月下美人  頑張った母ちゃんの闘病記

酒原美波

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第七章 オンボロな鎧

月下美人

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1.兄のリハビリ
 4月2日、地元の大学病院へ、兄の面会。確かこの前後に大部屋に移動になったと思う。詳しくスケジュール帳に書かれていないのと、記憶が曖昧で定かではないが。医師が今後のことを説明したいと希望しているというのを、看護師から聞いた記憶は何となくある。
 翌日、退院に向けて兄の汚部屋を片付けた記録が残っている。本当に、数日かかって片付けて、40リットル袋3個分は捨てた。それ以上捨てると帰宅した時に暴れそうなので、棚やクローゼットに片付けられるものは突っ込んだ。

 4月4日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の予約受診、それ以外に循環器内科へ予約外で、母は受診した。
 循環器内科診察を希望したのは、兄が倒れた翌日の3月25日と26日に連続して狭心症発作を連続して起こしたからだ。
 心電図に問題は無かった。診察で、「発作の回数が増えて、痛みがカテーテル手術のときより悪化したら、早目に診察を受けてください」と言われた。検査入院が早まる可能性もあるという。

 4月5日、地元の大学病院の脳外科医と面談。兄の状態と、今後のため、帰宅よりも一旦リハビリ病院へ転院した方が良いと言われた。指定されたリハビリ病院には、地区の介護相談窓口があるので行ったことがある。私は了承したが、兄は不貞腐れていた。そんな状態で退院されても負担は私が背負う羽目になるので、無視。
 4月11日、地元の大学病院に兄の面会。着替えを届けに行った際に、テレビカード代が足りないと兄に文句を言われる。コッチの経済を考えるつもりはないらしい。1日中、テレビを見せるほどの金は無いのだから、決めていたお金しか渡さない。兄はまた不貞腐れた。この日は3月分の入院費の支払いもした。

 4月14日、兄の転院の相談のため、リハビリ病院へ打ち合わせに行く。

 4月16日、地元の大学病院に、兄の面会に行く。その際、看護師から兄が暴れたことを聞かされた。
 私はこの日から、大人になってから珍しく熱を出した。3日間、38度の熱を出していたと記録されている。疲労も溜まっていたのだろう。

 4月19日、地元の大学病院内分泌内科と皮膚科、父の予約受診。

 4月20日、地元の大学病院へ、母と一緒に兄の面会に行く。この日は医師との面談もあった。記録にはないが、リハビリ病院から許可が出た報せを聞いたのと、退院日の相談だったと思う。
 兄の面会はそれ以後、転院まで書かれていない。確か衣類とタオルをレンタルに切り替えて、下着は紙パンツだからいいやと思った気がする。
 面会を控えたのは、面会に行くと甘えから横暴に振る舞われることを、腹に据えかねたからだ。それと両親の世話で、こちらの心身もキツい。

 5月1日、地元の大学病院からリハビリ病院へ、兄が転院する。病院から普通のタクシーでの移動は無理だと言われて、救急車仕様の介護タクシーを頼んだが、高額を支払う必要はなかった。兄はせっかくのベッドに横たわらず、補助席に座り込んでいたのだから。
 到着後、診察室で医師と病棟看護師長、それとリハビリの先生が同席しての説明だったと思う。兄の脳出血の場所は、言語野部分。手足よりも、思考や話し方のリハビリに力を入れるといった内容だったように記憶する。本当にスケジュール帳詳細がないと、カレンダーのメモと断片的な記憶だよりだから、不便で曖昧だ。だが時折、なんてことないことだが強烈な記憶も混じっている。
 病室に案内されて、寝巻きに着替える。これは自宅から持参してきた大荷物に入っていたものだ。兄は相変わらず不機嫌だった。担当の看護師は「脳出血の患者さんは、今まで出来ていたことが出来なくてイライラしているのですよ」と説明してくれた。ああ、そういうことだったのか。私は兄に冷たくしたのを後悔した。 

 翌日2日、副鼻腔炎が悪化したので耳鼻科へ行く。ゴールデンウィーク目前だったので、混雑していた。
 ゴールデンウィーク期間中で通院付き添いのない朝の犬の散歩をしている時、広場(父を3代目愛犬が噛んだ場所)から病院の建物が見えるので、試しに川沿いの堤防を歩いてみた。往復で1時間半かかった。自転車なら、この道で行けるかもしれない。だが自転車置き場が、外からだと見当たらなかった。

 5月5日、リハビリ病院へ母を連れて兄の面会。バスを降りてから住宅街を通っていくと道が複雑なので、堤防へ一旦出て、病院を目指す。私一人ならなんてことない距離だが、母には足場も悪く歩きづらかっただろう。川原でキジを3匹連続で見たのは驚きだった。
 兄との面会に、母は色々尋ねていた。兄は懸命にリハビリのことを語る。大学病院より、気持ちが安定したように見える。リハビリ病院だけあって、基本的なことは自分でやるよう推奨されている。
「今度、靴下を持ってきて。荷物に入ってなかった」と、たどたどしく言われた。
 あ、すっかり忘れていた。必要なものがズラズラとリストに書かれていたので、そちらを優先していたので、靴下のことは全く頭から抜け落ちていた。
 帰路は母の足ではバス停に出るまで不便なのと、バスの本数が少ないので、院内のタクシー送迎専用電話からタクシーを呼んで帰宅した。
 5月7日、兄の面会。靴下を含めた着替えを持っていく。体育館での運動リハビリに、簡単な運動着が必要だった記憶がある。だから着替えが両親の時より増えてたと思うが、これも曖昧だ。ともかく荷物が多かった。兄から頼まれた、兄の自室にある鉄道雑誌も持っていった。
 1人なので帰路は、試しに住宅街を通ってバス停に出た。道が複雑で大通りまで出るのに迷ったのと、道幅が狭いので車が来ると壁ギリギリまで避けなくてはならない。「道が悪くても、堤防を使ったほうが早いな」というのが私の結論だった。
 5月8日、都内の大学病院まで1人で行く。書類とだけ書かれていたが、難病申請更新に必要な医師の診断書だ。その週の12日、母の眼科帰り、難病申請更新の書類提出と書かれていたから。 
 その帰りに、都心へ出てきた友人とランチに行く。 

 5月10日、天敵先生クリニックを母が受診。

 5月14日、リハビリ病院へ兄の面会と着替えの持参、汚れ物回収。兄からジュースを買う小遣いを上乗せしてくれと言われて、仕方なくテレビカード代に加えて、ジュース代も置いておく。
 ああ、多分この日だ。詳しく書かれていないが、鮮明な何気ない記憶。母がタクシー代が勿体ないと言うので、バス通りまで堤防経由で大通りに出る。夏のような暑さだった。お腹が空いたが、バス停近くにカフェはない。バスをしばし待って、自宅最寄りのバス停で下りる。近くのコンビニで、冷たいうどんを購入して帰宅。母と一緒に、ちくわの磯辺揚げと半熟卵の入ったうどんを食べた。何故かこの記憶が眩く刻まれている。

 5月16日、近所のコンビニへ大学病院入院中の衣類レンタル代を支払う。

 5月20日、リハビリ病院へ、兄の面会と着替えの回収。この日は医師との面談があり、母と一緒に赴いた。話は、退院予定日についてだった。順調に回復して、情緒も落ち着いてきたからだ。
 帰り、病院前に送迎バスが停まっている。運転手さんに尋ねると、途中下車可能ということで、母と乗り込む。大通りで下ろしてもらう。これは便利だった。他の乗客には迷惑だろうけど。
 その後、退院まで兄の面会について書かれていないが、少なくとも2度は母と一緒に行っている。断言出来るのは、送迎バスで駅まで一旦出て、カフェでお茶してから駅ビルで買い物をし、バスで帰宅したからだ。物凄く大回りになるが、この方法だと自宅方面バスの発車時刻も正確で、一番楽だった。なにより、受診のないカフェでの休息と時間を気にしないマイペースでの買い物を、母はとても喜んだ。

 5月25日、都内の大学病院循環器内科を、母の予約受診。心電図と心エコーを事前にとってから、受診。地元の駅ビルで、トンカツ定食。

 5月29日、兄の退院。10時半までに迎えに行く。タクシーで帰宅後、二階の自室で「布団が新しくなってる!」と兄は喜んだ。前の布団、発作起こしたときの失禁を放置したままだったので、古いこともあり、買い換えたんだよね。  

2.通院付き添い多忙
 6月2日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
 6月6日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科の母の予約受診。

 6月7日、地元の大学病院脳外科を兄が受診。検査は採血とレントゲン。ここでの入院がよほど不満だったのか、兄が久々に不機嫌になる。だが脳出血を起こしたのだから、この診察は外せない。薬の処方を待つ間、兄は先に帰宅した。
 6月9日、地元の大学病院皮膚科と消化器内科、父の予約受診。大腸内視鏡検査の予約。

 6月13日、都内の大学病院に母が検査入院する。心臓カテーテル検査だ。
 入院計画書の病名は『労作性狭心症』、他に考え得る病名は『冠攣縮性狭心症の疑い』、『多発血管炎性肉芽腫症』、『脂質異常性』、『2型糖尿病』、『気管支喘息』と書かれている。 
 治療計画は、『冠動脈造影検査を施行する予定』と記載されている。

 6月14日、太腿の血管から心臓カテーテルを入れていく。カテーテルは10時から正午までかかる。この日は早くに面会に行った。と言うか、カテーテル終わるまでに来てくださいと言われていた。
 13時から17時半まで、太腿の止血を見張るためだ。母はベッドで絶対安静、足の折り曲げ禁止。すぐに足を曲げようとする母の足を、布団ごしに戻す。
 母の夕食を見届けてから、帰宅。
 6月15日、都内の大学病院を母、午前中に退院。地元の駅ビルで「あんかけ焼きそば」と言うので、中華屋に入る。母は「春巻きもいいな」というので、春巻きも頼む。あんかけ焼きそばは、私の胃には重いので、大抵はおかゆ定食か鶏ガラ塩ラーメンを食べていた。

 そういえば時期は覚えていないが、かなりの前の話。母の入院中に、途中の駅で進行方向が変わる電車の乗り換えため、下車した。自宅方面の電車まで少し時間があったので、駅の構内を散策。有名店の一人用のくず餅カップを見つけて購入し、父のお土産とした。父は喜び、翌朝の犬の散歩の後に食べると言っていた。
 ところが翌朝、カップくず餅が無いと父が騒ぐ。おかしいな、確かに父の席の座卓に置いておいたのだが。座卓を使っていたことからして、父の透析前だ。透析直前に、座卓を処分してテーブルに変えたのである。
 夜勤明けの兄がたまたまトイレに起きてきたので、「まさかくず餅を食べてないよね?」と聞くと、「あれ?俺への土産かと思ったから、帰宅後に食べた」と言った。あのときの兄は帰宅の遅い仕事をしていた。
 父は楽しみにしていただけに、怒り狂った。私は「あれ、父さんの分だよ。父さんの席の前に置いてあったでしょ?」と呆れた。くず餅は冷蔵庫に入れると固くなるので、常温保存。有名店のくず餅は、無添加なので消費期限が短い。
「俺だって食べたかったんだよ!」という兄。父の怒りを鎮めるために、「明日の面会帰りに、今度は皆で食べられるサイズを買ってくるから」と約束して、父は怒りの矛を収めた。
 そして翌日の母の面会帰り、降りる必要のない電車にも関わらず途中下車して、有名店のくず餅の大きいサイズを購入して帰宅。
 父はよほど楽しみだったのか、私の帰宅後にすぐ食べたいと言い出す。三角形に切って、皿に3人分乗せる。兄の分を除いたきな粉と、容器に入った黒みつを兄の分量だけ残して、父と私の2人分にかける。父は「うまい、うまい」と食べていた。
 …あのお店は、いまはあの駅構内にない。たまに別の駅で見かけたりもするが、思い出が強すぎて、1人用カップくず餅を買う気にもなれず、今に至る。
 食の思い出ハードルは、それだけ高く、克服するのに勇気がいるのだろう。
 母と病院帰りによく食べた蕎麦屋と寿司屋は入れないのに、何故かトンカツ定食だけは疲れた時に食べに行く。ここが一番思い出深い場所だが、食い気の方が勝っているようだ。一人暮らしでは揚げ物も非効率だし、総菜を温めて食べるのは味が落ちるというのもある。そもそも家族が生きていた時に活躍した天ぷら鍋は、母の死後、早い時期に処分した。

 6月22日、透析クリニックへ父を迎えに行く。確か翌日の大腸内視鏡検査に備えて、お弁当を一時中断し、それだと送迎時間まで空腹で待たねばならないので、迎えに行ってタクシーで帰宅したのだ。
 6月23日、朝から父の大腸内視鏡検査。大量の水溶性下剤を時間を置きながら服薬して、便を出し切る。父の便の色の確認も慣れたものだ。
 6月26日、保健所で父の難病申請を行なう。都道府県によっては該当しない地区もあるようだが、我が家のある場所は腎不全は難病対象だった。

 6月28日、地元の大学病院脳神経外科を兄が予約外で受診。鼻血を数日前から毎日出していたからだ。
 7月4日、地元の大学病院に兄が入院。病名『海綿状血管腫』。治療計画、脳血管造影検査。看護計画、異常の早期発見に努めます。
 スケジュール帳のメモには、検査時間1時間半と書かれている。
 7月5日、地元の大学病院を兄が退院。

 7月7日、都内の大学病院内分泌内科に、母の予約受診。

 7月10日、別の市の消化器クリニックへ兄を受診させるため連れて行く。
 7月14日、地元の大学病院消化器内科を、父の予約受診。大腸内視鏡検査で、ポリープ2個が見つかる。10月に内視鏡切除後が決まる。
 7月19日、地元の大学病院内分泌内科、父の予約受診。同時に予約外で兄の脳神経外科受診。相性の悪い2人を連れて行って、苦労した記憶がある。記録は残っていないが。

 7月25日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、循環器内科の母の予約受診。

 8月2日、地元の大学病院消化器内科を兄が受診。
 そうか、別の市のクリニックから、「脳出血を起こしたのなら、同じ大学病院で診てもらったほうが良い」と、紹介状を渡されたのだ。兄はあのクリニックが気に入っていたし、地元の大学病院の消化器内科を一度、辞めているので拗ねた。こちらとしても気が重かった記憶がある。

 8月4日、天敵先生クリニックを、母の定期受診。
 8月14日、地元の大学病院消化器内科、兄の検査。ご飯と水無しと、書かれている。何の検査だったかは記載も記憶もない。
 8月16日、地元の大学病院呼吸器内科、父の受診。これは何で呼吸器内科受診が復活したのだろうか?記載が無いが、おそらく透析クリニックの紹介状だったと思う。
 8月25日、地元の大学病院皮膚科、父の予約受診。
 8月28日、地元の大学病院消化器内科、兄の胃カメラ。
 9月6日、天敵先生クリニックの、母の定期受診。
 9月11日、地元の大学病院消化器内科、兄の予約受診。

 全く病に関係ないが、9月10日に3代目愛犬が、遠吠えをする。この犬が遠吠えしたのは、東日本大震災の1週間前から本震までの期間以来だ。地震が来るかもと思っていたら、翌日の夜中に地元を震源とする地震が発生した。規模はそんなでもなかったと思うが、その後も2日間、遠吠えの記録が残っている。だがその後、大きな地震は無かった。 

 9月25日、地元の大学病院消化器内科で、兄の造影剤CT検査。採血と受診。
 10月2日、天敵先生クリニック、母の定期受診。このとき天敵先生から大学病院宛の紹介状を託される。膠原病内科、できれば呼吸器内科が理想だと記入がある。
 10月4日、地元の大学病院内分泌内科と呼吸器内科の、父の予約受診。

 10月6日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。

 大腸内視鏡ポリープ除去に向けて、父のプラビックス服薬が10月13日から停止される。同時に父の食材制限が始まる。確か透析クリニックにその事を伝えて、禁止食材を看護師に除去してもらってお弁当は止めなかったと思う。記載はないが、送迎記録もないため、おそらく合っているはずだ。

 10月18日、地元の大学病院で、父の大腸内視鏡ポリープ除去手術が行われる。同時に、兄の脳外科予約受診。
 10月21日、プラビックス服薬再開。

 10月23日、地元の大学病院消化器内科、兄の予約受診。血液検査説明は以下の通り
 AST(GOT) 兄の数値93 33から100肝硬変、心筋梗塞
 ALP 兄の数値740 501以上で劇症肝炎で死ぬ危険性UP、進行すると肝性昏睡が起こり、目覚めなくなる。
 γ-GT 兄の数値88、肝臓がアルコール、薬物で壊されると上昇。基準値70以下
 中性脂肪 兄の数値254 通常値50~149動脈硬化が進行する。狭心症、心筋梗塞、脳梗塞を起こす原因となる。死ぬ危険性UP
 「劇症肝炎」の説明。劇症肝炎は発病から8週間以内に意識障害など肝不全が起こる。極めて予後が悪く、治療法は患者の血小板を新しいものに取り替える血小板交換療法。初期症状は、風邪のように発熱、筋肉痛、だるさ、食欲不振。尿の色が濃くなる。肝性脳症が出ると、うわ言を言う、錯乱状態となる。

 10月25日26日、地元の大学病院に父が検査入院。透析を病院で行ってから帰宅。何の検査だったか、記載なし。だが後に、呼吸器内科受診完了と書かれた日、「肺の白い影」と記入されているので、恐らく肺の検査だろう。
 10月27日、地元の大学病院皮膚科、父の予約受診。何で入院中に行ってくれなかったかなぁ?
 10月30日、天敵先生クリニックで母のインフルエンザ予防接種。
 父は透析クリニックで集団接種を受けている。
 11月1日、地元の大学病院呼吸器内科を父が予約受診。
 11月10日、地元の大学病院消化器内科、父の予約受診。
 11月19日、父の眼鏡を作りに行く。それまでは確か、運転用の古い眼鏡を引っ張り出して使っていたのだ。21日以降に出来上がりと書いてあるが、いつ取りに行ったかの記載がない。多分その直近の日曜だと思うが。

 11月21日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母の予約受診。
 11月24日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。

 12月1日、天敵先生クリニックで、母の肺炎球菌ワクチン接種。それと定期受診。
 12月20日、両親それぞれの介護保険面接。
 12月27日、地元の大学病院内分泌内科と呼吸器内科と皮膚科、父の予約受診。

3.病院流浪人
 元旦、昨年は私を除く家族全員風邪でダウンしたことにより、私がおせち料理を数日かけて平らげた。それと同じおせち料理を前年注文して、大晦日に届いた。今回は家族全員で食べた。
 透析クリニックから、おせち料理の塩分量についてのプリントが配られ、分量に注意するよう書かれていた。だが父は無視してパクパク食べていた。

 翌日2日、友人4人で恒例の初詣。今回は鎌倉。目当てが、鶴岡八幡宮の参道にある分厚いホットケーキで、開店前から並んだ。
 この日は鶴岡八幡宮だけでなく、円応寺(閻魔大王をはじめとする、死後に巡る大王像を展示)、東慶寺(豊臣秀頼の娘・天秀尼が入ったお寺、女性の駆け込み寺)を巡る。その間にたまたま入った和食店が、友人のお姉さんの結婚式で使われた店だったり、大船に出てお茶したりと充実した初詣だった。

 1月3日、父と近所の神社参拝。その後、バスで駅に出て、駅ビルと近くの本屋で、父はこれまで病院帰りの本屋しか立ち寄れなかったので、その間に出たが買えなかった新刊文庫本や面白そうな本を大量に買い込む。帰路はタクシー。
 1月4日、近隣最大の駅周辺の本屋に1人で行く。前日に好きな海外小説家の翻訳文庫本が出版されていたのを見つけたが、例のごとく1巻がなかったのだ。そして帰宅後に読みふけって、2巻目の巻末にショックを受けた。未完のまま、作家はこの世を去ったのだ。共同執筆者だった奥さんを前年に亡くし、後を追うように病死したのだった。私はこの作家さんのデビュー作シリーズが大好きで、自分が亡くなるときにお棺に入れてほしいと思っている。このデビュー作全15巻(後に改めて出版されたときは20巻)のうち、第1巻と第2巻は母方の祖父が本屋で、「好きなのを選びなさい」と、私のために買ってくれた形見でもある。
 1月7日、初詣メンバーで上野にゴッホ展を観に行く。美術館併設のレストランで、ゴッホ展にちなんだランチセットを食べた。

 …2018年、この年は幸先の良いスタートが切れたと思った。だが父と兄の病院について、これほど苦労した年はなかった。

 1月10日、地元の大学病院脳神経外科を兄の予約受診。この日はMRI撮影をしたが、放射線科のシステムトラブルが発生して、診察の際の画像が出てこないアクシデントが発生した。
 1月15日、地元の大学病院消化器内科を、兄が受診。採血室がとんでもなく混んでいた。

 1月16日、都内の大学病院で母の胃カメラ。10時予約だったので、7時半に家を出る。この時間は特別快速が1時間1本しかないので、電車乗車時間が通常よりも時間がかかるのだ。

 1月17日、父を眼科クリニックへ連れて行った際、父が腹痛を訴える。
 1月22日、父の通う透析クリニックは、年に一度、本院である病院で精密検査をする義務がある。本院は都心にある。通常ならともかく、この日は午後から降雪で帰路に苦労した記録がスケジュール帳に残っている。今回の雪は30センチ積もったと記入されていた。

 1月23日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、泌尿器科を、母の予約受診。
 夕食を駅弁にしようとしたが、前夜の大雪のために構内の弁当屋も品薄だった。そして電車を降りてから自宅行きのバスが運行中止のため、別のルートのバスでこの日はバスを往復した。記録にはないが、確か都心へ通勤する幼馴染が報せてくれたので、だからこの日は夕食の作り置きをせず、早目に家を出たのだ。

 翌日、私は自分の精神科クリニックと胃腸科クリニックをハシゴした。胃腸科クリニックで待合室で読書していると、声をかけくる人が。別人に声をかけているのだろうと無視したが、その人は私の肩に触れてくる。「なに?」と思って顔を上げると、親友だったので仰天した。

 1月26日、天敵先生クリニックを、母の定期受診。近所の仲の良い人がいて、待合室で母とその人はお喋りに夢中。
 この日は朝の散歩で、アイスバーン化した道で私が転んだと記載がある。そりゃあ、記入されている気温が氷点下7.8度なら、カチカチに凍るわな。
 2月7日、地元の大学病院脳神経外科を、兄が受診。

 2月11日、父のリクエストでカキフライ、エビライ、唐揚げを揚げる。あれだけ沢山あげたのに、家族全員で平らげた。「やっぱり自宅の揚げたては美味いなぁ」と、父は揚げたそばからパクパク食べていた。まだ食欲旺盛だったんだな、この頃は。
 この年は冬季平昌オリンピック。メインはやはり、男子フィギュアスケート。だが他の競技も家族で、夢中になってテレビ観戦した。兄はさほどではなかったが、両親と私はテレビスポーツ観戦が好きなのだ。スケジュール帳には、日本勢の競技メダル獲得数が書き込まれている。
 2月17日の男子フィギュアスケートで、母も夢中で観戦しながら話しかけてくるが、親友とのライブ観戦メールに忙しい。この日の羽生結弦選手金メダル、宇野昌磨選手銀メダルに狂喜乱舞。「やっぱり羽生結弦君、かっこいいわねぇ」美形好きの母がウットリ。同感です。私も親友と、この頃は羽生選手の熱烈ファンだったので。

 2月21日、地元の大学病院脳神経外科を、父の予約受診。兄のときと同じ先生のため、何度、顔を合わせていることだろう。苦笑。
 2月26日、地元の大学病院消化器内科を、父の予約受診。

 3月2日、都内の大学病院内分泌内科を母の予約受診。

 3月4日、父と駅ビルへ出向き、父が新刊買い込み。私も欲しい本を買ってもらう。帰りはお弁当を買って買った。家族皆が好きなお店のお弁当だ。そしてこのお弁当を喜んで食べた兄は、この夜以来、何も食べられなくなった。
 3月6日、自宅用の確定申告を提出。毎年苦労するが、この年は兄の確定申告もしなければならないため、翌日に税務署へ兄の書類を取りに行く二度手間。もっと早く言って欲しかった。だが言い出しただけ、兄は偉かったかもしれない。この後、まもなく爆弾が投下される。

 3月8日、兄の体が動かなくなる。19時、救急車を呼んで地元の大学病院へ運んでもらう。兄はそのまま入院となった。診断、『肝性脳症』。
 医師の説明
 ①アルコール性肝硬変 
 ②肝性脳症 
 ③肝腎症候群 
 ④電解質異常
 ⑤静脈瘤
「病状としては肝不全に近い状態、肝障害に伴う腎機能障害(いわゆる肝腎症候群)、凝固因子が製造不能となっている。入院後のCT検査で、左胸水、腹水貯留も見られます。全身状態は徐々に悪化していると考えられる。また、今後、静脈瘤破裂の危険性もあります。今後状態急変した際に、心臓マッサージ、人工呼吸装着など延命処置について相談してください。仮に延命しても、肝臓などが正常に戻るわけではなく、一時しのぎに可能性が高いです」
 私は深夜24時にタクシーで帰宅した。

 3月9日、母の眼科。母は眼底検査で待ち時間に時間がかかるため(患者混雑も毎回している)、待ち時間を利用して、税務署に兄の確定申告書類を提出。診察後、処方箋薬局に立ち寄ってから、母を自宅に送り届ける。
 そしてすぐに地元の大学病院に、兄の入院グッズ一式を持っていく。大部屋が取れなかったので、1日17000円の個室を使うしかなかった。財布が痛い。いつ大部屋移動になった記入がないが、割と早く移れたと思う。
 3月11日、自治会の総会に参加。その後の懇親会は事情を話して欠席し、兄の面会のため地元の大学病院へ向かう。
 3月14日、地元の大学病院呼吸器内科と内分泌内科を父と受診。内分泌内科主治医から、ボロクソに言われる。呼吸器内科は肺の白い影が消えたため、今回で診察終了。
 同じ病院なので、兄の面会を父と一緒に行く。

 3月17日、地元の大学病院で兄のことについて面談。同席したあるのは病棟医の他に看護師、医療コーディネーター。このまま寝たきりの可能性が高く、療養型病院の転院を勧められる。障害者手帳と介護保険は、禁酒半年以上経たないと習得出来ない。
 兄は隠れて酒を飲んでいた。アルコール依存性は治らない。苦労して寛解しても、少しの酒で元に戻る不治の病だ。
 兄が酒に溺れるようになったのは、正社員の声がかかった会社で、些細だが致命的なミスを犯し、謹慎後半月経ってから解雇されたのが、きっかけだ。この会社での仕事が兄は大好きだった。正社員になれる夢を目前にして、自分のミスとはいえ、解雇となった。その苦しみから逃れるために酒に走ったことを、家族は気付けなかった。これは私達にも責任がある。
 私は常々思っている。個人が叫んでも、アルコール依存性体験者の出版書籍が沢山あっても、世間には届かない。一番の近道は、アルコールで失敗して芸能界を追放された芸能人を、もっとメディアが活用するべきだと思う。臭いものにフタをするのでなく、いかにしてアルコールが恐ろしいかを、メディアで赤裸々に語ってほしい。それでも苦しみから逃れようと、酒に溺れる人を助けることは出来ないかもしれない。
 だが酒に溺れた人に寄り添って、寛解に導く家族や知人がもっと増えれば、苦しむ人の心を救えるのではないか。
 やるせない思い。

 3月18日、祖父の月命日墓参へ父と行く。
 3月19日、地元の大学病院へ兄の面会。兄がこの日、監視室から元の病室(大部屋)に移動となる。食事が再開。動けるようになっていたので驚いた。

 付箋がスケジュール帳に貼られている。一般社団法人日本透析医学会。血液透析患者治療ガイド。「透析起因性高血糖」。
 たぶん、前回の内分泌内科主治医に言われたことが悔しくて、調べまくったのだろう。当時のことは兄のことで頭がいっぱいだったので、父のことの記憶がない。だが恐らく私はあのとき、内分泌内科主治医に言われたことが納得がいかなかったのだ。

 3月23日、地元の大学病院へ兄の面会。
 3月24日、バラの鉢植えの土を入れ替える。4鉢が枯死していた。新たに出た品種ばかりだったこと、今年の大雪など要因があるが、私はバラが兄の身代わりになったような気がしている。2代目愛犬が、母を助けるかのように、この世から旅立ったときのように。
 3月25日、地元の大学病院へ兄の面会。

 3月27日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が受診。膠原病内科の主治医が、長期療養のため病院を休み、代替の先生となる。とても心遣いの細かい良い先生だったので、驚いたし残念だった。
 呼吸器内科も主治医が今回限りで異動となり、来月から新たな主治医が就任する。

 3月28日、地元の大学病院脳神経外科、父の予約受診。MRI検査を行なう。首の動脈の詰まりあり。
 診察終了後、兄の面会へ行く。
 3月30日、天敵先生クリニックを母の定期受診。
 3月31日、地元の大学病院へ兄の面会。兄の癇癪に怒り沸騰と書かれている。
 4月2日、地元の大学病院、母と一緒に、兄の退院についての話し合い。前回とは違う病棟医、医療コーディネーター、看護師同席。
 寝起きにベッドが必要とのことだが、介護保険が出ないので実費でレンタルすることになる。そして2階へ上がれないため、リビングにベッドを設置することになる。アルコール依存の弊害が、ここでも出る。本当に、介護保険が使えれば経済的に楽だったのにな。
 4月3日、病院から紹介された介護レンタルで、ベッドを借りる相談。兄が巨体のため、大きめのベッドを借りる必要がある。お金が飛ぶ(泣)。
 4月4日、地元の大学病院皮膚科と、予約外で内分泌内科受診。内分泌内科医と不快な会話をしたらしい。スケジュール帳に、悪態が書かれている。
 ついでに兄の面会。兄の退院日程が決まったと、入院病棟から告げられた。
 4月5日、地元の大学病院へ兄の面会。面会というか、着替えの持ち込みと、汚れ物の回収。相変わらず癇癪が酷くて、用が済んだらすぐに帰宅した。
 4月6日、兄のレンタルベッド配達。月13000円、そりゃあ大手の介護用ベッドなら高いわな。母もリビングで寝起きしてるので、リビングが入院室みたいになった。レンタルベッドを試して、母が羨ましがったが、勘弁してくれ。
 4月10日、地元の大学病院を兄が退院。タクシーで帰宅。3月と4月の入院費に目の玉飛び出た。高額療養費付きでも17万円とは(泣)。

 4月11日、地元の大学病院へまず午前中に兄の受診。皮膚科。それと消化器内科で便秘薬の相談。
 午後は父のCT検査だが、兄の診察が押して父の迎えに間に合わないため、母にタクシーで父を連れてきてもらう。検査後、家族でタクシー帰宅。

 4月12日、日本橋高島屋へ親友と「羽生結弦展」へ出向く。長蛇の列で入場まで時間がかかり、グッズは争奪戦。売り切れ続出で目当てが手に入らず。だが日頃のストレス解消となり、久々にとても楽しかった。
 後日、確か横浜展だったと思うが、別の友人が1人で行ったときには、グッズは豊富にあったと、戦利品写真をメールで送ってくれた。

 4月16日、天敵先生クリニックへ、地元の大学病院紹介状を持って兄を連れて行く。ここでも厳しいことを言われたため、兄は不貞腐れる。
 4月18日、父を眼科へ連れて行った際、医者から電話があったと記載されているが、かかりつけ医が多すぎて、どの医者だったか今は思い出せない。ただクリニック内で聞きづらかったと、記録してある。
 4月19日、玄関から門まで、手摺をつけることになった。兄のためでもあるが、両親の足もおぼつかなくなってきたので、介護保険助成で取り付けた。

 4月20日、都内の大学病院内分泌内科を母の予約受診。診察が押したので、母と地元の駅ビルでトンカツ定食を食べて帰宅する。この日は内分泌内科主治医が交代して初めての受診だった。

 4月23日、地元の大学病院消化器内科を、兄の予約受診。外来主治医に、「もう治療しても、余命も短いだろうから、診察も無駄だし来なくていい」と言われる。
 なら最初から、退院時に予約受診を入れずに拒否してほしかった。私は泣くのを堪えながら、「お世話になりました」と、診察室を兄と一緒に出た。スケジュール帳には、「死にたい」と沢山書かれていた。当時を思い出すと、今でも吐き気がするほど気分が悪い。
 酒を止めない兄が悪い。しかし、当人の目の前で、あんな酷いことを言ってほしくなかった。
 兄を連れて帰宅後、母の難病申請更新のためバスで駅に向かい、保健所に提出する。そして終わってから自棄食いしたが気分晴れずと書かれていた。

 …この日以来、スケジュール帳は暫く空白となる。これからしばらくは、当時のカレンダーのメモを頼りに記憶を掘り起こしていく。

 4月25日、地元の大学病院消化器内科は予約受診、内分泌内科を予約外で、父を受診させる。
 午後、天敵先生クリニックへ兄を連れて行く。
 思い出した、このとき天敵先生クリニックを受診したのは、新たな兄の診察先病院をネットで調べて、紹介状を書いてもらうためだった。そして調べた病院に電話をかけて、紹介状が出来次第、来てくださいと言われたのだった。

 4月26日、兄を新宿の消化器病院へ連れて行く。道が複雑で迷いながら、やっと到着。初診は若い先生が担当したが、兄が暴れ出したため、診察部長が担当を代わる。私はこの先生が目当てで、この病院を選択した。消化器内科の名医とネットに書かれていたからだ。
 名医の丁寧な問診で、兄は落ち着いた。さすが名医と謳われるだけある。

 4月27日、午前中に母を天敵先生クリニックへ定期受診に連れて行く。
 午後、地元の大学病院で父のMRI検査。

 5月1日、新宿の消化器病院へ兄を連れて行く。造影剤CT検査予約とカレンダーに記載れている。
 5月2日、地元の大学病院へ兄は脳神経外科、父は消化器内科の予約受診。兄は消化器内科は切られたが、脳神経外科主治医は引き続き担当を受け持ってくれている。父も診てくれる先生で、始終穏やかで丁寧な診察をしてくれる医師だった記憶がある。
 5月3日、兄のレンタルベッドを返す。
 帰宅後、新宿まで行けるほど回復していたのと、リビングで母のイビキがうるさいと、二階の自室に戻っていたので、せっかくの高いレンタルベッドは、昼間リビングのテレビを見る椅子代わりに使用していただけだった。

 5月7日、初めて糖尿病クリニックへ父を連れていき、受診。
 実は地元の大学病院内分泌内科の相性の悪い医師から、「ウチへ来る緊急性はないから、ここへ行くように」と、紹介状と共に突き放されたのだ。スケジュール帳に記載はないが、恐らく3月の受診でボロクソに言われた時だと思う。
 相性の悪い医師が紹介した医師だけある、こちらも厳しい先生だった。これなら父が通う眼科併設の糖尿病科でも良いのではと思ったが、ある懸念から、相性の悪い医師と縁を切るわけにはいかなかったのだ。それが4月の予約外内分泌内科受診と関係があった。
 5月9日、地元の大学病院で採血。何の診療科かまで書いていない。
 5月10日、新宿の消化器病院へ兄を連れて行く。胃カメラ検査だった。病院への近道ルートを見つけた。この道を使うと、こんな早くたどり着けたのかと驚く。

 5月11日、地元の大学病院内分泌内科、父の予約受診。相性の悪い医師だったが、見立ては確かだった。父は初期の膵臓がんだった。

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