでに診てもらっていた膝の痛みの受診である。
午後は地元の大学病院腎臓内科を父が受診。
6月1日、母が老眼鏡を作り直したいと言うので、駅へ行く。以前、老眼鏡を作った店は潰れた。老眼鏡のフレームをいくつか見て、ガラス細工が花模様のよう埋め込まれたお洒落なフレームの眼鏡に決める。もっと安いフレームでは駄目なのか聞くと「毎日使うものだから、心華やぐものがいい」と言う。店員さんも「気に入ったものを使うのが一番ですし、とてもよくお似合いです」と同意する。
そりゃあ、安いものに比べれば素敵なのは認めるが、お値段も目を剥くぐらい素敵なんだよね。まあアクセサリー兼用と考えれば、こんなものか。母が可愛いものを自ら選ぶのも、大変珍しいことだし。
6月2日、地元の大学病院で父の糖看護。爪を切ってもらい、足のチェック。看護師は浮腫みに顔をしかめた。
6月9日、母の老眼鏡が出来上がる。あの金額なんだから、気に入ってくれて良かった。母は外出先でも必要になるからと、眼鏡につけるお洒落な鎖も買って、早速首から下げた。老眼鏡、買い物のときに意外と外で必要になるよね。老眼鏡でよくみえるようになったなら、値段見ずにカートに食品を入れるのも、少しは減るかな?
6月10日、地元の大学病院泌尿器科を父が受診。帰路のバスの乗換えの際、父が腹痛で動けなくなる。仕方がないと、タクシーで帰宅。帰宅後に正露丸を飲んだら治ったようだ。
6月13日、母の首にブツブツが出来る。本人は平気そうなので、様子を見る。
6月13日、14日、父が食後に腹痛を起こすと記載あり。
6月20日、地元の大学病院腎臓内科を父が受診。いつもの痛い注射と診察を受ける。
6月22日、地元の大学病院内分泌内科、父の受診。病院に着いた途端、腹痛を訴えて動けなくなり、院内専用車椅子を借りる。心電図と心エコーを撮る。
6月24日、都内の大学病院内分泌内科を、母が受診。ヘモグロビンA1cが7から9へ上昇。甘い物を控え、運動(散歩)するように医師から言われる。地元の駅ビルでお寿司を食べるが、お寿司も酢飯に砂糖がかなり使われているんだよね。
以前はよく、握り寿司をお米五合炊いて作っていた。砂糖をこんなに酢に溶かすのかと、最初は驚いたものだ。手作り寿司は沢山作っても、一食で家族は全て平らげた。
6月25日、夜。愛犬を連れて近くの川へ行く。今年もほたるが2匹見れた。
6月30日、地元の大学病院腎臓内科の検査予約による頸動脈エコー。その帰り、バスの乗換えでまたしても父が腹痛で動けなくなり、タクシーで帰宅。腹痛は翌日の夕方にも起こしている。
7月日、天敵先生クリニックで、母は内科と整形外科受診。
7月8日、地元の大学病院内分泌内科、消化器内科(腹痛相談)、脳神経内科を父が受診。脳神経内科と消化器内科でCT検査。消化器内科では後日の胃カメラ予約。
脳神経内科での検査結果は、脳梗塞に異常は見られない。しかし頸動脈プラークで6割が狭窄、4割しか流れていないと判明した。
7月12日、地元の大学病院で父の胃カメラ検査。ここでは麻酔を使わないのだが、父は「別に麻酔なくても平気だぞ?」と言う。私は胃カメラが怖いから、麻酔のあるクリニックをわざわざ探したんだけどね。麻酔、効かなかったけど。
前回指摘された、大腸ポリープ内視鏡除去手術の日程も相談する。
7月15日、都内の大学病院で事前に予約していた、母の心臓エコー検査。
7月19日、都内の大学病院膠原病内科と泌尿器科を母が受診。泌尿器科は半年に一度、膀胱内視鏡検査を行なうことになっていた。その前に採血、採尿、心電図。膀胱内視鏡検査で異常はなし。院内処方で抗生物質が処方され、すぐに飲むよう指示されていたので母に飲ませる。母は「検査とはいえ、何度も膀胱検査するには恥ずかしくて嫌だね。仕方ないけど」と言っていた。
もしもこの病院にずっと通うことが出来たなら、後年、母はもっと楽に逝けただろうか?
7月21日、都内の大学病院循環器内科を母、受診。地元に帰ってから期日前投票を行い、寿司屋へ。ランチタイムはお得に食べることが出来るメニューがあるが、母は値段の高いちらし寿司を頼む。私はリーズナブルランチにした。マグロがトロか赤身の差で、安いランチも美味しいのだけどな。
7月25日、地元の大学病院で父の大腸ポリープ内視鏡切除。
同時に腎臓内科で、内視鏡検査室から、車椅子で下痢腹抱えて移動し、痛い注射を打たれる。父は数日間の食材制限が辛かっただろう。そして大腸ポリープ切除後も、病院食のようなもので数日間過ごさなくてはならない。その上で痛い注射もあって、散々な1日だったに違いない。
7月29日、天敵先生クリニックに、母の内科定期診察。
医者に言われた通り、散歩というほどではないが、率先して買い物には一緒に連れて行った。週に3度はコンビニを含めて、出かける。コンビニまでの距離は大した事ないが、スーパーへは往復時間とスーパー内で歩く時間をトータルすれば1時間かかる。まあまあの散歩だと思う。好きな食材を買い込まなければ。
8月4日、都内の大学病院と提携する心臓専門検査クリニックへ、母を連れて行く。ここはいつも使う駅と違い、それなりに歩く。病院からはMRI依頼だったが、クリニックの判断で造影剤CTに切り替えられる。検査結果は、母の冠動脈3本のうち、1本が90%詰まっているとのことだった。
2.父の透析
8月15日、地元の大学病院腎臓内科を、父が受診。夕方に病院から電話があり、入院手術を報せるものだった。父の腎臓はほぼ停止していて、人工透析のための準備段階に入っていた。
8月18日、地元の大学病院で、父の糖看護によるフットケア。「透析が始まれば、浮腫みが取れますね」と言われる。父の足は浮腫みでパンパンになっていた。
8月25日、都内の大学病院循環器内科、母の受診。外部クリニックの検査結果を持っていく。心臓カテーテル手術が検討された。
8月29日、天敵先生クリニック。母の定期診察。心臓の状態を伝える。
9月6日、都内の大学病院膠原病内科、母の受診。母の腎機能が4割しか動いていないとのこと。さらに悪化したら、腎臓内科受診も検討。こちらも腎臓か。母の顕微鏡的多発血管炎は、腎臓を攻撃する。こちらも要注意になってきた。
9月9日、父の介護用ベッドが届く。2つの柵が付いていて、片側に上下つけるか、両側に付けるか選択はその時の好みで。父が頭側の両脇にしてくれと言うので、その通りに取り付けた。
これまで父は蒲団で寝起きしていた。しかし透析が始まれば、ベッドのが立ち上がりが楽になると病院から言われたので、値段が比較的リーズナブルなノーブランドの介護用ベッドを購入した。
父の言動は確実に悪くなっていた。特にトイレの失敗が増えた。
それでも相変わらず、暇さえあれば読書をしていた。ベッドを入れる際に苦労したのが、前日に父の部屋中に散らばる本の片付だった。
いくつもの読みかけを片付けられて憤慨していたが、いざベッドが届くと、「こりゃ便利だ」と喜んでいた。そしてベッド脇の空にした上段押し入れは、高さ的にもちょうどいい、父の簡易本棚となった。
9月12日、地元の大学病院腎臓内科、父の受診。人工透析のため、利き腕とは逆の腕にシャントを作らねばならない。シャントとは、人工透析をするために動脈と静脈を繋げたものだ。血管が細いと人工血管を埋め込むが、父の血管は太いので大丈夫そうだ。
9月13日、地元の大学病院に父、入院。当初はシャントを作るための入院で、説明は移植外科から聞いていたが、あまりに浮腫が酷いと言うことで、腎臓内科の主治医にバトンタッチ。
尿毒症が出ていて、浮腫が酷く、腎臓機能はほぼゼロ。急遽、首カテーテル透析を行なうことになった。
9月15日、地元の大学病院、父の面会。病室が変わっていた理由は、父が状態悪いにも関わらず、勝手にトイレに行くので、看護室前の病室へ監視のため移されたのだった。そもそも腎臓機能停止で、よく尿が出たものだ。大だったかもしれないが。
9月16日、市役所に障害者申請書と、特定疾病書類を取りに行く。
9月17日、地元の大学病院、父の面会。首カテーテル透析。
翌日は私が過労のため動けず、着替えを兄に父の病院まで届けてもらう。
9月20日、地元の大学病院、父の面会。
9月22日、地元の大学病院、父の面会。
9月23日、地元の大学病院、父の面会。
面会の後に 市役所に障害者申請書を出しにいくが、保健所に行く必要があると言われたので、走って保健所に行く。閉館時間5分前に到着してギリギリまにあったが、汗と息切れがヒドかった。
9月26日、地元の大学病院。父の状態説明を受ける。首カテーテル透析でようやく浮腫みが治まったので、移植外科でシャントを作る手術が行われた。トータル4時間病院に拘束されて疲れた。
9月28日、地元の大学病院腎臓内科病棟へ父の面会。着替えの他に、父から退屈だから本を持ってきてくれと言われて、指定された作家の文庫5冊を持っていく。
9月29日、市役所に障害者手帳の申込み。前回、写真が必要と言われて困ったのだが、デジカメで撮影したもので良いと言われる。
いや、それも困ったのよ。病室で撮影するのは良い。パジャマも妥協する。しかし床屋に連れてく余裕がなく、おまけに眼鏡は踏んづけて片側が割れて、片方しかレンズの入っていないひどい状態だった。だが3ヶ月以内の撮影という規則から、仕方なくデジカメで撮影した、何処の哀れな老人かと思われる、ひどい姿の父の写真を持っていく。
9月30日、都内の大学病院内分泌内科へ母を連れていく。帰り時間は心配しなくてもいいので、地元駅ビルで、母の希望により寿司を食べる。ちなみに兄には夕食代を渡しておいた。
10月1日、地元の大学病院へ、父の面会。前回、このシリーズの別の文庫が欲しかったと言われても分からなかったので、今回は着替えの他に、10冊持ち込んだ。
10月3日、地元の大学病院へ、父の面会。
10月6日、地元の大学病院へ、父の面会。
さすがにこのところ緊張の連続で疲れたと、親友にメールで愚痴をこぼすと、「なら癒しに行こう!」と返信あり。メールで話し合って、
10月9日に江ノ島水族館へ行った。久々の海は気持ちがいい。親友と何年かぶりかの水族館を巡って癒された。
10月10日、地元の大学病院へ、父の面会。本を持ち込み、読み終えた本は汚れものと共に持ち帰る。
10月12日、地元の大学病院へ、父の面会。相変わらずの本の交換と、新たな着替えを戸棚に入れて、汚れ物と読み終えた本を持ち帰る。本の持ち出し持ち帰りは地味に負担がかかるが、父はスポーツ観戦しかテレビカードを使わないため、節約にはなっている。ただ新刊調べてくれと言われて、出版されていると分かると、買ってこいと言われる。まあ退院帰宅後、父には本代を請求したけどね。病院来る途中の本屋でメジャーな作家の文庫は買えた。しかし父の一番好きな作家の文庫は、駅ビルの本屋へ行かねばならなかった。
ちなみに新聞は院内コンビニまで買いに行くか、巡回コンビニワゴンから購入していた。
10月13日、都内の大学病院循環器内科を、母が受診。こちらもカテーテル手術が控えていた。
その説明である。付き添いで聞いててゾッとする。そりゃ、常に最悪の事態は想定せねばならないけど、冊子の内容がエグい。
帰りにあんかけ焼きそばが食べたいという母。都内だと私が電車酔いするので、地元の駅ビルで食べる。母としては、行きつけのリーズナブルランチのあんかけ焼きそばが食べたかったのだろうが、とてもじゃないが、私の胃はこのところのストレスで限界を迎えている。
10月14日、地元の大学病院へ、父の面会。看護師から、下痢用のおむつを買いに購買へ行かされる。家族って、本当に下僕要員なんだよね。まだこの病院は、入院中は検査に家族を使わないだけ優しい?けど。
10月17日、市役所で父の障害者手帳が交付される。機会があったら、この手帳の写真をどうにかしたいものだ。人に見せるのが恥ずかしい。
10月18日、都内の大学病院に、母が入院。検査はないが、問診がある。シャワー室を借りて、母を洗う手伝いをする。洗濯物は持ち帰った。
入院計画書の病名は『労作性狭心症』。症状は胸痛。手術内容『冠動脈造影検査後、待機的経皮的冠動脈インターベンション』と記載されている。手術名、こんな長がったのね。単なるカテーテル手術としか思ってなかったわ。
10月19日、都内の大学病院で、母のカテーテル手術が行われる。この日は朝のカテーテル手術に合わせて、家を6時半に出る。父が入院しているタイミングで、良かったかもしれない。
術後の説明を受ける。当初はドリル状のモノで血管の詰まりを除去、ステントという金具をつける予定だった。しかし目当ての場所は血管が交錯しており、ステントは困難。バルーン手術に切り替えたという。血管内に文字通り空気を吹き込んだのだ。この手法だと、何年か後に再び狭窄の可能性もあるが、ステントで他の血管を傷つけられるリスクを考えれば仕方のないことだった。
10月20日、都内の大学病院を母が退院。9時までに病院に来てくださいと言われていたので、この日も早くから家を出る必要があった。
10月21日、地元の大学病院へ、父の面会と着替えの交換の他に、医師の説明を聞く。腎臓内科病棟医師から、栄養指導の打ち合わせ。父の下痢は続いているようだ。
10月23日、地元の大学病院へ、父の面会。着替えと本の交換。母と違って父は本を渡すとそれに夢中で、自宅の時のように私とは無駄話をしない。用件をすませば、すぐに帰宅できた。医者や看護師にとっ捕まらない限りは。
10月26日、都内の大学病院へ母を予約受診に連れていく。泌尿器科で膀胱内視鏡検査。その後、膠原病内科受診。その途中でスマホが鳴り、地元の病院から、父を明日退院させるとの連絡があった。まだ下痢が続いている話も加えられた。
10月26日、父の退院。9時までに病棟へ呼び出されるが、透析クリニックへの紹介状の用意がまだできていないとかで、待たされた。タクシーで帰宅。
そういえばスケジュール帳に、透析クリニックとの話し合いのことが記載されていないな。
10月27日、透析クリニックへ父をタクシーで連れて行き、父の透析中、一旦私は帰宅。終わる時間に再び来院して、帰路もクリニックで呼んでもらったタクシーを使う。送迎バスが来るようになったのは、次回10月29日からだっただろうか。
ともかく週3回、父は人工透析のため、透析クリニックに通うことになった。
11月1日、透析クリニックへ保険証を提示。ついでに忘れていったタオルとパジャマの引き取り。保険証の提示のための来院は最初だけで、後は透析クリニックとの連絡帳に、月初めに保険証を挟んでおけば良かった。この日も父の透析日だった。その後の私の行動を見ると、帰りの父は送迎バスで帰宅したようだ。
11月2日、地元の大学病院内分泌内科、父の受診。その後、人工透析の栄養指導教室。その後は先に父をタクシーで帰らせて、私は会計と処方箋薬局へ出向いた。
11月4日、まず地元の大学病院へ出向き、父が入院時に忘れた靴を取りに行く。そして透析クリニックから依頼された、病院の腎臓内科だけでない診療科の診療情報データも依頼する。そして透析クリニックへ出向き、疾病証の呈示と、診療情報データを渡す。
父の透析は火曜、木曜、土曜に固定された。
11月7日、母と一緒に、兄を別の市にあるクリニックへ連れていく。アルコール肝炎を診察してもらうためだ。この市は兄も好きな場所なので(住んでる地域は嫌っている)、素直についてきた。その後はこの市の駅ビルで遅めのランチを3人で食べる。昔のデパートレストランのように、和洋中が揃っているので、母も兄も大喜びだ。財布はますます軽くなるけれど、まず病院に通ってもらわなくてはならない。
兄は地元の大学病院も、アルコール依存性精神科病院も勝手に辞めてしまったのだ。
11月8日、透析クリニックへ処方箋を取りに行く。父に渡したらしいが、父は何処かで無くしてしまったのだ。
透析クリニックでは、希望者は別途料金を支払って、お弁当を食べる。一度、食事風景を見たことがあるが、食堂のほとんど患者は弁当を半分捨てていた。父は多少残していたが、食べていた方だ。そんなに不味いのかと聞くと、父は「透析の直後はすごく疲れるから、食欲が出ないんだ」と言っていた。
11月18日、都内の大学病院内分泌内科へ母を受診させる。帰りにまたトンカツ定食食べている。当時、どのぐらいの頻度でトンカツ屋へ行っていたのか。こうして振り返ると恐ろしいものがある。
蛇足だが、私は14日からほぼ1週間、蕁麻疹に悩まされていた。一応、皮膚科クリニックで薬を処方してもらって治まったが、食べたものの中に蕁麻疹の出るようなものは含まれていなかった。
11月21日、兄を別の市のクリニックへ連れて行く。今年はおせちを注文したいと母の希望により、クリニック帰りにデパートでおせち料理を注文した。どちらにせよ、この分だと3人の通院付き添いと自分の不調で、正月料理を作る余裕はなさそうだ。
11月24日、都内の大学病院循環器内科を、母が受診。
11月25日、地元の大学病院へ、父が予約外で受診。心臓血管外科と皮膚科。心臓血管外科で造影剤CTを撮り、閉塞性動脈硬化症と診断される。いまのところ治療の段階までは至ってない。皮膚科は爪水虫治療のためだった。
私の判断ではなく、透析クリニックの指示による受診だった。
11月27日、父と炊飯器を買いに行ったと書かれている。懐かしいな。そうか、皆が亡くなるまで活躍してくれた、あの炊飯器か。
11月28日、天敵先生クリニック。母の定期診察。
12月9日、地元の大学病院皮膚科へ、父を受診させる。
12月12日、兄を別の市のクリニックへ連れて行く。ビルビリン数値が1.1以下になったら、2、3ヶ月ごとの通院でよいと言われた。通院が減るのは助かる。
12月18日、祖父の命日墓参に両親と出かけた。途中のスーパー前でバスを下りて、買い物をして帰宅した。
12月20日、都内の大学病院膠原病内科を母が受診。クレアチニンの数値が悪くなっている事を、天敵先生に伝えるよう指示される。
12月26日、天敵先生クリニックの母の定期診察。膠原病内科でのクレアチニンの数値が悪くなっていることを伝える。
大学病院の採血と採尿のデータは、そのつど自宅でコピーして天敵先生に渡していた。
12月30日、私以外の家族が風邪でダウン。
12月31日、おせち料理が届く。年越してんぷらを揚げるが、父は天ぷらも蕎麦もほとんど食べなかった。透析も大晦日にしてきて、余計に体調の悪さに拍車がかかったのだろう。
3.2017年 冬のバトル
2017年元旦。せっかくのデパートおせち料理だが、皆が風邪を引いているので、箸の進みが鈍い。私だけがせっせと食べていた。
毎年、家の東西南北に早朝、塩と酒を撒く。このとき北東にカラスの羽根が落ちていたと記載されている。そうだ、それであのとき不吉なものを感じていたのだ。その羽根にも塩と酒をまいて、外用のゴミ箱に捨てた。
1月2日、恒例の友人達との初詣があったが、家族が風邪でダウンしていたので、不参加。この日の朝、母が下痢で足まで汚れたので、床掃除と母を洗うので忙しかった。
1月4日、地元の大学病院皮膚科へ父を連れて行く。この日の朝、父がトイレと間違えて、洗面所で大をしたため、家中に悪臭。
1月5日、天敵先生クリニックで、母は点滴。このときの診察は天敵先生じゃなかった。
1月6日、都内の大学病院内分泌内科に母が受診。これまでずっとお世話になっていた主治医のラスト診察。アメリカで修行してくるのだという。母は喘息が酷くて、食欲なし。
1月7日、天敵先生クリニックへ母を連れて行く。天敵先生は、すぐに入院が必要だと行って、入院受け入れ病院を探すよう看護師に指示。市内の離れた個人病院へ、母を入院させることになった。
母が点滴している間、入院グッズを揃える。クリニックからタクシーで、指定された個人病院へ向かった。
1月8日、個人病院へ母の足り無い入院グッズを持っていく。病院によって必要なものが違うから、ややこしい。この病院は長時間面会を許さないので、私は1時間強で引き上げた。
1月9日、初詣。毎年、個人的に行っている神社。初めて訪れたときから、心が洗われたので、以来、初詣に伺っている。その道中で、母と参詣している不動尊のお参りもする。
1月10日、個人病院へ母の面会と着替えの持ちこみ。汚れ物回収。
1月12日、個人病院へ母の面会と着替えの持ち込みと汚れ物回収。足りないもの(おむつ)は病院近くのスーパーで購入して持っていった。
1月14日、個人病院へ母の面会。母の下痢でパジャマだけでなくシーツも汚したと看護師に言われた。言われ方が不快だったし、今年は初めからツキがない。厄落としに美容院で髪を切った。
1月16日、別の市のクリニックの、兄の受診付き添い。
この日は団地の人のお通夜があったので、夕方にバスで斎場へ出向く。これほど大人数のお通夜は初めてだった。会場待合室も人が溢れ、外のテントで待機。ご近所さんと「寒いねー」と言いながら世間話。ストーブは付けられていたが、1月の夜の冷え込みは半端ない。精進落とし会場もあったが、人が多くて入れたものではない。私は早々に駅に向かい、お店で温かい定食と小さいビールで、精進落としをした。
1月17日、個人病院へ、母の面会。
1月18日、個人病院へ、母の面会。
点滴が外れた。翌日は父の大学病院。しかし大雪予報が出ていたため、タクシー会社予約に苦労する。皆、同じことを考えているわけで。何件か問い合わせて、やっとタクシーを前日予約できた。
1月19日、地元の大学病院内分泌内科へ、父とタクシーで向かう。雪予報は不発だった。以前の穏やかな主治医と違って正義感熱血タイプ(一番私の嫌いなタイプ)で、血糖値の値に延々と怒られる。ただ父も間食を怒られていたので、多少はスッキリしたが。
1月21日、個人病院へ、母の面会。症状が落ちついたので、退院の相談を院長にする。しかし院長は、次回の膠原病受診日まで入院させた方がいいとの判斷だった。だが私は退院を主張した。それで院長と口論になる。
前にも記述したが、高血糖の人は血糖値90でも低血糖症状を起こすことがある。現に母が都内の大学病院で入院中、血糖値100を切ったときには、慌てて内分泌内科主治医がとんできて処置した。だがこの個人病院は、血糖値60以下にならないと治療しない方針だった。母から「血糖値80を切ってフラフラになっても、何もしてくれなくて、具合が悪くなった」と聞かされていたのだ。
血糖値のことで、口論はますますヒートアップして、最終的に院長は「なら退院しろ、二度と来るな!」と捨て台詞を残して去った。
言質はとった。私は余所余所しい看護師と退院日を決めた。
1月23日、個人病院を午前中、母は退院。タクシーで帰宅してすぐ、天敵先生クリニックの内科と整形外科の予約を取る。タクシーの中で聞いて驚いた。母は3日前に転倒して、肋骨を打っていたのに放置されていたというのだ。
クリニック予約は、骨折していないか、調べるためだった。レントゲンの結果、打撲のみと言うことでホッとした。しかし胸は強打の跡が残っていた。天敵先生に詳細を話し、「せっかく紹介してもらったのに申し訳ありません」と謝ったが、血糖値と肋骨の話に、逆に謝られた。
1月30日、都内の大学病院と提携するMRIやCT検査専門クリニックへ、母と向かう。造影剤CTを行なうためだった。結果は、カテーテルするほどではないが、冠動脈3本に動脈硬化が見られるという診断だった。
1月31日、天敵先生クリニック整形外科で、胸の打撲跡の診察。湿布の処方。
2月6日、天敵先生クリニック整形外科で、母の診察。
2月7日、都内の大学病院膠原病内科と泌尿器科、母の受診。この日は行きに人身事故に巻き込まれ、私鉄に乗り換えて病院へ向かった。
2月13日、別の市のクリニックを兄が受診。
2月16日、都内の大学病院循環器内科を母、受診。またしても人身事故に往路で巻き込まれて、私鉄に乗り換える。
2月24日、都内の大学病院内分泌内科で、初めて代わった主治医と、正月の入院先でのことを話す。すると「高齢者に血糖値を過剰に低下させると危険なのに、その病院は昔の知識で運営しているのですね。退院して正解でした」と言われて、ホロリときた。
2月27日、天敵先生クリニックを母、受診。今回は内科の定期診察。
3月7日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を母、受診。1月の喘息入院で、呼吸器内科も受診することになった。以前の先生とは変わっていた。
大学病院は、コロコロ先生が変わる。理由は他院への配属もあるが、アメリカ研修も多い。特に膠原病は様々な病症が発見されるため、知識を仕入れに渡米前する先生が多い。
3月8日、地元の大学病院皮膚科を父が受診。
…この月は割と平穏で終わりそうな気がしていた。確定申告書類作成、両親の介護保険申請、両親の眼科などのクリニック診察付き添いもあったが、薔薇の植え替え等も出来た余裕があった。違う友人と、それぞれ出かけてストレス解消した。
自治会総会には、母と一緒に出席した。近所の人達と母は、楽しそうに会話しながら食事をしていた。私はビールを飲みながら、ツマミを食べる。その年の役員によって、総会後の懇親会のメニューは変わる。今回はお弁当ではなく、定番化しているスーパーのお惣菜を買いこんで大皿に盛り付けた料理だった。本当に、まさか、こんなことが起こるとは誰も想像していなかった。
4.兄の異変
3月23日。私は自室で読書していた。22時30分と23時、隣の兄の部屋からうめき声と暴れる音。母を呼びに行き、鍵を開けると、兄は蒲団で寝ていたが、起こしても意識がない。私はスマホで、まず救急相談へ電話をかけた。症状を告げると、「すぐに救急車を手配します」との回答だった。
部屋が2階なので、まず消防隊が駆けつける。兄の部屋に案内すると、兄は目を開けた。呂律の回らない口で、消防隊の質問に答える。
「これ、酔っ払ってるだけですよ」と言われて、私は平謝りした。まもなく救急車が到着した。断ろうと思ったが「とりあえず病院へ連れていきましょう」と、担架に乗せて救急車に運ぶ。
「2次救急病院でいいな」と言う運転席の救急隊員。いざ出発というとき、兄の痙攣が始まった。目が虚ろになり、激しく動き出す。私の隣に座っていた救急隊員が慌ててタオルを手に取り、舌を噛まないよう、兄の口に押し込める。私も兄の体を押さえつけた。別の隊員も駆けつけ、3人がかりで兄を押さえつける。
「第三次救急に変更だ!」
押さえている隊員の1人が叫ぶ。行き先は中規模病院から、地元の大学病院に変更となった。兄の痙攣は収まらず、私たちが兄を抑えてたまま、救急車は走り出した。
救急車が到着するなり、待機していた看護師達がCT検査に連れて行く。
私はその間、救急隊員からの質問に答え、その後、夜間救急窓口で保険証の提示と、書類の書き込みをした。気を落ち着かせるために自販機でお茶を買い、精神安定剤を飲む。救急待合室には、数組の家族がいる。泣き崩れている人もいた。私は不安を感じながらも、待った。
どのぐらい経ったか、医師が説明に来た。
「脳出血を起こしています。これから集中治療室へ運びます」
目の前を、点滴を打たれながら静かになった兄が運ばれていく。看護師は汚れた衣類をビニール袋に入れて、渡した。
しばらくして、集中治療室に通された。荷物は貴重品以外預け、その前に厳重な消毒と、専門の白衣を着せられ、消毒した手ではなく足で看護師はドアを開けた。
驚愕した。左右に男女分かれて大勢の人たちがベッドで横たわっている。かつて聞いた血圧の警告音が、こだまする。兄は点滴に加え、酸素マスクが当てられていた。血圧は定かではないが、さほど悪くはなかったような気がする。でなければ記憶に残っていたはずだ。
祖母のとき、集中治療室に入った記憶はある。だが個人病院だったのでベッドは6つほど、窓の外も見えた。白い壁の明るい集中治療室。
だが真夜中のせいなのか、ここは薄暗かった。青い壁紙が印象に強い。私はまもなく退出を促された。帰宅は午前4時、タクシーで帰った。改めて兄の入院グッズを持っていかねばならない。帰宅すると母は起きており、父も部屋から出てきた。
「あの馬鹿が!」
両親が揃って悪態をついた。
仮眠をとってシャワーを浴び、市役所に出向く。兄の入院上限証明書を取るためだ。それと普段、パジャを着ない兄のパジャマ、下着も購入した。下着はヨレヨレのしかなかったのだ。それら入院に必要なものを持って、地元の大学病院へ行った。集中治療室には入れないので、荷物を専任看護師に渡す。
そして改めて入院窓口で手続きをして、保険証と入院上限証明書を提示する。
帰宅後、兄を可愛がっていた母の末っ子弟に、母が電話するという。報告ぐらいならと、私のスマホから電話をかけた。後悔した。2階から子機を持ってくるべきだった。私はスマホをデータ専門で使っているので、通話プラン未加入である。そのスマホで、母は叔父と、延々話しているのだ。次の請求書の額に驚いたが、家計費から差っ引いた。
このときの入院計画書、および救急医の説明メモが残っている。
入院計画書『左脳脳皮下出血』、症状、意識障害および痙攣。
説明メモ。3月23日(3月22日)、左脳の脳出血。今後残ると考えられる後遺症、
①右手足は改善。右側見落とし、注意力低下。
②発音
③長く喋ると、言い方がスムーズに出ない
④いくつかの事を一度にしようとすると、誤ることがある。
3月24日、都内の大学病院内分泌内科を母が受診。
翌朝25日、母の狭心症発作。ニトロを舌下に入れて溶かして収まる。
3月26日、地元の大学病院へ母と行く。兄の面会が許されたので、集中治療室に消毒してから入れてもらう。兄は意識を戻していたが、目が虚ろで話しかけても反応がない。
集中治療室を出てまもなく、母が狭心症の発作を起こした。私は慌ててニトロを取り出し舌下に入れる。看護師さんが車椅子を持ってきて救急室へ移動させた。発作はすぐに治まったが、暫く安静にしているよう言い渡された。母にとって、それだけショックだっのだろう。
3月27日、地元の大学病院へ着替えを持っていくと、兄は集中治療室からワンランク下がったHCUに移された。呂律は回らないが、言っていることは理解出来ているようだ。
とりあえず危機は脱したようだ。
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