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第十章 散華
月下美人
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1.月
父が亡くなる間近のことである。その日も病院の付き添いがあるため、夜が明けきらないうちから犬の散歩をした。ふと、西の空をみれば沈みゆく月があった。満月、あるいは十六夜たろうか。夜明け間近の薄紫色の空に、真珠のような白さの丸い月が西の山へ沈もうとしていた。
あまりに美しい月だった。だが恐怖を憶えた。怖いのに、目を逸らせない。あの光景をふたたび見る機会はなかったが、脳裏に焼きついてる。後にも先にも、月に恐怖を感じたのは、あのときだけだった。
私は別のエッセイで、父のことを書いたことがある。その時に使った表紙の八重桜は、父が亡くなる前日に、たまたまスマホで撮ったものだ。品種名は覚えいないが、たぶん『松月』だと思う。
八重桜は色の濃い『関山』や、『普賢象』のように雌しべが長いもの以外は、ピンク色は特に見分けがつけづらい。だから別の種類かもしれない。
その場に行けば名札が掛かっているだろう。だがそこへ行く勇気が無い。私はもう思い出が強烈な場所には近寄りたくない。
2.カウントダウン
4月1日、療養型病院へ、父のものを持っていく。何を持ってあったのか、詳細は不明だが、恐らく紙おむつだったかと思う。無論、面会謝絶。
4月2日、兄が救急車で運ばれる。救急車で、新宿まで運んでもらった。ほんと、地元から遠く離れた都心まで運んでくれたのと、受け入れてくれた名医の判断には感謝しかありません。
しかし、この時は何が原因で入院したんだっけ。詳細が書いてない。
ところで私、何度、付き添いで救急車に乗ってるんだろう。いい加減にしてほしい。猛烈に酔うから。
4月3日、都内の大学病院病院内分泌内科、母の予約受診。前回を教訓に、この時の昼食は病院到着前に立ち寄った。
まだ、近辺の飲食店は開いていた。私達の好きな蕎麦屋のチェーン店があるのも、初めて知った。地元より品数は少ないものの、本格的な蕎麦を出す。フツーのざる蕎麦でいいよねと、検査を気にして言うが「蕎麦屋きたら、天ざる一択でしょ!」と母は天ざる蕎麦を注文。検査のこと、少し考えてよ~
その帰りに、母が兄の様子を見に行くと言い出す。
そりゃ同じ東京23区だがね、病院はとっても離れてるのよ。そして新宿でタクシー乗るのは大変なのよ。所定の乗り場に行くこと自体がさ。
健脚ならともかく、貴女、電車の乗り換えだけで疲労困憊するでしょ?
説得しても言うことを聞かない。もう仕方がない。「帰りは歩くよ」を条件に、都内の大学病院からタクシーで、兄の入院先である新宿の病院へ向かった。面会時間は短いが、母はとりあえず満足したようだ。
「やっぱりタクシーで駅へ出ようよ」、母が言う。そんな気はしたけどね。「その代わり、帰路にお茶や夕飯はなし、財布引き締めないと」と。病院から専用電話でタクシーを呼び、駅に出る。そして帰宅した。
翌日に予定されていた訪問看護師は、「疲れたので、別日にしてください」と断った。別に必要性はない。むしろ相手するのが疲れる。
3.散華
4月8日、ふと思い立って、愛犬の写真を持っていこうと思った。折りたたみ式の写真立てを途中で購入し、初代と2代目愛犬の写真を入れて、療養型病院に持っていく。
看護師が、「先程、猛烈に暴れまして」と言った。会わせてくれないか頼んだが「規則ですから」と返された。父は外では大人しい。病院でも、看護師や医師の言うことを聞く模範生だった。これは祖父を反面教師としていたからだ。
明治生れで健康に恵まれていた祖父は、心筋梗塞を患い、一時は危なかったが、復活した。
その際も、当時は概念すらなかった『せん妄』という現象を知らず、帰宅しても暴れる祖父に、祖母や叔母たちは困り果てた。そこでド田舎の我が家に近い精神病病院へ入れた。父が地元の実力者に頼み込んで、入れてもらう手配をしたのだ。だんだんと落ち着いてきたところで、父の妹たちが「こんな田舎に置くのは可哀想だ」と、父の承諾なしに退院させて都内へ連れ帰ってしまった。
父は面子を潰されたと怒り心頭、母は病院へ、菓子折りを持ってお詫びに行った。
そういえばあのとき、母は毎日祖父に呼び出されて、胃潰瘍で胃に穴が空きかけたのだっけ。駅へ出た時の帰りのバスで「自宅に戻りたくない」と、あの当時はいつも言っていた。
その数年後、祖父に大腸がんが見つかる。初期段階で転移なし、手術すれば治る段階だった。しかし祖父はショックで異様にハイとなり、病院関係者や大部屋の人にベラベラ喋りまくって迷惑をかけ、個室に移される。そして夕食のモヤシを喉に詰まらせて意識不明となり、還らぬ人となった。
父は「親父(祖父)は馬鹿だ。簡単な手術さえ受ければ、口癖だった百歳をこえられたのに」と悔しさと悲しみの入り混じった声で言っていた。
その父が理性を失って暴れるのは、よほどのことだ。地元の大学病院では、全く問題を起こしていなかった。
私が持っていったマスク(ボックスで持っていくと、勝手に使われかねないので小分けして持っていく)と共に、写真立てを手渡して「見えるところへ置いてあげてください」頼んだ。看護師は承知した。
そして日付が変わろうかと言う頃に、療養型病院から「父、危篤」の連絡入り、「すぐに来てください」と言われた。
真夜中、タクシーを飛ばす。街中の桜が強風で散っている。「間に合え、間に合え」祈りながら病院にたどり着いたときには、個室に父の亡骸が、眠っていた。医師が家族到着と同時に死亡診断をする。多臓器不全と書かれた。
父の首に触ると、まだ温かかった。そして両手には縛られた跡。キツく拘束されていたのか、暴れた時に出来たものなのか、分からない。ただ死に顔は安らかだった。恐らく鎮静剤でも打たれたのだろう。私は涙が止まらなかった。母は泣かなかったが、虚ろな目をして、父の頬をずっと撫で続けた。
看護師は「ご遺体搬送の手配をします」と言った。私は「それには及びません。直ちにこちらから、もしもに備えていた葬儀業者へ連絡しますから」。そう言ってスマホから葬儀会社に連絡すると、「すぐに伺います」とのことだった。
かなり早く遺体搬送車は来たが、不満だったのか看護師は「遅いですね」と私に向かって皮肉を言う。「病院と提携葬儀会社の癒着でもあるか?」と言ってやりたいのを堪え、涙を拭って「真夜中に駆けつけてくれる、親切な業者さんです」と代わりに言ってやった。
この病院はハズレだった。殺人ウイルスで気が立ってたのもあるのかもしれないが、看護師は家族を亡くした遺族を悼むどころか、さっさと出ていけという態度である。そんな場所に拘束され続けたなら、父もさっさと、この世からオサラバしたかっただろう。
「お世話になりました」、私は口先だけの礼を言って、遺体搬送車の補助席に座る。母は助手席に乗せてもらう。遺体搬送車の移動式担架を乗せる箇所には2つの補助席があり、もう一人の葬儀業者が助手席を母に譲ったのだ。看護師たちは車が出ると、早々に建物に入った。
私は祖母の遺体を、都内の祖母の家に連れ帰ったときを思い出す。ずっと通っていた病院だったこともあるかもしれない。3人の看護師が、祖母を乗せた車が見えなくなるまで、ずっと頭を下げて見送った。
「桜の時期に旅立たれましたか…」
ずっと葬儀の相談にのってくれていた業者さんが、私に話しかける。
「そうですね。夜の桜吹雪の時期に旅立つとは、父らしい」
私は白い布にすっぽり包まれた上から、父の腕を擦る。近くに木が見えずとも、花びらを飛ばしている。自宅間近の公園の桜は、おびただしい量の花びらを散らしていた。散華。
毎年見上げた桜の木。父が元気だった頃は、毎年撮っていた桜。父はデジカメが出るまで、写真の腕がお世辞にも良いとは言えなかった。そして時期を見るということもなく、季節柄もあるが、いつも曇天で満開の桜をカメラに収めていた。
帰宅して、まず犬をケージに入れる。それから父を、一階の仏間兼父の私室のベッドに寝かせた。まさかこの家を出たときが最後とは、父も私達も思わなかった。すぐに帰宅して、車椅子で通院したり、家の中をウロウロしたり、私に欲しい本を検索させて「買ってきてくれ」とお金を握らせていただろう。
業者さんはドライアイスを布団中に大量に入れて、「エアコンは最低気温設定でフル活動させてください」と言った。「翌日(当日)午後に葬儀のご相談ため、またお伺いします。それまで少しでも皆さん休んでください」と言ってくれた。
業者さんが帰ったあと、犬をケージから出す。私と母は、とりあえずお茶でも飲んで落ち着こうと、お湯を沸かしてお茶を入れた。3人分。
父の遺体の前には、檜の簡易机が置かれ、おりんと蝋燭立てが置かれた。ウチのものでななく、葬儀パック込みのものらしい。仏花と線香立ては我が家のものを父のベッド前に移した。父の湯呑みを持っていくと、3代目愛犬が仏間を空けて、ベッドの足元に寝転んでいた。
部屋は寒いのに、それでも戻ってきた父のそばに居たいのだろう。熱いお茶の入った湯呑みを簡易祭壇の前に置き、3代目を撫でて仏間を出た。
眠ろうとしても眠れるものではない。朝早く、犬の散歩に出かけた。いつも父は、ベンチがあるたびに犬におやつを与えていたので、この日も3代目はベンチに飛び移って、おやつを待つ。私は愛犬の隣に座り、おやつを与える。急に涙が止まらなくなった。愛犬を膝に乗せて抱きしめて泣いた。15キロの愛犬は重いが、その暖かさがまだ朝の冷え込みの中で心地よい。愛犬はおとなしくしていた。
昼ごろ、親戚に電話をかけて父の死を報せると共に、「葬儀参列は殺人ウイルスの自粛期間でもあるので参加は不要です」と告げると、先方はホッとしていた。そりゃあ、ド田舎までわざわざ来たくないだろう。ましてや、ほぼ絶縁に近い状態で、近年会ったのは、父の末の妹の葬儀と、父の何番目かの妹の旦那の葬儀ぐらいだ。叔母たちが祖父母の墓参りに来ても、事後報告で、電話が父に来た程度だった。
午後、葬儀会社の人が来た。派遣のお坊さんの手配も終えたという。市営葬儀場だと1週間程度かかるが、それを待つか、それともすぐ利用可能な民間の火葬場を使うか尋ねられて、待ってでも市営でお願いした。あれほど帰りたがっていた我が家だ、夏場ならともかく、今ぐらいの気温なら1週間ぐらい自宅安置でも構わない。
遺影の写真を求められ、私は元気だった頃の父が3代目と並んで座っている写真を出した。頭頂の薄さを気にして被っていた帽子は、私が誕生日に贈ったとき、酒以外では珍しく、その場で喜んだ。もう何年も使い続けた。外出用にと買ったが、夏場の薄手の帽子のとき以外は、そればかり被っていた。散歩で汗臭くなるので、母が洗っても、生乾きで被って散歩に出かける。帽子はいくつか買ったが、気に入ったのは最初に贈った帽子だけだった。
葬儀会社の人が、市営斎場へ電話をかける。4月15日の朝一番なら取れると言うことで、お願いした。精進落としのお弁当の数を聞かれ、兄の退院も目処が立っていたので家族分だけ。葬儀会社の人が、「遺影に供える場合もありますが、そちらはいかがなさいますか?」と問われて、ずっとご飯を食べられなかった、食いしん坊の父の分もお願いした。
たぶん翌日だったと思う。派遣のお坊さんから電話がかってきた。戒名についての相談だった。浄土真宗ではお釈迦さまの『釋』の文字を頭に、男性は三文字、女性は『釋尼』の文字を頭に4文字となる。派遣のお坊さんによって名付けはそれぞれ異なるが、父の場合は名前の一文字のほかに、生前の性格や趣味などを聞かれ、「ご遺族はどんな漢字がよろしいと、お考えになられますか?」と聞かれた。父イコール酒としか、私の頭に浮かばなかったので、「酒は駄目ですか?」と尋ねると、「さすがにそれは…」と反対された。
しかし急に言われても、思いつかない。本だとゴロが悪いし。
お坊さんが「好きな銘柄のお酒とかありましたか?」と尋ねたので、「○○桜」と言う酒が大好物でしたと答えると、「では釋○桜にしますか?」と提案する。そっか、桜か。亡くなった夜のおびただしい花吹雪の話をすると、「ではこれで決めましょう」ということになった。
私の名前は父がつけた。そして父の戒名を私が付ける。不思議な縁だ。
近所には報せなかった。近年、家族葬が増えていて、回覧が『大至急』の赤文字入で回ってくる。たまに「参加、御供物はお控えいただきたく思います」と書かれていながら、葬儀場と時間まで載せてあり、律儀な人は葬儀に赴く。どっちなのか迷うときもあるが、ウチは参加を控えた。
大抵は家族葬を行った後の事後報告で、「御供物は控えさせて頂きます」と書くのが一般的だった。ましてやこの時期は殺人ウイルス自粛期間、なまじ感染されたら、罪の意識に囚われるので遠慮したい。
葬儀屋さんは、11日にドライアイスの交換にやってきた。布団中には、まだかなりドライアイスは残っていた。
4月12日、新宿の消化器病院、兄が退院。
4月13日、葬儀屋さん、ドライアイス補充。
4月14日、母の歯科定期受診。
この歯科帰り、チェーン店紳士服店へ出かける。何故か、それは兄の喪服問題。これまでの喪服が浮腫みでズボンが入らなくなってしまったのだ。上着もピチピチである。歯科からタクシーで向かうが、当初行こうとした紳士服店は閉まっていた。だがこの街道にはもう一軒、チェーン展開している紳士服店がある。そこでタクシーを下りて、母と一緒に喪服売り場へ行く。本当は当人を連れて来れればよかったが、病み上がりで外へ出すのも憚られる時期。サイズは測っていたので、それより少し大きめなサイズを、シャツとネクタイと一緒に購入。ネクタイもボロボロだったのと、白いシャツはやはり入らなかったのに加えて、黄ばんでいた。
近くにうどん屋があり、初めてのチェーン店だが入ってみる。意外と美味しかった。
その後は、大手スーパーへ出向く。母がウォーキングシューズが欲しいと言ったのだ。確かに通院で使っていた靴底は気になっていた。母にウォーキングシューズを選ばせてみる。そうきたかと、驚いた。銀色の、昔の母なら絶対に選ばないタイプの靴だった。母が気に入ったならいいし、これだけド派手なら、デイサービスで上履きに履き替えても、間違えて別人が履いていってしまうこともあるまい。まあ、デイサービスで羨ましがられるかも知れないが。
実は前に、ちょっと問題になったことがあった。都内に通うようになってから、母は自分の田舎臭い服装にコンプレックスを持ち出した。別に通院なのだから構うことないのにと思ったが、仕方がないので、私が選んだ服を買って着せた。最初はブルー系や白の落ち着いたもの、それから徐々に黄色やピンク色を着せてみた。最初は派手すぎると嫌がったが、デイサービスに通うようになってから、お洒落だと褒められて気に入るようになる。そこで出来た友達から、「どこで買ったの?」と聞かれるようになったらしい。店名を教えるぐらいは良かった。だが洋服を買ってきてと頼まれたとかで、通院帰りに立ち寄った店で友達の服を買おとしたのだ。これは金銭トラブルが発生しそうでヤバくないかと、すぐにケアマネに相談した。直ちに対処しますということになり、洋服の話が出ると、介護士が止めるようになったらしい。
これまでは派手でフリフリの服はむしろ遠ざけていたが、認知症の進行と共に、パステルカラーでフリルやレースの付いた可愛いデザインを好んで着るようになった。もしかしたら、心の中で、ずっと着てみたい願望があったのかもしれない。
母は自分のものを自分で選んで買って、満足したようだった。その後はタクシーで自宅に帰った。兄の喪服一式、母の靴、食品が重たかった。
この日の夕方、父を入棺する。好きなものを入れてくださいと言われたので、まず買ったけど読めなかった新刊数冊、好きだった三国志の図鑑、刀剣図鑑、戦国時代人物図鑑など、入れれるだけ入れた。
故人を偲ぶコーナーに持っていくのでと、棺に入り切らない父の愛読者を葬儀屋さんが袋に詰めて持っていく。「明日は必ず、お供えを忘れないでくださいね」と念を押された。
祭壇には、兄の退院の前に立ち寄ったデパ地下で買った、父の好物だったお菓子。このデパ地下では諸国の和菓子を取り扱っていた。父は柿は嫌いだったが、岐阜名物の柿羊羹は好きだった。あとは父の好きなメーカーの取り扱いはなかったので、奮発してエビの姿焼きの入ったエビせんセットを購入。そして父の好物だった、九州有名店の長崎カステラ。
父の好きだった銘柄のお酒は、葬儀屋さんがそっち方面へ行く用事があるというので、750ミリの瓶入りを買ってきてもらった。もちろん代金は支払ってます。
4.葬儀
4月15日、庭のチューリップを咲いてる分だけ切って棺に収める。出棺は確か8時過ぎだったと思う。男性3人と私が担いで黒のワゴン霊柩車に乗せる。3代目愛犬は「連れて行くな!」と言わんばかりに悲痛な声で吠えつづた。私は防犯カメラでデータ保護したこの光景を、何度も再生して見た。3代目が旅立ったあとは、特に何度も何度も。3代目が父を愛している叫びが、哀しくも愛しかった。
近所の人が出棺の様子を見て、「まさか、お父さん?」と驚かれる。こっちはこれから葬儀場に向かわねばならないので、細かく説明する余裕はない。
「はい、父です。これから葬儀なので、帰宅したら会長に回覧原稿を渡すので、回覧でお読みください」と言って家に入る。
喪服は既に着ている。母と兄も着ている。あとはお供えを袋に入れ、数珠や財布を忘れないよう確認して、タクシーを呼ぶ。
タクシーで斎場に向かう。葬儀屋さんが、「花の量を奮発しました」と言っていた通り、黄色をメインした花の祭壇が設けられていた。
父は黄色の花が好きだった。バラでもハイビスカスでも牡丹でも。残念ながら、時期的に庭の薔薇や牡丹は、まだ小さな蕾をつけたばかりだ。
この葬儀の模様を撮影したCDを、後日渡された。私は一度も観ていない。いつか、振り返って観る日は来るのだろうか。いまので時点では、有り得ない。生きて動く母と兄、棺に横たわった父。そんな光景を見たら、やっと塞がりだした心の傷が開いて血を流す。
司会進行、僧侶の読経が始まる。焼香をする。参加者は家族3人のみ。祭壇が華やかな分だけ、より寂しい葬儀だった。
そしてしばしの休憩が設けられたあと、葬儀関係者が祭壇の花を切り取り、棺に家族で納めるように言われる。顔の部分以外は花を埋もれる父。
「えっ?」
私は思わず声に出した。故人が好きだった供物を必ず持ってきてくださいと強調された。それは祭壇の飾りだと思っていたのだ。しかしお菓子は棺に納められ、さすがに酒は瓶ごと入れられないので、紙コップに一杯分入れて棺の顔部分に収められ、眼鏡を外されて蓋をされる。
(お菓子、葬儀が終わったら、家族で食べようと思っていたのに)
メガネを握りしめながら、奮発したエビせんに未練が残る。だがまあ、父の供物だ。仕方がない。
火葬場に向かい、僧侶が簡単なお教を唱えて、父の棺は炉に入っていく。
「ご家族様は、用意された部屋へ」
私達は火葬場を立ち去り、葬儀出席者控室に案内される。そこには白木の位牌と父の大きな遺影、お弁当が供えられていた。
そして父の遺影を中心に、テーブルには豪華なお弁当が、飲み物と共に用意されている。
コップにビールを注ぎ、父に供える。兄も自分のコップにビールを注ぎ、飲んでしまった。 (あー、やばい。名医に怒られる)
いや、どちらしろにしろ帰宅してから兄は、酒を隠れて飲んてるけどね。私もビールをコップに注ぎ、母はオレンジジュースで献杯する。
このときが家族が揃って食べた、最後のご馳走だった。
うちの家族は早食いだ。それでもお弁当や茶碗蒸し、お吸い物など全て食べ終えて間もなく、火葬場からアナウンスが聞こえた。
葬儀業者から遺影と白木の位牌を持っていくように促される。私が遺影を、兄が位牌を持つ。
火葬場に行き、すっかり骨になってしまった父の乗ったワゴン。喉仏は避けてある。二人一組で大きな骨を持ち上げて、骨つぼに入れる。ある程度大きなものを納めると、火葬場職員が手慣れた様子で骨を集めて骨つぼに納める。一部、骨がオレンジ色だったのは、柿羊羹が溶けたせいだろうか?
葬儀業者から、「お父様の眼鏡を」と言われて出すと、骨つぼの正面側に眼鏡は収められて蓋が閉じられた。箱に骨つぼが入れられ、火葬証明書も中に入る。これが後で、埋葬の際に必要になる。骨つぼの入った箱に、白い布袋が被せられた。
私が骨つぼ、母が位牌、兄が遺影を持って、葬儀業者が呼んでくれたタクシーで帰宅する。
母と兄は疲れ切ったように、喪服を脱いで仮眠する。
私はベッド下の簡易祭壇机を、仏壇の前に移動させる。父の遺影、白木の位牌、骨つぼをおく。そして線香に火を灯して拝む。
犬は骨つぼには反応しなかった。父の匂いがしないからか、あるいはもう魂が天駆けたと知ったからなのか。
着替える間もなく、事前に印刷した父の訃報回覧書類を、自治会長の家に持っていく。私の喪服姿と、訃報書類を持ってきたので、会長は驚いていた。あのときの会長が誰だったか記憶にないけれど。
本来、訃報の記事は書記が書く。しかし父に関する挨拶状は、私自身の手で書きたかった。
父はこの土地に愛着があった。引っ越す節目は何度かあった。それでも父はこの土地を愛した。
母と兄は、この土地に愛着がない。むしろ嫌っていた。母は以前にも呟いたように、昔住んでいた借家のご近所が居心地良かったのだろう。兄もまた、以前の土地に帰りたいと事あるごとに呟いた。「ちょっと昔の家までドライブしてきた」と言っていたことがある。それだけ思い出深い土地だったのだろう。
後に遺品整理をしていたとき、兄の古い日記が見つかった。そこには「前の家に帰りたい、ここは嫌だ」と魂の叫びのような文章が綴られていた。本当に兄は、発達障害だったのだろうか?
確かに兄は、言いたいことを表現するのが下手だった。しかし、そこに書かれていた文章は、家族の贔屓目を差し引いても、ちゃんと文章化されていた。思わず号泣するほど、兄は自分の叫びを、ノートいっばいに書き綴っていた。
その古い日記も、私は処分した。これに関しては塩をまき、紙に包んで別の袋に入れてゴミに出した。本当は庭で焼くことも検討したが、昔のように焼却炉がないので、ノートを燃やすのは危険と判断。せめて供養代わりに、塩をまいてゴミに出した。
私は地元が嫌いでもないが、好きでもない。私だけ、この家しか思い出を持っていなかった。例外は、建て替える時の借家住まいか。それでも地元には変わりない。
しかし、家族全員を亡くしたあとは、お金の必要性もあるが、思い出が深すぎる自宅に独りで居ることが耐えられなかった。
数日後、自治会長と町会長が焼香にやってくる。規則で自治会、町会から、それぞれ御仏前が支払われるらしい。そういえば、そんな規則があったかも。
他にも回覧でお断りしたにも関わらず、御仏前を持って焼香に来る人が何人かいた。焼香だけで十分だったのに。お返しが大変だから。
親族から送られてきた御霊前のお返しに、苦労した。母方の叔父は判るけど、父方の親戚はほぼ判らない。父さえ親族を覚えてないのだから。
昔、家族で本家を訪れたことが合った。庭で鉢植えの作業をしている人がいる。『こちらの方?」と母が聞くと、『庭師だろう」と父は素通りした。当時、家の頭は前当主夫人だった。そして現当主は、あの庭師の格好をした人だった。気まずいったら、ありゃしない。交流がなかったのなら説明もつくが、父は若い頃、現当主を弟のように可愛がっていたというのだから。まあ、歳月は容姿を変えるから仕方ないか。
5.後始末
本当に、お金が有り余ってたなら、司法書士、行政書士に丸投げして楽したかった。
さすがに土地に関することだけは司法書士にお任せしたが、後は節約のために自力でやるしかなかった。葬儀後の後始末マニュアルに沿って、出来ることから始めていく。父の障害者手帳返還、保険証の返還。保険証の世帯主を母にする手続き。下水道の名義変更。死亡届は、すでに葬儀業者が提出している。
年金務所提出用、銀行口座名義の変更のための印鑑証明、住民票、戸籍謄本、除籍証明。地元市役所の名義変更だけで、どれだけ窓口を渡り歩いたか。
5月16日、地元市役所巡り。途中、年金事務所に日程予約電話。予約が詰まっていると言うので、これが随分と先だった。
その足で、都内の区役所へ、戸籍謄本を取りにいく。祖父母が暮らしていた区だ。
そういえば、ご近所の仲の良かった犬好きの小父さんが亡くなったあと、私より年上の娘さんが言っていた。「引っ越しのたびに本籍を変えていたから、戸籍を7箇所集めなくてはならなくて、行政書士にお願いしたわ」。しかし土地の名義を小母さんに変更するのに際しては、複雑な手続きを司法書士に任せず行ったというから凄い。
5月17日、母のデイサービス延長を事前に申し込んだ(兄は帰宅しているが、昔ならともかく、この頃はアテにはならない)。
父の本家にほど近い新幹線ひかりが止まる時間帯の新幹線を狙って自由席に乗る。市役所に電話連絡して書留郵送の手もあったが、殺人ウイルスのせいで、到着時期が読めない。それに、少し息抜もしたかった。
新幹線発車まで、まだ間があるので歩き回っているとき、ふと祖父母の菩提寺に立ち寄る気になる。そうなると先代本家当主の分の供養料も包んだほうが良いなと、御仏前袋を2つ購入する。一つは祖父母の供養代、もう一つは前当主の供養代。前当主との面識は、覚えている限りで3度きり。2度は祖父母それぞれの葬儀参列のとき、もう一度は父に連れられて病室の前当主の見舞いに行ったときだ。
前当主と父は年の離れたハトコだったが、疎開中は随分と世話になったらしい。ハトコと言うより叔父に近い年齢差だったが、父は前当主を「○○ちゃん」と呼んでいた。
新幹線で西へ行くのは好きだ。途中で富士山が見えると、ゾワゾワするほど嬉しくなる。
静岡に入ると、父が定年退職前、単身赴任をしたことを思い出す。あの頃、平日は定時に電話があって母と私とで会話。土曜日の朝には静岡を出て帰宅し、母が手料理を振る舞う。そして日曜日の午後、単身赴任先へ戻る。父を盲愛していた初代愛犬が悲痛な声を上げて、父を止める。その声を辛そうに振り切って、車で走り去る。
そんな事を思い出しながら、浜名湖を渡って目的の駅へ。電車を乗り換えて、祖父が愛した地へ向かう。
市役所へは過去に一度、祖父母を愛知県から地元の近くの霊園に改葬するため、改葬届を取りに単身で行ったことがある。その帰りに京都に立ち寄って、神社仏閣巡りを担当した。道案内に従って市役所に到着し、3箇所目の戸籍を取って無事にミッションコンプリート。
さあ、祖父母の菩提寺に行こうとしたとき、「あ」と思った。寺の名前、覚えてない。でも本家のそばだったから大丈夫だろうとスマホで地図を出したら、周辺にめちゃ寺がある。名前を見ても似たような感じで特定できない。そういえば、寺の数だけなら、愛知県って全国トップクラスの数だと聞いた覚えがある。
でもせっかく来たから、恥をしのんで本家に電話をかけた。「もしもし、突然すいませんが〇〇の娘です。祖父母の菩提寺の名前を教えてくださいませんか?いまこちらの市役所にきているので、供養料だけでも納めたいと思ったのですが」
すると寺の名前を教えてくれたばかりか、本家の現当主が車で迎えに来てくれた。そして寺に送ってくれ、僧侶を呼出すも、生憎と留守。代わりに応対した奥さんに、供養代を祖父母の分と前当主分も渡す。「確かに受け取りました。主人に報せて、ご供養させて頂きます」と、言ってくれた。
道順は覚えたし、さあ帰ろうと思ったら、現当主が駅まで送るという。いやいや、そこまでは申し訳ないのでというのは、建前。せっかく遠くまで来たんだし、施設は自粛休業していても、海辺に行ってみようと計画していたのだ。だが押し切られて、改札で見送られたら、立ち去るしかない。ご好意はありがたかったが、ちょっとだけ海辺散策したかった。
でも運転中に、前当主は父の若い頃のことを聞かせてくれた。
「顔に落ちない塗料をつけたまま、遊びに来たんだ。いまやっている仕事の内容を楽しそうに語ってたよ。本当に化学が好きだったんだよなぁ」
前当主は懐かしそうに語る。家業を継いだ現当主は、自由に好きな仕事をする父を羨ましく思っていたようだ。
私も、「父がこちらへ遊びに来た際に、現当主が作ってくれた鍋や、秘蔵のコノワタが美味しかったと常々言っておりました。やはり愛知のコノワタは、他とは味が違うようで」というエピソード披露をした。
現当主は、時期外れに買えば安いんだと秘訣を教えてくれた。そして後日、「〇〇ちゃん(父の名前)にお供えして、あんたも食べてみなさい」と、クール便で送ってくれた。
それにしてもこの地域なのか、うちの一族だけなのか、年齢に関わらず〇〇ちゃん呼びだったのは面白いと思った。
在来線で景色を眺めつつ、仕方ないので、新幹線駅で何か食べるかと思ったが、新幹線ホーム階段横のきしめん屋以外、レストラン街が閉鎖されていた。
きしめんか、嫌いじゃないからいいけどね。私は食券を購入してきしめんを食べる。
かつて両親が食べたきしめん屋は、レストラン街にあった。きしめんにこだわった父と、それに同行した母。私と兄はガイド本で調べた海辺の寿司屋で美味しい寿司を食べてきた。「また、あの寿司屋行こうな」兄はあのとき言った。だがその約束が果たされる日は来なかった。
きしめんを食べ終えると、タイミングよく、この駅に停車する新幹線ひかりが来た。本当は最寄りの駅までこだまに乗り、ひかりに乗り換える計画だったけど。早く帰れば。母の監視も出来るし、3代目愛犬の散歩も出来る。
ま、いっか。
6.大好きだから、追いかけたい
4月20日、新宿の消化器病院へ、処方箋を取りに行く。ちょうど前回の入院費用請求書も出来上がっていたため渡され、その場で支払う。
本当は4月18日に受診予定が入っていたが、名医から電話があり、殺人ウイルス感染のため当分は診察できないとの連絡があった。
4月21日、都内の大学病院膠原病と泌尿器科、母の予約受診。
4月24日、母のデイサービス。風呂は週に一度。風呂の日はもう少し欲しかったが、介護認定2だったので、週に1回しかとれない。風呂は人気が高く、体が不自由で一人暮らしの人が優先される。確かこの頃は、デイサービス通いは週に2度だったと記憶する。
父の葬儀代支払い。
4月25日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
帰宅後、父の納骨に向けて、霊園に電話する。
4月30日、都内の大学病院、母が受診。診療科が書かれていないが、膵臓相談と書かれているので、消化器内科だと思う。
5月8日、司法書士事務所へ出向き、土地と家屋の所有権を母が2分の1、私と兄が4分の1ずつにする手続きをする。
市役所に出向き、相談支援センターへ。父の死去により、これまで出ていた確定型企業年金が止まった。この収入と、父の厚生年金満額受取によって、これまで何とか家計を回してきた。だが貯蓄も切り崩してしまい、今後は不安が生じる。そのための相談だった。
でも結局、役に立たなかった。私は将来的に発生が想定される、金銭的困窮の救済手続きを知りたかったのだ。
しかし初回から相談員は、私にカウンセリング勧めてくる。家庭事情を聞いて精神ケアが必要と思われたみたいだが、こちらも伊達に長年パニック障害を患って訳では無い。カウンセリングが私には合わないことは分かっていた。初診から半年間、カウンセリングは受けていた。だがカウンセラーの仕事は『聞く』こと。カウンセラーの概念の押しつけは禁じられており、深層心理の探求と言われても、私の場合は原因が分かっていた。
1度目は、体調不良が原因で食べられなかった際、小学校の担任に指を突っ込まれて吐かされそうになりながら、給食を無理矢理食べさせられたことでの拒食症の発症。2度目は、専門学校で熱中症にかかった上、豪雨の中の登山の後での飯盒炊飯で無理をしすぎたのをきっかけに、自律神経が狂って微熱が下がらなくなり、それでも無理して登校しているうちに家の中でも立ち眩みを起こしたパニック障害。
別に親から虐待されてたわけでもないし、友人には恵まれている。聞くだけ相打ちカウンセラーより、ズバズバ言ってくれる友とお喋りしている方が精神衛生上、性に合ってる。
カウンセリングは必要ない、私が欲しいのは経済的救済情報だ。そう主張しても、あちらはカウンセリングの一点張り。「駄目だ、こりゃ」と遠ざかっても、電話で執拗にカウンセリングを訴えてくる。別の係に電話して、「もう〇〇相談員から電話をかけさせないでください」と苦情を言った。以来、連絡は途絶えた。あのままだったら、本当にノイローゼになりそうだった。
5月12日、母を連れて年金事務所へ。父の厚生年金は受け取れなくなったが、母には遺族年金を受け取る権利があったので、その手続き。遺族年金、これまで貰っていた額よりも減るが、受給されるのはありがたかった。
5月13日、自宅に葬儀業者さんが来る。香典返しの相談だった。
5月16日、新宿の消化器病院へ、兄の予約受診。
5月20日、葬儀業者さんが、事前に依頼した父の御位牌を持ってくる。
ウチの御位牌は、複数の板が入った繰り込み式で、そのうちの1枚を渡していた。自分で書いても良いらしいが、字が汚いし書き込みの文字が小さいため、父の戒名と没年を印刷してもらうことにしたのだ。
5月22日、母と兄と一緒に墓の前で納骨式。お坊さんに読経してもらった後、墓を開けてもらって、父の骨つぼを入れる。隣には祖父母の骨つぼがある。
ここで白木の御位牌は返還し、特殊印刷された戒名板に、派遣のお坊さんから魂を入れてもらう。
霊園の名義人変更を、納骨式前に手続きする。世帯主である必要はないため、私が名義人となる。霊園、石材店、葬儀屋さんにお金を支払う。
人間は亡くなった後もお金がかかる。
5月27日、地元の大学病院脳神経外科へ、兄の予約受診。
6月2日、3代目愛犬の誕生日。これを書き込んだのには意味がある。
6月5日、墓参。
6月8日、新宿の消化器病院を兄が予約受診。
検査結果が悪くて、その場で入院。殺人ウイルス対策のため、検査判定が出るまで個室。そう、この頃になると事前に殺人ウイルス検査で陰性の証明をもらわないと、大部屋へ移れなかった。
6月9日、都内の大学病院、母のCT検査。たぶん呼吸器内科の検査だと思う。
この頃になると、病院前に食事処を探すのも苦労する。軒並み、自粛休業に入り始めたからだ。だが通院患者は食べなきゃならない。サラリーマンも自宅勤務ばかりではない。この日は大手讃岐うどんチェーン店ぐらいしか見つからなかったので、まず席を確保して母を座らせ、セルフサービス注文を取りに行く。椅子がガタついていて、母の安定が悪い。それに激混み。たまたま私達はタイミングよく席を取れたが。別の店を次回はネットで調べておく必要性を感じた。
6月16日、都内の大学病院呼吸器内科、母の予約受診。前に見つかった肺の影の経過を見るためだった。
6月17日、新宿の消化器病院へ兄の入院グッズを持っていく。もっとも衣類とタオルがレンタルのため、持っていくのは靴下、紙パンツ、お金、それと兄からのメールでリクエストされた電車時刻表だった。この頃は病棟立ち入り面会が出来ないため、入院受付から連絡してもらい、病棟看護師に手渡すシステムとなっていた。
帰路に香典返し以降、焼香にいらした近所の人の香典返しを買いに行く。デパ地下も三分の一が自粛。それでも店が開いているだけ有り難い。他の売り場はほとんど自粛休業になっていた。レストラン街はどうだったか、いまとなっては不明。
6月29日、天敵先生クリニック、母が受診。「シール剥がさない、風呂でも剥がさない、取れたら新しいのをすぐ貼る」のメモ。恐らく狭心症予防シールのことだと思う。
6月30日、都内の大学病院整形外科、母の初診。「膝」と書いてあるだけなので、骨に異常が無いかの検査だと思う。印象はあえてない。
診察時刻が午前という時間からすると、帰りに何処かで食べてきたと思うが、都内で食べたのか、あるいは地元で食べたのか不明。僅かな歳月で、駅ビルのレストラン街がやっているかどうかさえ、思い出せない。地下食品街がやっていた記憶は鮮明なんだけど。
7月3日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
これは食事した場所を覚えている。と言うよりも、やっている周辺の店が、讃岐うどんチェーン店か、牛丼チェーン店、あるいはこの頃に増えて来た喫茶店チェーン店ぐらいだった。私達は喫茶店チェーン店に入り、母はホットドッグとアイスコーヒー(もしくはクリームソーダ)、私はナポリタンセットを食べていた。
7月4日、新宿の消化器病院を兄が退院。
7月7日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
7月13日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。
7月14日、都内の大学病院、母のMRI検査。朝食とインスリン無しと書かれていることから、検査は消化器だとおもわれる。
7月のお盆シーズン、どの日だった書かれていないが、恐らく送り火の16日だと思う。
浄土真宗には、お盆の概念がない。そもそも49日までの閻魔様をはじめとする大王審判の概念もない。亡くなった瞬間から、御仏になって極楽浄土へ旅立つという思想…らしい。父が生前にそんな事を言っていた。
「そもそも、夏の暑い時期に墓参なんかしたら、熱中症で倒れるじゃないか」と父は言っていた。
実際、母は元気だった頃に1人で母方のお墓参り兼草むしりに行って、「熱中症で危うく倒そうになった。もうお盆のお参りは怖いから行かない」と言っていた。
このお盆で、思い出を作っておきたかった。だから夜、仏間を開け放ってジュースを置き、母と兄と私の3人で、手持ち花火をした。子供の頃以来だ。夕方には閉める仏壇も、その時は開け放っていた。ジュースを飲みながらの、送り火兼夕涼み。
やはりこれを思い出にして良かった。3代目愛犬は、花火が嫌いなので、家の中の仏間の出入口から様子を伺っていた。
この頃から、3代目は鼻血を出すようになった。親友から「早く獣医に連れて行きな!」とメールで言われた。だが凶暴性は健在だ。散歩も距離を歩かないと気がすまない。
7月17日、天敵先生クリニック、母の受診。魚の目の消毒と湿布と書かれているので、整形外科だろう。
7月21日、都内の大学病院泌尿器科で、母の膀胱内視鏡検査。院内処方で、すぐに抗生物質を飲ませる。
7月23日、朝、兄がぎっくり腰に。そして夕方、転倒する。当人は大丈夫だと言っていたので様子を見ることに。
7月24日、3代目愛犬が自宅で意識を失って倒れる。母が懸命に呼びかける。獣医に連れて行こうか行くまいか迷っているうちに、意識を取り戻して何事もなかったかのように歩き出す。
察した。この3代目、父を追いかけようとしていると。何気ない素振りで気づかなかったが、3代目愛犬は、二度と父が戻らないことを理解していたのだ。そしてそのストレスが体を蝕んでいた。
以前のテレビ番組で、飼い主が亡くなってから、真っ黒だった犬が真っ白になってしまった話があった。ペットでなくても、私が好きだった作家さんのように、亡き奥さんを追いかけるようにして、間もなく病死する例もある。身近でも友人の父親が亡くなった半年後、何ともなかった友人の母親が亡くなったことがあった。近しい人の死は人間にしてもペットにしても、最大のストレスなのだ。
3代目が倒れたのは、父の空のベッドの前だった。
7月25日、地元の別の大学病院、兄の予約外受診。転倒後、兄の調子が悪いので、連れて行った。肝不全患者のアミノ酸補給のための点滴を打つ(アミノレバン点滴)。
かかりつけ病院に相談するよう言われる。「この状態で都内まで受診させるのはムリです、ウチに転院させたほうが良い」。
それが可能なら、苦労して新宿まで連れていきませんでしたよ。名医が主治医であることを告げたから、この医師もそう言ったはず。「伝えます」とは言った。
帰路のタクシー、点滴で少し元気になった兄が言う。「俺、新宿のあの先生じゃないと嫌だからね!」
帰宅後は宅配ピザを頼んだ。母も兄も大好物なので、滅多に頼まない2枚のピザは、すぐに皆のお腹に収まった。
7月27日、新宿の消化器病院へ、兄の予約外受診。即入院決定。兄は、2代目愛犬と父の形見となった杖をついて病院に行った。皮肉にも、ここまでの体調悪化で、主治医は身体障害者申請の書類を書くことに同意した。
そして地元の別の大学病院で診療情報提供書の作成をしてもらい、提出するようにも言われた。あのときの医師は、かつて名医と働いたことがあった先生だった。やっぱりね。
午後3時過ぎの帰宅だったと思う。母が家から外へ出て、3代目の名前を必死に呼んでいる。何があったのか尋ねると、宅急便が来た隙に横から3代目が逃げたというのだ。しかし杖をついた母の足では追いかけられない。名前を呼んで戻ってくるのを待つしかなかった。
3代目は、歴代愛犬の中で一番頭がいい。その分、ずる賢いところもあったが、母との留守番で家の中を自由にさせたていたのが裏目にでた。3代目が元気だったら、母を臨時でデイサービスに預けていたところだ。だがあのときは、母の徘回リスクよりも、愛犬の体調を優先させた。
私は愛犬が戻ってくるかもしれないから、母に監視カメラで監視して、捕まえたりしようとせず、自ら家に入るよう促してと言い残すと、自転車に跨って散歩コースを回った。話したことはないが、散歩中によく出くわすレトリーバーを連れた小父さんに、「ウチの柴犬を見かけませんでしたか?」と尋ねるが、見かけていないとの返事だった。散歩コースをくまなく回るが見つからない。父と出かけていた超長距離コースだと、捜索範囲を更に広げなくてはならない。
考え込みながら、隣の住宅団地内の公園で遊んでいた小学生に、柴犬を見なかったか尋ねる。見たという。そして次の言葉に息が詰まった。3代目は、この公園のベンチでよく父からおやつをもらっていた。私はこの公園は蚊が多いので、大抵、散歩は3代目が立ち寄りたがっても素通りしていた。3代目は、父との思い出のベンチの前で倒れていたという。大人が通報して、駐在所に運ばれたらしい。
駐在所へ行くと、3代目はすでに警察署に移送中とのことだった。
ペットタクシーが見つからないので、いつも利用させてもらうタクシー会社に相談すると、ペット用キャリーがあるならタクシー利用が可能とのこと。犬好きな運転手さんを回してくれた。
この親切なタクシー運転手さんのお陰で、3代目は帰宅した。水と餌をガツガツ食べる。とても倒れたようには見られなかった。
しかし3代目は元気になったわけじゃなかった。
7月29日、3代目が再び倒れて意識を失う。今度こそ、もう駄目かと思った。だが3代目は意識を取り戻した。
この状態の3代目を独りで留守番させるのは忍びない。だが入院させて、2代目の時のように食事も拒否して孤独死させるよりは、たとえもしものことがあっても、自宅で旅立つのが一番だと思った。3度の発作で、3代目の行動は次第におかしくなっていく。後に認知症だと獣医から言われた。犬種の中でも柴犬は、認知症になりやすかった。
7月31日、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科、母の予約受診。
私の頭は3代目が無事かで頭がいっぱいだった。
8月1日、この年は梅雨明けがこの日だったらしい。新宿の消化器病院に、兄の面会。
8月4日、市役所に障害者申請用の書類を取りに行く。
8月5日、天敵先生クリニック整形外科受診。魚の目の診察。
8月6日、電話で事前に依頼していた地元の別の大学病院に診療情報提供書を取りに行く。
8月9日、父の月参り墓参。母も一緒。
8月11日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、これは予約受診だったのだろうか。母を往復タクシーで病院まで連れて行く。馬鹿高い交通費になった。レントゲン、採血、採尿。
思い出せないが、一昨日の墓参で熱中症になったのではないかな。熱は帰宅後すぐに冷やしたらさがった記憶が。
8月13日、訪問看護。相変わらず無駄話。ウチは休憩所じゃないんだが、他でもこんな感じなのだろうか?
8月16日、母と駅前と書いてある。買い物だろうか。でも店舗自粛が増えてるときなんだよね。日曜日だから、外来の可能性はないはず。
8月17日、新宿の消化器病院へ、医師と面談。地元の別の大学病院の診療情報提供書を提出。そして市役所の書類の記載をお願いする(実費)。
兄の退院の日取りが決まる。
8月21日、新宿の消化器病院を、兄が退院。
…これから10日間程度が、兄が自宅で過ごす最後のひとときとなる。
恐らく市役所に書類を提出したのも、この頃だと思う。スケジュール帳に市役所に行ったの日の記載がないが。
8月24日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
8月28日、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科を受診。
8月29日、地元の脳外科クリニックで、母と私は検査と診察を受ける。母はアルツハイマーの進行具合いを、私は目眩が相次いでいたので、念の為調べてもらった。
私に異常はなかった。ただ看護師との問診を見た医者から「もう少し休むように」と言われた覚えがある。母のアルツハイマーは進行していた。
蛇足だが、3代目の認知行動も、進行していた。いや、あの時点で認知症というのも妙な気がする。家族がいるときは正常なのだ。しかし都内の病院から帰ると、ほぼ父の使っていたベッドの隙間にハマっている。水はいつでも飲めるよう、様々な場所においてあるが、ずっとハマったままなら飲めるはずもない。出してやると、水をがぶ飲みしていた。
9月1日、天敵先生クリニックの整形外科、母の受診。そういえばあの訪問看護師、聴診器と血圧と体温測るぐらいで何にもしなかったけど、後に変えた訪問看護師はフットケアもよくやってくれたんだよね。もっと早く訪問看護について知っていたら、整形外科へわざわざ母を連れて行く必要もなかった。
9月2日、地元の大学病院脳神経外科、兄の受診。調子は良くない。この前後、恐らく私達が留守の時に転倒している。それがわかったのが翌日だった。
9月3日、兄の調子が悪い。胸が痛いというので服をまくりあげて見てみると仰天した。胸どころか腹まで全体にアザになっている。受け身を取らずに転倒したのだ。
診察受付にはまだ間に合う。タクシーを呼び、予約外で、地元の別の大学病院を受診する。最初は整形外科を受診するつもりだった。紹介状ないので手数料がかかるけど。
しかし外来用車椅子に乗せて診察待ちしているうちにグッタリしてくる。通りがかりの看護師が気づいて、処置室のベッドに寝かせる。そして胸のことを話し、新宿の消化器病院に肝硬変で受診中なのを語る。この病院にも以前に予約外で消化器内科を受診していることを告げると、看護師はコンピューターの診察データを立ち上げて、それから消化器内科の医師に連絡する。診察中だったが、医師は処置に来る。点滴を指示。そして採血と採尿を看護師に指示して、診察室に戻る。整形外科から消化器内科へ変更となった。
採血採尿データが出る。兄は点滴を受けて少し回復したように見えたが、ダルそうだ。検査データを見た医師は、入院を指示した。それも普通の病室ではない。HCU、準集中治療管理室。集中治療室よりワンランク下がるが、緊急性の高い患者が入る病室だ。
HCUに運ばれてすぐ、輸血処置が施される。
「あれ?」私は輸血パックを見て驚いた。「ウチの兄、O型ですよ。これ、B型の血液ですけど」と、看護師に尋ねる。
すると看護師は「お兄さんはB型ですよ、ちゃんと血液型も検査してあるので間違いありません」。
意識のある兄も驚愕。「俺、O型だとずっと思ってました」と兄。そりゃそうだ。入院のたびに血液型O型と書いてたのだから。
「お兄さんぐらいの年代だと、たまに間違えている時があるんですよね。赤ちゃんの時に」という看護師。
マジかと、兄と顔を見合わせる。我が家は父がO型、母がB型だ。間違えてO型の血液を輸血されても支障はないかもしれないが、それでも違う血液型を、日本で輸血するのはあり得ないだろう。
私はHCUの外で待たされる。医師の説明があるためだ。その間に書類のサインを沢山書かせられる。母を動揺させたくないが、これは帰宅が遅れそうだ。電話可能エリアから、母に電話をかけて帰りが遅れること話す。そして犬は絶対に外に出さないこと、母も絶対に外出しないことを伝える。
子供の頃から付き合いのある家には、母が独りで歩いていたら引き止めるように言ってあるが、道路にいつも監視の目があるわけではない。
看護師が、改めて私に問診する。どのぐらい待たされたか、外来を終えた以前診察した医師が、看護師の問診票を見て怒鳴る。
「あそこの医者は、採血してるのになんで気づかなかったんだ!」
消化器医師は怒るが、脳神経外科だと畑が違うと分からないとか、そもそも調べる成分は共通なのかな。素人には分からない。
結局、病院を解放されたのは18時半。ここからバスを乗り継いで、自宅へ帰る。帰宅後、すぐに犬の散歩。夕飯は駅で買ったお弁当で済ませる。
悪いことは重なる。もうこのときは、我が家は呪われているのかと疑いたくなった。
9月8日、22時。地元の大学病院の救急外来へ電話をかけて、タクシーで母を病院へ連れて行く。入院はなかったが、点滴はした。帰宅は翌日丑三つ時の3時半。翌日(当日か)、都内の大学病院へ連れて行く。
9月9日、都内の大学病院病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が予約外受診。このときの炎症反応(CRP)は22と、母が初めてこの病院にきたとき以上の数字だった。抗生物質を出される。これで金曜日までに38度超える発熱がある場合、病院に連絡するように言われる。
9月10日、18時過ぎに都内の大学病院膠原病主治医から電話があって、翌日に殺人ウイルス検査を受けてから、診察に来てくださいと言われる。
心配して電話かけてくださり、受診までしてくれるとはとても親切。だけどね、都心の往復タクシー料金、昨日は五万超えたのよ(泣)。
9月11日、都内の大学病院膠原病内科、母の受診。
母が「タクシー代もったいないし、今日は調子がいいから大丈夫」というので、いつものようにバスと電車を乗り継いで病院へ。
まずは殺人ウイルス検査。これがまた地獄だった。病棟外のテントの中での検査。冷風機は回っているが、テント内には他にも数名の検査を受ける人がいて、健康な人でも熱中症で具合いが悪くなりそうだ。自販機が近くにあるので、ともかく飲んだり冷やしたり。検査を受けて、陰性とわかると、採血室で採血。
すごく疲れたから、展望はいいが値段の高いレストランへ行った。私は冷たいうどんセット、母は刺し身弁当を食べた。とてもじゃないが、名物の揚げ物ランチセットなど食べる気力はない。代わりに母はアイスコーヒー、私はアイスティー、ついでにバニラアイスを2人共追加で頼んだ。
そして診察、CRPは16まで下がった。
帰りは母もグッタリしていたので、懐は痛いが、タクシーで帰宅。連続の通院で母は疲れてたのだろう、タクシーに乗り込んで間もなく爆睡。
私も疲れたが、タクシーメーターが気になって眠れなかった。
ちなみにこの日、本当は内視鏡の予約が入っていたが、当然延期となる。そして帰宅すると、3代目は父のベッドにハマってた。エアコンはつけておいたので、無事だった。
9月15日が本来の予約受診日で、文字が消されていない。しかしカレンダーに記入はない。多分先週の予約外受診で薬は処方されてたように思うので、外来はなかったと思う。この月は目が回る忙しさで、記憶が曖昧だ。
9月16日、地元の別の大学病院の相談室。
兄がHCUを出された日の記録はないが、輸血治療3日ほどで大部屋に移ったと記憶している。そして医師から電話で、相談室で今後を相談するよう言われていた。自宅はもう、無理だと。
紹介された療養型病院の選択肢は多くあった。透析のハンデがない分だけ、選択肢は広がる。パンフレットを持ち帰り、検討することになる。
しかし、パンフレットには都合の良い事しか書かれていない。実態なんて、その病院に実際入院させないと分からない。
父が死して私に託した教訓だ。
9月17日、訪問看護。ウンザリすると記入あり。
9月18日、天敵先生クリニック、母の定期受診。天敵先生は採血で炎症反応を調べることにする。だが検査は外部に持ち込むので、翌日にならないと結果は分からない。電話で連絡して、問題があったら来院してもらうということで、話は纏まった。
9月19日、天敵先生クリニックから電話。CRPは0.09まで下がったので、来院の必要なしと言われる。助かった!
9月23日、兄の入院グッズ持ちこみ。と言ってもレンタル寝巻きとタオルなので、靴下と紙パンツとお金を病棟に預けるだけ。
9月26日、母を補聴器店へ連れて行く。メンテナンスが半年に一度ペースで必要だが、今年はそれどころではなかった。補聴器内部を掃除してもらい、完了。
10月2日、午前に母を眼科へ連れて行く。
その足で、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科、母の予約受診。取り立てて内容は書かれていない。
昼食は、チェーン店喫茶店か、少し離れた場所のイタリアンレストランが営業していたので、そこでパスタランチセットを食べたかのどちらかだ。
10月7日、後ろめたい気持ちを抱えつつ、以前、父の療養型病院の選択肢から外した病院へ、地元の別の大学病院の紹介状持参で来院する。
やはり言われた。父のときに断ったことを、しっかり覚えていた。私は事情を説明する。まず交通の利便性、そして父があちらで在職中にお世話になった病院が前身であったことが決め手となったこと。しかし対応の酷さ、一切の面会謝絶、暴れて亡くなった父のことを赤裸々に話す。
私は「この病院も、キツい拘束をして、面会は死の間際まで謝絶ですか?」と尋ねる。
この病院の相談員は、暴れる場合は拘束もあり得ると言った。だが面会に関しては、防護服を着て短時間なら可能だと言われる。
短時間でも、この病院に入れていたなら、父に会うことが出来たのだ。私は自分の選択を誤ったことに、涙を止めようとしても止まらなかった。
「御自宅からこの病院まで、自家用車なしでは大きく迂回しなくてはならないので、交通を優先させた事情は分かりました。お任せくださるなら、最期まで責任持ってお世話させて頂きます。もちろん、上と相談の上での決定となりますが」
相談員は言った。私は、その時は宜しくお願いしますと告げた。
…後日、この病院から受け入れ可能の返答があったことを、地元の別の大学病院から聞かされた。
10月14日、地元の大学病院脳神経外科の予約日、私だけが赴く。そして兄の病状、今後の転院先を話す。そして診療情報提供書と検査データを提供してもらえるか尋ねた。後日、その2つは渡された。もちろん実費支払い。
10月16日、都内の大学病院で、先月延期された母の内視鏡検査を行う。昼食は地元だったようだ。駅ビルかどうかまで定かではないが、天ざる蕎麦を食べている。
7.最後の病院へ
2020年10月19日、兄の転院。母と一緒に地元の別の大学病院へ行く。
兄の準備が終わるまで、私と母は談話室で待機するよう言われる。私はこのとき自動販売機の印象が強い。ミルクティーを買おうとして、ストレートティーしかなかったことに納得いかず、数台の自販機をみて回っていたときだ。
「うわあ、富士山がハッキリ見えるわよ!」
母がはしゃぐ。私も窓へに寄る。富士山がこんなによく見えるとは知らなかった。高い建物で遮られていないのだ。バス通りは団地がズラリと並んでいるが、談話室の方角はともかく林と山だらけだ。
時間となり、病棟で手の空いてる看護師が並んで兄を見送ってくれた。介護タクシーが用意した長椅子型の車椅子を運転手が押してエレベーターを下り、病院の用意した介護タクシーで療養型病院へ向かう。この大学病院からだと療養型病院は近い。
療養型病院は歓迎してくれた。父を思うと胸が痛む。私と母は使い捨ての防護服を着て、かっぱ型なのでフードもかぶる。
エレベーター前は受付と看護師室があるが、広い廊下は談話室みたいになっていた。患者さんが椅子に座って寛いでいる。のどかな光景は、父の入院先では見られなかった。本当に後悔が胸をえぐる。
兄の病室で荷物を解く。冷蔵庫はないが、テレビはある。病室の雰囲気も悪くなかった。
長居はできないので、荷物を専用棚に入れて、お金を渡して私と母は病室を去った。
そして防護服を脱いだ後、カンファレンスルームで、必要な書類にサインする。医師や看護師、相談員を含めた病棟での過ごし方などの説明。
母に疲れが見えたので、帰りはタクシーを使う。本当に、自家用車さえあれば自宅まで、さほど時間はかからないのだ。一車線の左右ギリギリのすれ違い不能な道路を使えば。
11月5日、トイレ18時とある。スケジュール帳にもカレンダーにも。だが何があったか、思い出せない。尿パッドを母が誤ってトイレに流したときだろうか?
なら修理業者依頼のメモが残っているはずだ。私の中での時間はまださほど経ってなくても、時間は確実に流れていたのだと、スケジュール帳とカレンダーを照らし合わせて考え込みつつ、記憶を辿る。やはり見つからない。
この日の午前中は母の歯科クリニックだった。
11月6日、天敵先生クリニック、整形外科を母が受診。
11月11日、都内の大学病院、母のレントゲンとCT検査。
スケジュール帳とカレンダーを照らし合わせて思った。兄の面会記録が無い。だが10日に一回は行っていた。母とも少なくとも一度は確実に行っていたと思う。防護服を着せるのに四苦八苦し、案内役の看護師に着せるのを手伝ってもらった思い出があるのだ。それとタクシーの運転手さんによって、獣道最短コースや安定迂回コース、長距離コースと変わる。私一人のときはタクシーは勿体なくて乗らないし、そもそも駅前に戻ってから漫画や小説を買うのが、あの頃の小さな楽しみだった。
スマホには、「あれ持ってきて、これ持ってきて」と、大学病院入院時から、兄からのメールが届いた。主にお金と紙パンツと紙オムツ、そして靴下。
それと不便なバスの乗換え(送迎バスは通院患者用で、面会時間には出ない)、病院までの長い上り坂。バス停近くのコンビニで、本数の少ない帰りのバスの定刻まで時間を潰す。お腹が空いたらパンを買って食べた。近くに数件の飲食店があったが、面会時間は昼休み休憩中。
いま、スマホの過去メールデータを見てみた。11月14日と、18日の来院記録が残っていた。療養型病院、ジュースを購買で買うのも許してたのか。「ジュース持ってきて、購買だと定価だから」のメールもある。
お金の無心メールが多すぎて兄らしい。亡くなってから5年も経つのに、生前のメールは残っているんだね。もっとも、喧嘩腰メールはその都度、消していたので全部保存しているわけではない。今思うと、消さなきゃ良かったのかも知れないし、嫌な記録まで残して置く必要はないから正解かもしれない。
兄の記憶が蘇る。療養型病院で、兄に悲壮感はなかった。また退院して自宅に戻れると信じていた。帰宅したら、あれが食べたい、親友に会いに行くと言っていた。
父が亡くなる間近のことである。その日も病院の付き添いがあるため、夜が明けきらないうちから犬の散歩をした。ふと、西の空をみれば沈みゆく月があった。満月、あるいは十六夜たろうか。夜明け間近の薄紫色の空に、真珠のような白さの丸い月が西の山へ沈もうとしていた。
あまりに美しい月だった。だが恐怖を憶えた。怖いのに、目を逸らせない。あの光景をふたたび見る機会はなかったが、脳裏に焼きついてる。後にも先にも、月に恐怖を感じたのは、あのときだけだった。
私は別のエッセイで、父のことを書いたことがある。その時に使った表紙の八重桜は、父が亡くなる前日に、たまたまスマホで撮ったものだ。品種名は覚えいないが、たぶん『松月』だと思う。
八重桜は色の濃い『関山』や、『普賢象』のように雌しべが長いもの以外は、ピンク色は特に見分けがつけづらい。だから別の種類かもしれない。
その場に行けば名札が掛かっているだろう。だがそこへ行く勇気が無い。私はもう思い出が強烈な場所には近寄りたくない。
2.カウントダウン
4月1日、療養型病院へ、父のものを持っていく。何を持ってあったのか、詳細は不明だが、恐らく紙おむつだったかと思う。無論、面会謝絶。
4月2日、兄が救急車で運ばれる。救急車で、新宿まで運んでもらった。ほんと、地元から遠く離れた都心まで運んでくれたのと、受け入れてくれた名医の判断には感謝しかありません。
しかし、この時は何が原因で入院したんだっけ。詳細が書いてない。
ところで私、何度、付き添いで救急車に乗ってるんだろう。いい加減にしてほしい。猛烈に酔うから。
4月3日、都内の大学病院病院内分泌内科、母の予約受診。前回を教訓に、この時の昼食は病院到着前に立ち寄った。
まだ、近辺の飲食店は開いていた。私達の好きな蕎麦屋のチェーン店があるのも、初めて知った。地元より品数は少ないものの、本格的な蕎麦を出す。フツーのざる蕎麦でいいよねと、検査を気にして言うが「蕎麦屋きたら、天ざる一択でしょ!」と母は天ざる蕎麦を注文。検査のこと、少し考えてよ~
その帰りに、母が兄の様子を見に行くと言い出す。
そりゃ同じ東京23区だがね、病院はとっても離れてるのよ。そして新宿でタクシー乗るのは大変なのよ。所定の乗り場に行くこと自体がさ。
健脚ならともかく、貴女、電車の乗り換えだけで疲労困憊するでしょ?
説得しても言うことを聞かない。もう仕方がない。「帰りは歩くよ」を条件に、都内の大学病院からタクシーで、兄の入院先である新宿の病院へ向かった。面会時間は短いが、母はとりあえず満足したようだ。
「やっぱりタクシーで駅へ出ようよ」、母が言う。そんな気はしたけどね。「その代わり、帰路にお茶や夕飯はなし、財布引き締めないと」と。病院から専用電話でタクシーを呼び、駅に出る。そして帰宅した。
翌日に予定されていた訪問看護師は、「疲れたので、別日にしてください」と断った。別に必要性はない。むしろ相手するのが疲れる。
3.散華
4月8日、ふと思い立って、愛犬の写真を持っていこうと思った。折りたたみ式の写真立てを途中で購入し、初代と2代目愛犬の写真を入れて、療養型病院に持っていく。
看護師が、「先程、猛烈に暴れまして」と言った。会わせてくれないか頼んだが「規則ですから」と返された。父は外では大人しい。病院でも、看護師や医師の言うことを聞く模範生だった。これは祖父を反面教師としていたからだ。
明治生れで健康に恵まれていた祖父は、心筋梗塞を患い、一時は危なかったが、復活した。
その際も、当時は概念すらなかった『せん妄』という現象を知らず、帰宅しても暴れる祖父に、祖母や叔母たちは困り果てた。そこでド田舎の我が家に近い精神病病院へ入れた。父が地元の実力者に頼み込んで、入れてもらう手配をしたのだ。だんだんと落ち着いてきたところで、父の妹たちが「こんな田舎に置くのは可哀想だ」と、父の承諾なしに退院させて都内へ連れ帰ってしまった。
父は面子を潰されたと怒り心頭、母は病院へ、菓子折りを持ってお詫びに行った。
そういえばあのとき、母は毎日祖父に呼び出されて、胃潰瘍で胃に穴が空きかけたのだっけ。駅へ出た時の帰りのバスで「自宅に戻りたくない」と、あの当時はいつも言っていた。
その数年後、祖父に大腸がんが見つかる。初期段階で転移なし、手術すれば治る段階だった。しかし祖父はショックで異様にハイとなり、病院関係者や大部屋の人にベラベラ喋りまくって迷惑をかけ、個室に移される。そして夕食のモヤシを喉に詰まらせて意識不明となり、還らぬ人となった。
父は「親父(祖父)は馬鹿だ。簡単な手術さえ受ければ、口癖だった百歳をこえられたのに」と悔しさと悲しみの入り混じった声で言っていた。
その父が理性を失って暴れるのは、よほどのことだ。地元の大学病院では、全く問題を起こしていなかった。
私が持っていったマスク(ボックスで持っていくと、勝手に使われかねないので小分けして持っていく)と共に、写真立てを手渡して「見えるところへ置いてあげてください」頼んだ。看護師は承知した。
そして日付が変わろうかと言う頃に、療養型病院から「父、危篤」の連絡入り、「すぐに来てください」と言われた。
真夜中、タクシーを飛ばす。街中の桜が強風で散っている。「間に合え、間に合え」祈りながら病院にたどり着いたときには、個室に父の亡骸が、眠っていた。医師が家族到着と同時に死亡診断をする。多臓器不全と書かれた。
父の首に触ると、まだ温かかった。そして両手には縛られた跡。キツく拘束されていたのか、暴れた時に出来たものなのか、分からない。ただ死に顔は安らかだった。恐らく鎮静剤でも打たれたのだろう。私は涙が止まらなかった。母は泣かなかったが、虚ろな目をして、父の頬をずっと撫で続けた。
看護師は「ご遺体搬送の手配をします」と言った。私は「それには及びません。直ちにこちらから、もしもに備えていた葬儀業者へ連絡しますから」。そう言ってスマホから葬儀会社に連絡すると、「すぐに伺います」とのことだった。
かなり早く遺体搬送車は来たが、不満だったのか看護師は「遅いですね」と私に向かって皮肉を言う。「病院と提携葬儀会社の癒着でもあるか?」と言ってやりたいのを堪え、涙を拭って「真夜中に駆けつけてくれる、親切な業者さんです」と代わりに言ってやった。
この病院はハズレだった。殺人ウイルスで気が立ってたのもあるのかもしれないが、看護師は家族を亡くした遺族を悼むどころか、さっさと出ていけという態度である。そんな場所に拘束され続けたなら、父もさっさと、この世からオサラバしたかっただろう。
「お世話になりました」、私は口先だけの礼を言って、遺体搬送車の補助席に座る。母は助手席に乗せてもらう。遺体搬送車の移動式担架を乗せる箇所には2つの補助席があり、もう一人の葬儀業者が助手席を母に譲ったのだ。看護師たちは車が出ると、早々に建物に入った。
私は祖母の遺体を、都内の祖母の家に連れ帰ったときを思い出す。ずっと通っていた病院だったこともあるかもしれない。3人の看護師が、祖母を乗せた車が見えなくなるまで、ずっと頭を下げて見送った。
「桜の時期に旅立たれましたか…」
ずっと葬儀の相談にのってくれていた業者さんが、私に話しかける。
「そうですね。夜の桜吹雪の時期に旅立つとは、父らしい」
私は白い布にすっぽり包まれた上から、父の腕を擦る。近くに木が見えずとも、花びらを飛ばしている。自宅間近の公園の桜は、おびただしい量の花びらを散らしていた。散華。
毎年見上げた桜の木。父が元気だった頃は、毎年撮っていた桜。父はデジカメが出るまで、写真の腕がお世辞にも良いとは言えなかった。そして時期を見るということもなく、季節柄もあるが、いつも曇天で満開の桜をカメラに収めていた。
帰宅して、まず犬をケージに入れる。それから父を、一階の仏間兼父の私室のベッドに寝かせた。まさかこの家を出たときが最後とは、父も私達も思わなかった。すぐに帰宅して、車椅子で通院したり、家の中をウロウロしたり、私に欲しい本を検索させて「買ってきてくれ」とお金を握らせていただろう。
業者さんはドライアイスを布団中に大量に入れて、「エアコンは最低気温設定でフル活動させてください」と言った。「翌日(当日)午後に葬儀のご相談ため、またお伺いします。それまで少しでも皆さん休んでください」と言ってくれた。
業者さんが帰ったあと、犬をケージから出す。私と母は、とりあえずお茶でも飲んで落ち着こうと、お湯を沸かしてお茶を入れた。3人分。
父の遺体の前には、檜の簡易机が置かれ、おりんと蝋燭立てが置かれた。ウチのものでななく、葬儀パック込みのものらしい。仏花と線香立ては我が家のものを父のベッド前に移した。父の湯呑みを持っていくと、3代目愛犬が仏間を空けて、ベッドの足元に寝転んでいた。
部屋は寒いのに、それでも戻ってきた父のそばに居たいのだろう。熱いお茶の入った湯呑みを簡易祭壇の前に置き、3代目を撫でて仏間を出た。
眠ろうとしても眠れるものではない。朝早く、犬の散歩に出かけた。いつも父は、ベンチがあるたびに犬におやつを与えていたので、この日も3代目はベンチに飛び移って、おやつを待つ。私は愛犬の隣に座り、おやつを与える。急に涙が止まらなくなった。愛犬を膝に乗せて抱きしめて泣いた。15キロの愛犬は重いが、その暖かさがまだ朝の冷え込みの中で心地よい。愛犬はおとなしくしていた。
昼ごろ、親戚に電話をかけて父の死を報せると共に、「葬儀参列は殺人ウイルスの自粛期間でもあるので参加は不要です」と告げると、先方はホッとしていた。そりゃあ、ド田舎までわざわざ来たくないだろう。ましてや、ほぼ絶縁に近い状態で、近年会ったのは、父の末の妹の葬儀と、父の何番目かの妹の旦那の葬儀ぐらいだ。叔母たちが祖父母の墓参りに来ても、事後報告で、電話が父に来た程度だった。
午後、葬儀会社の人が来た。派遣のお坊さんの手配も終えたという。市営葬儀場だと1週間程度かかるが、それを待つか、それともすぐ利用可能な民間の火葬場を使うか尋ねられて、待ってでも市営でお願いした。あれほど帰りたがっていた我が家だ、夏場ならともかく、今ぐらいの気温なら1週間ぐらい自宅安置でも構わない。
遺影の写真を求められ、私は元気だった頃の父が3代目と並んで座っている写真を出した。頭頂の薄さを気にして被っていた帽子は、私が誕生日に贈ったとき、酒以外では珍しく、その場で喜んだ。もう何年も使い続けた。外出用にと買ったが、夏場の薄手の帽子のとき以外は、そればかり被っていた。散歩で汗臭くなるので、母が洗っても、生乾きで被って散歩に出かける。帽子はいくつか買ったが、気に入ったのは最初に贈った帽子だけだった。
葬儀会社の人が、市営斎場へ電話をかける。4月15日の朝一番なら取れると言うことで、お願いした。精進落としのお弁当の数を聞かれ、兄の退院も目処が立っていたので家族分だけ。葬儀会社の人が、「遺影に供える場合もありますが、そちらはいかがなさいますか?」と問われて、ずっとご飯を食べられなかった、食いしん坊の父の分もお願いした。
たぶん翌日だったと思う。派遣のお坊さんから電話がかってきた。戒名についての相談だった。浄土真宗ではお釈迦さまの『釋』の文字を頭に、男性は三文字、女性は『釋尼』の文字を頭に4文字となる。派遣のお坊さんによって名付けはそれぞれ異なるが、父の場合は名前の一文字のほかに、生前の性格や趣味などを聞かれ、「ご遺族はどんな漢字がよろしいと、お考えになられますか?」と聞かれた。父イコール酒としか、私の頭に浮かばなかったので、「酒は駄目ですか?」と尋ねると、「さすがにそれは…」と反対された。
しかし急に言われても、思いつかない。本だとゴロが悪いし。
お坊さんが「好きな銘柄のお酒とかありましたか?」と尋ねたので、「○○桜」と言う酒が大好物でしたと答えると、「では釋○桜にしますか?」と提案する。そっか、桜か。亡くなった夜のおびただしい花吹雪の話をすると、「ではこれで決めましょう」ということになった。
私の名前は父がつけた。そして父の戒名を私が付ける。不思議な縁だ。
近所には報せなかった。近年、家族葬が増えていて、回覧が『大至急』の赤文字入で回ってくる。たまに「参加、御供物はお控えいただきたく思います」と書かれていながら、葬儀場と時間まで載せてあり、律儀な人は葬儀に赴く。どっちなのか迷うときもあるが、ウチは参加を控えた。
大抵は家族葬を行った後の事後報告で、「御供物は控えさせて頂きます」と書くのが一般的だった。ましてやこの時期は殺人ウイルス自粛期間、なまじ感染されたら、罪の意識に囚われるので遠慮したい。
葬儀屋さんは、11日にドライアイスの交換にやってきた。布団中には、まだかなりドライアイスは残っていた。
4月12日、新宿の消化器病院、兄が退院。
4月13日、葬儀屋さん、ドライアイス補充。
4月14日、母の歯科定期受診。
この歯科帰り、チェーン店紳士服店へ出かける。何故か、それは兄の喪服問題。これまでの喪服が浮腫みでズボンが入らなくなってしまったのだ。上着もピチピチである。歯科からタクシーで向かうが、当初行こうとした紳士服店は閉まっていた。だがこの街道にはもう一軒、チェーン展開している紳士服店がある。そこでタクシーを下りて、母と一緒に喪服売り場へ行く。本当は当人を連れて来れればよかったが、病み上がりで外へ出すのも憚られる時期。サイズは測っていたので、それより少し大きめなサイズを、シャツとネクタイと一緒に購入。ネクタイもボロボロだったのと、白いシャツはやはり入らなかったのに加えて、黄ばんでいた。
近くにうどん屋があり、初めてのチェーン店だが入ってみる。意外と美味しかった。
その後は、大手スーパーへ出向く。母がウォーキングシューズが欲しいと言ったのだ。確かに通院で使っていた靴底は気になっていた。母にウォーキングシューズを選ばせてみる。そうきたかと、驚いた。銀色の、昔の母なら絶対に選ばないタイプの靴だった。母が気に入ったならいいし、これだけド派手なら、デイサービスで上履きに履き替えても、間違えて別人が履いていってしまうこともあるまい。まあ、デイサービスで羨ましがられるかも知れないが。
実は前に、ちょっと問題になったことがあった。都内に通うようになってから、母は自分の田舎臭い服装にコンプレックスを持ち出した。別に通院なのだから構うことないのにと思ったが、仕方がないので、私が選んだ服を買って着せた。最初はブルー系や白の落ち着いたもの、それから徐々に黄色やピンク色を着せてみた。最初は派手すぎると嫌がったが、デイサービスに通うようになってから、お洒落だと褒められて気に入るようになる。そこで出来た友達から、「どこで買ったの?」と聞かれるようになったらしい。店名を教えるぐらいは良かった。だが洋服を買ってきてと頼まれたとかで、通院帰りに立ち寄った店で友達の服を買おとしたのだ。これは金銭トラブルが発生しそうでヤバくないかと、すぐにケアマネに相談した。直ちに対処しますということになり、洋服の話が出ると、介護士が止めるようになったらしい。
これまでは派手でフリフリの服はむしろ遠ざけていたが、認知症の進行と共に、パステルカラーでフリルやレースの付いた可愛いデザインを好んで着るようになった。もしかしたら、心の中で、ずっと着てみたい願望があったのかもしれない。
母は自分のものを自分で選んで買って、満足したようだった。その後はタクシーで自宅に帰った。兄の喪服一式、母の靴、食品が重たかった。
この日の夕方、父を入棺する。好きなものを入れてくださいと言われたので、まず買ったけど読めなかった新刊数冊、好きだった三国志の図鑑、刀剣図鑑、戦国時代人物図鑑など、入れれるだけ入れた。
故人を偲ぶコーナーに持っていくのでと、棺に入り切らない父の愛読者を葬儀屋さんが袋に詰めて持っていく。「明日は必ず、お供えを忘れないでくださいね」と念を押された。
祭壇には、兄の退院の前に立ち寄ったデパ地下で買った、父の好物だったお菓子。このデパ地下では諸国の和菓子を取り扱っていた。父は柿は嫌いだったが、岐阜名物の柿羊羹は好きだった。あとは父の好きなメーカーの取り扱いはなかったので、奮発してエビの姿焼きの入ったエビせんセットを購入。そして父の好物だった、九州有名店の長崎カステラ。
父の好きだった銘柄のお酒は、葬儀屋さんがそっち方面へ行く用事があるというので、750ミリの瓶入りを買ってきてもらった。もちろん代金は支払ってます。
4.葬儀
4月15日、庭のチューリップを咲いてる分だけ切って棺に収める。出棺は確か8時過ぎだったと思う。男性3人と私が担いで黒のワゴン霊柩車に乗せる。3代目愛犬は「連れて行くな!」と言わんばかりに悲痛な声で吠えつづた。私は防犯カメラでデータ保護したこの光景を、何度も再生して見た。3代目が旅立ったあとは、特に何度も何度も。3代目が父を愛している叫びが、哀しくも愛しかった。
近所の人が出棺の様子を見て、「まさか、お父さん?」と驚かれる。こっちはこれから葬儀場に向かわねばならないので、細かく説明する余裕はない。
「はい、父です。これから葬儀なので、帰宅したら会長に回覧原稿を渡すので、回覧でお読みください」と言って家に入る。
喪服は既に着ている。母と兄も着ている。あとはお供えを袋に入れ、数珠や財布を忘れないよう確認して、タクシーを呼ぶ。
タクシーで斎場に向かう。葬儀屋さんが、「花の量を奮発しました」と言っていた通り、黄色をメインした花の祭壇が設けられていた。
父は黄色の花が好きだった。バラでもハイビスカスでも牡丹でも。残念ながら、時期的に庭の薔薇や牡丹は、まだ小さな蕾をつけたばかりだ。
この葬儀の模様を撮影したCDを、後日渡された。私は一度も観ていない。いつか、振り返って観る日は来るのだろうか。いまので時点では、有り得ない。生きて動く母と兄、棺に横たわった父。そんな光景を見たら、やっと塞がりだした心の傷が開いて血を流す。
司会進行、僧侶の読経が始まる。焼香をする。参加者は家族3人のみ。祭壇が華やかな分だけ、より寂しい葬儀だった。
そしてしばしの休憩が設けられたあと、葬儀関係者が祭壇の花を切り取り、棺に家族で納めるように言われる。顔の部分以外は花を埋もれる父。
「えっ?」
私は思わず声に出した。故人が好きだった供物を必ず持ってきてくださいと強調された。それは祭壇の飾りだと思っていたのだ。しかしお菓子は棺に納められ、さすがに酒は瓶ごと入れられないので、紙コップに一杯分入れて棺の顔部分に収められ、眼鏡を外されて蓋をされる。
(お菓子、葬儀が終わったら、家族で食べようと思っていたのに)
メガネを握りしめながら、奮発したエビせんに未練が残る。だがまあ、父の供物だ。仕方がない。
火葬場に向かい、僧侶が簡単なお教を唱えて、父の棺は炉に入っていく。
「ご家族様は、用意された部屋へ」
私達は火葬場を立ち去り、葬儀出席者控室に案内される。そこには白木の位牌と父の大きな遺影、お弁当が供えられていた。
そして父の遺影を中心に、テーブルには豪華なお弁当が、飲み物と共に用意されている。
コップにビールを注ぎ、父に供える。兄も自分のコップにビールを注ぎ、飲んでしまった。 (あー、やばい。名医に怒られる)
いや、どちらしろにしろ帰宅してから兄は、酒を隠れて飲んてるけどね。私もビールをコップに注ぎ、母はオレンジジュースで献杯する。
このときが家族が揃って食べた、最後のご馳走だった。
うちの家族は早食いだ。それでもお弁当や茶碗蒸し、お吸い物など全て食べ終えて間もなく、火葬場からアナウンスが聞こえた。
葬儀業者から遺影と白木の位牌を持っていくように促される。私が遺影を、兄が位牌を持つ。
火葬場に行き、すっかり骨になってしまった父の乗ったワゴン。喉仏は避けてある。二人一組で大きな骨を持ち上げて、骨つぼに入れる。ある程度大きなものを納めると、火葬場職員が手慣れた様子で骨を集めて骨つぼに納める。一部、骨がオレンジ色だったのは、柿羊羹が溶けたせいだろうか?
葬儀業者から、「お父様の眼鏡を」と言われて出すと、骨つぼの正面側に眼鏡は収められて蓋が閉じられた。箱に骨つぼが入れられ、火葬証明書も中に入る。これが後で、埋葬の際に必要になる。骨つぼの入った箱に、白い布袋が被せられた。
私が骨つぼ、母が位牌、兄が遺影を持って、葬儀業者が呼んでくれたタクシーで帰宅する。
母と兄は疲れ切ったように、喪服を脱いで仮眠する。
私はベッド下の簡易祭壇机を、仏壇の前に移動させる。父の遺影、白木の位牌、骨つぼをおく。そして線香に火を灯して拝む。
犬は骨つぼには反応しなかった。父の匂いがしないからか、あるいはもう魂が天駆けたと知ったからなのか。
着替える間もなく、事前に印刷した父の訃報回覧書類を、自治会長の家に持っていく。私の喪服姿と、訃報書類を持ってきたので、会長は驚いていた。あのときの会長が誰だったか記憶にないけれど。
本来、訃報の記事は書記が書く。しかし父に関する挨拶状は、私自身の手で書きたかった。
父はこの土地に愛着があった。引っ越す節目は何度かあった。それでも父はこの土地を愛した。
母と兄は、この土地に愛着がない。むしろ嫌っていた。母は以前にも呟いたように、昔住んでいた借家のご近所が居心地良かったのだろう。兄もまた、以前の土地に帰りたいと事あるごとに呟いた。「ちょっと昔の家までドライブしてきた」と言っていたことがある。それだけ思い出深い土地だったのだろう。
後に遺品整理をしていたとき、兄の古い日記が見つかった。そこには「前の家に帰りたい、ここは嫌だ」と魂の叫びのような文章が綴られていた。本当に兄は、発達障害だったのだろうか?
確かに兄は、言いたいことを表現するのが下手だった。しかし、そこに書かれていた文章は、家族の贔屓目を差し引いても、ちゃんと文章化されていた。思わず号泣するほど、兄は自分の叫びを、ノートいっばいに書き綴っていた。
その古い日記も、私は処分した。これに関しては塩をまき、紙に包んで別の袋に入れてゴミに出した。本当は庭で焼くことも検討したが、昔のように焼却炉がないので、ノートを燃やすのは危険と判断。せめて供養代わりに、塩をまいてゴミに出した。
私は地元が嫌いでもないが、好きでもない。私だけ、この家しか思い出を持っていなかった。例外は、建て替える時の借家住まいか。それでも地元には変わりない。
しかし、家族全員を亡くしたあとは、お金の必要性もあるが、思い出が深すぎる自宅に独りで居ることが耐えられなかった。
数日後、自治会長と町会長が焼香にやってくる。規則で自治会、町会から、それぞれ御仏前が支払われるらしい。そういえば、そんな規則があったかも。
他にも回覧でお断りしたにも関わらず、御仏前を持って焼香に来る人が何人かいた。焼香だけで十分だったのに。お返しが大変だから。
親族から送られてきた御霊前のお返しに、苦労した。母方の叔父は判るけど、父方の親戚はほぼ判らない。父さえ親族を覚えてないのだから。
昔、家族で本家を訪れたことが合った。庭で鉢植えの作業をしている人がいる。『こちらの方?」と母が聞くと、『庭師だろう」と父は素通りした。当時、家の頭は前当主夫人だった。そして現当主は、あの庭師の格好をした人だった。気まずいったら、ありゃしない。交流がなかったのなら説明もつくが、父は若い頃、現当主を弟のように可愛がっていたというのだから。まあ、歳月は容姿を変えるから仕方ないか。
5.後始末
本当に、お金が有り余ってたなら、司法書士、行政書士に丸投げして楽したかった。
さすがに土地に関することだけは司法書士にお任せしたが、後は節約のために自力でやるしかなかった。葬儀後の後始末マニュアルに沿って、出来ることから始めていく。父の障害者手帳返還、保険証の返還。保険証の世帯主を母にする手続き。下水道の名義変更。死亡届は、すでに葬儀業者が提出している。
年金務所提出用、銀行口座名義の変更のための印鑑証明、住民票、戸籍謄本、除籍証明。地元市役所の名義変更だけで、どれだけ窓口を渡り歩いたか。
5月16日、地元市役所巡り。途中、年金事務所に日程予約電話。予約が詰まっていると言うので、これが随分と先だった。
その足で、都内の区役所へ、戸籍謄本を取りにいく。祖父母が暮らしていた区だ。
そういえば、ご近所の仲の良かった犬好きの小父さんが亡くなったあと、私より年上の娘さんが言っていた。「引っ越しのたびに本籍を変えていたから、戸籍を7箇所集めなくてはならなくて、行政書士にお願いしたわ」。しかし土地の名義を小母さんに変更するのに際しては、複雑な手続きを司法書士に任せず行ったというから凄い。
5月17日、母のデイサービス延長を事前に申し込んだ(兄は帰宅しているが、昔ならともかく、この頃はアテにはならない)。
父の本家にほど近い新幹線ひかりが止まる時間帯の新幹線を狙って自由席に乗る。市役所に電話連絡して書留郵送の手もあったが、殺人ウイルスのせいで、到着時期が読めない。それに、少し息抜もしたかった。
新幹線発車まで、まだ間があるので歩き回っているとき、ふと祖父母の菩提寺に立ち寄る気になる。そうなると先代本家当主の分の供養料も包んだほうが良いなと、御仏前袋を2つ購入する。一つは祖父母の供養代、もう一つは前当主の供養代。前当主との面識は、覚えている限りで3度きり。2度は祖父母それぞれの葬儀参列のとき、もう一度は父に連れられて病室の前当主の見舞いに行ったときだ。
前当主と父は年の離れたハトコだったが、疎開中は随分と世話になったらしい。ハトコと言うより叔父に近い年齢差だったが、父は前当主を「○○ちゃん」と呼んでいた。
新幹線で西へ行くのは好きだ。途中で富士山が見えると、ゾワゾワするほど嬉しくなる。
静岡に入ると、父が定年退職前、単身赴任をしたことを思い出す。あの頃、平日は定時に電話があって母と私とで会話。土曜日の朝には静岡を出て帰宅し、母が手料理を振る舞う。そして日曜日の午後、単身赴任先へ戻る。父を盲愛していた初代愛犬が悲痛な声を上げて、父を止める。その声を辛そうに振り切って、車で走り去る。
そんな事を思い出しながら、浜名湖を渡って目的の駅へ。電車を乗り換えて、祖父が愛した地へ向かう。
市役所へは過去に一度、祖父母を愛知県から地元の近くの霊園に改葬するため、改葬届を取りに単身で行ったことがある。その帰りに京都に立ち寄って、神社仏閣巡りを担当した。道案内に従って市役所に到着し、3箇所目の戸籍を取って無事にミッションコンプリート。
さあ、祖父母の菩提寺に行こうとしたとき、「あ」と思った。寺の名前、覚えてない。でも本家のそばだったから大丈夫だろうとスマホで地図を出したら、周辺にめちゃ寺がある。名前を見ても似たような感じで特定できない。そういえば、寺の数だけなら、愛知県って全国トップクラスの数だと聞いた覚えがある。
でもせっかく来たから、恥をしのんで本家に電話をかけた。「もしもし、突然すいませんが〇〇の娘です。祖父母の菩提寺の名前を教えてくださいませんか?いまこちらの市役所にきているので、供養料だけでも納めたいと思ったのですが」
すると寺の名前を教えてくれたばかりか、本家の現当主が車で迎えに来てくれた。そして寺に送ってくれ、僧侶を呼出すも、生憎と留守。代わりに応対した奥さんに、供養代を祖父母の分と前当主分も渡す。「確かに受け取りました。主人に報せて、ご供養させて頂きます」と、言ってくれた。
道順は覚えたし、さあ帰ろうと思ったら、現当主が駅まで送るという。いやいや、そこまでは申し訳ないのでというのは、建前。せっかく遠くまで来たんだし、施設は自粛休業していても、海辺に行ってみようと計画していたのだ。だが押し切られて、改札で見送られたら、立ち去るしかない。ご好意はありがたかったが、ちょっとだけ海辺散策したかった。
でも運転中に、前当主は父の若い頃のことを聞かせてくれた。
「顔に落ちない塗料をつけたまま、遊びに来たんだ。いまやっている仕事の内容を楽しそうに語ってたよ。本当に化学が好きだったんだよなぁ」
前当主は懐かしそうに語る。家業を継いだ現当主は、自由に好きな仕事をする父を羨ましく思っていたようだ。
私も、「父がこちらへ遊びに来た際に、現当主が作ってくれた鍋や、秘蔵のコノワタが美味しかったと常々言っておりました。やはり愛知のコノワタは、他とは味が違うようで」というエピソード披露をした。
現当主は、時期外れに買えば安いんだと秘訣を教えてくれた。そして後日、「〇〇ちゃん(父の名前)にお供えして、あんたも食べてみなさい」と、クール便で送ってくれた。
それにしてもこの地域なのか、うちの一族だけなのか、年齢に関わらず〇〇ちゃん呼びだったのは面白いと思った。
在来線で景色を眺めつつ、仕方ないので、新幹線駅で何か食べるかと思ったが、新幹線ホーム階段横のきしめん屋以外、レストラン街が閉鎖されていた。
きしめんか、嫌いじゃないからいいけどね。私は食券を購入してきしめんを食べる。
かつて両親が食べたきしめん屋は、レストラン街にあった。きしめんにこだわった父と、それに同行した母。私と兄はガイド本で調べた海辺の寿司屋で美味しい寿司を食べてきた。「また、あの寿司屋行こうな」兄はあのとき言った。だがその約束が果たされる日は来なかった。
きしめんを食べ終えると、タイミングよく、この駅に停車する新幹線ひかりが来た。本当は最寄りの駅までこだまに乗り、ひかりに乗り換える計画だったけど。早く帰れば。母の監視も出来るし、3代目愛犬の散歩も出来る。
ま、いっか。
6.大好きだから、追いかけたい
4月20日、新宿の消化器病院へ、処方箋を取りに行く。ちょうど前回の入院費用請求書も出来上がっていたため渡され、その場で支払う。
本当は4月18日に受診予定が入っていたが、名医から電話があり、殺人ウイルス感染のため当分は診察できないとの連絡があった。
4月21日、都内の大学病院膠原病と泌尿器科、母の予約受診。
4月24日、母のデイサービス。風呂は週に一度。風呂の日はもう少し欲しかったが、介護認定2だったので、週に1回しかとれない。風呂は人気が高く、体が不自由で一人暮らしの人が優先される。確かこの頃は、デイサービス通いは週に2度だったと記憶する。
父の葬儀代支払い。
4月25日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
帰宅後、父の納骨に向けて、霊園に電話する。
4月30日、都内の大学病院、母が受診。診療科が書かれていないが、膵臓相談と書かれているので、消化器内科だと思う。
5月8日、司法書士事務所へ出向き、土地と家屋の所有権を母が2分の1、私と兄が4分の1ずつにする手続きをする。
市役所に出向き、相談支援センターへ。父の死去により、これまで出ていた確定型企業年金が止まった。この収入と、父の厚生年金満額受取によって、これまで何とか家計を回してきた。だが貯蓄も切り崩してしまい、今後は不安が生じる。そのための相談だった。
でも結局、役に立たなかった。私は将来的に発生が想定される、金銭的困窮の救済手続きを知りたかったのだ。
しかし初回から相談員は、私にカウンセリング勧めてくる。家庭事情を聞いて精神ケアが必要と思われたみたいだが、こちらも伊達に長年パニック障害を患って訳では無い。カウンセリングが私には合わないことは分かっていた。初診から半年間、カウンセリングは受けていた。だがカウンセラーの仕事は『聞く』こと。カウンセラーの概念の押しつけは禁じられており、深層心理の探求と言われても、私の場合は原因が分かっていた。
1度目は、体調不良が原因で食べられなかった際、小学校の担任に指を突っ込まれて吐かされそうになりながら、給食を無理矢理食べさせられたことでの拒食症の発症。2度目は、専門学校で熱中症にかかった上、豪雨の中の登山の後での飯盒炊飯で無理をしすぎたのをきっかけに、自律神経が狂って微熱が下がらなくなり、それでも無理して登校しているうちに家の中でも立ち眩みを起こしたパニック障害。
別に親から虐待されてたわけでもないし、友人には恵まれている。聞くだけ相打ちカウンセラーより、ズバズバ言ってくれる友とお喋りしている方が精神衛生上、性に合ってる。
カウンセリングは必要ない、私が欲しいのは経済的救済情報だ。そう主張しても、あちらはカウンセリングの一点張り。「駄目だ、こりゃ」と遠ざかっても、電話で執拗にカウンセリングを訴えてくる。別の係に電話して、「もう〇〇相談員から電話をかけさせないでください」と苦情を言った。以来、連絡は途絶えた。あのままだったら、本当にノイローゼになりそうだった。
5月12日、母を連れて年金事務所へ。父の厚生年金は受け取れなくなったが、母には遺族年金を受け取る権利があったので、その手続き。遺族年金、これまで貰っていた額よりも減るが、受給されるのはありがたかった。
5月13日、自宅に葬儀業者さんが来る。香典返しの相談だった。
5月16日、新宿の消化器病院へ、兄の予約受診。
5月20日、葬儀業者さんが、事前に依頼した父の御位牌を持ってくる。
ウチの御位牌は、複数の板が入った繰り込み式で、そのうちの1枚を渡していた。自分で書いても良いらしいが、字が汚いし書き込みの文字が小さいため、父の戒名と没年を印刷してもらうことにしたのだ。
5月22日、母と兄と一緒に墓の前で納骨式。お坊さんに読経してもらった後、墓を開けてもらって、父の骨つぼを入れる。隣には祖父母の骨つぼがある。
ここで白木の御位牌は返還し、特殊印刷された戒名板に、派遣のお坊さんから魂を入れてもらう。
霊園の名義人変更を、納骨式前に手続きする。世帯主である必要はないため、私が名義人となる。霊園、石材店、葬儀屋さんにお金を支払う。
人間は亡くなった後もお金がかかる。
5月27日、地元の大学病院脳神経外科へ、兄の予約受診。
6月2日、3代目愛犬の誕生日。これを書き込んだのには意味がある。
6月5日、墓参。
6月8日、新宿の消化器病院を兄が予約受診。
検査結果が悪くて、その場で入院。殺人ウイルス対策のため、検査判定が出るまで個室。そう、この頃になると事前に殺人ウイルス検査で陰性の証明をもらわないと、大部屋へ移れなかった。
6月9日、都内の大学病院、母のCT検査。たぶん呼吸器内科の検査だと思う。
この頃になると、病院前に食事処を探すのも苦労する。軒並み、自粛休業に入り始めたからだ。だが通院患者は食べなきゃならない。サラリーマンも自宅勤務ばかりではない。この日は大手讃岐うどんチェーン店ぐらいしか見つからなかったので、まず席を確保して母を座らせ、セルフサービス注文を取りに行く。椅子がガタついていて、母の安定が悪い。それに激混み。たまたま私達はタイミングよく席を取れたが。別の店を次回はネットで調べておく必要性を感じた。
6月16日、都内の大学病院呼吸器内科、母の予約受診。前に見つかった肺の影の経過を見るためだった。
6月17日、新宿の消化器病院へ兄の入院グッズを持っていく。もっとも衣類とタオルがレンタルのため、持っていくのは靴下、紙パンツ、お金、それと兄からのメールでリクエストされた電車時刻表だった。この頃は病棟立ち入り面会が出来ないため、入院受付から連絡してもらい、病棟看護師に手渡すシステムとなっていた。
帰路に香典返し以降、焼香にいらした近所の人の香典返しを買いに行く。デパ地下も三分の一が自粛。それでも店が開いているだけ有り難い。他の売り場はほとんど自粛休業になっていた。レストラン街はどうだったか、いまとなっては不明。
6月29日、天敵先生クリニック、母が受診。「シール剥がさない、風呂でも剥がさない、取れたら新しいのをすぐ貼る」のメモ。恐らく狭心症予防シールのことだと思う。
6月30日、都内の大学病院整形外科、母の初診。「膝」と書いてあるだけなので、骨に異常が無いかの検査だと思う。印象はあえてない。
診察時刻が午前という時間からすると、帰りに何処かで食べてきたと思うが、都内で食べたのか、あるいは地元で食べたのか不明。僅かな歳月で、駅ビルのレストラン街がやっているかどうかさえ、思い出せない。地下食品街がやっていた記憶は鮮明なんだけど。
7月3日、都内の大学病院内分泌内科、母の予約受診。
これは食事した場所を覚えている。と言うよりも、やっている周辺の店が、讃岐うどんチェーン店か、牛丼チェーン店、あるいはこの頃に増えて来た喫茶店チェーン店ぐらいだった。私達は喫茶店チェーン店に入り、母はホットドッグとアイスコーヒー(もしくはクリームソーダ)、私はナポリタンセットを食べていた。
7月4日、新宿の消化器病院を兄が退院。
7月7日、天敵先生クリニックを母が定期受診。
7月13日、新宿の消化器病院、兄の予約受診。
7月14日、都内の大学病院、母のMRI検査。朝食とインスリン無しと書かれていることから、検査は消化器だとおもわれる。
7月のお盆シーズン、どの日だった書かれていないが、恐らく送り火の16日だと思う。
浄土真宗には、お盆の概念がない。そもそも49日までの閻魔様をはじめとする大王審判の概念もない。亡くなった瞬間から、御仏になって極楽浄土へ旅立つという思想…らしい。父が生前にそんな事を言っていた。
「そもそも、夏の暑い時期に墓参なんかしたら、熱中症で倒れるじゃないか」と父は言っていた。
実際、母は元気だった頃に1人で母方のお墓参り兼草むしりに行って、「熱中症で危うく倒そうになった。もうお盆のお参りは怖いから行かない」と言っていた。
このお盆で、思い出を作っておきたかった。だから夜、仏間を開け放ってジュースを置き、母と兄と私の3人で、手持ち花火をした。子供の頃以来だ。夕方には閉める仏壇も、その時は開け放っていた。ジュースを飲みながらの、送り火兼夕涼み。
やはりこれを思い出にして良かった。3代目愛犬は、花火が嫌いなので、家の中の仏間の出入口から様子を伺っていた。
この頃から、3代目は鼻血を出すようになった。親友から「早く獣医に連れて行きな!」とメールで言われた。だが凶暴性は健在だ。散歩も距離を歩かないと気がすまない。
7月17日、天敵先生クリニック、母の受診。魚の目の消毒と湿布と書かれているので、整形外科だろう。
7月21日、都内の大学病院泌尿器科で、母の膀胱内視鏡検査。院内処方で、すぐに抗生物質を飲ませる。
7月23日、朝、兄がぎっくり腰に。そして夕方、転倒する。当人は大丈夫だと言っていたので様子を見ることに。
7月24日、3代目愛犬が自宅で意識を失って倒れる。母が懸命に呼びかける。獣医に連れて行こうか行くまいか迷っているうちに、意識を取り戻して何事もなかったかのように歩き出す。
察した。この3代目、父を追いかけようとしていると。何気ない素振りで気づかなかったが、3代目愛犬は、二度と父が戻らないことを理解していたのだ。そしてそのストレスが体を蝕んでいた。
以前のテレビ番組で、飼い主が亡くなってから、真っ黒だった犬が真っ白になってしまった話があった。ペットでなくても、私が好きだった作家さんのように、亡き奥さんを追いかけるようにして、間もなく病死する例もある。身近でも友人の父親が亡くなった半年後、何ともなかった友人の母親が亡くなったことがあった。近しい人の死は人間にしてもペットにしても、最大のストレスなのだ。
3代目が倒れたのは、父の空のベッドの前だった。
7月25日、地元の別の大学病院、兄の予約外受診。転倒後、兄の調子が悪いので、連れて行った。肝不全患者のアミノ酸補給のための点滴を打つ(アミノレバン点滴)。
かかりつけ病院に相談するよう言われる。「この状態で都内まで受診させるのはムリです、ウチに転院させたほうが良い」。
それが可能なら、苦労して新宿まで連れていきませんでしたよ。名医が主治医であることを告げたから、この医師もそう言ったはず。「伝えます」とは言った。
帰路のタクシー、点滴で少し元気になった兄が言う。「俺、新宿のあの先生じゃないと嫌だからね!」
帰宅後は宅配ピザを頼んだ。母も兄も大好物なので、滅多に頼まない2枚のピザは、すぐに皆のお腹に収まった。
7月27日、新宿の消化器病院へ、兄の予約外受診。即入院決定。兄は、2代目愛犬と父の形見となった杖をついて病院に行った。皮肉にも、ここまでの体調悪化で、主治医は身体障害者申請の書類を書くことに同意した。
そして地元の別の大学病院で診療情報提供書の作成をしてもらい、提出するようにも言われた。あのときの医師は、かつて名医と働いたことがあった先生だった。やっぱりね。
午後3時過ぎの帰宅だったと思う。母が家から外へ出て、3代目の名前を必死に呼んでいる。何があったのか尋ねると、宅急便が来た隙に横から3代目が逃げたというのだ。しかし杖をついた母の足では追いかけられない。名前を呼んで戻ってくるのを待つしかなかった。
3代目は、歴代愛犬の中で一番頭がいい。その分、ずる賢いところもあったが、母との留守番で家の中を自由にさせたていたのが裏目にでた。3代目が元気だったら、母を臨時でデイサービスに預けていたところだ。だがあのときは、母の徘回リスクよりも、愛犬の体調を優先させた。
私は愛犬が戻ってくるかもしれないから、母に監視カメラで監視して、捕まえたりしようとせず、自ら家に入るよう促してと言い残すと、自転車に跨って散歩コースを回った。話したことはないが、散歩中によく出くわすレトリーバーを連れた小父さんに、「ウチの柴犬を見かけませんでしたか?」と尋ねるが、見かけていないとの返事だった。散歩コースをくまなく回るが見つからない。父と出かけていた超長距離コースだと、捜索範囲を更に広げなくてはならない。
考え込みながら、隣の住宅団地内の公園で遊んでいた小学生に、柴犬を見なかったか尋ねる。見たという。そして次の言葉に息が詰まった。3代目は、この公園のベンチでよく父からおやつをもらっていた。私はこの公園は蚊が多いので、大抵、散歩は3代目が立ち寄りたがっても素通りしていた。3代目は、父との思い出のベンチの前で倒れていたという。大人が通報して、駐在所に運ばれたらしい。
駐在所へ行くと、3代目はすでに警察署に移送中とのことだった。
ペットタクシーが見つからないので、いつも利用させてもらうタクシー会社に相談すると、ペット用キャリーがあるならタクシー利用が可能とのこと。犬好きな運転手さんを回してくれた。
この親切なタクシー運転手さんのお陰で、3代目は帰宅した。水と餌をガツガツ食べる。とても倒れたようには見られなかった。
しかし3代目は元気になったわけじゃなかった。
7月29日、3代目が再び倒れて意識を失う。今度こそ、もう駄目かと思った。だが3代目は意識を取り戻した。
この状態の3代目を独りで留守番させるのは忍びない。だが入院させて、2代目の時のように食事も拒否して孤独死させるよりは、たとえもしものことがあっても、自宅で旅立つのが一番だと思った。3度の発作で、3代目の行動は次第におかしくなっていく。後に認知症だと獣医から言われた。犬種の中でも柴犬は、認知症になりやすかった。
7月31日、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科、母の予約受診。
私の頭は3代目が無事かで頭がいっぱいだった。
8月1日、この年は梅雨明けがこの日だったらしい。新宿の消化器病院に、兄の面会。
8月4日、市役所に障害者申請用の書類を取りに行く。
8月5日、天敵先生クリニック整形外科受診。魚の目の診察。
8月6日、電話で事前に依頼していた地元の別の大学病院に診療情報提供書を取りに行く。
8月9日、父の月参り墓参。母も一緒。
8月11日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科、これは予約受診だったのだろうか。母を往復タクシーで病院まで連れて行く。馬鹿高い交通費になった。レントゲン、採血、採尿。
思い出せないが、一昨日の墓参で熱中症になったのではないかな。熱は帰宅後すぐに冷やしたらさがった記憶が。
8月13日、訪問看護。相変わらず無駄話。ウチは休憩所じゃないんだが、他でもこんな感じなのだろうか?
8月16日、母と駅前と書いてある。買い物だろうか。でも店舗自粛が増えてるときなんだよね。日曜日だから、外来の可能性はないはず。
8月17日、新宿の消化器病院へ、医師と面談。地元の別の大学病院の診療情報提供書を提出。そして市役所の書類の記載をお願いする(実費)。
兄の退院の日取りが決まる。
8月21日、新宿の消化器病院を、兄が退院。
…これから10日間程度が、兄が自宅で過ごす最後のひとときとなる。
恐らく市役所に書類を提出したのも、この頃だと思う。スケジュール帳に市役所に行ったの日の記載がないが。
8月24日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
8月28日、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科を受診。
8月29日、地元の脳外科クリニックで、母と私は検査と診察を受ける。母はアルツハイマーの進行具合いを、私は目眩が相次いでいたので、念の為調べてもらった。
私に異常はなかった。ただ看護師との問診を見た医者から「もう少し休むように」と言われた覚えがある。母のアルツハイマーは進行していた。
蛇足だが、3代目の認知行動も、進行していた。いや、あの時点で認知症というのも妙な気がする。家族がいるときは正常なのだ。しかし都内の病院から帰ると、ほぼ父の使っていたベッドの隙間にハマっている。水はいつでも飲めるよう、様々な場所においてあるが、ずっとハマったままなら飲めるはずもない。出してやると、水をがぶ飲みしていた。
9月1日、天敵先生クリニックの整形外科、母の受診。そういえばあの訪問看護師、聴診器と血圧と体温測るぐらいで何にもしなかったけど、後に変えた訪問看護師はフットケアもよくやってくれたんだよね。もっと早く訪問看護について知っていたら、整形外科へわざわざ母を連れて行く必要もなかった。
9月2日、地元の大学病院脳神経外科、兄の受診。調子は良くない。この前後、恐らく私達が留守の時に転倒している。それがわかったのが翌日だった。
9月3日、兄の調子が悪い。胸が痛いというので服をまくりあげて見てみると仰天した。胸どころか腹まで全体にアザになっている。受け身を取らずに転倒したのだ。
診察受付にはまだ間に合う。タクシーを呼び、予約外で、地元の別の大学病院を受診する。最初は整形外科を受診するつもりだった。紹介状ないので手数料がかかるけど。
しかし外来用車椅子に乗せて診察待ちしているうちにグッタリしてくる。通りがかりの看護師が気づいて、処置室のベッドに寝かせる。そして胸のことを話し、新宿の消化器病院に肝硬変で受診中なのを語る。この病院にも以前に予約外で消化器内科を受診していることを告げると、看護師はコンピューターの診察データを立ち上げて、それから消化器内科の医師に連絡する。診察中だったが、医師は処置に来る。点滴を指示。そして採血と採尿を看護師に指示して、診察室に戻る。整形外科から消化器内科へ変更となった。
採血採尿データが出る。兄は点滴を受けて少し回復したように見えたが、ダルそうだ。検査データを見た医師は、入院を指示した。それも普通の病室ではない。HCU、準集中治療管理室。集中治療室よりワンランク下がるが、緊急性の高い患者が入る病室だ。
HCUに運ばれてすぐ、輸血処置が施される。
「あれ?」私は輸血パックを見て驚いた。「ウチの兄、O型ですよ。これ、B型の血液ですけど」と、看護師に尋ねる。
すると看護師は「お兄さんはB型ですよ、ちゃんと血液型も検査してあるので間違いありません」。
意識のある兄も驚愕。「俺、O型だとずっと思ってました」と兄。そりゃそうだ。入院のたびに血液型O型と書いてたのだから。
「お兄さんぐらいの年代だと、たまに間違えている時があるんですよね。赤ちゃんの時に」という看護師。
マジかと、兄と顔を見合わせる。我が家は父がO型、母がB型だ。間違えてO型の血液を輸血されても支障はないかもしれないが、それでも違う血液型を、日本で輸血するのはあり得ないだろう。
私はHCUの外で待たされる。医師の説明があるためだ。その間に書類のサインを沢山書かせられる。母を動揺させたくないが、これは帰宅が遅れそうだ。電話可能エリアから、母に電話をかけて帰りが遅れること話す。そして犬は絶対に外に出さないこと、母も絶対に外出しないことを伝える。
子供の頃から付き合いのある家には、母が独りで歩いていたら引き止めるように言ってあるが、道路にいつも監視の目があるわけではない。
看護師が、改めて私に問診する。どのぐらい待たされたか、外来を終えた以前診察した医師が、看護師の問診票を見て怒鳴る。
「あそこの医者は、採血してるのになんで気づかなかったんだ!」
消化器医師は怒るが、脳神経外科だと畑が違うと分からないとか、そもそも調べる成分は共通なのかな。素人には分からない。
結局、病院を解放されたのは18時半。ここからバスを乗り継いで、自宅へ帰る。帰宅後、すぐに犬の散歩。夕飯は駅で買ったお弁当で済ませる。
悪いことは重なる。もうこのときは、我が家は呪われているのかと疑いたくなった。
9月8日、22時。地元の大学病院の救急外来へ電話をかけて、タクシーで母を病院へ連れて行く。入院はなかったが、点滴はした。帰宅は翌日丑三つ時の3時半。翌日(当日か)、都内の大学病院へ連れて行く。
9月9日、都内の大学病院病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が予約外受診。このときの炎症反応(CRP)は22と、母が初めてこの病院にきたとき以上の数字だった。抗生物質を出される。これで金曜日までに38度超える発熱がある場合、病院に連絡するように言われる。
9月10日、18時過ぎに都内の大学病院膠原病主治医から電話があって、翌日に殺人ウイルス検査を受けてから、診察に来てくださいと言われる。
心配して電話かけてくださり、受診までしてくれるとはとても親切。だけどね、都心の往復タクシー料金、昨日は五万超えたのよ(泣)。
9月11日、都内の大学病院膠原病内科、母の受診。
母が「タクシー代もったいないし、今日は調子がいいから大丈夫」というので、いつものようにバスと電車を乗り継いで病院へ。
まずは殺人ウイルス検査。これがまた地獄だった。病棟外のテントの中での検査。冷風機は回っているが、テント内には他にも数名の検査を受ける人がいて、健康な人でも熱中症で具合いが悪くなりそうだ。自販機が近くにあるので、ともかく飲んだり冷やしたり。検査を受けて、陰性とわかると、採血室で採血。
すごく疲れたから、展望はいいが値段の高いレストランへ行った。私は冷たいうどんセット、母は刺し身弁当を食べた。とてもじゃないが、名物の揚げ物ランチセットなど食べる気力はない。代わりに母はアイスコーヒー、私はアイスティー、ついでにバニラアイスを2人共追加で頼んだ。
そして診察、CRPは16まで下がった。
帰りは母もグッタリしていたので、懐は痛いが、タクシーで帰宅。連続の通院で母は疲れてたのだろう、タクシーに乗り込んで間もなく爆睡。
私も疲れたが、タクシーメーターが気になって眠れなかった。
ちなみにこの日、本当は内視鏡の予約が入っていたが、当然延期となる。そして帰宅すると、3代目は父のベッドにハマってた。エアコンはつけておいたので、無事だった。
9月15日が本来の予約受診日で、文字が消されていない。しかしカレンダーに記入はない。多分先週の予約外受診で薬は処方されてたように思うので、外来はなかったと思う。この月は目が回る忙しさで、記憶が曖昧だ。
9月16日、地元の別の大学病院の相談室。
兄がHCUを出された日の記録はないが、輸血治療3日ほどで大部屋に移ったと記憶している。そして医師から電話で、相談室で今後を相談するよう言われていた。自宅はもう、無理だと。
紹介された療養型病院の選択肢は多くあった。透析のハンデがない分だけ、選択肢は広がる。パンフレットを持ち帰り、検討することになる。
しかし、パンフレットには都合の良い事しか書かれていない。実態なんて、その病院に実際入院させないと分からない。
父が死して私に託した教訓だ。
9月17日、訪問看護。ウンザリすると記入あり。
9月18日、天敵先生クリニック、母の定期受診。天敵先生は採血で炎症反応を調べることにする。だが検査は外部に持ち込むので、翌日にならないと結果は分からない。電話で連絡して、問題があったら来院してもらうということで、話は纏まった。
9月19日、天敵先生クリニックから電話。CRPは0.09まで下がったので、来院の必要なしと言われる。助かった!
9月23日、兄の入院グッズ持ちこみ。と言ってもレンタル寝巻きとタオルなので、靴下と紙パンツとお金を病棟に預けるだけ。
9月26日、母を補聴器店へ連れて行く。メンテナンスが半年に一度ペースで必要だが、今年はそれどころではなかった。補聴器内部を掃除してもらい、完了。
10月2日、午前に母を眼科へ連れて行く。
その足で、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科、母の予約受診。取り立てて内容は書かれていない。
昼食は、チェーン店喫茶店か、少し離れた場所のイタリアンレストランが営業していたので、そこでパスタランチセットを食べたかのどちらかだ。
10月7日、後ろめたい気持ちを抱えつつ、以前、父の療養型病院の選択肢から外した病院へ、地元の別の大学病院の紹介状持参で来院する。
やはり言われた。父のときに断ったことを、しっかり覚えていた。私は事情を説明する。まず交通の利便性、そして父があちらで在職中にお世話になった病院が前身であったことが決め手となったこと。しかし対応の酷さ、一切の面会謝絶、暴れて亡くなった父のことを赤裸々に話す。
私は「この病院も、キツい拘束をして、面会は死の間際まで謝絶ですか?」と尋ねる。
この病院の相談員は、暴れる場合は拘束もあり得ると言った。だが面会に関しては、防護服を着て短時間なら可能だと言われる。
短時間でも、この病院に入れていたなら、父に会うことが出来たのだ。私は自分の選択を誤ったことに、涙を止めようとしても止まらなかった。
「御自宅からこの病院まで、自家用車なしでは大きく迂回しなくてはならないので、交通を優先させた事情は分かりました。お任せくださるなら、最期まで責任持ってお世話させて頂きます。もちろん、上と相談の上での決定となりますが」
相談員は言った。私は、その時は宜しくお願いしますと告げた。
…後日、この病院から受け入れ可能の返答があったことを、地元の別の大学病院から聞かされた。
10月14日、地元の大学病院脳神経外科の予約日、私だけが赴く。そして兄の病状、今後の転院先を話す。そして診療情報提供書と検査データを提供してもらえるか尋ねた。後日、その2つは渡された。もちろん実費支払い。
10月16日、都内の大学病院で、先月延期された母の内視鏡検査を行う。昼食は地元だったようだ。駅ビルかどうかまで定かではないが、天ざる蕎麦を食べている。
7.最後の病院へ
2020年10月19日、兄の転院。母と一緒に地元の別の大学病院へ行く。
兄の準備が終わるまで、私と母は談話室で待機するよう言われる。私はこのとき自動販売機の印象が強い。ミルクティーを買おうとして、ストレートティーしかなかったことに納得いかず、数台の自販機をみて回っていたときだ。
「うわあ、富士山がハッキリ見えるわよ!」
母がはしゃぐ。私も窓へに寄る。富士山がこんなによく見えるとは知らなかった。高い建物で遮られていないのだ。バス通りは団地がズラリと並んでいるが、談話室の方角はともかく林と山だらけだ。
時間となり、病棟で手の空いてる看護師が並んで兄を見送ってくれた。介護タクシーが用意した長椅子型の車椅子を運転手が押してエレベーターを下り、病院の用意した介護タクシーで療養型病院へ向かう。この大学病院からだと療養型病院は近い。
療養型病院は歓迎してくれた。父を思うと胸が痛む。私と母は使い捨ての防護服を着て、かっぱ型なのでフードもかぶる。
エレベーター前は受付と看護師室があるが、広い廊下は談話室みたいになっていた。患者さんが椅子に座って寛いでいる。のどかな光景は、父の入院先では見られなかった。本当に後悔が胸をえぐる。
兄の病室で荷物を解く。冷蔵庫はないが、テレビはある。病室の雰囲気も悪くなかった。
長居はできないので、荷物を専用棚に入れて、お金を渡して私と母は病室を去った。
そして防護服を脱いだ後、カンファレンスルームで、必要な書類にサインする。医師や看護師、相談員を含めた病棟での過ごし方などの説明。
母に疲れが見えたので、帰りはタクシーを使う。本当に、自家用車さえあれば自宅まで、さほど時間はかからないのだ。一車線の左右ギリギリのすれ違い不能な道路を使えば。
11月5日、トイレ18時とある。スケジュール帳にもカレンダーにも。だが何があったか、思い出せない。尿パッドを母が誤ってトイレに流したときだろうか?
なら修理業者依頼のメモが残っているはずだ。私の中での時間はまださほど経ってなくても、時間は確実に流れていたのだと、スケジュール帳とカレンダーを照らし合わせて考え込みつつ、記憶を辿る。やはり見つからない。
この日の午前中は母の歯科クリニックだった。
11月6日、天敵先生クリニック、整形外科を母が受診。
11月11日、都内の大学病院、母のレントゲンとCT検査。
スケジュール帳とカレンダーを照らし合わせて思った。兄の面会記録が無い。だが10日に一回は行っていた。母とも少なくとも一度は確実に行っていたと思う。防護服を着せるのに四苦八苦し、案内役の看護師に着せるのを手伝ってもらった思い出があるのだ。それとタクシーの運転手さんによって、獣道最短コースや安定迂回コース、長距離コースと変わる。私一人のときはタクシーは勿体なくて乗らないし、そもそも駅前に戻ってから漫画や小説を買うのが、あの頃の小さな楽しみだった。
スマホには、「あれ持ってきて、これ持ってきて」と、大学病院入院時から、兄からのメールが届いた。主にお金と紙パンツと紙オムツ、そして靴下。
それと不便なバスの乗換え(送迎バスは通院患者用で、面会時間には出ない)、病院までの長い上り坂。バス停近くのコンビニで、本数の少ない帰りのバスの定刻まで時間を潰す。お腹が空いたらパンを買って食べた。近くに数件の飲食店があったが、面会時間は昼休み休憩中。
いま、スマホの過去メールデータを見てみた。11月14日と、18日の来院記録が残っていた。療養型病院、ジュースを購買で買うのも許してたのか。「ジュース持ってきて、購買だと定価だから」のメールもある。
お金の無心メールが多すぎて兄らしい。亡くなってから5年も経つのに、生前のメールは残っているんだね。もっとも、喧嘩腰メールはその都度、消していたので全部保存しているわけではない。今思うと、消さなきゃ良かったのかも知れないし、嫌な記録まで残して置く必要はないから正解かもしれない。
兄の記憶が蘇る。療養型病院で、兄に悲壮感はなかった。また退院して自宅に戻れると信じていた。帰宅したら、あれが食べたい、親友に会いに行くと言っていた。
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