FATHER TIME

未田不可眠

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 ナオは今日この日を待ち望んでいた。
 終業式、長い休みの始まりだ。
 休みの間は、学校に行かなくてもいい、うるさいクラスメイトもいない、最高だ。
 内面ではウキウキしながら、教室にたどり着いた。
 「おはようー。」
 ナオの姿を捉えた女子が、大きな声で挨拶した。
 「おはよ。」
 ナオが静かに返した。
 窓際の、前から三番目の席に着いた。
 天上にくっ付いている扇風機から離れた場所に有る上に、開放された窓から湿った熱風が押し寄せてくるから、腹立たしいほどに熱い。
 休み時間のように図書館へ行けば済む話だが、そこまで行く気力もない。
 ナオは朝、ここで溶けることにした。
 堅い学校机に突っ伏しているナオの下に、一人の女子が、ノートを抱えて持ってきた。
 この学年で一番の真面目ちゃんだ。
 「ナオ君。」
 「なに。」
 顔を上げて、ぶっきらぼうに答えた。
 意図的にそうしたわけではないが、如何せんここはナオにとって暑すぎる。
 女子が、続けた。
 「これ、ナオ君が休んだ分の授業ノート。あげる。」
 と、女子がノートをナオの机の上に置いた。
 「ありがとう。」
 とだけ返して、ナオはまた机に伏せた。
 「暑くないの?」
 「暑いよ。でも動くともっと暑くなる。」
 「ふーん。」
 そう言い残して、女子は去っていった。
 肩まで伸びた髪が、柔らかく揺れる。
 それがナオを魅惑させることは、これから先もなかった。
 しかし、あの女子はよくナオに話しかけてくる。
 具体的には2授業に一回のペースで、ナオに話しかけてくる。
 周りの児童がナオに興味を持ってない様に、ナオもクラスメイトに興味がない。
 故にナオを社交的と捉えている人間はこの学校にいないにも関わらず、彼女は積極的に交流を試みている。
 ナオにはそれが不思議でならなかった。
 同時に興味もなかった。
 始業の時刻を示すチャイムが鳴った。
 古典的で、伝統的なメロディーが校内に響く。
 教室に担任が入ってきた。
 児童たちも各々の席に戻っている。
 全員がちゃんと席に着いてから、日直が朝のホームルームの開始を宣言した。
 先生が出席確認を終えて、話し始めた。
 ナオは話の半分を聞いていなかったが、内容はつまり、今日で1学期が最後なので夏休みの準備をしましょう、ということだ。
 おそらく、あと二回は似たような話を聞く羽目になるだろう。
 ホームルームが終わるとすぐに、体育館で全校集会が行われた。
 あの巨大な密閉空間は、ドアも窓も足元の小窓を開けても蒸し暑い。
 集会は、順序だてられた開式の言葉から始まり、数名の生徒が1学期の思い出を語る。
 それがだいたい15分ほど続き、さらに校長の話が始まった。
 内容は、先ほど担任が話していた内容とほとんど変わらない。
 違いは、小学生に伝わりづらい例え話が4、5、6個挟まったことだろうか。
 つまり長ったらしい話を聞かされていた。
 時間にして20分ほど、ナオは退屈と戦っていた。
 校長の話が終わると、また順序だてられた閉式の言葉で終業式は閉ざされ、あとは教室で夏休みの注意事項を口うるさく説明されるだけだ。
 今日は早帰りだった。
 背の順に並んで廊下を進み、自分たちの教室に入るや否や、児童たちは喋りだした。
 担任はトイレに行くなり水を飲むなりしろ、と促す。
 5分後にロングホームルームが始まる。
 ナオは用を足すことにした。
 教室から少し離れたトイレに向かう。 
 この学校のトイレは数年前に改装されているので、不快な匂いも汚れもない、清潔なトイレだった。
 ナオは、右端の小便器の前に立った。
 紐をほどいて、ズボンと下着を用を足せるように下ろす。
 ナオの隣では同じクラスの男子3人が、用を足しながらお互いのズボンの中を覗きあっていた。
 「あ、おまえ生えてるじゃん!」
 「見るなよお、俺の見たなら見せろよ!」
 「オレまだ生えてないし~。」
 「嘘つけ!」
 バカバカしい、と思いながらも、ナオは自分の性器の周りを見た。
 まだ生えてこない。
 一抹の不安に駆られる。
 下着とズボンを戻し、紐を縛り直した。
 3人組を背に、外に取り付けられた水道で手を洗う。
 ナオが教室に戻ろうとしたとき、男子トイレの中からはまだ3人の声が聞こえてきた。
 彼らは果たしてホームルームに間に合うのだろうか。
 しばらくしてホームルームが始まった。
 担任が何枚もプリントを配る。
 内容は「夏休みの心得」「夏休みの宿題」「夏休みの過ごし方」「交通事故に気を付けよう」「作文コンクールについて」etc。
 どれも一度は見た覚えのあるプリントばかりだった。
 そして先生のお話。
 「朝にも話しましたが・・・」から始まった話は、本当に朝に話したことの復唱だった。
 かと思いきや、いきなり児童たちに夏休みの予定を聞きだす。
 みんな、「おばあちゃん家へ行く」とか、「遊園地に行く」とか、ある生徒はハワイに行くそうだ。
 それを聞いた時の担任の表情が、結構本気で羨ましがっていて、唯一その点がナオを楽しませた。
 このホームルームにかかった時間、約2時間。
 堅い椅子に座っていたので、尻が痛い。
 「じゃあ、良い夏休みを。」
 担任がこの言葉ではーむルームを締めくくった。
 同時に下校の合図でもある。
 全校児童が一斉に校舎から流れ出た。
 もちろん、ナオもその中にいる。
 ナオが校門から出ようとした直前、誰かの手が彼の肩を叩いた。
 「あの。」
 と女の子の声がする。
 ノートの女の子だ。
 名前をさきと言う。
 「なに。」
 ナオが振り向いた。
 咲が口を狭めて聞いた。
 「ナオ君、夏休みの予定って、なんかある?」
 「・・・特にないけど。」
 「じゃ、じゃあさ、夏休みのどこかで、遊びに行かない? ぷ、プールとかさ、市民プール・・・。」
 「・・・他の子がいるんじゃないの?」
 「他のみんなは、その、予定があるっ、て。」
 (・・・どうしてこの子は僕に構おうとするんだろう。)
 「なんで僕がいいの?」
 「ひぇ・・・それは・・・仲良く、したい、から・・・。」
 (断らない方がいいのかな?)
 「・・・2週間後なら空いてるよ。」
 「ほんと! じゃ、じゃあ14日ね! 市民プールで・・・お、おかねは、持ってこなくていいから! あ、ありがとう、じゃあね!」
 咲が飛んで帰っていった。
 ナオは未だに、彼女の心を理解できないでいた。

 家に帰ると、真登美が寝ていた。
 なぜか枝留紗もいる。
 彼女はテレビで児童向けの教育番組を見ていた。
 「ただいま。」
 「あら、おかえりなさい。」
 「枝留紗さん、どうしてここに。」
 「ちょっと野暮用でね。ついでにここに居させてもらってるの。」
 「ん・・・アガッ・・・、あ、ナオ、おかえり。」
 「ただいま。」
 ランドセルを部屋の隅に降ろし、手を洗いに洗面所に行った。
 リビングに戻ると、真登美がカップアイスを持ってきた。
 「はいナオ、おやつ。」
 「まだ11時だよ。」
 「たまには贅沢しなって。」
 「・・・ありがと。」
 ナオはこの家が貧乏だと思っていた。
 だから部屋はこんなに狭いし、真登美も夜に働きに出ているんだ、と。
 故に彼は、できるだけ自己を抑えようと努めていた。
 それが、この家の為になると信じていた。
 けれど、こうしてたまにイレギュラーな贅沢が訪れると、反って申し訳なさがナオを襲う。
 それはナオの優しさでもあるが、単に貧乏性でもあった。
 ただ謙虚なことに間違いない。
 今さっき学校で渡された通知表にも、「謙虚で真面目」と総評がついていた。
 カップアイスを食べながら、ナオは咲との奇妙な出来事を真登美に話した。
 その話を踏まえたうえで、8月14日に、咲と市民プールに行ってもいいか、と。
 枝留紗が口を挟んだ。
 「あらいきなりプールって、その子なかなか大胆じゃない。」
 「下世話だバカ野郎。」
 真登美が枝留紗を黙らせた。
 次にナオに向かって言った。
 「咲なんて子、お前俺に話したことあるっけ?」
 「話してないよ、そもそも学校のこと話さないでしょ。」
 「まあ、そうだけど。」
 「なによ、彼女のこと隠してたの?」
 下世話な女が嬉々としてまた口を挟んだ。
 「お前は黙ってろ。ナオ、俺は別に行っても構わないけど、ナオは行きたいのか?」
 「行っとかないと、良くない気がするから。」
 「それが判ってるんなら大丈夫だな。行ってきていいよ。」
 「でも、なんであの子、ぼくに話しかけたんだろ。」
 「それは、俺達には一生判らないことさ。」
 「なんで。」
 「貴方たちが男だからよ。」
 「だからお前は黙ってろ。」
 という訳で、ナオの夏休みに新たに予定ができた。
 彼が初めて、同級生と遊びに行く約束を取り付けたことに真登美は喜んでいるようだった。
 「まとびさん。今日は夜仕事?」
 「ああ、今日は久しぶりに仕事。」
 「わかった、気を付けてね。」
 「ありがとう。昼飯はなににする?」
 「私買ってこようか?」
 「何にするつもりだ?」
 「ハンバーガー。ナオ君もそれでいい?」
 「いいよ。」
 「じゃあ、行ってくるわね。何か食べたいものいる。」
 「俺はなんでもいい。」
 「ポテト、たべたいです。」
 「わかった。じゃあ行ってくるね。」
 二人の行ってらっしゃいを聞く前に、枝留紗は扉から軽快に出ていった。
 残された二人は、真夏の暑さに魂を吸われそうになっていた。
 真登美が立ち上がって、冷蔵庫に向かった。
 麦茶の瓶を取り出して、コップに注いで一気に飲み干した。
 「ナオもお茶いる?」
 「いる。」
 真登美が別のコップに麦茶を注いで持ってきてくれた。
 それを半分ほど飲んでから、早速夏休みの宿題にとりかかった。
 今回出された宿題は、30ページの夏休み帳、両面5枚のプリント、自由研究、運動の記録、それに作文だ。
 夏休み帳には、基本5教科の1学期の振り返り問題集が収録されている。
 どれもそこまで難しいわけではないので、頑張れば明日にでも終わるだろう、とナオは考えていた。
 夏休み帳の大変なところは、問題を解き終わった後にある。
 答え合わせをしなければならないことだ。
 しかも保護者の総評まで書いてもらわなければならない。
 当事者も保護者も、面倒極まりない仕様だった。
 夏休み帳撤廃の声が挙がっていると聞くが、まああと10年はなくならないだろう。
 それでも出されたからにはやり切らなければならない。
 ナオにはそういった、人並みの根性があった。
 ナオが問題集を台の上に広げた時、真登美は本を読んでいた。
 真登美が何度も読み返している、ヘミングウェイの小説だ。
 ナオも一度手に取って読んでみたが、見た目の薄さに反してページにぎっしりと小さな文字が詰まっている上に、小難しい漢字がふりがな無しで載っていたため、読むのを断念した。
 ハードボイルド小説だと、国語の資料集にかかれていたが、ナオにはその意味がよくわからなかった。
 時間の流れに、筆が走る音と紙を捲る音が乗っかっている。
 ナオは30分もしない内に、算数のページを半分終わらせた。
 ちょうどそのころ、枝留紗が帰ってきた。
 ジャンクフードの香り漂う紙袋を抱えている。
 「ただいまー。」
 「おかえりなさい。」
 枝留紗が台の上に袋を置いた。
 そこから包装紙にくるまれたハンバーガーを取り出していく。
 「はい、これ真登美の。」
 と黄色い包装が真登美に渡された。
 「ナオはポテトと、あと適当なの食べな。」
 硬くてごわごわしたペーパータオルを一枚、台の上に広げて、そこにポテトをばらまいた。
 細長いポテトをつまんで、口の中に入れる。
 熱い。
 揚げたてだ。
 匂いを嗅ぐだけで身体に悪いことがわかるのに、どうして人間はこの香りに誘惑されてしまうんだろうと、ナオは思った。
 自分もその一人であることを自覚した上で、黙々と食べ進める。
 心地よい噛み応えの表面と、芋特有のほくほくした触感が、口の中で交互に襲い掛かる。
 枝留紗が塩少なめにしてもらったのか、塩気はそこまでないが、むしろそれがちょうどいい。
 食べる手が止まらないこのポテトは、合法の麻薬のようだと、中毒になりながらナオは思っていた。
 だが、次第に腹が膨れてきた。
 一本一本は細く小さな食べ物だが、これは芋だと忘れてはならない。
 一パック食べ終わるころには、ナオの腹は十分に満たされていた。
 「あら、ナオ君ハンバーガー食べないの?」
 「お腹いっぱいだから、いいや。」
 「あらそう、じゃあ真登美、これも。」
 「いや俺も胸やけが。」
 「もったいないでしょ。」
 「・・・はい。」
 腹が膨れると、今度は眠くなる。
 さっきまで勉強をしていれば、なおさらだ。
 ナオが寝転がった。
 「食べてすぐ寝ると牛になるぜ。」
 と真登美が言ってきた。
 「豚にならなりそうだけどね。」
 とナオは返した。
 窓から涼風が吹き込んできた。
 髪をなびかせる程度の風が、乾いた暑さをさわやかに吹き飛ばす。
 それがナオの眠気を誘った。
 瞼が重くなる。
 (宿題は、あとでいっか・・・。)
 体が軽くなる感覚と共に、ナオは眠りについた。

 何かを炒める音が聞こえて、ナオは目を覚ました。
 最初にナオの目に飛び込んできたのは橙の光だった。
 窓から大量に差し込まれるそれは、部屋全体を彩っている。
 影もまた、濃く存在していた。
 目を擦り、時計を見る。
 短針が5と6の中間にあった。
 「おはよう。」
 真登美の声が聞こえた。
 声のした方に振り向くと、ソファに座っている真登美が本を手にしているのが見えた。
 続けてその後方を見ると、枝留紗が料理をしていた。
 ナオは上体を起こして、軽く伸びをした。
 筋肉が引き延ばされる間隔が心地よい。
 それから片づけた夏休み帳をもう一度取り出した。
 今日中に算数と理科を終わらせたい。
 それにしても、影が濃くて部屋が暗い。
 台に広げた問題集の文字を読み取ることさえ、困難だ。
 真登美は、この暗さであんな小さな文字を読めるのだろうか。
 「電気つけて良い?」
 「いいよ。」
 真登美が返した。
 ナオは立ち上がり、壁のスイッチを弾いた。
 蛍光灯が点く。
 部屋が一気に明るくなった。
 その代わりに、部屋を彩っていた橙色の光は消滅してしまった。
 問題集の前に戻り、鉛筆を手に取った。
 続きの問題を解き始める。
 といっても、簡単な筆算を解かされるだけの単調な作業だった。
 黙々と、その作業を進める。
 20分経つか経たないかの頃に、その作業は終焉を迎えた。
 枝留紗も料理を作り終えたようだ、回鍋肉が盛られた大皿を持ってきた。
 「ご飯運ぶの手伝って。」
 「わかった。」
 ナオが問題集を、座っている隣に置いて立ち上がった。
 台所に行くと、2人分の茶碗を渡された。
 「誰がどれ?」
 「どれでもいいよ。」
 真登美も、味噌汁をよそっている。
 リビングと台所を何往復貸して、テーブルは整った。
 全員席に着いてから、手を合わせる。
 「いただきます。」
 食前の挨拶をしっかり終えて、ナオは回鍋肉を米の上に乗せた。
 タレの絡まった米を、野菜と一緒に頬張る。
 ナオは、とても幸せだった。
 なんだかしれない温かさを、胸の奥で感じていた。
 温かいご飯が喉を通るときの温もりでは決してない、ナオの知らない感情が、ナオの中に芽生えていた。

 夜は11時を過ぎた。
 普段ならナオはもう床に就いている時間だが、昼間寝すぎたせいで、彼はまったく眠気を感じていなかった。
 だから真登美の出勤を見送ることができた。
 真登美と一緒に、枝留紗も出ていった。
 初めての、一人の夜だった。
 静かだ。
 あまりにも静かなので、思わずテレビを点けた。
 だが、特にナオの興味を引く番組はやっていない。
 それでも静寂が恐ろしかったので、適当なトーク番組をつけっぱなしにして、作文に取り掛かることにした。
 できれば、真登美のいない時に作文は仕上げたかった。
 昼間に仕事があるかどうか聞いたのは、そのためだ。 
 真登美の前では恥ずかしくて、文章を書けないから、彼のいない時間を狙って書こうと、ナオは前々から決めていた。
 ナオが恥じるのにも理由があった。
 それは、作文の共通テーマが「家族」だったからだ。
 とてもではないが、真登美に抱える思いを本人の前で津々浦々に書き連ねる度胸を、ナオは持ち合わせていなかった。
 「父さん」と呼ぶことでさえ、恥ずかしいのに。
 原稿用紙を前にして、ナオはまず、真登美と初めて出会った日のことを思い出していた。
 ナオが4歳になりたての頃だった。
 死んだ父親の遺言に、幽田真登美に子を預ける、と書かれていたから、ナオは真登美の養子となった。
 真登美に対するナオの第一印象は、表情が硬くて、口数が少なくて、何を考えてるのかわからない人だった。
 まるで「パパ」と正反対だ、とあの時は思ったが、今振り返ると警察官だった「パパ」とも大して一緒に過ごしていないから、本当に正反対だったかどうかわからない。
 (そうだ、本当の父親のことさえ、ぼくは知らない。)
 自宅にいることよりも、父の勤め先にいることの方が多く、女性警官が世話をしてくれていた。
 あの女性ひとを母親代わりと呼んでもいいのだろうか。
 ナオは逡巡した。
 感謝がないわけではなかったが、親代わりかと言われると、そうでもなかった。
 ナオは思考を再び真登美との思い出に戻した。
 初め真登美をぶっきらぼうな人だと思っていたけれど、そうではないと気づけたのは、真登美の家、つまり今ナオがいる場所にきて、初めての夜だったと、ナオは思い出した。
 小さな頃から、本当に小さな頃から一人の夜が多かった。
 大人が寝かしつけてくれることはあったが、朝起きた時に大人が隣にいたことはなかった。
 「パパ」でさえ、そうしてくれなかった。
 だが寂しさを感じたことはなかった。
 それがナオのだったからだ。
 それが普通のことだと、思い込んでいた。
 でも、真登美は違った。
 真登美の家での初めての夜。
 慣れない場所だったから、緊張していつまで経っても寝られなかった。
 ずっと目を開けていた。
 いつ目を開けても真登美の姿が視界のどこかに写っていた。
 ようやく眠りにつき、朝になって目を覚ますと、視界にはまだ真登美の姿があった。
 最初、ナオは驚いた。
 朝まで寝かしつけようと、自分の腹の上に手を置き続けた大人を初めて見たからだ。
 その次に、ナオは涙を流していた。
 泣きじゃくることはなかったが、涙がどんどん溢れ出て、鼻まで垂れ始めたことを、覚えている。
 真登美の手が温かかった。
 たった4年ぽっちの人生だけど、こんな経験初めてだった。
 鼻を啜る音を聞いて、真登美は小さな身体を自身の胸まで引き寄せてくれた。 
 当分の間、涙が止まらなかった。
 ナオは初めて「信頼すること」を無意識に覚えた。
 「パパ」にも抱いたことのない感情に、幼い心は安心していた。
 それから一週間、真登美は添い寝してくれた。
 だが、彼は夜勤に出なくてはならない。
 真登美の家を訪れて一週間経ち、初めての一人の夜だった。
 真登美は一度ナオを寝かしつけてから家を出ていった。
 そのまま眠り続ければ、あんな思いはせずに済んだだろう。
 4歳のナオは、真夜中の3時に目が覚めた。
 トイレに行きたかったのだ。
 だが、隣には誰もいない。
 家の中に誰もいない。
 途端に、ナオの身体を恐怖が支配した。
 身体がすくみ、心は不安定になり、心拍が上昇する。
 この時ナオは初めて、寂しさが原因で泣いた。
 声を上げて、赤ん坊のように泣いていた。
 トイレに行きたかったことも忘れて、その場に漏らしてしまったほどだ。
 ちょうどその時、真登美が帰ってきた。
 真登美もナオの泣き声が聞こえたのか、慌てたようにナオの下に駆け寄った。
 真登美はまず、ナオを抱きしめた。
 力強く、でもナオが苦しくない様に。
 そして、謝った。
 「すまない、一人にして悪かった。」と。
 それから真登美はナオが漏らしていることに気づき、服を脱がせてシャワーを浴びせてくれた。
 汚れた布団やパジャマを片付け、下着を変えてくれた。
 そうして掃除が終わった後、ナオは真登美に抱かれて、朝を迎えた。
 真登美が朝食の用意を始めたくても、ナオは離れようとしなかった。
 真登美が目の前にいないはずなのに、ナオは恥ずかしさを感じていた。
 誰もいないのに、照れ隠しに鼻を擦って、ナオは執筆にとりかかった。
 今思い出したことと、その時抱いた感情、そして今思うことを、丁寧に書き連ねていった。
 作文はあっという間に完成した。
 鉛筆を置き、座布団に横たわる。
 満足な量を書き終えたら、急に眠気が襲ってきた。
 もう寝てしまおう。
 戸締りだけはちゃんと確認して、電気を消した。
 今日は月が明るい。
 窓から差す月光で、本が読めそうだ。
 だが疲れ切ったナオは、布団に入り込むとすぐに、夢の世界へ旅立っていった。

 ・・・ナオの目の前に、咲が立っている。
 なぜかは判らなかったが、ナオは不思議に思わなかった。
 咲は服を着ていた。
 終業式後、校門でナオと話した時に来ていた服だ。
 突然、咲が服を脱ぎだした。
 服の下にスクール水着を着こんでいる。
 学校のプールで見たことのあるボディラインだが、ナオはなぜだかよくわからない感情を抱いていた。
 「一緒にあそぼう。」
 と咲がナオに迫ってきた。
 柔らかい肌が、ナオに触れる。
 気が付くとナオも水着に着替えていた。
 右手が引っ張られる。
 どんどん走って、どこに行くのだろうか。
 咲が急に止まった。
 ナオは勢いを殺すことができずに、咲にぶつかってしまった。
 周りに温水シャワーが現れていた。
 と思いきや、狭い個室に二人は押し込まれる。
 身体が密着した。
 咲の胸の、腹の、足の触感が全身で感じられる。
 シャワーが温かい。
 ナオは自分の息が荒くなっていることに気づいた。
 身体もなぜか動く。
 でも止められない。
 何かが込み上げてくる。
 今まで抱いたことのない感情が、ナオの身体の一点に集中する。
 抑えきれなくなった何かが、爆ぜた。
 その瞬間、夢が途切れた。

 次の朝、目覚めたナオは下着が汚れていることに気づいた。
 漏らしたのか、と一瞬焦るが、そんな感触ではない。
 急いでトイレに駆け込んだ。
 ズボンを降ろし、下着を脱いだ。
 白い液体がこびりついていた。
 ナオにはこれが、何なのかわからなかった。
 わかることは、久しぶりに下着を汚してしまったことだ。
 ひとまず下着を着替えて、布団も汚れていないか確認した。
 布団は無事のようだ。
 その確認が取れたところで、真登美が帰ってきた。
 ナオの心臓が跳ね上がる。
 「ただいま。」
 真登美が靴を脱いで、リビングに迫ってくる。
 ナオは、正直に話すことにした。
 真登美がリビングに入ってきた。
 「ごめんなさい。」
 いきなりナオに謝られて、真登美は困惑した。
 「どうした。」
 「その・・・パンツを、汚しちゃっ・・・た。」
 「漏らしたのか?」
 「いや、そうじゃなくて・・・。」
 ナオが真登美の手を掴んで洗面台まで引っ張った。
 洗面台には、ナオが汚した下着が置かれている。
 真登美は、それを見て察したようだ。
 「ごめんなさい・・・。」
 ナオの声がさらに小さくなる。
 「大丈夫だ。でも、学校で習ってないのか?」
 「え?」
 「これは、・・・身体が大人に近づいた証だよ。だれでもこうなることがある。」
 「そうなの? よかった・・・。」
 「またこうやってパンツを汚したら、その時は水でパンツを濯いでから洗濯機に入れるようにしてな。」
 「わかった。」
 「さ、洗って。」
 「うん。」
 真登美は感慨に深けていた。
 (そうか、ナオも大人になったんだな。)
 (・・・でも寝ながらってことは、夢でだれを見たんだ?)
 大きなお世話か、と真登美は朝食の用意に向かった。
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