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晴れ着
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1.七五三
①
……七五三の日のことは、よく覚えている。
曇り空の土曜日、両親に連れられて美容院に出向き、髪を思いっきり引っ張られ、帯をこれでもかと縛られて準備を終えると、神社へ連れて行かれた。
子供を守る神様で有名な神社だったので、お祓いを行う社殿には多くの同年代、あるいは年下の子供たちがいた。
ようやく帯の苦しさに慣れた私だったが、不機嫌なのに変わりはなかった。
周囲の同世代の女の子の大半は、武家のお姫様のような簪をつけ、赤い着物を着ている。
対して私だけ、白地の着物。そして頭を飾るのは、大きな花飾り。まさに頭に花が咲いたかのように、頭上でデンと主張していた。
「なんで私だけ皆と違う格好なのだろう、恥ずかしい」
お祓いの後に貰ったお絵かきセットや千歳飴を手にしても、心が晴れなかった。
私がようやく機嫌を戻したのは、帰宅して着物を脱いだ時だった。
着物を脱いで普段着になるなり、近所の友達と遊ぶために家を飛び出したのを覚えている。
そもそも母が私に買ってくる服は、殆どが微妙だった。私の好みとは大きくかけ離れたものばかり着せようとしていたのだ。
クラスメートが着ているようなジャンバーが欲しくて頼んだのに、買ってきたのはスキーウェアのようなキルティングのジャンバー。これにクラスメートから、どれほどバカにされたことか。
また、いまでこそフリースが定番になっているが、フェイク毛皮のような白い上着を着ていったときには「シロクマ」とバカにされた。
だがもっとも許せなかったのは、大嫌いな同級生と同じ服だった。おしゃれの欠片もない、というか、どうしてこれが良いのかと母の感性を疑った。確かに母自身も、地味なのに個性的な服をよく着ていた。
むしろ認知症が進んだ後のほうが、母はお洒落になっていた。まあ、かなり少女趣味と言えなくもなかったが、デイサービスに通う同世代から羨ましがられて「私にも買ってきて」とデイサービス仲間に頼まれたことがトラブルになりかけたこともあった。
②
着物はレンタルではなく、父の友人の呉服店で購入したものだった。
着物は既に決まっていた。呉服店の父の友人が勧めたものを、そのまま父が購入したのだ。このとき私は父と一緒に呉服店へ行ったが、母は同行していない。兄と留守番していた。
というのも、父の友人の呉服店は都心にあり、田舎の我が家からだと片道1時間以上かかる場所だったからだ。
このときは着物を買ってもらえることに、単純に喜んでいた。着物は白地でお目出度い柄のもの。羽織ってみれば呉服店店主と父が褒めちぎる。「これは良いものなのだな」と私も機嫌が良かった。
だが簪はこのとき見ていなかった。もしあのとき見ていたら、「こんなの嫌だ!」と駄々をこねたて泣き喚いたに違いない。
父が歴史好きで、フィクションの時代劇テレビもよく見ていたため、私は時代劇に出てくるお姫様の格好に憧れていた。頭に花が咲いた簪なんて、絶対に受け入れられない。
父の友人の呉服店の奥さんが、コーヒーを出してくれた。ミルクは入ってないが、砂糖たっぷりで美味しかった。当時、私は某メーカーのミルクコーヒーしか飲んだことがなかったため、極甘だがブラックコーヒーを飲んだ自分がオトナ扱いされたことに、とても気分が良かった。
が、長い帰路で三半規管の弱い私は車に酔った。まあ汚い話だが、戻した。帰宅するなり母が猛烈に怒った記憶が濃い。
2.ひな祭り
保育園時代に遡る。3月3日のひな祭り前、近所の女の子は自分のお雛様を自慢気に見せていたが、私は恥ずかしくて友達に見せなかった。
母が「子供は外で遊びなさい」という方針でもあったため、幸い、私の雛人形は友達に見せずに済んだ。
初節句の当時、ウチの家族は狭い借家に住んでいた。そして本来なら母方の祖父母が用意するお雛様は、父方の祖父母が購入した。母方の祖母は、母が学生の時に鬼籍に入り、祖父はそうしたことに無断着だったため、父方の祖父母が購入したのだ。
私のお雛様は7段飾りではない。ケースに入った木目込人形だった。髪が生えてて着物を着たコケシのような人形が、幼い私には恥ずかしくてならなかった。だが祖父母からすると、同情心からだったに違いない。いまなら有難いと思う。何故なら父には妹が4人いて、それぞれに女の子がいたからだ。年の近い孫全員の雛人形あるいは五月人形を買い与えるのは、祖父母も苦労したに違いない。
ところで、保育園ではいまでも人間雛人形をやっているのだろうか。たまにテレビで地方の幼稚園児の人間雛人形を見かけることもあるが、お内裏様とお雛様、左右大臣、三人官女、五人囃子と数は限られている。
当然、目立つ器量良しの子供たちが選ばれてお雛様になっていた。私はその他大勢の観客に過ぎなかった。まあ、保育園が嫌いだったので、目立つ行事参加などしたくもなかったが。
そういえば、保育園のクリスマス会では苦い思い出ある。この写真は後年、捨てた。当然ながら母に怒られたが、黒歴史の写真など見ていて不愉快だ。処分するに限る。
保育園はキリスト教系列だったため、特に練習は入念に行われた。天井から吊るされたアドベントのクリスマスリースに飾られた4本の蝋燭が、12月に入ると灯される。
私は運の波が激しい。そして嫌な予感は大抵現実になる。蝋燭の灯されたアドベントリースの下に立つのに不安を憶えた。
手持ちのキャンドルスタンドから隣同士に並ぶ子供たちが火を蝋燭に移していく。その練習の最中、アドベントリースの真下に立っていた私の頭に、蝋燭のロウが落ちてきたのだ。熱さで大泣きするのも当然だろう。幸い髪は燃えずに済んだが、それ以来、蝋燭が怖くなったのは言うまでもない。
本番ではアドベントリースから離れた場所に子供達は並んだが、蝋燭トラウマを抱えた私は、薄暗い空間のなかで次々と灯されていく蝋燭の順番が近づくにつれ、ついに恐怖で泣き出した。その瞬間が写真に撮られていたのだ。こんなトラウマ写真、残しておく親も親だと私は思う。
あるいは、親は私の頭に蝋燭のロウが垂れたことを、先生から知らされていなかったのかもしれない。使い終わったキャンドルスタンドは、当然、親の目を盗んで不燃ごみに捨てた。
ひな祭りの話に戻ろう。私は昔から、菱餅に憧れていた。雛あられは買ってもらえたが、菱餅は「不味いから買わなくていい」と、母は買わなかった。なんか嫌な思い出でもあったのだろうか。
保育園から帰ったひな祭りの日、私は唖然とした。どんぶりで作った巨大プリンとゼリーが飾られていたのだ。サプライズあとは冷蔵庫に戻して、夜に家族で食べた。それにしてもあんな大きなゼリーとプリンを作ろうと、よく思いついたものだ。
母は昔、御殿飾りの豪華なお雛様を持っていたらしい。だが戦後の食糧難で、祖父が田舎で僅かな米と交換したそうだ。それを時代のせいだと分かっていても、やはり悔しかったらしく、何度も何度も、耳にタコが出来るほど聞かされた。
私が中学生になった頃、母が「7段飾りは無理でも、親王飾りなら買ってあげるよ」と言い出した。確かに私も母もお雛様がデパートに並び出すと、よく見に行っていた。しかし中学生になって、今更、お雛様もあるまい。断ったが、母はお雛様売り出しシーズンになると例年尋ねてきた。母自身が欲しかったのかもしれないと、今にして思う。
……後年、ひな祭りの日の朝、母はこの世を旅立った。
お内裏様にしては見目麗しいとは言えない父が、既にあの世へ逝っていたため、お雛様の母も、ひな祭りの日に追いかけて行ったのだろう。
3.入学式
ウチの親は、服装センスが微妙だ。何処で見つけてきたか分からないが、小学校入学式の日のために、ピンクの子供用ボレロ付きワンピースを買ってきた。
私は赤は嫌いでないが、ピンクは嫌いだった。似合わないと、友達に馬鹿にされた思い出もあるからだろう。
そもそも写真を見ても、未だに似合っているとは思えない。不機嫌な顔が更にピンクのワンピースと不協和音を奏でている。
他の子達もそれなりに華やかな格好をしていたが、写真の中の私は、ひときわ悪目立ちしているように思える。ただ捨てるのには躊躇いがある。後部列の母の笑顔が、心底から喜んでいるように見えるからだ。
私が誕生するとき、付き添いは父方の祖父と兄だけだったという。父は出張で留守、祖母は実の娘の出産に寄り添っていた。
生まれたとき、私はへその緒が絡みついて泣き声をあげなかったそうだ。だが医師の処置で産声をあげたらしい。
他にも私の右足の子指と薬指はは癒着しており、看護婦はその事実を母に告げるのを躊躇ったという。退院する前に、私の右足の小指と薬指の分離手術を終えたようだが、子供の頃の私は右足の小指が小さいのに疑問を持っていた。
母は大きくなったら改めて手術させようと思っていたらしいが、歩行や走行に不便はないため、今もこのままだ。
まあ、そんな事情もあって、入学式の母は感慨深げな笑顔を浮かべていたのだろう。
なにしろ私は手間のかかる子供だった。食が細いのか胃腸が弱いのか、小学校に上がる前までは普通の子供の食事量が食べ切れず、家ではお腹がすいたらまた食べればいいと、無理して食べさせず食べ残しを冷蔵庫に入れていた。
だが保育園は違う。当時の保育園や学校は軍隊みたいなものだ。給食の時間は皆がお昼寝タイムになっても、私は薄暗い部屋で給食を食べ終えるまで座らされていた。まあ、食べ切れたことなど月に一度あれば御の字だったし、無理に食べれば戻してしまうので、無理矢理口に突っ込むような先生も居なかったが。
他にも遊んでて骨を折ったり、ガラスケースに乗って怪我したり、ともかく怪我の絶えないクソガキだった。
小学校入学後には、竹藪まで転んで斜め切りの竹に足を突き刺して縫合騒ぎになったりもした。この縫合は、思い出しても嫌な経験だった。ようやく傷が塞がった、これで通院も終わりだと思っていたら、医師が「傷口から土が入っていたようだ」と、再びきり裂いて土を取り出したのである。怪我した当初は止血優先だったため気付かなかったのだろうが、せっかく塞がった傷をメスで切られ、ほじくり返されるのは酷い。しかも部分麻酔なんで「痛い!」と言うと、「静かにせんか!」と叱られて、暴れないように看護師に保定されたのだった。
4.卒業式
小学校入学式のときは悪目立ちするピンクのワンピースが嫌いだった。
しかし卒業式の服装は、皆が紺系統の晴れ着を着ていた。私も同様に紺色のワンピースを着ていた。かなり気に入っていて、母が「新しいのを買おう」と言っても、何年もそれを着ていた。
関西から来た友達は「せっかくの卒業式なのに、コッチは地味な格好なんだね」と言っていた。まあ、その子の出た大学では卒業式にドレスを着用するほどだから、地域性の違いというのは興味深い。
さて、成長期の小学生が、何年も同じワンピースを着ていたのは何故か。答えは簡単。私は小学校4年生で成長が止まってしまったからだ。止まっただけではない。体重は小学校4年生のときよりも、10キロ以上減っていた。写真を見ると同じ人間とはとても思えない。
保育園の先生は、給食を食べ終えるまで席に残しても、無理強いしてまで食べさせなかった。なだめたり、怖い顔をしたりもしたが、手は出さなかった。
しかし小学校4年生の担任は違った。教師なりたては、普通はクラス担任にならない。ところが運悪く、私のクラスは大学卒業したばかりの斜めにズレた熱血教師が担当することになったのだ。
斬新な発想で、児童には人気のある先生だった。だが自分の信念に間違いはないと、勘違いしている面もあった。たとえば読書感想文。私が書いたものを、「何が言いたいのか分かりません」と添削してきた。クラスメートへの贔屓もあった。だがそんなことは些細なことだ。
私がもっとも許せないのは、私を拒食症にした元凶だったからだ。いまだったらスマホで隠し撮りして拡散して断罪してやるのにと、未だ恨みはある。
小学校入学してから、私の食欲はようやく普通の子供に追いつき、給食は完食した。むしろ幼稚園に通っていた児童の方が、当初は給食を食べきれなかったが、それを無理強いする担任も居なかった。なにしろ担任が好き嫌い激しくて、給食を残して児童に怒られていたぐらいだ。そんなわけで、方向違いの熱血教師にあたるまで、私は学校生活を楽しんでいた。
突然給食を食べられなくなったのは、二学期のはじめ。外見は体格もよく丈夫そのものに見えるが、風邪をひきやすく、すぐ高熱を出す。その日も何となく、調子が悪いというほどではなかったが、給食を完食できる体調ではなかった。給食を残すのを怒った担任は、無理矢理、私に食べさせた。それをキッカケに、私は給食が完食できなくなり、その後は母が作る自宅の美味しい食事も、少し食べただけで喉に通らなくなってしまった。
いまならすぐに精神心療内科行きだろう。だが当時はそんな考えはタブー視されていた。両親は何度も担任に抗議し、数日は大人しくしていても、再び担任は暴挙を繰り返す。無理矢理食べさせられたり、水道で指を突っ込んで吐かせようとする担任の横暴も苦痛だったが、一番堪えたのは私が食べ終わらない限り、クラスメートの下校を許さない行為だった。
持ち上がりのクラスメートとは、皆と仲が良かった。だが私のせいで帰宅できないことに、クラスの男子が腹を立て、罵声を浴びせる。
心無い噂も広がった。私が食事を食べず、家でお菓子ばかり食べていると。次第に私は、特定の友人以外、人が怖くなり、以前のように気軽に話しかけることが出来なくなった。
よく登校拒否にならなかったものだ。だがそれは、一部の友人が支えてくれたからだ。
ちなみにこのクラスでもう1人、男子児童が給食がキッカケで登校拒否となり、学年が変わって担任から解放されるまで、学校には戻らなかった。
小学校5年生の6年生はベテランの先生が担任となり、私に給食を無理強いすることもない。この恩師は、児童一人一人に厳しくも温かく接してくれた。この先生とは近年まで年賀状のやりとりをしていたが、私の家族の相次ぐ死で年賀状を出すキッカケが失われて縁は絶えた。今ごろ、どうしているだろうか?お元気だろうか?
卒業式の母は、入学式のときのような満面の笑みではなかったが、入学式とは違う感慨にふけっていたに違いない。
後年、家族とよく話した。「給食が小学校でなくならなければ、命も危なかったかもね」と。そう、卒業式時点で私は、かなりマズイ体重になっていたのだ。
5.束の間の平穏
中学生になって、昼食はお弁当に変わった。母の手作り弁当を残さず食べきるまで1年生の一学期をつぶしたが、小学校という呪縛から逃れた結果、徐々に食欲が戻った。
嬉しい困りごとは、制服だった。もともと体格が良かった私は、食欲が戻ると同時に身長がグングン伸びてきて、成長痛も味わった。膝を曲げるたびにボキボキ音がするので、周囲に笑われた。さすがに着続けるのに無理があり、中2の途中で制服をピッタリではなく、少しブカブカなものに買い替えた。それでも中3では制服がピッタリになっていた、それも当然、中学入りたては整列の際は一番前だったのに、中2の終わりには、後ろから数えたほうが早かったからだ。
中学の担任は、1年はまあまあ、2年と3年は大当たりだった。学年が変わるごとにクラス編成がかわったが、2年と3年の担任は同じ先生だった。若く穏やかで人気のある先生だったが、理系ならではのマッドサイエンティストな面もあった。理科室に飾られていた子猫の解剖のホルマリン漬けを作ったのが担任と知ったときにはドン引きした。交通事故で死んだ子猫をそのままにしておくのは勿体ないと思ったらしい。他にも色んな逸話があるが、身バレを防ぐため隠しておく。
中学は楽しかった。楽しすぎて成績がヤバかった。親友が皆、レベルの高い高校を志願して合格していただけに。
高校の進路に関して、私は公立のある学校を希望した。興味のある珍しい部活があったのだ。だが運がいいのか悪いのか、高校を決めるのを左右する学期試験中に高熱を出した。だがここで引き下がれない。解熱剤を飲んで学期試験を受けた。そして学期試験が終わった翌日の全国模試を控えた夜、解熱剤を飲み過ぎて3時間、両鼻から鼻血が噴き出た。ごみ箱の上でティッシュを交換しないと、血が噴き出して追いつかない。今考えると救急車レベルだよなぁと思うが、誰もそれを思いつかず、ひたすらティッシュを早業で取り替えた。ようやく何とか止まったものの、翌日登校出来る状態ではなく、翌日に有給をとった父の車に乗せられて病院に連れて行かれた。
そんなわけで、希望した公立校に僅かに成績は及ばなかった。そもそも、その学校を希望する生徒も多かった。当時は全員を高校入学にさせるために、決まった数の生徒を受験に送り込んでいた。
担任は、「併願する私立校のレベルを落としてでもいいなら挑戦してみるか」と言ってくれた。そして学年会議を経て、伝えられたのがある私立校の単願試験だった。「あれ?」とも思ったが、その学校も悪くないところだったので、そちらの試験を受けて合格した。
高校はほぼ同じレベルの生徒が集まる。それがこんなに居心地がいいとは思わなかった。生涯の友とも出会えた。
中学2年3年を受け持ってくれた担任には感謝しきれない。
6.暗転
①
やりたいことがあった。だから浪人してでも、目的の大学を目指した。でも桜は散った。
親はあと1年浪人しても構わないと言ってくれたが、もう気力がなかった。
すると母が早々に都心のコンピュータ専門学校に入学届を出した。このとき、もう少し自分が投げやりにならずに人生を見据えていたらと、悔やむ気持ちもある。
そのコンピュータ専門学校で友達もできて、担任にも恵まれた。早くも皆で「卒業式には袴で出ようね!」と約束もした。
……しかしこの専門学校には、妙な行事があった。情報処理に携わるには体力も必要ということで、強制参加合宿をクリアしなければならなかったのだ。
私達のクラスが当たったのは真夏、しかも例年にない暑さ。現地についた早々マラソン、翌日には豪雨のなかの登山と飯盒炊飯。酷暑のマラソンで既にダメージを受けていたが、豪雨の登山のあとで、着替えもなく飯盒炊飯での夕食で私は体調を崩した。
翌日には熱をだし、呼吸もつらくて酸素吸入もされた。
何とか帰宅した私はぶっ倒れて寝込んだ。
②
もう後がない焦りもあった。だから微熱が収まらない体に鞭打って、登校した。体調はどんどん悪くなっていき、学校にたどり着いても授業を受けられる状態ではなく、登校途中に具合が悪くなって休み休み帰宅することも多くなった。食事量も格段に減った。
出かけるときは朝食抜き、友人とお茶やランチをしても、必ず具合が悪くなるのが、申し訳なくてたまらなかった。
自分で限界を悟った。両親に涙ながらに専門学校中退を願い出ると、父はすぐに受け入れた。しかし母は、「せっかく成績も良いのだから、休みながらでも、もう少し頑張りなさい」と言った。
だが学校に通うどころか、近所を歩くことさえ辛い。気持ち悪い。目眩がする。
結局、専門学校から数カ月後に最後通帳があって、私は中退した。
部屋で読書していると、父が「おまえ、大丈夫か!」と慌てて駆け寄ってきたことも、たびたびあった。部屋で大人しくしている分には平気だったが、父から見ると顔色が真っ青だったらしい。
拒食症とまではいかなくても、食欲は落ちた。体重もどんどん減って、生理がこなくなった。
総合病院に連れて行かれ、様々な検査を受けつつ通院し始めたのもこの頃だ。
それでも友人は、本物の友人は私を見捨てなかった。専門学校時代の友とは早々に縁が切れた。しかし幼馴染や高校時代の友人は、私のペースで友情を示してくれた。
感謝しかない。家族を失ったいまは、尚更に友人の存在が尊い。
7.成人式
外に出るのも大変な状態で、出れるはずがなかった。だから誘ってくれた友人には「会いたくない奴もいるし」と強がった。
成人式の振袖も、親は着せたがったが拒絶した。随分と親に無駄金を使わせてしまった負い目もあった。だがいま思うと、恐らく家族で真っ先にリタイアしそうな私の遺影代わりに振袖写真ぐらい欲しかったのかもしれない。
まあ、結局は私が生き残って、家族をみんな送り出すことになったわけだが。
本当は振袖を着てみたかった。魔を退ける赤い振袖。資料を読むたびに、日本の歴史と伝統の奥深さを知る。もっと早く気づいていたら、伝統を守る道に進んでみるのも悪くなかったかもしれないと思う。
私は友人との外出先で具合が悪くなっても、本屋に行くと体調が整う妙な体質になっていた。たぶん興味があるものには、体調の悪さなど忘れてしまうのだろう。実に都合のいい心身だ。
私は家に引きこもるうちに、日本史に興味を持つようになったわけだが、動機が漫画なのはどうかと思う。しかし父が「貸してくれ」と歴史ものとはいえ、少女漫画を読むも妙なものだと昔は思った。
いまは男女性別を問わず、読みたい漫画やライトノベルに夢中になる。垣根があってないようなもの、しかし本屋によってジャンルが違うのは探し出すのにけっこー困る。明確な男女もの以外は、もう出版社別の名前順でよいのではと思う。
8.転機
①
高校時代の友人から、立て続けに結婚披露宴招待状を受け取った。食事はどうでもいいが、行きたいと思った。
ちょうどそのタイミングで、民放が青少年の精神科受診特集を取り上げた。
もう思うように動けない自分にウンザリもしていた。だからすぐに通える距離、なおかつ便利な場所を探し出した。
親に話すと猛反対された。しかし私も引かなかった。
「なら1人で行きなさい!」
そう言われた翌日、私は目星をつけた精神科クリニックを受診した。さすがにクリニックに入るときには緊張したが、なかは普通の同世代あるいはその上の年齢の男女が多くいた。
このクリニックには未だにお世話になっている。
薬は効いた。嘘のように動ける。だが後年、法律で処方が院内から院外に移ったとき、最初に出された薬がプラシーボ効果だったのを知る。普通の胃腸薬だったのだ。
だが電車に乗って遠出となると、騙されたと知らなくても胃腸薬では効かない。そこで初めて精神安定剤が処方された。
②
クリニック受診半年後、最初に結婚する友人の披露宴に出席できた。食事は警戒して殆ど食べなかったが、幸せに輝く友人を見れて嬉しかった。
このとき着ていった服は、母がずっと以前に購入してきたブルーのワンピースだった。このワンピースには随分とお世話になった。母にしては珍しく、私好みの服だった。
2人目の結婚式には、新たにモスグリーンのツーピースを買ってもらった。
高校時代の友人と幼馴染の結婚式は、この2着を着回した。
長年世話になった服は歳月と共に傷みと色褪せが激しくなったので、最後の家族だった母が亡くなって実家を処分する際、名残惜しいがサヨナラした。
沢山の人や物と出会い、多くの別れを繰り返してきた。
人生の大半を暮らした家との別れのとき、もう自分の人生も終わったと脱力していた。
早く迎えが来てほしい、もう独りは嫌だと自死が頭をよぎることも多かった。
しかし親友の存在が、私を引っ張り上げてくれる。
未来は絶望ばかりじゃない。ネガティブな方向に目を向ければ、いくらでも暗い情報が噴き出てくる。
しかし視点を変えると、恵まれた境遇が見えてくる。友人がいて、衣食住ができて、いまは障害者向け職業訓練校に通っている。
居場所があるいまに感謝。
人生を達観しているわけでも、諦めているわけでもない。これからは、もっと欲を出して、自分の望むものに手を伸ばす。
③
療養型病院に父と兄を入れる、それしか選択肢が無かった。
父は透析が必要であり、巨漢の兄を訪問看護師や訪問医を入れたところで、辛うじて動けた兄を介添えしてトイレに連れて行ったり、入浴させるのは不可能だったからだ。
それに同じ頃、難病持ちの母の病状がゆっくり悪化し始めた。通院先は公共交通機関を使って片道約2時間、病院の待ち時間や診療時間は軽く5時間を超える。
そんな状態で、余命宣告の出ている父や兄を自宅介護する選択肢はなかった。
……父の場合、透析を終了し、数日間後に確実に亡くなる選択肢もあった。しかし、まだ数カ月余命のある父に、それを選ぶ気には到底なれなかった。
だが余命など、あくまでも目安に過ぎない。余命より長く生きる人もいれば、父のように救急指定病院から、透析もある療養型病院に転院して僅か1週間で亡くなってしまう場合もある。
父を亡くしたとき、私は透析終了の選択肢を取らなかった自分を激しく責めた。
「どんな選択をしても、後悔のない見送りはない」と、複数の医師から異口同音に言われた。その通りだった。なにを選んだところで、後悔のない見送りなどない。
それでも最期をベッドに拘束されて、当時面会が一切許されなかった、あの殺人ウィルスが世界の社会生活を変えた異常な時期に、独りで逝かせてしまった後悔は、父の七回忌を今年迎える今になっても消えない。
父の死後、悪化した兄は救急指定病院の準集中治療室を経て、普通の病棟に入り、その後は療養型病院に転院した。そして入院から数カ月後の晩秋、この世から旅立った。春に亡くなった父と、秋に亡くなった兄。同じ年に、父と兄は逝った。
兄のときは防護服を着て、亡くなる当日の朝に病院から「そろそろ危ないので」と連絡を受け、30分だけ面会を許された。まだ兄の意識はあった。だがその日の夜、独りで天へ旅立った。僻地の病院へタクシーを飛ばしても時間がかかり、私と母は間に合わなかった。
結局、私が臨終を見届けたのは、三代目の愛犬と母だけだった。
三代目の愛犬は、父の一周忌を見届けた後、晩春の桜吹雪のなかで、大好きな父を追いかけた。父が亡くなって、それまで元気だったのが急に体調を悪化させ、認知症を患い、それでも父を探し回って、ほとんど動けない身体で脱走して警察署のお世話になった。
母は都心の大学病院に通うのが困難になり、地元の大学病院に転院したが、そこへ通うのも無理が生じたため、訪問医療に切り替えた。
周囲から、市の訪問職員や訪問医からも、療養型病院の切り替えを勧められた。それでも、あの殺人ウィルスが弱体化して社会生活が動き出そうとしていた直前だったが、母を自宅で看取る、延命治療はさせないことを貫いた。
母のためには、療養型病院か自宅か、どちらが良かったか分からない。
だが少なくとも、臨終を見届けることが出来た三代目愛犬と、昏睡状態に陥る直前にくれた母の「ありがとう」の最期の言葉のお陰で、私はいま生きている。
母達には苦しみを与えてしまったかもしれないが、最期を看取らせてくれた、愛犬と母には感謝だ。それがなければ、私は未だに後悔に溺れて前を向けなかった。
いま、3人はどんな晴れ着を着ているだろうか。
兄は夢だった鉄道運転士の制服を着ていることだろう。アッチで夢を叶えたかな?
父は晴れ着ではないが、大好きだった仕事の実験用作業着を着ているか、もしくは歴史好きだったからコスプレして、戦国時代にタイムトラベルし、推しの武将の生活を間近で見ているかもしれない。
母は……10代で早世した姉と共に、綺麗な着物を実母に着せてもらい、華道師範で50代前後に亡くなった祖母から、今頃は生け花を習っているだろう。そしてお金がないからと諦めたお琴、祖母に習っているかもしれないな。
たまにお洒落な洋装を着て、スーツ姿の父と、若返った2人はデートをしているかも。
母の趣味が微妙な服は、恐らく母の実母と姉が調整しているだろうから心配あるまい。
ただ、父のスーツは毛だらけなのは想像に容易い。なにしろ亡くなった3頭の愛犬は、父を猛愛していたから。3頭とも体格良かったから、同時に飛びつかれて、父は嬉しい悲鳴をあげてるかもね。
……永遠に覚めない素敵な時間の中で、存分に楽しんでほしい。皆、懸命にこの世を生きたのだから。
ただ1つだけ、文句を言わせてくれ。地上の私の夢に、家族も犬たちも、未だ現れないのはどういうことだ?
頼りがないのは良い知らせなのかもしれないが、たまには私を夢に、いまは笑顔で楽しく暮らしてると、安心させてくれと思うのは我儘だろうか?
「あいつに会うと、またグチグチ言われそうで面倒なんだよなぁ」
なーんて、天で暮らす家族たちが言ってる気がする。
①
……七五三の日のことは、よく覚えている。
曇り空の土曜日、両親に連れられて美容院に出向き、髪を思いっきり引っ張られ、帯をこれでもかと縛られて準備を終えると、神社へ連れて行かれた。
子供を守る神様で有名な神社だったので、お祓いを行う社殿には多くの同年代、あるいは年下の子供たちがいた。
ようやく帯の苦しさに慣れた私だったが、不機嫌なのに変わりはなかった。
周囲の同世代の女の子の大半は、武家のお姫様のような簪をつけ、赤い着物を着ている。
対して私だけ、白地の着物。そして頭を飾るのは、大きな花飾り。まさに頭に花が咲いたかのように、頭上でデンと主張していた。
「なんで私だけ皆と違う格好なのだろう、恥ずかしい」
お祓いの後に貰ったお絵かきセットや千歳飴を手にしても、心が晴れなかった。
私がようやく機嫌を戻したのは、帰宅して着物を脱いだ時だった。
着物を脱いで普段着になるなり、近所の友達と遊ぶために家を飛び出したのを覚えている。
そもそも母が私に買ってくる服は、殆どが微妙だった。私の好みとは大きくかけ離れたものばかり着せようとしていたのだ。
クラスメートが着ているようなジャンバーが欲しくて頼んだのに、買ってきたのはスキーウェアのようなキルティングのジャンバー。これにクラスメートから、どれほどバカにされたことか。
また、いまでこそフリースが定番になっているが、フェイク毛皮のような白い上着を着ていったときには「シロクマ」とバカにされた。
だがもっとも許せなかったのは、大嫌いな同級生と同じ服だった。おしゃれの欠片もない、というか、どうしてこれが良いのかと母の感性を疑った。確かに母自身も、地味なのに個性的な服をよく着ていた。
むしろ認知症が進んだ後のほうが、母はお洒落になっていた。まあ、かなり少女趣味と言えなくもなかったが、デイサービスに通う同世代から羨ましがられて「私にも買ってきて」とデイサービス仲間に頼まれたことがトラブルになりかけたこともあった。
②
着物はレンタルではなく、父の友人の呉服店で購入したものだった。
着物は既に決まっていた。呉服店の父の友人が勧めたものを、そのまま父が購入したのだ。このとき私は父と一緒に呉服店へ行ったが、母は同行していない。兄と留守番していた。
というのも、父の友人の呉服店は都心にあり、田舎の我が家からだと片道1時間以上かかる場所だったからだ。
このときは着物を買ってもらえることに、単純に喜んでいた。着物は白地でお目出度い柄のもの。羽織ってみれば呉服店店主と父が褒めちぎる。「これは良いものなのだな」と私も機嫌が良かった。
だが簪はこのとき見ていなかった。もしあのとき見ていたら、「こんなの嫌だ!」と駄々をこねたて泣き喚いたに違いない。
父が歴史好きで、フィクションの時代劇テレビもよく見ていたため、私は時代劇に出てくるお姫様の格好に憧れていた。頭に花が咲いた簪なんて、絶対に受け入れられない。
父の友人の呉服店の奥さんが、コーヒーを出してくれた。ミルクは入ってないが、砂糖たっぷりで美味しかった。当時、私は某メーカーのミルクコーヒーしか飲んだことがなかったため、極甘だがブラックコーヒーを飲んだ自分がオトナ扱いされたことに、とても気分が良かった。
が、長い帰路で三半規管の弱い私は車に酔った。まあ汚い話だが、戻した。帰宅するなり母が猛烈に怒った記憶が濃い。
2.ひな祭り
保育園時代に遡る。3月3日のひな祭り前、近所の女の子は自分のお雛様を自慢気に見せていたが、私は恥ずかしくて友達に見せなかった。
母が「子供は外で遊びなさい」という方針でもあったため、幸い、私の雛人形は友達に見せずに済んだ。
初節句の当時、ウチの家族は狭い借家に住んでいた。そして本来なら母方の祖父母が用意するお雛様は、父方の祖父母が購入した。母方の祖母は、母が学生の時に鬼籍に入り、祖父はそうしたことに無断着だったため、父方の祖父母が購入したのだ。
私のお雛様は7段飾りではない。ケースに入った木目込人形だった。髪が生えてて着物を着たコケシのような人形が、幼い私には恥ずかしくてならなかった。だが祖父母からすると、同情心からだったに違いない。いまなら有難いと思う。何故なら父には妹が4人いて、それぞれに女の子がいたからだ。年の近い孫全員の雛人形あるいは五月人形を買い与えるのは、祖父母も苦労したに違いない。
ところで、保育園ではいまでも人間雛人形をやっているのだろうか。たまにテレビで地方の幼稚園児の人間雛人形を見かけることもあるが、お内裏様とお雛様、左右大臣、三人官女、五人囃子と数は限られている。
当然、目立つ器量良しの子供たちが選ばれてお雛様になっていた。私はその他大勢の観客に過ぎなかった。まあ、保育園が嫌いだったので、目立つ行事参加などしたくもなかったが。
そういえば、保育園のクリスマス会では苦い思い出ある。この写真は後年、捨てた。当然ながら母に怒られたが、黒歴史の写真など見ていて不愉快だ。処分するに限る。
保育園はキリスト教系列だったため、特に練習は入念に行われた。天井から吊るされたアドベントのクリスマスリースに飾られた4本の蝋燭が、12月に入ると灯される。
私は運の波が激しい。そして嫌な予感は大抵現実になる。蝋燭の灯されたアドベントリースの下に立つのに不安を憶えた。
手持ちのキャンドルスタンドから隣同士に並ぶ子供たちが火を蝋燭に移していく。その練習の最中、アドベントリースの真下に立っていた私の頭に、蝋燭のロウが落ちてきたのだ。熱さで大泣きするのも当然だろう。幸い髪は燃えずに済んだが、それ以来、蝋燭が怖くなったのは言うまでもない。
本番ではアドベントリースから離れた場所に子供達は並んだが、蝋燭トラウマを抱えた私は、薄暗い空間のなかで次々と灯されていく蝋燭の順番が近づくにつれ、ついに恐怖で泣き出した。その瞬間が写真に撮られていたのだ。こんなトラウマ写真、残しておく親も親だと私は思う。
あるいは、親は私の頭に蝋燭のロウが垂れたことを、先生から知らされていなかったのかもしれない。使い終わったキャンドルスタンドは、当然、親の目を盗んで不燃ごみに捨てた。
ひな祭りの話に戻ろう。私は昔から、菱餅に憧れていた。雛あられは買ってもらえたが、菱餅は「不味いから買わなくていい」と、母は買わなかった。なんか嫌な思い出でもあったのだろうか。
保育園から帰ったひな祭りの日、私は唖然とした。どんぶりで作った巨大プリンとゼリーが飾られていたのだ。サプライズあとは冷蔵庫に戻して、夜に家族で食べた。それにしてもあんな大きなゼリーとプリンを作ろうと、よく思いついたものだ。
母は昔、御殿飾りの豪華なお雛様を持っていたらしい。だが戦後の食糧難で、祖父が田舎で僅かな米と交換したそうだ。それを時代のせいだと分かっていても、やはり悔しかったらしく、何度も何度も、耳にタコが出来るほど聞かされた。
私が中学生になった頃、母が「7段飾りは無理でも、親王飾りなら買ってあげるよ」と言い出した。確かに私も母もお雛様がデパートに並び出すと、よく見に行っていた。しかし中学生になって、今更、お雛様もあるまい。断ったが、母はお雛様売り出しシーズンになると例年尋ねてきた。母自身が欲しかったのかもしれないと、今にして思う。
……後年、ひな祭りの日の朝、母はこの世を旅立った。
お内裏様にしては見目麗しいとは言えない父が、既にあの世へ逝っていたため、お雛様の母も、ひな祭りの日に追いかけて行ったのだろう。
3.入学式
ウチの親は、服装センスが微妙だ。何処で見つけてきたか分からないが、小学校入学式の日のために、ピンクの子供用ボレロ付きワンピースを買ってきた。
私は赤は嫌いでないが、ピンクは嫌いだった。似合わないと、友達に馬鹿にされた思い出もあるからだろう。
そもそも写真を見ても、未だに似合っているとは思えない。不機嫌な顔が更にピンクのワンピースと不協和音を奏でている。
他の子達もそれなりに華やかな格好をしていたが、写真の中の私は、ひときわ悪目立ちしているように思える。ただ捨てるのには躊躇いがある。後部列の母の笑顔が、心底から喜んでいるように見えるからだ。
私が誕生するとき、付き添いは父方の祖父と兄だけだったという。父は出張で留守、祖母は実の娘の出産に寄り添っていた。
生まれたとき、私はへその緒が絡みついて泣き声をあげなかったそうだ。だが医師の処置で産声をあげたらしい。
他にも私の右足の子指と薬指はは癒着しており、看護婦はその事実を母に告げるのを躊躇ったという。退院する前に、私の右足の小指と薬指の分離手術を終えたようだが、子供の頃の私は右足の小指が小さいのに疑問を持っていた。
母は大きくなったら改めて手術させようと思っていたらしいが、歩行や走行に不便はないため、今もこのままだ。
まあ、そんな事情もあって、入学式の母は感慨深げな笑顔を浮かべていたのだろう。
なにしろ私は手間のかかる子供だった。食が細いのか胃腸が弱いのか、小学校に上がる前までは普通の子供の食事量が食べ切れず、家ではお腹がすいたらまた食べればいいと、無理して食べさせず食べ残しを冷蔵庫に入れていた。
だが保育園は違う。当時の保育園や学校は軍隊みたいなものだ。給食の時間は皆がお昼寝タイムになっても、私は薄暗い部屋で給食を食べ終えるまで座らされていた。まあ、食べ切れたことなど月に一度あれば御の字だったし、無理に食べれば戻してしまうので、無理矢理口に突っ込むような先生も居なかったが。
他にも遊んでて骨を折ったり、ガラスケースに乗って怪我したり、ともかく怪我の絶えないクソガキだった。
小学校入学後には、竹藪まで転んで斜め切りの竹に足を突き刺して縫合騒ぎになったりもした。この縫合は、思い出しても嫌な経験だった。ようやく傷が塞がった、これで通院も終わりだと思っていたら、医師が「傷口から土が入っていたようだ」と、再びきり裂いて土を取り出したのである。怪我した当初は止血優先だったため気付かなかったのだろうが、せっかく塞がった傷をメスで切られ、ほじくり返されるのは酷い。しかも部分麻酔なんで「痛い!」と言うと、「静かにせんか!」と叱られて、暴れないように看護師に保定されたのだった。
4.卒業式
小学校入学式のときは悪目立ちするピンクのワンピースが嫌いだった。
しかし卒業式の服装は、皆が紺系統の晴れ着を着ていた。私も同様に紺色のワンピースを着ていた。かなり気に入っていて、母が「新しいのを買おう」と言っても、何年もそれを着ていた。
関西から来た友達は「せっかくの卒業式なのに、コッチは地味な格好なんだね」と言っていた。まあ、その子の出た大学では卒業式にドレスを着用するほどだから、地域性の違いというのは興味深い。
さて、成長期の小学生が、何年も同じワンピースを着ていたのは何故か。答えは簡単。私は小学校4年生で成長が止まってしまったからだ。止まっただけではない。体重は小学校4年生のときよりも、10キロ以上減っていた。写真を見ると同じ人間とはとても思えない。
保育園の先生は、給食を食べ終えるまで席に残しても、無理強いしてまで食べさせなかった。なだめたり、怖い顔をしたりもしたが、手は出さなかった。
しかし小学校4年生の担任は違った。教師なりたては、普通はクラス担任にならない。ところが運悪く、私のクラスは大学卒業したばかりの斜めにズレた熱血教師が担当することになったのだ。
斬新な発想で、児童には人気のある先生だった。だが自分の信念に間違いはないと、勘違いしている面もあった。たとえば読書感想文。私が書いたものを、「何が言いたいのか分かりません」と添削してきた。クラスメートへの贔屓もあった。だがそんなことは些細なことだ。
私がもっとも許せないのは、私を拒食症にした元凶だったからだ。いまだったらスマホで隠し撮りして拡散して断罪してやるのにと、未だ恨みはある。
小学校入学してから、私の食欲はようやく普通の子供に追いつき、給食は完食した。むしろ幼稚園に通っていた児童の方が、当初は給食を食べきれなかったが、それを無理強いする担任も居なかった。なにしろ担任が好き嫌い激しくて、給食を残して児童に怒られていたぐらいだ。そんなわけで、方向違いの熱血教師にあたるまで、私は学校生活を楽しんでいた。
突然給食を食べられなくなったのは、二学期のはじめ。外見は体格もよく丈夫そのものに見えるが、風邪をひきやすく、すぐ高熱を出す。その日も何となく、調子が悪いというほどではなかったが、給食を完食できる体調ではなかった。給食を残すのを怒った担任は、無理矢理、私に食べさせた。それをキッカケに、私は給食が完食できなくなり、その後は母が作る自宅の美味しい食事も、少し食べただけで喉に通らなくなってしまった。
いまならすぐに精神心療内科行きだろう。だが当時はそんな考えはタブー視されていた。両親は何度も担任に抗議し、数日は大人しくしていても、再び担任は暴挙を繰り返す。無理矢理食べさせられたり、水道で指を突っ込んで吐かせようとする担任の横暴も苦痛だったが、一番堪えたのは私が食べ終わらない限り、クラスメートの下校を許さない行為だった。
持ち上がりのクラスメートとは、皆と仲が良かった。だが私のせいで帰宅できないことに、クラスの男子が腹を立て、罵声を浴びせる。
心無い噂も広がった。私が食事を食べず、家でお菓子ばかり食べていると。次第に私は、特定の友人以外、人が怖くなり、以前のように気軽に話しかけることが出来なくなった。
よく登校拒否にならなかったものだ。だがそれは、一部の友人が支えてくれたからだ。
ちなみにこのクラスでもう1人、男子児童が給食がキッカケで登校拒否となり、学年が変わって担任から解放されるまで、学校には戻らなかった。
小学校5年生の6年生はベテランの先生が担任となり、私に給食を無理強いすることもない。この恩師は、児童一人一人に厳しくも温かく接してくれた。この先生とは近年まで年賀状のやりとりをしていたが、私の家族の相次ぐ死で年賀状を出すキッカケが失われて縁は絶えた。今ごろ、どうしているだろうか?お元気だろうか?
卒業式の母は、入学式のときのような満面の笑みではなかったが、入学式とは違う感慨にふけっていたに違いない。
後年、家族とよく話した。「給食が小学校でなくならなければ、命も危なかったかもね」と。そう、卒業式時点で私は、かなりマズイ体重になっていたのだ。
5.束の間の平穏
中学生になって、昼食はお弁当に変わった。母の手作り弁当を残さず食べきるまで1年生の一学期をつぶしたが、小学校という呪縛から逃れた結果、徐々に食欲が戻った。
嬉しい困りごとは、制服だった。もともと体格が良かった私は、食欲が戻ると同時に身長がグングン伸びてきて、成長痛も味わった。膝を曲げるたびにボキボキ音がするので、周囲に笑われた。さすがに着続けるのに無理があり、中2の途中で制服をピッタリではなく、少しブカブカなものに買い替えた。それでも中3では制服がピッタリになっていた、それも当然、中学入りたては整列の際は一番前だったのに、中2の終わりには、後ろから数えたほうが早かったからだ。
中学の担任は、1年はまあまあ、2年と3年は大当たりだった。学年が変わるごとにクラス編成がかわったが、2年と3年の担任は同じ先生だった。若く穏やかで人気のある先生だったが、理系ならではのマッドサイエンティストな面もあった。理科室に飾られていた子猫の解剖のホルマリン漬けを作ったのが担任と知ったときにはドン引きした。交通事故で死んだ子猫をそのままにしておくのは勿体ないと思ったらしい。他にも色んな逸話があるが、身バレを防ぐため隠しておく。
中学は楽しかった。楽しすぎて成績がヤバかった。親友が皆、レベルの高い高校を志願して合格していただけに。
高校の進路に関して、私は公立のある学校を希望した。興味のある珍しい部活があったのだ。だが運がいいのか悪いのか、高校を決めるのを左右する学期試験中に高熱を出した。だがここで引き下がれない。解熱剤を飲んで学期試験を受けた。そして学期試験が終わった翌日の全国模試を控えた夜、解熱剤を飲み過ぎて3時間、両鼻から鼻血が噴き出た。ごみ箱の上でティッシュを交換しないと、血が噴き出して追いつかない。今考えると救急車レベルだよなぁと思うが、誰もそれを思いつかず、ひたすらティッシュを早業で取り替えた。ようやく何とか止まったものの、翌日登校出来る状態ではなく、翌日に有給をとった父の車に乗せられて病院に連れて行かれた。
そんなわけで、希望した公立校に僅かに成績は及ばなかった。そもそも、その学校を希望する生徒も多かった。当時は全員を高校入学にさせるために、決まった数の生徒を受験に送り込んでいた。
担任は、「併願する私立校のレベルを落としてでもいいなら挑戦してみるか」と言ってくれた。そして学年会議を経て、伝えられたのがある私立校の単願試験だった。「あれ?」とも思ったが、その学校も悪くないところだったので、そちらの試験を受けて合格した。
高校はほぼ同じレベルの生徒が集まる。それがこんなに居心地がいいとは思わなかった。生涯の友とも出会えた。
中学2年3年を受け持ってくれた担任には感謝しきれない。
6.暗転
①
やりたいことがあった。だから浪人してでも、目的の大学を目指した。でも桜は散った。
親はあと1年浪人しても構わないと言ってくれたが、もう気力がなかった。
すると母が早々に都心のコンピュータ専門学校に入学届を出した。このとき、もう少し自分が投げやりにならずに人生を見据えていたらと、悔やむ気持ちもある。
そのコンピュータ専門学校で友達もできて、担任にも恵まれた。早くも皆で「卒業式には袴で出ようね!」と約束もした。
……しかしこの専門学校には、妙な行事があった。情報処理に携わるには体力も必要ということで、強制参加合宿をクリアしなければならなかったのだ。
私達のクラスが当たったのは真夏、しかも例年にない暑さ。現地についた早々マラソン、翌日には豪雨のなかの登山と飯盒炊飯。酷暑のマラソンで既にダメージを受けていたが、豪雨の登山のあとで、着替えもなく飯盒炊飯での夕食で私は体調を崩した。
翌日には熱をだし、呼吸もつらくて酸素吸入もされた。
何とか帰宅した私はぶっ倒れて寝込んだ。
②
もう後がない焦りもあった。だから微熱が収まらない体に鞭打って、登校した。体調はどんどん悪くなっていき、学校にたどり着いても授業を受けられる状態ではなく、登校途中に具合が悪くなって休み休み帰宅することも多くなった。食事量も格段に減った。
出かけるときは朝食抜き、友人とお茶やランチをしても、必ず具合が悪くなるのが、申し訳なくてたまらなかった。
自分で限界を悟った。両親に涙ながらに専門学校中退を願い出ると、父はすぐに受け入れた。しかし母は、「せっかく成績も良いのだから、休みながらでも、もう少し頑張りなさい」と言った。
だが学校に通うどころか、近所を歩くことさえ辛い。気持ち悪い。目眩がする。
結局、専門学校から数カ月後に最後通帳があって、私は中退した。
部屋で読書していると、父が「おまえ、大丈夫か!」と慌てて駆け寄ってきたことも、たびたびあった。部屋で大人しくしている分には平気だったが、父から見ると顔色が真っ青だったらしい。
拒食症とまではいかなくても、食欲は落ちた。体重もどんどん減って、生理がこなくなった。
総合病院に連れて行かれ、様々な検査を受けつつ通院し始めたのもこの頃だ。
それでも友人は、本物の友人は私を見捨てなかった。専門学校時代の友とは早々に縁が切れた。しかし幼馴染や高校時代の友人は、私のペースで友情を示してくれた。
感謝しかない。家族を失ったいまは、尚更に友人の存在が尊い。
7.成人式
外に出るのも大変な状態で、出れるはずがなかった。だから誘ってくれた友人には「会いたくない奴もいるし」と強がった。
成人式の振袖も、親は着せたがったが拒絶した。随分と親に無駄金を使わせてしまった負い目もあった。だがいま思うと、恐らく家族で真っ先にリタイアしそうな私の遺影代わりに振袖写真ぐらい欲しかったのかもしれない。
まあ、結局は私が生き残って、家族をみんな送り出すことになったわけだが。
本当は振袖を着てみたかった。魔を退ける赤い振袖。資料を読むたびに、日本の歴史と伝統の奥深さを知る。もっと早く気づいていたら、伝統を守る道に進んでみるのも悪くなかったかもしれないと思う。
私は友人との外出先で具合が悪くなっても、本屋に行くと体調が整う妙な体質になっていた。たぶん興味があるものには、体調の悪さなど忘れてしまうのだろう。実に都合のいい心身だ。
私は家に引きこもるうちに、日本史に興味を持つようになったわけだが、動機が漫画なのはどうかと思う。しかし父が「貸してくれ」と歴史ものとはいえ、少女漫画を読むも妙なものだと昔は思った。
いまは男女性別を問わず、読みたい漫画やライトノベルに夢中になる。垣根があってないようなもの、しかし本屋によってジャンルが違うのは探し出すのにけっこー困る。明確な男女もの以外は、もう出版社別の名前順でよいのではと思う。
8.転機
①
高校時代の友人から、立て続けに結婚披露宴招待状を受け取った。食事はどうでもいいが、行きたいと思った。
ちょうどそのタイミングで、民放が青少年の精神科受診特集を取り上げた。
もう思うように動けない自分にウンザリもしていた。だからすぐに通える距離、なおかつ便利な場所を探し出した。
親に話すと猛反対された。しかし私も引かなかった。
「なら1人で行きなさい!」
そう言われた翌日、私は目星をつけた精神科クリニックを受診した。さすがにクリニックに入るときには緊張したが、なかは普通の同世代あるいはその上の年齢の男女が多くいた。
このクリニックには未だにお世話になっている。
薬は効いた。嘘のように動ける。だが後年、法律で処方が院内から院外に移ったとき、最初に出された薬がプラシーボ効果だったのを知る。普通の胃腸薬だったのだ。
だが電車に乗って遠出となると、騙されたと知らなくても胃腸薬では効かない。そこで初めて精神安定剤が処方された。
②
クリニック受診半年後、最初に結婚する友人の披露宴に出席できた。食事は警戒して殆ど食べなかったが、幸せに輝く友人を見れて嬉しかった。
このとき着ていった服は、母がずっと以前に購入してきたブルーのワンピースだった。このワンピースには随分とお世話になった。母にしては珍しく、私好みの服だった。
2人目の結婚式には、新たにモスグリーンのツーピースを買ってもらった。
高校時代の友人と幼馴染の結婚式は、この2着を着回した。
長年世話になった服は歳月と共に傷みと色褪せが激しくなったので、最後の家族だった母が亡くなって実家を処分する際、名残惜しいがサヨナラした。
沢山の人や物と出会い、多くの別れを繰り返してきた。
人生の大半を暮らした家との別れのとき、もう自分の人生も終わったと脱力していた。
早く迎えが来てほしい、もう独りは嫌だと自死が頭をよぎることも多かった。
しかし親友の存在が、私を引っ張り上げてくれる。
未来は絶望ばかりじゃない。ネガティブな方向に目を向ければ、いくらでも暗い情報が噴き出てくる。
しかし視点を変えると、恵まれた境遇が見えてくる。友人がいて、衣食住ができて、いまは障害者向け職業訓練校に通っている。
居場所があるいまに感謝。
人生を達観しているわけでも、諦めているわけでもない。これからは、もっと欲を出して、自分の望むものに手を伸ばす。
③
療養型病院に父と兄を入れる、それしか選択肢が無かった。
父は透析が必要であり、巨漢の兄を訪問看護師や訪問医を入れたところで、辛うじて動けた兄を介添えしてトイレに連れて行ったり、入浴させるのは不可能だったからだ。
それに同じ頃、難病持ちの母の病状がゆっくり悪化し始めた。通院先は公共交通機関を使って片道約2時間、病院の待ち時間や診療時間は軽く5時間を超える。
そんな状態で、余命宣告の出ている父や兄を自宅介護する選択肢はなかった。
……父の場合、透析を終了し、数日間後に確実に亡くなる選択肢もあった。しかし、まだ数カ月余命のある父に、それを選ぶ気には到底なれなかった。
だが余命など、あくまでも目安に過ぎない。余命より長く生きる人もいれば、父のように救急指定病院から、透析もある療養型病院に転院して僅か1週間で亡くなってしまう場合もある。
父を亡くしたとき、私は透析終了の選択肢を取らなかった自分を激しく責めた。
「どんな選択をしても、後悔のない見送りはない」と、複数の医師から異口同音に言われた。その通りだった。なにを選んだところで、後悔のない見送りなどない。
それでも最期をベッドに拘束されて、当時面会が一切許されなかった、あの殺人ウィルスが世界の社会生活を変えた異常な時期に、独りで逝かせてしまった後悔は、父の七回忌を今年迎える今になっても消えない。
父の死後、悪化した兄は救急指定病院の準集中治療室を経て、普通の病棟に入り、その後は療養型病院に転院した。そして入院から数カ月後の晩秋、この世から旅立った。春に亡くなった父と、秋に亡くなった兄。同じ年に、父と兄は逝った。
兄のときは防護服を着て、亡くなる当日の朝に病院から「そろそろ危ないので」と連絡を受け、30分だけ面会を許された。まだ兄の意識はあった。だがその日の夜、独りで天へ旅立った。僻地の病院へタクシーを飛ばしても時間がかかり、私と母は間に合わなかった。
結局、私が臨終を見届けたのは、三代目の愛犬と母だけだった。
三代目の愛犬は、父の一周忌を見届けた後、晩春の桜吹雪のなかで、大好きな父を追いかけた。父が亡くなって、それまで元気だったのが急に体調を悪化させ、認知症を患い、それでも父を探し回って、ほとんど動けない身体で脱走して警察署のお世話になった。
母は都心の大学病院に通うのが困難になり、地元の大学病院に転院したが、そこへ通うのも無理が生じたため、訪問医療に切り替えた。
周囲から、市の訪問職員や訪問医からも、療養型病院の切り替えを勧められた。それでも、あの殺人ウィルスが弱体化して社会生活が動き出そうとしていた直前だったが、母を自宅で看取る、延命治療はさせないことを貫いた。
母のためには、療養型病院か自宅か、どちらが良かったか分からない。
だが少なくとも、臨終を見届けることが出来た三代目愛犬と、昏睡状態に陥る直前にくれた母の「ありがとう」の最期の言葉のお陰で、私はいま生きている。
母達には苦しみを与えてしまったかもしれないが、最期を看取らせてくれた、愛犬と母には感謝だ。それがなければ、私は未だに後悔に溺れて前を向けなかった。
いま、3人はどんな晴れ着を着ているだろうか。
兄は夢だった鉄道運転士の制服を着ていることだろう。アッチで夢を叶えたかな?
父は晴れ着ではないが、大好きだった仕事の実験用作業着を着ているか、もしくは歴史好きだったからコスプレして、戦国時代にタイムトラベルし、推しの武将の生活を間近で見ているかもしれない。
母は……10代で早世した姉と共に、綺麗な着物を実母に着せてもらい、華道師範で50代前後に亡くなった祖母から、今頃は生け花を習っているだろう。そしてお金がないからと諦めたお琴、祖母に習っているかもしれないな。
たまにお洒落な洋装を着て、スーツ姿の父と、若返った2人はデートをしているかも。
母の趣味が微妙な服は、恐らく母の実母と姉が調整しているだろうから心配あるまい。
ただ、父のスーツは毛だらけなのは想像に容易い。なにしろ亡くなった3頭の愛犬は、父を猛愛していたから。3頭とも体格良かったから、同時に飛びつかれて、父は嬉しい悲鳴をあげてるかもね。
……永遠に覚めない素敵な時間の中で、存分に楽しんでほしい。皆、懸命にこの世を生きたのだから。
ただ1つだけ、文句を言わせてくれ。地上の私の夢に、家族も犬たちも、未だ現れないのはどういうことだ?
頼りがないのは良い知らせなのかもしれないが、たまには私を夢に、いまは笑顔で楽しく暮らしてると、安心させてくれと思うのは我儘だろうか?
「あいつに会うと、またグチグチ言われそうで面倒なんだよなぁ」
なーんて、天で暮らす家族たちが言ってる気がする。
10
この作品は感想を受け付けておりません。
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