月下美人  頑張った母ちゃんの闘病記

酒原美波

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第九章 下限の月②

月下美人

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6.ゴメンね
 父が亡くなるまで、母が徘回したカレンダーの記録は、2回しか残っていない。だが記憶の中では未遂が数回あった。いずれも父か兄の入院中で、迎えに行こうするのを止めた。ハッと我に返って「勘違いしちゃった」と言っていた。

 しかし2度、母は自分の為に脳を誤作動させたことがあった。進行性アルツハイマー認知症と診断された直後だ。先生に勧められ、私も母も半信半疑で受診したが、あの検査を受けさせるべきではなかった。認知症の進行を遅らせる薬の服用の為には必要だったかもしれない。しかし飲んだところで、喜怒哀楽の激しかった母の表情が、父と兄の体調悪化により、どんどん削ぎ落とされていく。
 あの当時は考えつかなかったが、当時の母の状態はアルツハイマー性認知症よりも、うつ病を疑うべきだった。もっとも、既に飲み過ぎなほど大量の薬を服薬してある母に、うつ病の薬を飲ませたところで、転倒リスクが増えただけだろうが。

 まだ元気だった頃、耄碌するぐらいなら、自殺するとまで言っていた母。母は自分が自分でなくなることを最も恐れていた。それなのに、成り行きとはいえ、私はそれを突きつけてしまったのだ。
 ゴメンね、母さんの心にヒビを入れたのは私だね。ゴメンね、ごめんなさい。

7.落陽
 7月1日、天敵先生クリニック、母の予約受診。
 7月12日、天敵先生クリニック、母の受診。2週連続で受診しているが、恐らく入院中の『せん妄』について調べていたのではないかと思う。そして退院時から失禁が多くなっていたので、尿取りパッドが必需品となっていた。

 7月16日、都内の大学病院泌尿器科、母の予約受診。CT検査とあるが、これは呼吸器内科で肺の状態を調べるためだった。

 7月19日、アルコール依存症取り扱い専門病院、兄の外来。
 7月20日、地元の大学病院、母が受診。詳細は書かれていないが、たぶん天敵先生クリニックからの紹介状を持って、高齢科を受診した。当時は今とは名称が違っていた気もするが。
 
 7月23日、都内の大学病院呼吸器内科、母の予約受診。

 7月29日、新宿の消化器病院を兄が予約受診。
 検査結果、この場で緊急入院。
 7月30日、母の歯科の予約受診後、タクシーで帰宅。その後、兄の病院へ入院グッズを持って出かける。

 余談だが、7月28日に私は地域最大級の花火大会へ1人で出かけている。熱中症対策万全に、早目に出かけて大迫力の花火の爆音と美しさを楽しんだ。あのとき無理して行って良かったと思う。翌年、世界が祭りどころではなくなっていたのだから。

 8月2日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。

 8月3日、新宿の消化器病院へ兄の面会。
 8月5日、父の糖尿病クリニック、受診。このとき在宅医療を約束した大雑把先生クリニックへの紹介状を受け取ったのだろう。
 8月6日、大雑把先生クリニックを、父を連れて受診。説明を聞いた父は「これは楽できそうだ」と糖尿病治療について喜んだ。だが辺鄙な場所にあるため、バスを下車してから10分ほど歩かなくてはならない。元気な頃は3時間は平気で犬の散歩をしていたが、この頃の父は足の血流が悪くなっていて、杖をつきながら、休み休みでないと歩けない。
 この杖は、2代目愛犬が他家の飼い犬に噛まれた際に、「護身に使って」と私が買ってきたものだ。しかし父は「杖なんて年寄りくさいもの使えるか!」というので、私が2代目愛犬の散歩の際に持って歩き、ロングリードにした愛犬に、杖をバッド代わりしてボール遊びをしていた。2代目愛犬が亡くなった後は、傘立てにずっと立て掛けていた。新しい杖を買おうと言っても、父は「高さ的に、これが丁度いいし、持ち手もしっくりくる」と、言って使い続けた。
 バス停手前にファミリーレストランがあって、そこで父はホットケーキを食べながら、しばしの休憩。私はパフェを食べて、本数の少ないバスの時刻まで時間を潰した。

 8月9日、地元の大学病院高齢科で、心理テストなどをする。詳しくは書かれていないが、前回の受診で脳のCT検査をしたようだ。その検査結果が出た。
 診断『進行性アルツハイマー病』
 脳梗塞の跡は、都内の大学病院脳神経外科でも指摘されていた。アルツハイマーは5、6年前から発病していたのではと言われる。脳の血流の悪さを指摘される。
 紹介状を出した天敵先生に診察を戻すが、対応しきれなくなったら、改めて紹介状持参で大学病院わ受診するように言われた。
 母は「嘘だ、何かの間違えだ!」と医師に言った。私も信じられなかった。確かに退院後は、ヤカンを沸騰させるためガスをつけっぱなしにして空にしたりと、問題行動を起こしていた。だがこれも、『せん妄』の後遺症だと思っていたのだ。 
 母は信じなかった。私も信じられなかった。

 8月20日、夜中の1時に幻覚と記載。確か叫び声が聞こえて、皆が母の元へ駆けつけたとき、母は「祖父がそこにいる!」と壁に向かって指さして、脅えていたのだ。飲み物を飲ませて落ち着かせ、ようやく眠らせた。翌朝には、真夜中のことを覚えていなかった。幻覚だったのか、夢だったのか、迷うところだ。

 8月26日、小規模多機能型居宅介護のデイサービス面談。「誰」のためか書かれていないが、恐らく父の入所についての話し合いだろう。
 以前、盆踊りの時期にと書いたが、時期的に盆踊りは後片付けで、この近くの神社の例大祭の準備があったので、混同していたのだろう。
 神社の例大祭には、昔、家族で何度か日が暮れてからバスに乗って出かけた。露店がズラリと並び、祭り見物人でごった返す。
 翌日の昼間にはお神輿と山車でパレードも開かれた。そちらは露店が片付けられていたので興味はなかったが、車で市街地へ買い物へ行くとき、片側一車線に規制された横を、たまたま通り抜けたことがある。こんな大掛かりな事をしていたのかと驚いた。メインはこちらだったのだろうけど。
 母はキラキラ光るものが好きだった。グラスファイバーで5色に輝く電灯や、水中花を買い、ガラス細工くじをよくやっていた。父と兄は、露店の食べ物メイン。
 今は禁猟で手に入らないが、昔は海ホオズキというものがあって、母は祭りや海辺に旅行へ行ったとき、よく買っていた。庭に繁殖したホオズキの種を丹念取って、口の中でよく馴らしていた。「母(祖母)とよく遊んだよ」と、母はよく言っていた。私はホオズキを鳴らせなかったので「下手ね」と得意げに言われたが、口笛は母は吹けず、私が吹けたので悔しがっていた。

 8月30日、母が出かけようとしたのを防犯カメラが報せたので、捕まえた。「家に帰る」という。よくよく聞けば、立て直すための平屋に帰るつもりだったらしい。話しているうちに「家は建て直したんだよね」と正気に戻った。その後はしばらく、徘回も幻覚もなかった。

 9月2日、新宿の消化器病院へ兄の面会。着替えと水の持ち込み、汚れた下着と靴下の回収。テレビカード代金を渡す。
 9月4日、地元の大学病院消化器内科と皮膚科、父の受診。
 9月6日、天敵先生クリニック、母の受診。
 9月9日、大雑把先生クリニックを、父が受診。
 9月10日、デイサービスのケアマネと、面談と書かれているので、恐らくこの頃から父のデイサービスが始まったと思われる。

 9月13日、都内の大学病院内分泌内科、母の受診。血液中の鉄分が溜まりすぎているらしい。

 9月19日、デイサービスケアマネと面談、母も利用することに決めたのだろう。記憶では両親に数カ月の間隔空いていたように思えるが、実際は1ヶ月違いのほぼ同時期だったようだ。
 9月27日、天敵先生クリニックを母が受診。鉄分過多を伝える。この日は検査をしたらしい。朝食とインスリン抜きと書かれている。
 9月30日、大雑把先生クリニックへ父を連れていく。
 10月2日、新宿の消化器病院へ、兄の面会。
 10月4日、天敵先生クリニックを、母が受診。前日が熱38.1度、当日に38.3度と書かれている。予定されていたインフルエンザ予防接種は中止。

 10月8日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の予約受診。CRP4(炎症反応、正常は1未満)。
 欄外にメモがされている。「ぐったりしているときは、抗生剤点滴。近くのクリニックでも可能」
 10月11日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。採血採尿は、8日にまとめてとったので採尿採血の当日検査はなし。

 10月15日、天敵先生クリニックで延び延びになってい母のインフルエンザ予防接種。
 10月21日、大雑把先生クリニックを父が受診。

 10月22日、救急車で、地元の大学病院に兄が運ばれる。意識はあるが体が動かなくて、救急相談に連絡したら、救急車を出すと言われたのだ。
 救急医師の見解。「アンモニア排出のため、下痢は無理に止めない。カリウムも、ギリギリ処置するまでもない。あとはかかりつけの病院で処置してもらうこと」。点滴処置されて、タクシーで帰宅。
 10月23日、新宿の消化器病院を兄が予約外受診。このときも点滴されてから帰宅。
 10月29日、新宿の消化器病院を兄が予約外受診。主治医はいなかったが、別の先生が緊急入院を決める。
 10月31日、デイサービス提携の看護師が自宅訪問。おざなりの血圧と体温を計り、聴診器を当てて異常なし。あとは無駄話をして帰っていく。 
 11月2日、新宿の消化器病院へ兄の面会。
 10月6日、父の眼科。ちゃんと度の合った眼鏡をかけるよう、処方箋を渡される。
 その後、近くの眼鏡をチェーン店で注文。父は一つだけ買うつもりだったが、いつも踏んづけて壊すので、色違いフレームでもう一つ注文。父のは特殊なレンズのため、仕上がりに時間を要す。
 10月7日、新宿の消化器病院へ兄の面会。
 10月8日、地元の大学病院皮膚科、父の予約受診。

 10月9日、母をスーパーに連れて行く。買ったものを袋に詰めている時、窓越しに母がバスに乗り込もうとしているのが見えて、慌てて駆けつけ、母を引きずり戻す。母は「兄を迎えに行く」と言う。だがそもそも駅へ向かうのとは方角の違うバスだ。母に言い聞かせると、「ああ、そうだったね。来週退院か」と納得して、スーパーに戻る。袋詰めがまだ途中だった。

 11月13日、父の眼鏡が出来上がったので、確認を兼ねて父も連れて行く。「よく見える」と父は喜んだ。
 …結局、このとき作ったスペアが使われることがなかった。
 私は今年、乱視と視力が悪化したので、父のスペアのこのフレームで眼鏡を作ろうと、父の作った場所とは違うメガネ屋に相談した。「これでも作れないありませんが、眼鏡の主張が激しくて、似合いませんよ」と言われる。実際、眼鏡をかけてみる。父の眼鏡は度が強すぎて歪んで鏡が見れないが、店員さんが撮影した写真を見ると、確かにフレームが強調されすぎていて合わなかった。私は店員さんに勧められた、店内ではリーズナブルで細いフレームとレンズのセットのものに決めた。ここは昔、母がお洒落な老眼鏡を作った店だった。「ならお母様の形見の眼鏡が残っているのでありませんか?」と、何気ないおしゃべりをしていて言われた。それで私の眼鏡を作ってみてはと言うのだ。だが私はその眼鏡を既に処分していた。長年愛用して古かったのもあるが、母の闘病の相棒だった想い出が強すぎて、手元に置いて置くのが苦痛だったのだ。

 11月14日、新宿の消化器病院を兄が退院。 
 11月15日、天敵先生クリニックを定期外来。

 11月18日、大雑把先生クリニックを父が受診。
私がこの先生を「大雑把先生」とニックネームをつけたのは。最初に気の良いことを言って血糖値の測定も1日一回でいい、インスリンも一回で十分と決めた。この結果、血糖コントロールが乱れ、透析クリニックからも指摘があったのだ。
 大雑把先生は、「ウチじゃ手に負えないから、別の糖尿病医師にかかってくれ」と、放り投げられたのである。
 そして地元の大学病院と完全に切れてないなら、そこで一緒に受診したほうが良いと紹介状を書いた。開いた口が塞がらなかった。結局、父の糖尿病を悪化させるしかしなかったのだ。これでは在宅医療も考え直さねはならない。とてもじゃないが、父の命を預けるのに、この先生では怖くて無理だ。 

 11月19日、都内の大学病院呼吸器内科、母のCT検査。
 11月21日、地元の大学病院相談室予約。父の在宅医療が振り出しに戻ったことへの相談。ほかを探してみるとのことだった。
 11月22日、アルコール依存症取り扱い専門病院を兄が予約受診。 
 母、デイサービスと書かれている。恐らくこのあたりから、新宿の病気へ兄を連れて行ったりするときは預かり日程を変えてもらったり、帰宅時間を最大限延ばしてもらっていたと思う。母を1人で留守番させるのは無理が出てきた。ただデイサービスも定員があるので、稀にだが断られる日もあった。本当にごくごく稀だが。それと帰宅時間の延長に関して、介護士から注意を受けたこともあった。確かに介護士も家庭を持つ人が大半で、患者の帰宅が遅れれば、自宅に送り届ける時間も遅れる。夜勤介護士は、お留まりデイサービス用だ。それでもケアマネが協力して、ケアマネが母を送り届けることもあった。

 11月26日.都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、母の予約受診。
 この日の昼食ではない。しかし、いつの頃だっただろうか思い出せないが、東京駅で新たな店がオープンしたテレビ特集が組まれていた。それを見た母が「ここに行きたい」と言った。病院の検査前に食事させると血糖値上昇が出てしまうが、母が食べたいというのなら、値段が可愛くないが、検査予約時刻前に連れて行った。ウニ丼の専門店だった。日本各地や外国産、種類も違うウニで丼を出していた。さすがに一番高価な北海道バフンウニ丼は手が出なかったが、三色丼と言う採れた場所の違うウニ丼を頼んでたべた。「美味しいねえ、種類で味が変わるんだね」、母は喜んで食べて完食した。連れていけたのは、この一度のみだ。淘汰の激しい東京駅は、店の入れ替わりが激しい。まもなくこの店は閉店し、一帯の改良工事を行った。コロコロ変えられると、利用する側としては迷惑だが、常に新たなものを発信していく使命を持った東京駅だから、仕方ないのかもしれない。

 11月29日、都内の内分泌内科、母の予約受診。この日の走り書きに、駅弁3個と書かれている。
 まだこのときは、父がマトモに食事をしていた証だ。しかしあれほど好きだった、「酒は俺の血だ」と豪語していた父は、日本酒の度数に耐えられなくなり、この頃には500ミリビール半分を飲んでいた。残り半分は私が飲んていた。350ミリ1缶だと多すぎて、これの半分だと物足りない。それで半々にして飲んでいた。その分、銘柄にはこだわった。

 2019年も、残す所あと一ヶ月。父が元気だった最後の年だった。
 12月2日、新宿の病院を兄が退院。
名医から「体調が悪ければ電話なしで連れてきてOK」と記入されている。本当にこの先生は、ろくでもない患者でも最後まで面倒を見ようとしてくれた。お礼を言う機会を逸したまま、タイミングを逃したことが今も悔やまれる。
 12月4日、地域の高齢者安心センターへ、私は向かう。父の在宅医療先参考資料を集めるだ。医療相談室にも依頼はしているが、自らの足でも噂などを集める必要性を憶えたのだ。

 12月6日、都内の大学病院消化器内科、母の受診。呼吸器内科のCT検査で偶然見つかった膵臓の異変についてだった。膵臓がんだったらと思うとゾッとした。

 12月8日、午前中は友人とランチ、夜は出前寿司を取った。そうか、このとき父はお寿司を食べることが出来たんだね。

 12月9日、地元の大学病院内分泌内科、相性の悪い医師に、在宅医療を任せようとした医師に、血糖値をめちゃくちゃにされて放り出されたことを告げる。「なら、元のクリニックへ戻るべきでしょう。なんでウチに来たんですか?」
 本当にムカつく医師だ。そして紹介状が新たに出され、以前通っていた糖尿病クリニックへ戻るよう言われた。気が重い。

 12月9日、このところ目まいが酷いので、遠いが様々な診察を行っているクリニックで、調べてもらう。貧血だった。処方するほどのレベルではないが、意識して鉄分を含んだ食材を食べるよう指導された。
 12月11日、都内の大学病院脳神経外科、兄の定期受診。

 12月16日、一度やめた糖尿病クリニックへ、相性の悪い医師の紹介状を待って、気が重いながらも父を連れて行く。何を言われるか分かったものじゃない、別の糖尿病クリニックも考えておくかと諦めムード。
 しかし糖尿病クリニックの厳しい医師が怒りを向けたのは、丹念にデータ管理した患者をボロボロにして放り出した大雑把先生に対してだった。
 厳しい先生は面倒を見ることを約束してくれ、私は安堵した。厳しいが責任感のある先生だった。

 12年18日、祖父の命日墓参。父が行くと言い出したので、往復をタクシーで移動。足は歩けても数歩で止まり、血液循環が巡れば、再び歩き出す。父の足で、手すりのない細い階段を上るのは大変だっただろう。それでも祖父に挨拶できて、父は満足げだった。
 これが父の最後の墓参となる。父は祖父母になにを祈ったのだろうか?

 12月20日、午前中に天敵先生クリニックへ母の定期受診。
 午後、具合の悪い兄をタクシーに乗せて、新宿の消化器病院へ送る。やはり即日入院となった。このときのタクシー料金は恐ろしい値段だった。
 主治医は酒をやめない兄を、再びアルコール依存症取り扱い専門病院へ入院させてはと提案する。
 ソーシャルワーカーから、アルコール依存症取り扱い専門病院のことについて、改めて説明を受ける。私は入院はさせないと言った。入院させたところで、矯正の見込みはない。そもそも外来からして、酒の話をしているような患者だ。言い方は悪いが、馬鹿に付ける薬はない。もう、抜け出せないアリ地獄にハマっているのだ。何をしたところで無駄でしかない。私はそれをソーシャルワーカーに伝えた。

8.2020年 最後の自宅生活
 2020年になった。世界を恐怖底に沈めたあのウィルスは、いつから広がりだしたのであろうか?
 まだ1月の段階で脅威はなかったように思う。友人とランチまでしていたのだから。 
 1月7日、新宿の消化器病院、兄の面会。
 1月8日、地元の大学病院、父の消化器内科。在宅医療の失敗を告げると、在宅ではなく透析が可能な療養型病院を探したほうがいいのではないかと告げられる。今後、寝たきりになれば、今の透析クリニックは使えない。それに我が家の事情が悪すぎるのもネックと思われたようだ。父だけを集中看護できるならともかく、認知症で難病持ちの母、肝硬変が進行している兄。在宅は無茶だと、言われた。
 1月9日、訪問看護。訪問看護はデイサービスと提携を結び、月に一度来ているが「本当に意味があるのか?」と、疑問だった。単にノルマをこなしているだけでお喋りな看護師だった。本当に役に立たないと苛立ったのは、間もなくのことである。

 1月10日、父のデイサービス
 母を眼科へ連れて行く

 1月14日、新宿の消化器病院、兄の面会。そして主治医の面談。このとき、兄の余命宣告が主治医から告げられた。かなり肝性脳症が進んでいて、理性が利かなくなっていることも告げられた。私は病院に迷惑をかけていることを、必死で詫びるしかなかった。

 1月15日、父の糖尿病クリニック
 1月17日、地元の大学病院心臓血管外科を父が受診。
 1月20日、天敵先生クリニックを両親が受診。母はいつもの内科検診だと思う。父は整形外科とメモが残っている。
 
 1月23日、兄のベッドを実費でレンタル。近く退院のため、先週のうちにレンタル依頼をした。前と同じ有名介護ベッド。
 その際にケアマネに相談して来てもらい、介護保険で父の車椅子を依頼をする。
 1月26日、父の車椅子が来る。父は家の中を歩き回るには支障がなかったが、年が明けてから歩くのが困難になっていた。また体も疲れやすくなっており、車椅子に乗ったまま送迎できる介護タクシーを以後は使うようになる。事前予約しても、その会社の介護タクシーが使えないことは珍しくない。だが横の繋がりで、他社の介護タクシー往復を手配してくれていた。

 1月24日、都内の大学病院消化器内科のMRI、内分泌内科を、母が予約受診。

 1月25日、新宿の消化器病院を兄が退院。

 1月31日、都内の大学病院消化器内科、母の予約受診。定かな記憶はないが、膵臓に問題無しの結論だったと思う。
 しかし他の臓器に問題があるのか、消化器内科通院は続くことになる。

 2月3日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。
電車は使ったように思う。だだ往復のバスは、タクシーに変えた気がする。メモがないので不明。 
 2月7日、午前中、母の歯科。午後、天敵先生クリニックの整形外科を父が受診。

 2月11日、ネットで調べた僧侶派遣の葬儀業者と、駅前のカフェで面談。父と兄の葬儀の見積もりを依頼する。資料は事前に送ってもらっていた。
 兄の余命宣告が出たとき、看取り方と葬儀の流れについての本を購入した。そこの本に、病院と葬儀会社の提携が結ばれていることが書かれていた。遺族は、家族の余命宣告が出ても、大抵は縁起でもないと最期の看取り方しか考えない傾向にある。従って大手の葬儀屋から、ご遺体搬送を任せて、そのままこの葬儀社と契約を結ぶ。
 だが我が家は、3人同時の入退院で、貯金は底をつきかけていた。特に兄に関してはアルコール依存症のために本来なら申請できる若年介護保険や身体障害手帳の申請が出来ない。申請のためにはアルコール半年抜いた証明が出てはじめて、主治医が役所に提出する診断書を書いてくれるのだ。助成金があれば、こんな非情な相談を持ちかけずに済んだかもしれない。
 祖父母の菩提寺から僧侶を依頼することは、金銭的に無理があった。。僧侶は愛知県在住である。戒名、葬儀読経代、ホテル代、交通費を支払う余裕はない。
 それで明朗会計な派遣僧侶の葬儀業者に、病院から自宅までの送迎(在宅看取り可能な場合は必要なし)、父の1日葬儀、兄の火葬式の見積もりを依頼したのである。自宅でなく外部での面談は、当人達に聞かさせないための、葬儀業者の配慮だ。酷だが母には同席してもらった。葬儀を行うことになったら、喪主は母が務める可能性が高かったからだ。 
 運営する会社の僧侶は、天台宗。天台宗で葬儀をすれば格安になるが(私は天台宗総本山の比叡山延暦寺で、平安時代に活躍した元三大師良源様が好きなのでそれでも構わなかったが)、せめて祖父母と同じ浄土真宗で送りたいたの母の希望で、料金は上乗せになる。それでも菩提寺から呼ぶより破格な値段だった。
 葬儀場の目星、葬儀までのドライアイスの料金、病院で死去した場合の送迎の料金。
 そう、まだこの頃は母も何とか理性を保っていた。残酷な話し合いの場に連れてきたが、私はサポートは出来ても、喪主は母が務めなくてはならない。やってもらわねばならなかった。
 そして結局、このときこの葬儀業者に相談したことが生きた。間もなく訪れる殺人ウイルスパニックで、葬儀参列など出来る状況ではなくなるのだから。

 2月15日、食品の他に紙おむつ購入が入っている。母の失禁だけでなく、兄の紙パンツ使用も財布を逼迫させていた。
 2月18日、レンタル会社に門のスロープの相談をする。介護タクシーの人は巧みに車椅子操作して段差を上るが、素人には無理だったので、取り外し可能なスロープを検討したのだ。だがこのスロープがレンタルされることはなかった。
 翌日、父は生きて家の門をくぐらない入院を始めたからである。

 2月19日、介護タクシーで、糖尿病クリニックへ連れて行く。運転手がしきりに父の様子を心配している。私には疲労としか見えていなかった。
 クリニックを終えて、帰宅。2月に入ってから、極端に食欲が落ちた。今回の糖尿病クリニックでも、「血糖値は引き続き調べてもらうが、インスリンはしばらく休んで良いでしょう」と言われた。
 その夜、中華丼を半分も食べずに、父は部屋に戻った。やけにグッタリしている。熱を測ると39度近くあった。糖尿病クリニックでは、熱はなかった。慌てて水枕を当てて、訪問介護に連絡する。
 だが仕事中だから、直ぐに行けないとということ。役に立たない。私はいつものように救急相談に電話をかけて相談し、救急相談は直ぐに救急車を手配しますと言った。まもなく救急車が到着。地元の大学病院へ父を運ぶ。母は留守番させた。  
 夜20時を回っていたと思う。暗い道を猛スピードで走る救急車に、私は酔った。
 救命窓口に到着。父が運ばれ、私は救急隊の質問を受ける。それから救命窓口の受付手続き。父は直ぐに検査室に回された。
 どのぐらい経ったか、当直医師は言った。「誤嚥性肺炎を起こしています。このまま入院となります」 。私は父の入院する病棟に案内される。いつも入院に使う病棟と違って、入り組んでいた印象がある。部屋も6人部屋ではなく、2人部屋だったような気がする。ともかく狭い印象と入り組んだ道しか記憶にない。メモには22時入院と書かれていた。
 帰宅は深夜0時を回っていた。起きていた母は、その後、だいぶ経ってから訪問看護師が2名来たのを知らせた。防犯カメラで確認すると、父が救急車で運ばれてから1時間以上経っていた。呆れた。そんな時間にノコノコ来られて、何のための訪問看護師なんだろうか?
 翌日というかその日2月20日、仮眠をとってから、父の入院グッズを持って病棟へ出かけた。
 帰宅後、レンタル会社に父の車椅子の返還と、スロープ設置を父の退院まで伸ばすことを伝える。

 2月21日、新宿の消化器病院へ兄の予約受診。

 2月22日、母が歯科の予約受診。
 帰宅後、母が高熱を出して状態が悪くなる。腎盂腎炎だったような気がするが、詳細が書かれていない。土曜の午後なので、まず訪問看護師に報せる。すぐに来たはいいが、「どうしましょう」と全く役に立たない。これが訪問看護師の実態なのかと、このままだったら私は訪問看護師を誤認したまま二度と信用しなかっただろう。こいつじゃ役に立たないと、救命相談窓口に電話をかけて、症状を説明する。すぐ救急車を手配しますと言って、電話が切れた。
 そのあと、訪問看護師に電話がかかってきて、「急患が出たので、そちらに向かいます」と言われたときには、「あんた、何しに来た!」と怒鳴りたくなった。ウチの母は急患にも入らないのか。救急車がくるから必要ないと思ったのか、看護師なら状態を救命隊員に伝える義務ぐらい果たしたっていいじゃないか。
 救急車が到着。救急隊員から、「かかりつけ病院はありますか?」と尋ねられ、都内の病院名を伝える。だが、あんな遠くまで運ばれるわけがないと思っていた。しかし都内の大学病院から許可が下りたとのことで、都内の大学病院まで高速道路を使って走る。私は精神科処方の一番強い薬と、胃腸科クリニックの頓服薬を救急車が来ると知った時点でまず服用していたので酔わずに済んだ。全く、父親の入院から間を置かず、今度は母。疲れる。主に精神的打撃。
 病院到着してすぐに検査に回され、待たされている間に救命窓口の受付を済ませる。そして入院が決定。入院の書類のサインを沢山書かせられ、何とか終電に迄には病院を出た。既にバスがないので、タクシーで帰宅。

 2月25日、まず地元の大学病院の父の面会。着替えを持ってきたものと、汚れ物の交換。頼まれていた本の持ち込み。新刊情報を調べてくれというので、看護師に見つからないようスマホで検索する。ヒットした新刊を、父は「次回来るとき持ってきてくれ」と言った。
 そして駅のコインロッカーに父の汚れ物をを入れて、都内の大学病院へ母の面会。母の方は2月22日の入院のとき、レンタルタオルと寝巻きセットをお願いした。院内購買はやってなかったため、一旦、外へ出て紙パンツやら割り箸やコップなど入院に必要な最低限を揃えていた。この日は足りないもの(箸や眼鏡など)を持っていく。

 3月2日、新宿の消化器病院へ兄の予約受診。検査に引っかかり、後日入院がま決定。私は天仰ぐしかなかった。「同時期に3人同時入院?ウソだろ?」
 3月4日、地元の大学病院、父の面会。父、まだ食事なしと書かれている。
 そして相談窓口で、父の在宅医療先をいくつか紹介してもらい、パンフレットを渡される。
 この日の帰り、私はここ数年、毎年参拝している有名な神社へ参拝に出かけた。メモにはないが、初詣にもたぶん、参拝している。たぶん、わらにもすがる思いで、家族の無事を祈ったに違いない。

 3月5日、リビングのエアコンが壊れたので大手家電メーカーへいく。これまで使っていたリビングのエアコンは、自宅建て替え工事の際に取り付けた、天井埋込み型だった。しかしこれは高額な上に、掃除がしにくいデメリットあった。もうすぐ母が帰ってくるなかで、壁に取り付けるタイプのエアコン工事を終えたかったが、工事まで1週間ちょっとかかると言われる。
 エアコン無しは、この時期は、まだまだ冷え込むが、当面は灯油ストーブでしのぐしかない。
 夕方、地元の大学病院から電話。父の流動食を開始。嚥下リハビリの開始。

 3月6日、母の面会と主治医の説明。
 抗生剤点滴は本日で終了。スケジュール帳には、付箋が貼られている。血液から大腸菌がでたが、いまは消えた。CRP2.8に下降。腎盂腎炎でなく敗血症の方だったか?
 あの頃は、ともかくやることが多すぎて、スケジュール帳に書いてないと、記憶にすら残ってない。検査のたびにもらっていたデータ用紙の山になら、詳しいことは書かれていただろう。だがそれも私は処分してしまった。
 3月7日、新宿の消化器病院を兄が入院。 
この日は1日だけだが、3代目愛犬と家で2人きりの留守番だ。静かすぎる家が愛犬には落ち着かないようだった。

 3月8日、都内の大学病院を母が退院。病棟は慣れた膠原病内科病棟だっため、『せん妄』も出なかった。
 むしろ帰宅してから、父と兄がいないことに戸惑い、迎えに行こうとするのを止めた記憶がある。母の中で、父は年齢通りだが、母の中の兄は子供の頃まで逆行していた。

 3月9日、新宿の消化器病院へ兄の面会。
 3月10日、地元の大学病院で医師と面会。何度も流動食を試みるが、父は誤嚥を起こす。在宅医療ではなく、療養型病院を勧められる。
 3月11日、相談室の予約が医師によって取られたため、来院。相談員は2つの透析可能な病院を勧める。私は決めかねていた。だが見学だけでもしてくるようパンフレットを渡されて言われ、2つの病院の見学と説明の手続きが取られる。
 この頃から、あの殺人ウィルスが猛威を奮い始める。
 3月12日、地元の大学病院、病院の方針で面会は原則禁止となる。衣類の持ち込みは禁止となり、寝間着とタオルはレンタルで統一される。

 3月13日、リビングのエアコンの工事。壁に穴を開ける作業も含まれていたので、3時間を要した。エアコンがついた事で、夜中、エアコンで部屋を暖めることができた。

 3月14日、1件目の療養病院を見学。年季の入った病院だった。しかし感じは良かった。

 3月17日、都内の大学病院呼吸器内科を、母の予約受診。
 驚いた。退院手続きのときは、いつもと同じ退院風景だった。
 しかしこの日から、殺人ウイルス対策のため、入口で厳重な消毒、看護師による発熱チェックが患者と付き添い、一人一人に出入り口で行われた。これでは昼食に外へ出るのも苦労する。そして飲食スペースは間隔を広げるためにテーブと椅子の個数が少なくなったため、関取争奪戦が行われる。院内のレストランは経営していたが、大手チェーン店のカフェは閉鎖された。当然、院内はマスク着用。

 3月18日、地元の大学病院で医師の説明。
医師「3度目の誤嚥性肺炎が起きた。流動食の失敗だけでなく、唾液でも誤嚥が起きている。もう食事は出来ない」
「首か太ももに、点滴管を埋めこむ必要があります。食事が取れなくとも、6月までは生きられるでしょう」
 私は人生最大の失敗をした。医師の言われるがまま、栄養剤点滴の管の手術同意をし、延命のために療養型病院を選択した。
 この日、特別に面会が許可された。父は寝たきりの状態で、私に手を伸ばしてくる。しかし監視の看護師から「感染の危険があるため、患者には触らないでください」と言われる。あの憎んでも憎みきれない殺人ウイルスによって、父の伸ばした手を握ることさえ出来ない。悔しかった。父が必死で伸ばした手を握ることさえ出来ないなんて。涙が出た。
 その足で、2軒目の予約された療養型病院へ向かう。ここは建て替えられて、名称こそ父が勤続中当時とは違っているが、父の勤めていた会社の支社の健康診断を取り扱っていた。きれいな病院だった。医師と看護師長の説明も丁寧だった。しかし施設内の見学は、感染予防のため、禁止されていた。あの憎い殺人ウイルスのせいで。
 療養型病院は、どこも辺鄙な場所にある。距離的には1件目の病院より少し遠くなるが、交通の便はこちらのほうが良かった。
 ここで2度目の取り返しのつかない失敗をやらかした。父には謝っても謝罪しきれない。

 3月19日、母の訪問看護。聴診器、血圧、体温を測って。あとは無駄話。父のとき、母のとき、3度も同じ過ちを繰り返した訪問看護を受ける意味を私は見いだせなくなっていた。「この看護師、ただノルマをこなすだけの役立たずじゃないか」。
 3月20日、新宿の消化器病院へ、兄の面会。ここはまだ、マスク着用して厳重な消毒と発熱チェックを受けれれば面会は可能だった。ただし時間は短め、談話室での面会が望ましい。兄の場合は面会と言っても、紙パンツと靴下の差し入れ、テレビカード代と自動販売機でジュースを購入する代金、指定された雑誌の差し入れぐらいだ。あとは軽く話す程度。時間はさほどかからない。
 3月21日、天敵先生クリニックの母の定期外来。ここでも発熱チェックと消毒液(ここの消毒液は苦手なココナッツの香り)、もちろんマスクは着用。外来用の椅子はひと席ごとに着席禁止の紙が張られていた。
 天敵先生は「都内の大学病院まで、救急車ですが!」と驚いていた。私もあの時は驚いたから、気持は良く分かります。
 くれぐれも感染には気をつけるように、通院以外で人混みには連れて行かないようにと、厳重な忠告をされる。まだ3月は、それでも街が機能していたように記憶する。本格的に日本が閉鎖されていくのは4月からだった。

 3月27日、母の都内大学病院の内分泌内科の予約を別日に変える。
 この日は兄が新宿の消化器病院を退位する日だったからだ。

9.最後の父の生前の姿
 3月30日、朝早くに地元の大学病院を訪ねる。父の転院予定日だった。病棟の看護師一同が声をかけて見送ってくれた。移動中は首の管が抜かれて大きな絆創膏が貼られている。
 転院の説明を受ける際、父を僅かな時間でいいから自宅に入れても構わないかと尋ねたが、殺人ウイルス感染の危険性があるというので、禁じられた。それに栄養チューブを外している時間制限もあった。

 寝台式介護タクシーに、父は乗せられて運ばれる。そのまま直行ではなく、自宅に立ち寄ってもらう。持ち込んでいた衣類等や本が多かったので、転院先に指定された最低限の荷物以外を置きに行く必要があった。なにしろ帰りは私1人、わざわざ遠方の病院から必要のない荷物を抱えて帰りたくない。
 自宅に立ち寄る。あいにくと、父の横たわる座席は自宅とは逆側だ。それでも父は反対側の窓から見える自宅を食い入るように見ていた。タクシー運転手さんの許可を得て、愛犬を開け放った窓越しに対面させる。父は必死で手を伸ばしたが、3代目はツンデレのツンを発動。馬鹿だったな3代目。あれが生きている父に触れられる最期のチャンスだったのに。
 犬を家の中に戻し、車に乗り込むと外出準備を整えた母が、介護タクシーに乗り込んでいた。私は「帰りは遠いから、母の足で帰るのは無理だよ」と言った。最寄り駅から徒歩圏内だが、母の足では距離がありすぎる。それでも頑として母は動かない。
 介護タクシーの運転手さんは、「お母さんも心配なのでしょう。補助席はもう一つありますから、一緒に行きましょう」
 そういう事で、自宅の鍵の戸締まりに再度、家の中に入り、窓を閉めていく。そして転移先に向けて、最後のドライブが始まった。かつて父の運転する車で、大きな花屋とショッピングモールを通った道を途中まで走る。分岐した道を曲がり、転院先へ向かう。車内で父の手をようやく握ることが出来た。父は『せん妄』を起こしたりしなかった。声は小さかったが、話すことも出来た。頭は正常だった。
 運転手さんがつけるラジオから流れた速報に、全員が驚いた。「志村けん、殺人ウイルスによって死亡」。私たちは騒然となった。この頃、使い捨てマスクは品薄と高騰で入手しづらくなっていた。法外な値段だったが、ネット通販で父の分のマスクを箱買いした。転院先から使い捨てマスク、さもなければ布製のマスクでも良いので、必ず毎日取り替える分を持参することと通達があったのだ。
 ちなみに家庭用は、私が花粉症のためにある程度のストックがあった。
 「怖いウイルスだな」、父はポツリと言った。そう、本当に怖いウイルスだった。このウイルスさえなければ、従来通りの看護体制なら、私は毎日でも通って面会時間ギリギリまで、父に付き添うことが出来た。そうすれば拘束は外されて、父はその時間だけでも好きな読書が出来たはずだった。
 私達が病室に入れたのはこの日だけ。開け放たれた病室の中から見えるテレビは、全て志村けん追悼特集が流れていた。
 大部屋だが、立て直されたばかりなので、間取りは広くトイレは病室に1つずつついていた。もっとも父は呼び出しブザーを鳴らさねば、トイレにもいけないほど筋肉が落ちていた。背もたれを電動で上げて、座れる体勢にする。私が持ち込んだ文庫新刊のうち、父は大好きな歴史小説家の新刊を手にとって読み始めた。久々の家族対面よりも読書を選択、父らしくもあった。棚の整理を終えると、早々に看護師から、私と母は病棟から出された。

 簡単に医師の説明を受ける。私が面談した時は違った医師だった。紙おむつなどの持ち込みはできるが、知っての通り志村けんを殺すほどの殺人ウイルスであるため、よほど危機的状況でない限りは面会謝絶となった。
 その1週間前までには、消毒と検温とマスクさえしていれば、自由に面会できていたとのことだった。「今後はさらに面会条件は厳しくなるでしょう」、医師は言った。
 帰路、母を歩かせるのは無理なので、タクシーで駅に向かう。病院に近い北口はエレベーター、エスカレーターがないため、タクシー運転手さんは「大回りになるが北口の改札口より、エレベーターのある南口を使ったほうが安全なのでは」との提案に、それでお願いしますと頼んだ。
 途中、小学校があった。「懐かしいね、小1の途中まで〇〇(兄の名前)はここに通ってたんだよ。クラスメートの母親たちも気のいい人ばかりで、〇〇(兄の名前)じゃないけど、ずっとここに居たかったな」と母は言った。この市は私が生まれた市でもあった。もっとも私は1歳すぎに自宅に移ったので、感慨も特にない。
 駅の反対側からエレベーターに乗って改札階へ向かう。驚いた。こちら側には何軒もの店が入っていたのだ。疲れたので、ドーナツ屋に入った。そして発車時刻近くまでここで休み、電車2本を乗り継ぎ、バスに乗って帰宅した。

 …これが生前の父を見た最後だった。母は虫の知らせで、同行を強行したのかもしれないな。
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