月下美人  頑張った母ちゃんの闘病記

酒原美波

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第十一章 温

月下美人

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1,不思議な出来事
 療養型病院へ転院した兄の面会記録が、スマホに2回分記録されていたのには理由がある。
 1つ目は、年賀状欠礼を詫びる印刷済みの喪中葉書の持参。結局、これは届けたものの、1枚も宛名が書かれることはなかった。
 2つ目は、兄の親友さんの父上が亡くなったから、香典袋とお金を持ってきてほしいというものだった。ウチの父が亡くなったとき、親友さんから御香典をいただいたそうだ。聞いて無いし、返礼もしていない。と言うか、こっちに金が入ってないんだが?
 聞けば兄自身が貰って、返礼品も兄が返したそうだ。「では残りの金は?」と聞けば、兄が使い込んでいた。おおかた、酒と菓子にでも化けたのだろう。

 兄が亡くなったとき、訃報を報せたのは僅か2人。スマホのロック解除ナンバーは事前に聞いていたので(というか、初期設定は私が行った)、住所録を開くと、沢山の名前が登録されている。だがどれが友達で、誰が既に付き合いのない人間なのか、私には分からない。
 確実なのは、よく兄が旅行や鉄道イベントに一緒に行っていた親友の2人のみ。兄はこの2人のことをよく話していたので、人の名前を覚えない私でも記憶に残っていた。
 平日の葬儀だったので、2人は仕事を抜けられなかった。殺人ウイルス自粛期間というのもあるが、2人とも近年に父上を亡くし、部下だったのがいきなり家業の長となったのに慣れず、モノづくりだけでなく取引の仕事をこなさねばならないため、平日は休める余裕がないとのこと。
 特に父上が急死されたことで、仕事の引き継ぎに戸惑う兄の親友さんは、休みも返上して働いているという。それでも合間を作って、自宅の仏壇にお邪魔したいとショートメールが届いた。しかし平時ならともかく、このときは自粛期間。ただでさえ免疫力のない母と病身の犬がいる我が家に、緊急性のない他人様を軽々しく呼ぶことは出来ないし、デイサービスからも極力他人との接触を避けるよう通達が来ている。
 殺人ウイルスが落ち着いたらということで、ショートメールのやり取りは途絶えた。

 そして母の死後、自宅を売り、仏壇も葬儀屋さんから紹介してもらった業者さんに処分してもらう。事前に派遣の僧侶に依頼して仏壇から魂は抜いたが、仏壇の処理は本当に困る。粗大ごみに出せないからだ。仏壇仏具店に頼むのが最短ルートだが、その方法だと軽く10万円を超える。ただでさえ、ウチの仏壇は本棚ほど大きかった。
 家を建て替えた際、父が何軒も仏壇仏具店を回って探し、浄土真宗の仏壇を購入したのだ。浄土真宗でも東と西で微妙に装飾が違っていて、どちらかと言えば我が家はマイナーな方の宗派に属しており、仏壇仏具店になかなか置いていなかった。そして「勿体ない」精神の母のお陰で、本来なら新しい仏壇を購入した際に処分してもらうはずだった、祖母が持ってきた小さな仏壇を残したのだ。気になるなら、御位牌だけ残しておけば良かったものを。
 だから仏壇2つを処分するのに、私はあのとき猛烈に悩み、いっそ電動ノコギリで細かくすることも考えた。カラーボックス数個を解体して、手首を痛めたので止めたけど。
 そこで葬儀屋さんに相談し、2個合わせても半額以下で処分してもらえる業者を紹介してもらって、やっと仏壇問題から解放された。

 私の重荷はあと1つ、兄の絶筆となった香典袋の行く末だ。既に4年近くの歳月が経過している。ようやく殺人ウイルス自粛は明けたが、今更、兄の親友さんに連絡を取るのも取りづらいまま、更に月日は流れた。
 2024年の初夏、私は親友と超有名なお寺の祭事に出掛けた。お寺の名前はあえて伏せておくが、初詣参拝者数全国トップクラスのお寺だ。
 参拝してから親友と遅い昼ご飯を食べていたときだった。スマホに着信があり、誰からだとスマホを見ると、父上を亡くした兄の親友さんからだった。
「仏壇に手を合わせに行ってもよろしいでしょうか?」と書かれていた。
 仰天した。これもお寺のご利益かと思った。「既に自宅は処分しました。兄の絶筆となった御香典を送るために住所を教えてください」と、直ぐ返信した。兄のスマホは兄の死後半年と経たないうち充電しても動かなくなってしまい、兄の親友さんの住所が分からなくなったのだ。分かっていたら、郵送する手配が出来たのだが。
 ただ兄のスマホを解約した際に連絡を取るため、私のスマホの電話番号は教えてあったのと、私も親友さんの電話番号は保存しておいたので、ショートメールを使えば連絡を取ることが出来た。互いのどちらかが、電話番号さえ変えていなければ。
 兄の親友さんはウチの母への哀悼と共に、住所を教えてくれた。そして兄が幼い頃から大ファンだった特撮ヒーローの俳優が経営する喫茶店へ出向き、ご遺族の意向を無視して、兄の死去を伝えた詫びの返信が届く。
 兄はこの俳優のファンクラブに入っていて、喫茶店で行われる季節のイベントにはよく参加していたが、鉄道オタク親友さんまで、まさか引きずり込んでいたとは呆れた。と言うかこの親友さん、よく付き合ってくれたものだ。
 現金書留で兄の親友さんの父上への御仏前を送る。「返礼は不要、兄をときどき思い出していただければ幸いです」とだけ、一筆箋に書いて送った。
 数日後、現金書留が届いたショートメールが、兄の親友さんから送られてきた。

 私の心に引っかかっていた骨が、ようやく抜けた。偶然か必然か、あのとき一緒に参拝に行った私の親友も「さすが霊験あらたかだね」と驚いていた。
 別段、そのことをお祈りしたわけではなかったが、そう言えばこの地は、母方の祖父が昭和から平成に変わる直前まで暮らしていた場所でもあった。お寺のご利益に加えて、祖父があの世から力を貸してくれたのかもしれない。
 ともかく不思議な出来事だった。

2.面会
 11月14日、療養型病院へ兄の面会。前日に兄からメールがあって、香典袋とマジックを持ってきてほしいと頼まれる。それと包むお金。
「御仏前ってなんなの?」と、縁起でもないと思いながら返信すると、兄の親友の父上が急死したから、御仏前を持っていきたいと返される。「親父が死んだとき、〇〇さんからいただいたんだ。墓参にも来てくれた」と、兄はメールの返信をしてくる。
 そうか、まだ動けるときに、兄は親友さんを墓地へ連れて行ったのか。家は自粛期間だから控えたのだろうし、その後は2人で何処かへ食べに行ったのかもしれない。父の納骨から間もないときなら、まだ兄は動けていた。
 面会のとき、この場で名前を書いて、親友さんの住所を教えてくれれば、郵送してあげると言ったが、兄は頑として「直接、お墓で拝んでから手渡す」と主張した。面会を親友さんは希望したらしく、看護師に兄が尋ねたら、「ご家族以外の面会は駄目です」と断られたという。
 当然だ。家族の面会が許可されてるのさえ、破格の待遇なのだから。面会には受付でその都度、身分証明書の提示が求められる。
 帰路の晴れた道を歩きながら、あのとき私はやるせない気持ちだった記憶がある。兄は希望を捨てていない。トイレに杖をついて行けるぐらいだから、きっとまた退院出来ると思っていたのだろう。殺人ウイルスがなければ、一時帰宅は可能だったかもしれないが、当時は難しかった。父の頃よりも、あの憎らしいウイルスは更に毒性を増していたのだから。

 11月17日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が予約受診。午後の診察だったので、チェーン店喫茶店で食事してから行く。
 採血室へ向かいがてら見れば、相変わらず院内の飲食可能な休憩室は満席だ。食べ終えたら待合室に移動してくれたら良いのに、席が確保できると、なかなか席を空けずにスマホをいじっている人が多い。小さな庭園のベンチで食べている人達もいるが、季節柄、外で母にコンビニ食を食べさせるわけにもいかない。

 11月18日、喪中はがきを持って、療養型病院へ兄の面会に行く。前日のメールで、「喪中はがきが仕上がったけど、いる?」と送ると、「20枚ほしい」という返信が返ってきた。
 普段はレイアウトを私が考えて自宅で印刷していたが、さすがに今回は業者に印刷を依頼した。

 亡き叔父は、これまで一度も年賀状をくれたことはなかった。しかし母が送れと言うので、義務的に送っていた。コメントは母に書かせた。
 あれは母方の祖父の七回忌だった。母が危篤から復活し、膠原病を発症するまでの僅かな期間、リハビリを経て驚異的回復を遂げ、長距離も歩けていた頃だったので、私が付き添いながら参列した。皆はビール、母はあの頃、下戸なのにノンアルコールビールにハマってたので、未成年と運転手(亡き叔父の娘さん達の旦那さん)以外はビールで献杯した。
 その時に亡き叔父から言われたのだ、「もっと花の写真を送ってくれよ。俺、バラの花が好きで、よく近くのバラ園まで散歩に行くんだ」と。
「あんた、花なんて好きだったの?」と、母も驚く。祖父は花が好きで、鉢植えをマンションのベランダに並べていたし、期間限定で開放されるバラ園まで、亡き叔父に運転させていた。だから運転手として付き合っているだけだと思い込んでいたのだ。
 私が驚いたのは、「近くのバラ園」が叔父宅から歩いていけるような距離ではなかったことだ。このバラ園は、私も春と秋に写真を撮りによく出かけていた。不便な場所にあったが、まだ名前のない新品種のバラが見られる、バラ好きにはたまらない都営の大きな植物園だった。
 祖父の死後、亡き叔父は祖父のマンションに移った。正確には同じマンションで暮らしていたが、別で部屋を借りていた。祖父のマンションの部屋は、購入したものだった。祖父は母たちが未成年だった頃は荒れた生活を送っていたが、その後は再婚して質素倹約な生活を送る。そして義理の祖母が株で配当金を貯めたタイミングで、マンションの部屋を購入した。風呂なしアパートから風呂付き2LDKと住居は格段に良くなった反面、繁華街から郊外へ引っ越したので、利便性は若干不便になった。
 亡き叔父の死後、それまでほぼ話したことのなかった従姉たちと、春先に母方の祖父母と叔父が眠る墓地へ行った後の昼食会でのこと。「父の引き出しから、〇〇ちゃん(私)からの年賀状の束と花のアルバムが出てきたの。私達も、父が花が好きだったなんて知らなかったから驚いた」と言っていた。
 私の作る年賀状は、自宅のバラや、都営の植物園で撮影したバラの写真に使い、品種名を載せていた。父から丸投げされた元同僚や学生時代の友人への年賀状に、何を書けば良いのか分からなかったので、ともかくバラの写真数枚を組み込んで、コメントスペースを無くした。けっこう評判が良かったらしく、父は同窓会や退職者旅行会で褒められて喜んでいた。丸投げするだけして、手柄横取り。まあ、手間賃で本を買ってもらっていたけれど。
 花のアルバムと言うのは、写真屋さんの写真プリント機から製造できる製本型で、バラ園の写真で特によく撮れたものを厳選して作成した。母から「早く作ってきなさい」と法事後にせっつかれて作成し、叔父に送ったものだった。

 11月20日、都内の大学病院内分泌内科と消化器内科を母が受診。特に書かれていないが、午後診察だったので、検査前に食事をしたはず。

3.飛翔
 勤労感謝の日だった。この日の朝の犬の散歩は紅葉が陽光を浴びて綺麗だったので、スマホで写真を撮った。
 帰宅して食事を作ろうとしたとき、スマホが鳴った。療養型病院からだった。
「お兄さんがそろそろ危ないので、すぐに来てください」
 馬鹿な、ほんの数日前まで杖をつきながら歩いていたのに、危篤?
 信じられなかったが、すぐに母と出かける準備をして、タクシーを呼んだ。
 よりによって、長距離コースを使われた。間に合わないかもしれない。絶望的になった。

 療養型病院で危篤の報告があったことを受付で言うと、この時は防護服なしで病棟へ通された。
 兄は個室に移されていた。点滴と酸素チューブはしていたが、意識はあった。
「カルピスが飲みたい」
 兄は囁くような声で言う。看護師に確認したら、「いけません。後で小さな氷を与えるので」と言われた。このとき隙をついて、唇を湿らせる程度にカルピスを飲ませてあげれば良かったと後悔する。
 母が亡くなる頃には、末期のアイスクリームが定着し始めていた。口の中でゆっくり溶けていくので、死の間際の患者に推奨されるようになった。
 30分で面会は切り上げられた。母が「付添いたい」と看護師に訴えたが、断られた。母は看護師に引き離され、病棟を離れた。
 殺人ウイルスさえなければ、兄は母に看取られて旅立つことも出来たのに。つくづく、あの殺人ウイルスには腹が立つ。さっさと撲滅する新薬が登場すればいい。変化自在のウイルスと言うのが余計に忌々しい。

 兄が意識不明となった報せは、夕食時だった。外出準備をして、タクシーを呼ぶ。安全中距離コースだった。
 受付で名前を告げると、病棟から連絡が通っていたのか、身分証明書確認も防護服なしで、すぐに病室へ通された。午前中に見た日差しが差し込む明るい個室で、兄は帰らぬ人となっていた。家族到着を待って、医師が瞳孔や脈を確認して「20時37分、御臨終です」と告げる。私達は、一旦病室から出された。
 薄暗い廊下兼待合室。ここの椅子は、ネット通販で母用に買った手すり付きの椅子と同じ形なんだなと、変なことを思う。母は放心状態で椅子に寄りかかった。私はスマホで葬儀会社へ電話をかけて、兄の遺体搬送をお願いする。その電話の最中、個室から兄が出される。何処へ連れて行くのだろうかと思ったら、看護師から「ご一緒に」と言われる。母が歩くのもおぼつかなかったので、看護師が車椅子を持ってきて、母を移動させる。
 霊安室だった。看護師が、身なりを整えた兄の組んだ両手の下に、菊の花の造花をしのばせる。丁寧な所作だった。
 薄桃色の明るい霊安室には、小さな仏様が置かれていた。
 看護師が「遺体搬送のお手続きは?」と聞いてくることはなかった。私の電話を聞いていたらしい。代わりに「お迎えが来るまで、こちらでお待ちください」と言われた。母は無言で兄を見つめる。父のときに欠けた魂の半分を、更に半分の四分の一にして、この世を旅立ったばかりの兄を追いかけたのだろう。

 人生に「もしも」はない。しかし兄の穏やかな死に顔を眺めながら、考えずにはいられなかった。もしも兄が自宅に越してこず、従来の土地で暮らしていたならば、ここまで追い詰められた人生を送っただろうか?
 急速に開発が進んだとは言え、我が家の周辺は古い慣習にとらわれた地域だった。よそ者を排除する傾向が強く、転校生はよほど上手く立ち回らないとイジメの標的にされる。
 自宅に引っ越してきてから兄は、ずっと小中学校で虐められていた。生傷も絶えなかった、骨折も一度や二度ではない。だから小中学校での友人はいない。いや、知らないだけで居たのかもしれないが、高校進学時には切れる程度の仲だった。担任もハズレが多かったようだ。週末は頻繁に祖父の家や、母の末っ子叔父のもとへ泊りがけで出かけていた。安らげる場所が、そこしかなかったのだろう。
 私は某テレビ番組の熱血先生ドラマが、幼い頃からウザいから嫌いだった。しかし兄はいつも楽しみに見ていた。こんな熱血先生が担任だったら、少しはマシだっただろうか?
 いや、土地が悪すぎた。もっと因習の薄い場所だったなら、きっと兄はもう少し居心地良く暮らせていただろう。
 市街地の定時制高校進学してから、少しはマシになった。夜は定時制高校進学、昼は調理専門学校。しかし2年間の調理専門学校卒業後、大手チェーンレストランに入社した兄は、毎日怒鳴り散らされて、すぐ退社した。ただでさえ当時の料理人世界は、新人に厳しかったし、そもそも定時制高校は4年制。なんで入社させたのか、当時の両親の判断には今も納得がいかない。その後は自分で見つけてきたレストランのウエイターの仕事を、卒業まで続けた。
 定時制高校から紹介された会社は、同部屋の寮生活だった。会社勤務自体は嫌いではなかったようだが、同部屋の人と相性が悪く、結局は退社した。その後は職を転々とした。相性の良い会社で正社員になれそうだったが、間もなく会社が遠くへ移転すると言うので辞めた。別に田舎でも、ココよりマシなら離れても良いと思ったが、兄は寮生活トラウマがあって嫌だったらしい。
 その後も騙されたり、新興宗教に勧誘されて入ったりもした。この新興宗教問題には父も激怒したが、そもそも兄に信仰心はない。ただ居心地の良いコミュニケーションの場が欲しかっただけだ。そういうわけで、最初こそ熱心だったものの、間もなく飽きて疎遠となった。
 ちょうど定時制高校時代の親友から、御香典の親友さんを紹介された時期でもあったと思う。だからなのか、母は兄の友人を自宅に招くことを原則禁じていたが、定時制高校時代の親友と御香典の親友さんは例外だった。
 ともかく波乱万丈な人生だったと思う。この世は魂の修行場だとよく聞くが、もう少し兄にチート能力でも装備させてあげても良かったのではないか。もっと運命の道がなだらかだったなら、兄は長生きできたはず。
 だが考えても始まらない。もう終わってしまったのだ。安らかな死に顔からすると、苦しまずに飛翔したのだろう。きっとあの世から、兄を盲愛していた祖父が迎えに来てくれたに違いない。

 葬儀会社の送迎車が来た。手の空いていた看護師一同が、送迎車に乗せられた兄の出発に際して、深々とお辞儀しているのが、バックミラーから見えた。
 選択を誤らなければ、父もこうして見送られたはずだと、悔やまずにはいられなかった。
 自宅に到着後、浮腫んで重たい兄を一階の仏間、父が使っていたベッドに寝かせた。簡易祭壇が設けられる。葬儀屋さんは、「明朝また訪問させていただきます」と言って去った。
 このときの母の様子は、記憶が曖昧だ。やることが沢山ありすぎて私も頭がいっぱいだったが、妙に母が静かだったこともある。放心状態が続いていた。 

4.弔問 
 11月24日、兄の葬儀の打ち合わせをする。今回も市営葬儀場を希望し、火葬式にすることにした。予算的に限界に差し掛かっていたので、そうせざるおえなかった。28日10時半の枠で予約がとれた。
 今回は父方の親類には報せなかった。父の時に先方の事情もある程度聞けたのと、なにより叔母たちと母の仲は最悪だった。父亡きいま、もう縁は切れていると思った方が良い。事実、母の死去の際には一応報せようとしたが、どの家も音信不通だった。

 11月25日のドライアイス交換の記載はあるが、僧侶との電話打ち合わせのことは書いていない。だが兄の時の派遣僧侶はかなりキツい性格だった。まあ、この性格のおかげで、火葬式では随分と楽しませてもらったが。
 兄の戒名は名前の一字と、生前の性格を聞かれて『釋○温」とつけられた。温厚な性格だったことを由来する。

 11月25日、末っ子叔父の長男から連絡がくる。葬儀は仕事で参列できないが、前日の27日にそちらへ伺いたいと。
 仰天した。私は2人の叔父には兄の死を報せたが、従弟には報せていない。と言うか、そもそもこの従弟は現在北海道暮らしだ。自宅の横浜にさえ滅多に帰らないことを、末っ子叔父から聞いている。「無理しなくていい。後日、横浜に帰ってきたついでに来てくれればいいから」と言ったが、従弟は兄を本物の兄のように慕っていた。披露宴の際には、「〇〇兄ちゃんのお陰で、僕は鉄道会社に就職しました」とスピーチしていたほどだ。
「どうしても、最期の挨拶がしたいのですが、ご迷惑でしょうか?」と従弟は聞いてくる。
「そんなことはない、兄も喜ぶよ。でも翌日も仕事なら、とんぼ返りになるし、疲れるよ。叔父さんは知ってるの?」と言うと、
「父(末っ子叔父)には絶対に言わないでください」と、従弟は言った。言えば猛反対されたからだろう。

 11月27日の午後、従弟がやってくる。所定の時刻にバス停まで迎えに行く。途中ですれ違った人が居た。ご近所ではない、と言うか、あの顔には見覚えがある。
「〇〇君?」
 尋ねると、驚いたようにこちらを見る。そりゃあ、君の結婚式以来だから、互いに記憶がないのも仕方がない。程々に端正だった顔立ちが、歳月の悪戯を感じる。と言うか、祖父の若い頃がこの従弟の当時の姿となるわけか。
「いやー、お祖父ちゃんそっくりで驚いたよ」
 私が言うと、従弟は目をまん丸くさせた。
 自宅についてすぐ、仏間に安置された兄の元へ案内する。涙ぐみながら、従弟が笑う。
「あれ〇〇ちゃん(私)がやったの?」
 あれとは、兄の眼鏡である。裸眼でも程々に見えていたので、普段は眼鏡をかけていない。だから眼鏡は必要ない。私が兄にかけたというか、兄の目元につけたのは、兄が生前子供の頃から大好きだった、某特撮ヒーローの変身アイテムのメガネだった。あれ、メガネでいいのかな。でも目に装着して変身してたから、メガネとしか言いようがないよね。耳にかける棒はなかったけど。
 焼香を済ませてから、リビングに通す。リビングの棚の上には、色褪せた母方の祖母の写真の他にも、早世した母の姉の幼い頃の写真、祖父の写真が飾られていた。
「似てます…ね」
 祖父の写真を見て、従弟は驚いた。実は従弟、祖父と会ったことがない。

 昔、祖父が再婚する際、末っ子叔父は祖父と大喧嘩して、それ以来、絶縁していたのだ。何度も仲直りするよう、母と長男叔父は互いに言ってたそうだが、嫌い合っている祖父と末っ子叔父が、実は性格が一番似ていた。末っ子叔父の顔立ちは、母方の祖父(私達の曽祖父)に似ていたらしいが、隔世遺伝で息子に出たか。温厚実直な性格は、末っ子叔父とはまるで正反対、むしろ長男叔父に従弟は似ていた。
 さすがに祖父の臨終間近には、母と長男叔父が無理矢理引っ張り出して、末っ子叔父と祖父を対面させた。その頃には既に祖父の意識はなかった。だが葬儀の際でさえ、末っ子叔父は奥さんこそ連れてきたが、子供達は参列させなかった。
 母方の祖父の通夜告別式のとき、我が家は母が、長男叔父と共に葬儀の采配のため泊まり込み。兄は仕事だったので、告別式のみ参加。父は前日に大腸がん除去手術から退院したばかりで、私は父の世話があったため、お通夜の焼香のみ参列して、自宅にとんぼ返りした。

 母も「似てるねぇ」と、従弟をマジマジと見る。兄が亡くなって以来、久しぶりに感情が戻った母だった。
 母や叔父達の子供時代を写した古いアルバムを広げて母と従弟が話している間、私は祖母と祖父の写真を自室のコピー機で写真プリントする。それを手渡すと、従弟は喜んた。
 母はアルバムを広げながら、祖父のルーツを語った。祖父の育った地が青森だと、母も思い込んでいた。
 しかし自宅終いをする際に出てきた祖父の戸籍には、北海道の住所が書いてあった。なんで母が祖父の戸籍を持っていたか分からないが、なかなか興味深いことが書かれていた。
 後日、それを従弟にメールで伝えると、「血が呼んだのでしょうか?」と驚いていた。祖母のルーツは鹿児島で、従弟は就職の際に北海道か九州か迷ったらしい。ご先祖の力、恐るべし。そう言えば、母方の祖父で直系男子がいるのは、末っ子叔父のところだけだ。

 時間にして2時間半ぐらいだろうか、帰路の電車があるのでと言い、従弟は最後にもう一度、兄に挨拶をしてから関東を去った。
 そう言えは、3代目は従弟には吠えかからなかった。その元気さえ失せたのか、それとも従弟を認めたのだろうか?
 ちなみに末っ子叔父がたびたび泊まりに来ていた時には、猛烈に吠えかかり、本気で噛みつこうと機会を伺っていた。犬に嫌われたことがないのが自慢の叔父、ウチの愛犬は3代とも叔父に吠えかかっていた。

5.火葬式
 11月28日、納棺は朝の8時に行う。業者さん2人がかりで兄を棺に入れようとした時、驚いた。兄の体に溜まっていた水分が、持ち上げた際に一気に出たのだ。おびただしい量だった。
「すいません、服を汚してしまって」、私は慌ててキッチンペーパーを取りに行く。葬儀業者さんたちは「慣れているので大丈夫です」と動じない。
 だが窓から出して車に運ぶには、私も含めて三人がかり。重い。ぎっくり腰を患いそうだ。

 父の葬儀の記憶が新しいので、手順は分かっていた。数珠や鞄の他に、お供えのお菓子と、お気に入りの雑誌を別の大袋に入れる。そしていつものタクシー会社に電話をかけた。 

 葬儀場に到着。火葬場前の待ち合い場に、兄の棺が待機する。他にも火葬式家族が待っていた。今回の派遣僧侶は、記憶通りなら確か89歳の高齢お爺ちゃんだった。大丈夫かなぁ、と内心は思った。
 順番となり、火葬場前に入る。棺にまず好きだった本(写真集)やお菓子を入れて、母と一緒に事前に用意された供花を棺に入れる。兄の玩具のメガネはプラスチック製なので、そのまま付けて大丈夫だった。そしてお坊さんの読経が始まり、私と母が焼香する。
 間もなく、左横でも火葬式が行われる。そして僧侶が日蓮宗の御経を大声で唱えだす。
 兄を供養するお爺ちゃん僧侶が声を張り上げる。
 日蓮宗の僧侶が負けじと声を大きくする。
 そうはさせるかと、お爺ちゃん僧侶がより声を大にする。
 もう供養じゃなく、互いのプライドをかけた御経合戦だ。私はうつむきながら、必死で笑いを堪える。涙なんて引っ込んでる。いや、むしろ笑い涙がでそうだ。まるで兄が好きだったザ・ドリフターズのコントだ。
 兄が笑い転げているのが目に浮かぶ。供養としては最高だったかもしれない。

 御経が終わり、兄の棺が炉に入っていく。私と母は終わるまで、待合室で待機。売店で飲み物を買い、母と一緒に飲む。会話をしたような憶えはあるが、何を話したか忘れた。ただ母が妙に冷静に見えた。というより、兄の葬儀にも関わらず、他人事のように感じていると思った。まだ臨終の放心状態のときだった方が、母は母らしかったかもしれない。
 火葬炉から呼び出しがかかる。今回は母と2人で兄の骨を拾う。あんなに体格が大きかったが、骨になると小さいものだ。父のときと大きさに差はない。ただ骨の一部が黒ずんでいた。病によるものだと説明される。酒によって、骨まで蝕まれていたのか。現実逃避のため、酒に逃げるしかなかった兄。
 ここまで追い詰められねばならないことを、兄はしてきたと言うのだろうか?

 葬儀業者さんが呼んでくれたタクシーで、母が白木の位牌を、私が骨壺を持つ。今回、兄の遺影は購入した写真立てに、手持ちの写真を入れた。友達と出掛けたイチゴ狩りで、いちごをくわえてふざけた顔の兄だ。笑いを取ろうと狙ったわけではなく、汚部屋から発掘した写真が食べ物と電車ばかりで、マシな兄の写真はかなり時を遡らないと見つからなかった。
 後日、改めて片付け作業を行って、ようやくまともな写真が出てきた。大好きな伊豆のボンネットバスの隣で直立不動の兄の写真だ。この写真をA4拡大加工して、大きな写真立てに入れる。

 兄の納骨は、父の一周忌に合わせて行うことにした。

6.訪問者
 兄の一周忌を間近に控えた頃、一人の青年が車に乗って訪ねてきた。不審に思って監視カメラ越しに尋ねると、兄の友人の息子さんだと言う。名前は知らなかったが、よく兄が泊りがけで遊びに行っていた家の息子さんだった。母が「家庭のある家に泊まり込むのはご迷惑だから、やめなさい」と、よく注意していたが、「向こうの家族が俺の手料理を喜んでくれるんだ」と言って、兄は言うことを聞かなかった。
 私は外へ出て、門越しに応対する。
「あの、〇〇さん(兄)はお元気でしょうか?僕は〇〇さんの友人の息子です。結婚式には来てくれると言っていたのに、ある時期からパッタリ連絡が取れなくなりまして。父からは、あちらもお父上を亡くされて忙しいのだろうと申していましたが、さすがに全く連絡がないのが長すぎて」
「兄は1年前に亡くなりましたが」、私が言うと青年は泣き出した。
 事情を聞けば、自営業の両親が忙しい間、幼かった青年と兄弟のために、兄は料理を作ったり、近所に遊びに連れて行っていたのだという。
 知らなかった。遊びに行くとは聞いていたが、まさか子守をしていたとは、
 私が青年を仏間に招くと、青年は遺影の前で号泣した。申し訳なく思った。私が兄のメールを全て読んでいれば、連絡することが出来たはず。しかし故人のプライベートメールを読むのは憚られた。
「この遺影の写真、以前の年賀状でいただいたのと同じ…」
 青年は嗚咽を上げながら言う。バスの横に直立不動で立つ兄。
 私は納骨した墓地の名前と区画を教える。
「帰りに立ち寄らせていただきます。そして父と後日、改めて墓参します」
 青年は、涙を拭って去った。「僕にとって、〇〇さん(兄)は本物の叔父でした」、そう言い残して。

 温かい人だった。口下手すぎて自己表現の下手な兄だった。それでも、北海道の従弟や友人の息子さんが慕って訪ねてくるほど、兄は優しい人だった。
 葬儀合戦のお爺ちゃん僧侶、良い戒名をつけてくれたね。兄にピッタリだよ、『温』。
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