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魔王の名
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今聞いた話を考えれば考えるほど、どつぼにはまっていくようだった。
魔王が自らの存在を複製し、長い時間を生き延びてまで待っていたのは『はじまりの聖女』であってこのわたし、リディ・エイジー・カラヤドネ・ジャミスではないことは明らかだ。
だけどそのことにショックを受けるなんておかしい。わたしは最初から、魔王に恋をするつもりなんてなかったのだから。
だから、泣きそうになるだなんて、おかしいし、絶対にあってはならないはずなのだ。
「……帰るか」
わたしが何も言わずにただうつむいていると、魔王はそう言って魔馬車を止めておいた方角へゆっくり歩きだした。
魂の奥を見通すような紫の瞳が見えなくなると、どこかで感じていたプレッシャーから解放され、質問がしやすくなった気がして、わたしはその背中に声をかける。
「あなたは、初代魔王の複製だと言いました。つまりあなたは、初代魔王本人なのですか?」
「ああ、俺の前代まではそうだった」
魔王は後ろからかけられた声に反応して、首を回して答えた。
「どういうことです?」
歩みを止めない魔王を追いかけながら、わたしは質問を重ねていく。
「千年近く続いた魂の継承は、俺の代でついに失敗した。ざっくり言えばカイドルのせいなんだが……まあ、この話はいいだろう。記憶は受け継いでいるし、肉体は変わらないが、魂は初代魔王ではない」
「ええと。それって、どう違うんです?」
「魂を継承すれば、肉体は違っていても自己同一性が保持されるが、記憶だけなら別人だ。俺は初代魔王とは別の存在だよ」
「こんがらがってきました……ちょっと整理させてください。そもそも、初代魔王、当代魔王って言いますけれど、それぞれお名前はなんておっしゃるんです?」
以前、名前を聞く機会を逃してしまったことを悔やんでいたことを忘れ、混乱に呑まれたわたしは勢いのままに質問している。
だが、魔王の返答はさっぱりしたものだった。
「名前はないよ、俺は魔王だ。その称号が、俺を指すすべてだ」
「え?」
「俺たちは、世界のシステムに過ぎない。神々の気まぐれで、この大地というゲーム盤の上で陣取り合戦をし続ける、いわば、ゲームで役割を与えられたコマに過ぎない。名前なんて、不要だろう?」
名前がないのは当然だ、と。何の疑問もない、という顔をしていることが、わたしには信じがたい。
「聖女も同じだろう?」
「……はじまりの聖女さまも、名前がなかったのですか?」
「そもそもこう言ったのは、はじまりの聖女だ。この世界に不干渉を決め込む神々から例外として送り込まれた肉の殻。主神にとって名前が偶像崇拝の対象となるように、聖女もまた名前を持たなかった。それを聞いた初代魔王は、聖女に倣って名前を捨てたんだよ」
以来魔王は、どれだけ代替わりしても名前を持たなかったのだという。
はじまりの聖女ともう一度出会うために、彼女を忘れないために、あえてそんな生き方を選んだのかもしれない。
だけどそれは、寂しいのではないか。
そんな心配をしてしまう。聖女として生まれても、わたしは聖女であるより先にリディだった。
ただひたすらに使命に殉じた『はじまりの聖女』とは、なにもかもが違う。
「……そうは、思いません。たとえ役割が神から与えられたものであろうと、生きているわたしたちは本物です。たくさんの人と、関わりあって生きている。あなただって、記憶は古くからあるかもしれませんが、今の体に名前があってもいいじゃないですか」
ひどく驚いた顔で見られた。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「聖女……あなたにも名前が、あるのか?」
「もちろんです! カイドルさんから聞いていなかったんですか?」
あいつめ……と言って唇をかむ魔王の仕草を見ると、本当にただ知らなかったのかもしれない。はじまりの聖女や自分と同じように、神に定められた役職のある聖女は、名前を持たないと思い込んでいたのだろうか?
だからわたしは、改めて魔王に自分の名前を名乗ることにした。
「わたしの名前は、リディです。リディ・エイジー・カラヤドネ・ジャミス。人間の国では、聖女という役職よりも名前で呼ばれることの方が多かったんですよ」
「リディ……」
彼の薄い唇から放たれるわたしの名前は、鼓動を一つ飛び上がらせるのに十分な破壊力をもってわたしの耳に届いく。
聖女と呼ばれないことがこんなに嬉しいだなんて、少し前のわたしなら考えられなかった。
そのことをかみしめていると、魔王がこんなことを言う。
「名前で呼ばれるのが、そんなに嬉しいものか?」
どうやらわたしの喜びは、魔王から見てそれほどわかりやすかったらしい。
わたしはごまかすために一度咳ばらいをして、彼に向かってこう答えた。
「あなたにも、名前があればよかったのに。そうすれば、初代魔王とは違うたった一人のあなたとして、わたしも名前を呼べました」
しかしそう言っても、魔王はいまいちピンと来てない顔で曖昧に頷くのだった。
だからわたしは、こんな提案をしたのだ。
「もしよろしければ、わたしがあなたに名前をあげます。初代魔王とは違う存在だという証です。『はじまりの聖女』が魔王から名前を取ってしまったのならば、今の聖女であるわたしが、それをお返ししましょう」
軽い思い付きで言った言葉だったが、魔王はひどく驚いた様子でわたしの顔をまじまじと見返してきた。
「……本気か?」
「だめですか?」
質問に質問で返すと、魔王はいよいよ狼狽したように視線をあちこちにさまよわせ、口元を右手で覆った。
「……ダメじゃ、ない……」
なんで顔の下半分を隠して、顔を赤らめて言うのかがわたしにはわからない。
魔王が自らの存在を複製し、長い時間を生き延びてまで待っていたのは『はじまりの聖女』であってこのわたし、リディ・エイジー・カラヤドネ・ジャミスではないことは明らかだ。
だけどそのことにショックを受けるなんておかしい。わたしは最初から、魔王に恋をするつもりなんてなかったのだから。
だから、泣きそうになるだなんて、おかしいし、絶対にあってはならないはずなのだ。
「……帰るか」
わたしが何も言わずにただうつむいていると、魔王はそう言って魔馬車を止めておいた方角へゆっくり歩きだした。
魂の奥を見通すような紫の瞳が見えなくなると、どこかで感じていたプレッシャーから解放され、質問がしやすくなった気がして、わたしはその背中に声をかける。
「あなたは、初代魔王の複製だと言いました。つまりあなたは、初代魔王本人なのですか?」
「ああ、俺の前代まではそうだった」
魔王は後ろからかけられた声に反応して、首を回して答えた。
「どういうことです?」
歩みを止めない魔王を追いかけながら、わたしは質問を重ねていく。
「千年近く続いた魂の継承は、俺の代でついに失敗した。ざっくり言えばカイドルのせいなんだが……まあ、この話はいいだろう。記憶は受け継いでいるし、肉体は変わらないが、魂は初代魔王ではない」
「ええと。それって、どう違うんです?」
「魂を継承すれば、肉体は違っていても自己同一性が保持されるが、記憶だけなら別人だ。俺は初代魔王とは別の存在だよ」
「こんがらがってきました……ちょっと整理させてください。そもそも、初代魔王、当代魔王って言いますけれど、それぞれお名前はなんておっしゃるんです?」
以前、名前を聞く機会を逃してしまったことを悔やんでいたことを忘れ、混乱に呑まれたわたしは勢いのままに質問している。
だが、魔王の返答はさっぱりしたものだった。
「名前はないよ、俺は魔王だ。その称号が、俺を指すすべてだ」
「え?」
「俺たちは、世界のシステムに過ぎない。神々の気まぐれで、この大地というゲーム盤の上で陣取り合戦をし続ける、いわば、ゲームで役割を与えられたコマに過ぎない。名前なんて、不要だろう?」
名前がないのは当然だ、と。何の疑問もない、という顔をしていることが、わたしには信じがたい。
「聖女も同じだろう?」
「……はじまりの聖女さまも、名前がなかったのですか?」
「そもそもこう言ったのは、はじまりの聖女だ。この世界に不干渉を決め込む神々から例外として送り込まれた肉の殻。主神にとって名前が偶像崇拝の対象となるように、聖女もまた名前を持たなかった。それを聞いた初代魔王は、聖女に倣って名前を捨てたんだよ」
以来魔王は、どれだけ代替わりしても名前を持たなかったのだという。
はじまりの聖女ともう一度出会うために、彼女を忘れないために、あえてそんな生き方を選んだのかもしれない。
だけどそれは、寂しいのではないか。
そんな心配をしてしまう。聖女として生まれても、わたしは聖女であるより先にリディだった。
ただひたすらに使命に殉じた『はじまりの聖女』とは、なにもかもが違う。
「……そうは、思いません。たとえ役割が神から与えられたものであろうと、生きているわたしたちは本物です。たくさんの人と、関わりあって生きている。あなただって、記憶は古くからあるかもしれませんが、今の体に名前があってもいいじゃないですか」
ひどく驚いた顔で見られた。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「聖女……あなたにも名前が、あるのか?」
「もちろんです! カイドルさんから聞いていなかったんですか?」
あいつめ……と言って唇をかむ魔王の仕草を見ると、本当にただ知らなかったのかもしれない。はじまりの聖女や自分と同じように、神に定められた役職のある聖女は、名前を持たないと思い込んでいたのだろうか?
だからわたしは、改めて魔王に自分の名前を名乗ることにした。
「わたしの名前は、リディです。リディ・エイジー・カラヤドネ・ジャミス。人間の国では、聖女という役職よりも名前で呼ばれることの方が多かったんですよ」
「リディ……」
彼の薄い唇から放たれるわたしの名前は、鼓動を一つ飛び上がらせるのに十分な破壊力をもってわたしの耳に届いく。
聖女と呼ばれないことがこんなに嬉しいだなんて、少し前のわたしなら考えられなかった。
そのことをかみしめていると、魔王がこんなことを言う。
「名前で呼ばれるのが、そんなに嬉しいものか?」
どうやらわたしの喜びは、魔王から見てそれほどわかりやすかったらしい。
わたしはごまかすために一度咳ばらいをして、彼に向かってこう答えた。
「あなたにも、名前があればよかったのに。そうすれば、初代魔王とは違うたった一人のあなたとして、わたしも名前を呼べました」
しかしそう言っても、魔王はいまいちピンと来てない顔で曖昧に頷くのだった。
だからわたしは、こんな提案をしたのだ。
「もしよろしければ、わたしがあなたに名前をあげます。初代魔王とは違う存在だという証です。『はじまりの聖女』が魔王から名前を取ってしまったのならば、今の聖女であるわたしが、それをお返ししましょう」
軽い思い付きで言った言葉だったが、魔王はひどく驚いた様子でわたしの顔をまじまじと見返してきた。
「……本気か?」
「だめですか?」
質問に質問で返すと、魔王はいよいよ狼狽したように視線をあちこちにさまよわせ、口元を右手で覆った。
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