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2.伯爵夫人の長い一日

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「もううんざりだ。」
夫の凍りつくような視線は私の感情を揺さぶり、めまいにも似た歪んだ視界に私の足が立っているのが夢の中のことのように思えた。

ただそれは一瞬で現実に引き戻される。冷酷な夫のセリフによって。

「君は変わってしまった。昔の君はそんなじゃなかったのに……」

昔の……私?

「僕は、君が言うからちゃんと調べたよ。でも君は……」
夫の言葉が、理路整然と、私にわかりやすく言い聞かせるように何かを言い続けていたけれど。

私は目の前がクラクラとして目の焦点が合わず、どうしてこうなったのか、どうして!、と頭の中で繰り返さずにはいられなかった。

どうしてこうなったのかを知るには、夫の言う通り、夫の知っている、昔の私を思い出す必要があるのかもしれない。

「君という人はいつもそうだよね。あの時も」
昔の私のことをよく知っている夫がいつものようにダラダラと語り続けている間、私も、私の知る私の事を思い出してみようと思う。

私の名はルイ・シュミット。

夫はクライヴ・シュミット伯爵。結婚二十年目の記念についこの間、豪華なパーティで皆に祝っていただいたばかり。

そういえば、お祝いに頂いたプレゼントのお返しは何がいいかしらと話しかけた時も、夫を怒らせてしまった気がするわ。

なんだか最近、夫を怒らせてばかりで悲しい。夫の言葉はなぜか私の心に深く切り刻まれ、その声を聞くたびにビクリと体が反応して震えてしまう。

ほんとうに、どうしてこうなってしまったのかしら。

ふと、伏せていた揺れる視線の先に、ピンク色が見えて視線を上げた。

私達夫婦には、子供は男の子が一人。

まだ十代なのに婚約者を勝手に決めて連れて来たのは、ピンク頭女。夫が鼻の下を伸ばして丸め込まれる姿を見て、私はそうはいかないわと扇を握り締めた。

白檀びゃくだんを使ったお気に入りの扇で、ピンク頭が粗相そそうする度に不揃いな椅子や脱ぎっぱなしの服を放置した階段を叩いて叱咤しったすると、息子や夫が矢のように飛んできて、まるで私が悪者のように睨みつけ、ため息まじりにピンク頭をかばうのだ。

「母さん、何やってるんだ怖がってるじゃないか」

私の家で好き勝手している嫁を叱咤して何が悪いものか。怖がったから何だというのです。私の居場所に土足で踏み込んで来るような真似をされて黙っていろと?

「母さん、今は昔とは違うんだから」

夫はいつから私の事を「母さん」と呼ぶようになったのかしら。私は貴方のお母さんなの?、なぜ母さんなんて呼ぶの?、と聞いてみた事があるけれど、「そ、それは子供の母さんだからモゴモゴ」と歯切れ悪く答えていた事を思えば、良くない呼び方だという意識はありながらも今も呼び方を改める様子は無い。君、母さん、好きに呼べばいいわ、そう諦めたのはもう随分と昔のように思う。

そりゃあね、私も年をとりましたよ。我慢がきかなくなってきた自覚はありますとも。昔の私は貴方の知る通り、口を開けるのも恥じらうような乙女でしたでしょう。けれど子育てするには否応無く女は強くなるしかない。扇で口を隠していては子育てなんて出来やしない、それとも貴方がしてくれましたか?。貴方は胸を張って子育てしたと言えるほど、私に後ろめたさは露ほども感じないと?。責めているのではありません、大抵の男には子育てなんて出来ないのだと諦めているんです。

出来ないのなら出来る使用人を雇えばいいですって?。そうね、昔よりは多少資金に余裕のある暮らしが出来るようになりましたから、使用人を雇う事も悪くはないでしょうね。でもね、人様の家で脱ぎ散らかしたり、使ったものを使ったまま放置することは、その人の持つ常識が間違っているのです、使用人を雇って息子の嫁の常識を正す事まで出来るとでも?。ああそうね、家庭教師でも雇いましょうか?、私と家庭教師の何が違うのか、私も教えて頂きたいもの。

私を昔の女呼ばわりしているこの人達は、私の事を何だと思っているのでしょう。子育てしかして来なかった女は、子育て以外に役立っていないとでも?。邸の管理不備や申請精算の監督、婦人会で築いた人脈や情報による派閥牽制、夫の地位が上がれば妻の負担も増えているというのに。夫が若い頃に犯したあやまちが、今になって脅迫してくることもある、それを牽制しているのは妻の存在そのものであることを男は何もわかってはいない。

昔と違って今は女の地位が上がった認識もきちんと持っています。けれど、私のような、子育てしかしてこなかったと思われている女の地位など、誰が認めてくれるのでしょう。夫や息子すら、私を面倒臭い女扱いしてくるというのに。

昔の君はそんなじゃ無かったですって?、それを貴方が言うの?

貴方はご自分の足元をご覧になったことがあって?

昔の貴方は……

「好きすぎてつらい。」
私の頬に触れながら、
「かわいいよ、ルイ。」
コツン、と額と額をくっつけた。あの頃の貴方はもういないの?

ええ。ええ、分かっています。あの頃と比べられないくらい私、ふくよかになりましたわ。でもそれは貴方のお腹も同じでしょう?

私はただ。ただ……私は、私を見て欲しかっただけ。

ピンク頭がアクセサリーやバッグが欲しいと言えば買い与える貴方。

君がテーブルが傷んできたと言っていたから商団を呼ぶついでに、雨漏りがすると言っていたバルコニーの修理も頼んでおいたよ。とまるでそれが私へのプレゼントのようにドヤ顔の貴方。

ピンク頭が焦げたクッキーを作った時も美味しいよと嬉しそうに食べる貴方達は、その裏で焦げたオーブンを調理場の使用人が一生懸命洗っている事すら知らない。

なぜ下手くそなクッキーを自分の邸で焼いて来ないのか。後始末をこちらに押し付け笑っているピンク頭を不快に思っているのは私だけではない。

ピンク頭は使用人をねぎらって、ありがとうやお願いねの一言があるわけもなく、きっとそれを注意すればまた矢のような攻撃を受けるのは私なのだ。

ピンク頭が友人と美味しいディナーや小旅行に行っても「お土産が楽しみだ」と笑顔で送り出し、少なくないお小遣いを使い果たし舌を出して甘えるピンク頭に「困ったら使いなさい」と家族カードを渡す。

私が寝付けなくて夜中にホットミルクを飲んでチョコをつまみ食いすれば「また食べてるのか」、顔を洗う時チョロチョロと水を流していれば「もったいない」、と顔をしかめる。

私はいつから、愛されなくて当たり前になってしまったのだろう。そう思った私が、こう思うのは当然の成り行きではなかったか。

爵位を息子に譲って田舎でゆっくりしたいわ。

意外にも夫は田舎でゆっくり出来る候補地をすぐに探してくれた。治安のいいところがいいわ、交通や買い物に不便なのも困るわよね。あら。夫の選んでくれた候補地の地図を広げてみたら、治安がいいと夫から聞いていたけどこうして地図で見てみると細道が入り組んでいて危なくないかしら?、ねえ、貴方?

そうして、冒頭のそれである。
「もううんざりだ。」

思ってもみない夫のセリフに私は硬直した。

私は夫と会話がしたくて。ディナーの後、思いついた事をキッカケにして話しかけただけ。何でも良かった、貴方に話しかけたかった。笑顔で返事をして欲しかった、私にも、笑顔で。なのになぜ?どうして?その答えは簡単なのに受け入れられなくて他の答えを必死に探した。

ねえ、貴方?、貴方と二人で私、田舎の美味しい空気と豊かな自然に囲まれて、朝寝坊もして、美しい夕日を眺めながら、今まで色々あったけれど貴方と一緒にこうしていられて幸せなの……何度も夢見た光景の中の夫の顔が、失望とあざけりの笑みを浮かべて「母さん」と呼んだ。

嫌あああ!



それからどうしたかしら。私は気がついたら寝室に逃げ込んで、ベットで毛布を被って丸くなっていた。

涙があとからあとから流れてシーツに滲んでいく。

「もううんざりだ。」

夫の声が何度も繰り返し思い出された。

「君は変わってしまった。」

ぶわりと涙が粒となってこぼれていく。

私がいけなかったのかしら、しつこくし過ぎたのかも。それとももっとねぎらってあげるべきだったのかしら、あの人は疲れていたのかも。あの人の妻なんだもの私、あれくらいで大袈裟に泣いたりするなって怒ってるかも。

泣きながら試行錯誤している頭の中で、ピンク頭に微笑む息子や、あの人の笑顔が思い出された。私以外皆笑ってる。

引きつった呼吸が止まり、目に浮かんだ涙が引いていく。

最後にあの人が私に微笑みかけたのって、いつだったかしら。

そう気付くが早いか、無意識か、私は左薬指の小さな宝石のついた指輪を外していた。

封印の指輪。

二十年間、私の記憶を封じ込めていた指輪を外した時、夫と結婚する前の、自由に旅をしていた時の記憶が、流氷が溶けてドンバリンゴゴゴンと鳴り響くような衝撃が、頭の中を突き抜けていったのだった。

古の魔女、最後の生き残り、ハーレクイーンオブハート。

ぐにゃり。私の人差し指と親指が、封印の指輪をひねり潰していた。

ひねり潰された塊は魔力の残滓ざんしとなって消えたように見えなくなった。

私の白髪混じりの枝毛髪に魔力が通り、キラキラとした流星群が髪に流れると艶のある金色の髪へと変わった。

濁った瞳に生気が戻り、美しいエメラルドのような輝きに、長い睫毛まつげがパサリと揺れる。

ふくよかな四肢は細く、二重顎にじゅうあごは無くなり、垂れた乳房がむくりと上向き跳ねた。ウエストはキュッとくびれ、尻肉にぷりっとした弾力が戻り、指先に真っ赤なマニキュアが塗られた。

ぷっくりとした瑞々しい唇、シワもシミもない。

おかえり、世界一強い魔女ハーレルイ。ただいま、私。

「……はあ。死をわかつまで、共に老いてゆく愛しさを君と……だったかしら。」
私は夫と結婚を決意した瞬間まで巻き戻った記憶と現実の虚しさにため息をこぼした。

封印していた莫大な知識量を頭の中で整理しながら、私が寝室から出てリビングに向かうと、クラシックの流れる窓辺でピンク頭と夫が踊っているのが見えた。息子はそれをソファに座って見ている。楽しそうな家族の風景ね。

あら。私はここ何年も夫と踊っていないわね、とまた気付かされた。

腰に手を当て、リビングに入る扉の側で、ジッとそれを見ていると、夫の足がピタリと止まる。お腹はぶるりと揺れていた。

はっ。やっと気付いてくれたのかしら。

「解除」
私は何の思いもなくその言葉を口にした。

夫の左薬指にはまっていた指輪が私の右薬指に戻る。

魔女の祝福と呼ばれるその指輪は、つけた者に幸運を運んでくる。

夫の顔がみるみる青くなる。そして白く。
「君は……」

「もう何も言わなくていいわ。全部夢だったのよ。」
私がそう言って微笑むと、何を勘違いしたのか頬を赤らめている元夫。

息子を見ると、呆然とこちらを見ている。

男の子でよかった。女の子を生んでいたら魔力を全部吸い取られているところだったわ。こうなる運命だったのかもね。男の種には魔女の血は遺伝されないから、この先、隔世遺伝すら起きないから安心してね。そう告げると息子の眉が少し歪む。何言ってるのって顔だった。

ああ。私が貴方の母だとわからないのね。どうでもいいわ。好きにすれば良い、もう爵位を継いでもおかしくない年頃なんだから。いつまでもママあ~なんて懐かれる方が気持ち悪い。

むしろ今までなぜ私はこんなにもコイツらを甘やかしていたのかしら。愛などとうの昔に消え去っていたというのに。

「ま、待って」
髪をなびかせ背を向けると、慌てて声をかける夫の言葉は、それきり聞こえなくなった。

背を向けたと同時に私は転移した。

王都から遠く離れた、瘴魔の森と呼ばれる樹海に、私の隠れ家があった。こじんまりとしたログハウス、留守を任せていた女の子が中から出てくる。

「おかえりなさいませ、ルイ。」
女の子の小指には不老の指輪が光る。
「ただいま、グレーテル。」

以前はこの子の兄もいたけれど、平凡な毎日から逃げ出して王都で何やら怪しげな噂を流して小銭を稼いでたみたい。それももう何百年も昔の話だから、どうでもいいけど。

どこにでも好きなところへ行っていいと言っているのよ?。でもグレーテルはここでの暮らしが気に入っているらしいわ。魔女にでもなる気なのかしら。

うーん。今日は疲れたわね。でも明日からは久しぶりにのんびり出来そうだから、少しくらい夜更かししても構わないわね。

シュミット伯爵家にはもう幸運はやってこないから少しずつ落ちぶれていくだろうけど、どうでもいいわ。魔女の時間は悠久なのよ。失われた愛に泣き崩れるなんて無様なまね、いつまでもやってられないわ。ばかばかしい。

「グレーテル、久しぶりにあなたのお茶が飲みたいわ。」
「すぐ準備します。」
柔らかな微笑みで私の手を握るグレーテルは、ただそれだけで私の心を癒してくれた。

明日は何しよう。私の得意のイチゴのカップケーキを焼いてグレーテルに食べさせてあげようか。梅酒はかなり美味しく漬かってるんじゃないかしら、ふふふ、楽しみね。

晴れた空のまんまるな月を見上げれば、まだまだ今日はこれから、長い夜になりそうね。

 ◇
 ◆

シュミット伯爵の短い夢は蜃気楼に消ゆ


景勝地にレジャー施設、海に面し点在する島々の一望を治めるシュミット伯爵領は中核市認定されている。

シュミット伯爵領リヴィゥー市は、世界遺産にも登録され歴史地区「隠れた宝石」と謳われ、大飢饉世界崩壊前の古い街並みが今も残っており、近年人気を誇っている。

聖ラウス教会、レジェチョバス教会など古い教会が多く姿を残し、当時の信仰の高さも感じられる。

国際航空線も多く、世界最大の航空機事故は耳に新しい。

クライヴ・シュミット伯爵は賠償金もろもろにより、一気に貧乏貴族へと落ちていった。

まだ二十代のクライヴは突然襲われたこの不幸に茫然自失、背を丸めビーチで膝を抱える姿がよく目撃された。

ザザーーーーン しゃわしゃわしゃわ ザザーーーーン

波間に視線を奪われ黄昏るクライヴの横顔。に額縁がつく。

鏡の中に映ったクライヴの横顔だ。それをまるで映画のワンシーンのように見つめるグレーテルとシトロン。鏡の中には勿論ベルダ。

『本当に映りました。不思議ですね。その鏡の中はどうなっているんですか?』
『説明したところで理解など出来ぬ。見たいものが見える、とだけ思っておけば良い。』
『ハーレ様がいないな。早く出せ。』
『お前達がっ、
「ハーレ様に子供はいるのか」、「いるなら見てみたいなぁ」、「ハーレ様の夫となる者はどのような御仁であるか」、「子供っているのかな、男?女?」、「ええいっどうせなら出会いから見せろっ」、
と言うからさかのぼって夫視点のロードショーカメラアングルで見ているというのにっ』
長々と言い訳がましいベルダ本人が一番ノリノリのような。
『シッ!ルイが来たわ!』

ザザーーーーン しゃわしゃわしゃわ ザザーーーーン

打ち寄せる波とクライヴの狭間に、影が伸びた。

「貴方がシュミット伯爵?」

ハスキーな心地よい響きでクライヴを呼ぶ声。

クライヴが影をたどって視線を上げると、腰まで伸びた金髪にエメラルドの瞳は慈愛を帯びてクライヴを見つめていた。

「呼ばれたから来てあげたわよ。」

まるで天使のような慈愛の瞳とは逆にハスキーな声から紡がれる意志の強い発言。

クライヴは頭が混乱した。
呼んだ?誰が誰を?俺が君を?

「鈍いわね。領主より側近が優秀なのかしら。」

目の前の、自分よりも年下であろう十七、八歳くらいの少女に馬鹿にされた事はわかったクライヴは眉をしかめ、立ち上がって尻の砂を払いながら自虐する。
「俺なんかが領主で悪かったな。」

「あら。腐ってるわね。こんな美少女相手に口説き文句のひとつも出てこないなんて、それとも貴方、男が好きなの?」

「はああ?!俺はっ……もっと可愛げのある女が好きだ。」

「言うじゃない。」
潮風に流された金髪が鼻にかかり、かき上げるように髪を払い笑みをこぼす少女。

クライヴは落ち込んでいた事も忘れて少女の美しさに心奪われた。

「決めたわ。助けてあげる。そのかわり」
少女がそう言うとすかさずクライヴは「何言ってんの」と口を挟んだ。

「何言ってんの。俺を助ける?またかよ、もー。勘弁してくれよ。」
クライヴの顔が明らかにガッカリする。

クライヴは少女を無視して追い払うようにシッシッと手の甲を振った。

『ハーレ様に対して何たる侮辱!我が大地のいしずえにしてくれる!』
バキバキバキ
ログハウスの上の木が大きくなり、ルイの寝室の窓を覆い隠すように伸びた。
『シトロン。過去映像だ。これに干渉できるのはハーレルイぐらいだぞ。』
『シトロン。いい子にしてないとルイが帰ってきたら言いつけますよ。』
『……ぅぬぬ』

落ちぶれてもクライヴは伯爵家という矜持きょうじを持っている。領地にはまだ力がある、廃れた田舎町と同じように思われてたまるか。そう思っているのだが、矜持だけではどうにもならない問題が領地に巣くっていた。

そのせいで金の問題だけでなく、いらぬ厄介ごとも増えた。

今までは尊敬の眼差しで遠巻きに指を咥えて見ていただけの娼婦が、領主が落ちぶれているうちに取り込もうという魂胆で我先にと抱きついてくるので、今の俺には娼婦がお似合いだと思われているってことかと落胆。そのうえ銀行員が手のひらを返して取り立てにくると必ず「保証人になりそうな方を紹介できませんか、こちらで交渉しますので」と他の貴族との繋がりを作ろうと、中には脅迫まがいに詰め寄ってくる者もいて、今の俺は信用に値しない惨めに凋落ちょうらくした貧乏貴族さ……と不貞腐ふてくされていた。

クライヴはやっとひとりになれた砂浜を歩く。

「私も可愛げのある子が好きよ。」
背中から優しい声が聞こえる。

クライヴが振り返らずに歩いていると、
クワーッ
上空から獣の鳴き声がした。

上空を旋回する大人の人間ほどの大きさのオルニトケイルスが数匹、飛び回っている。

ケケケケケケケカカケケ
笑っているのか怒っているのか、そのうちの一匹が、ぐるんと宙返りした後、クライヴ目掛けて突っ込んできた。

「うわっ」
ギュワーッ

クライヴは思わず右手でかばったが、オルニトケイルスが飛んでくる気配がないので手を下ろすと、「うおっ」すぐ目の前に首をへし折られたオルニトケイルスがヒクヒクと痙攣けいれんしていた。

そこへ、さっきの少女が近付いていく。

「おい、危ないぞ」
クライヴが思わず声をかけたと同時に少女はおもむろにオルニトケイルスを蹴り上げ「……んなぁっ?!」クライヴの口から変な声が出た。

蹴り上げ仰向けになったところに腕を突き刺し、オルニトケイルスの皮膚を突き破り心臓を掴んだ手を抜いた少女。

「瀕死の状況で放置すれば数週間後には遺体が腐って臓器は宝石に変わる。けれどこれは私の獲物だから、私の好きなようにするわ。」

「何なんだよお前……。」

「あら。言ってなかったかしら。」
少女の手から心臓が消える。

しゅわしゅわとしたシャボンの泡が少女の足元から頭上へと消えていき、血を浴びていた少女の体がまるでお風呂上りのように蒸気し浄化された。

そして、流れるような美しいカーテシーで、
「世界一強い魔女でお見知り置きくださいませ。ハーレルイにございます。」
天使のように微笑んだ。

『さすがハーレ様。美しい。』
『ドラゴンの心臓はダイニングテーブルに収納されたのでしょうか。異次元ポケットの食材が尽きない秘密を少し覗いてしまいました。』
『ハーレルイは何でもかんでも異次元ポケットに入れてしまうからな。畑や家畜も村ごと入ってるって知ってるか?』
『……聞かなかったことにします。』


「アイツらは悪魔の鳥さ。」
クライヴはぽつりと呟くと、愚痴は止まらず口からスルスルとすべった。

領地の山脈にいつからかオルニトケイルスが巣を作った。瞬く間に数が増え、飛行機事故が起こった。

オルニトケイルスは知能が高く、並の賞金稼ぎ達ではオルニトケイルスを怒らせるだけで事態が悪化する一方だった。

オルニトケイルスに嫌われた者の家はトイレ扱いされて、屋根が糞尿の重みで押し潰されそうになっている。今じゃ苦情は言うが何とかしようとする者は居なくなり、観光客も激減した。

『なるほど。オルニトケイルスは仲間意識が強く、大群での指揮系統にも優れた生物だ。人間などが敵う相手ではないわ。』
と呟くシトロン。

隠居していた両親からも責め立てられて、クライヴは頭を抱えてどうにもならないどうにかできるならとっくにやってるだろ!と逃げた。

喧嘩する両親の元から連れ出してくれた祖母と、昔よく歩いた砂浜に。

祖母によく聞かされた御伽話(おとぎばなし)を思い出しながら波を見る。

「昔はね、それはそれは強い魔女様がいっぱいいてね、皆の願いを叶えてくれたもんさ。こうやってね、手を組んでお祈りするんだ、世界一強い魔女様助けてください。」祖母の口から出た白い吐息が、紙飛行機となって空高く飛んでいった。クライヴはワクワクした。「何をお願いしたの?」「孫が困っていたら助けてくださいってお願いしたのさ。今はもう、会ったって話しも聞かないからおまじない程度に思っていたが……まだいるんだねえ、魔女様。ありがたいねえ。」祖母はありがたいありがたいと手を合わせ、小さいクライヴは飛んでいった紙飛行機が見えなくなるまでずっと見つめていた。


「あ。」
思い出した。とクライヴは声を出した。

「貴方のお祖母様おばあさま、嫌いじゃないわ。」
慈愛のこもった瞳でそんなことを言うハーレルイに、クライヴは笑い出した。素直じゃないな。と。

オルニトケイルスと話をつけてくると、背を向けたハーレルイは蜃気楼のように消えた。
「おっ、おいっ……」
いきなり消えたハーレルイに驚きと、キュッと胸が苦しくなるような寂しさと不安を感じたクライヴは、やり場のない気持ち悪さに髪を掻きむしりながら砂浜にドスンと座った。

グワーギュワーッカカケケカカギャッギャッ
騒がしく響いていたオルニトケイルスの鳴き声が、ピタリと止んだ。

「今日の夜明け頃に出てくって。よかったわね。」
波を見ていたクライヴの肩がポンと叩かれて振り向くとハーレルイが立っていた。

戻ってきたハーレルイの髪は乱れ、服は粘着物質でベトベトして気持ち悪そうにしている。オルニトケイルスの子供達に懐かれて遊んでくれって追いかけ回されたんだと。

くっくっくっくっ
「何がおかしいのよっ」
浄化魔法使えるだろと言えば、オルニトケイルスが汚いもの扱いされたって思うかもしれないでしょ、とか。優しすぎるだろ。とクライヴは笑いが止まらない。

恥ずかしそうに髪を撫で付けるハーレルイは、風呂ぐらい用意しなさいよっと唾を飛ばす。そんなルイの手を掴んで歩き出したクライヴに、ルイは頬を染めて大人しくついていった。

『いい雰囲気です。』
とグレーテルが呟くとシトロンも、
『ハーレ様の手を掴むなど身の程知らずめ』

伯爵邸へと招くと、使用人が減ったせいで掃除の行き届かない部屋を見てハーレルイは浄化魔法をかけてくれた。例のシャボンが屋敷を走り回り、上空へと上がって消えていく。

すっかり綺麗になった屋敷でゆったりと風呂に入ったハーレルイは、ひざまずくクライヴの手をとった。

「こんな気持ちになったのは初めてだ。今日は一緒にいてほしい。」
ハーレルイの手を握り、返事を待つ。

「今日だけ?」
湯上がりのハーレルイの頬や首筋はピンク色にほてり、艶やかな唇からはクライヴを焦らすセリフがこぼれた。

「出来ればずっとっ……」声が大きくなって自分でもびっくりしたクライヴ。

深呼吸をして言い直す。
「離れたくないと、君も思ってくれているのなら、ずっとここにいてくれないか、俺の側に。」

「貴方がそれを望むなら。叶えてあげられるわ。」
見つめ合う二人がその距離を縮めて、クライヴの腕がルイの腰を引き寄せる。

シーンは変わってベッドの中。クライヴの腕枕でくつろぐルイと、ルイの額に頬寄せるクライヴ。

『ぅおいっ、鏡!巻き戻せ!』
『黙れエロ精霊。グレーテルもいるのだぞ。見せるわけがないだろう。』
『ぅぬぬ』

クライヴはふと、浮かんだ疑問を口にした。

「魔女は年をとらないのか?」

「時間軸が別のところにあるのよ。年をとる概念のないところよ。」

「じゃあ、僕が君と共に年をとりたいって言ったら?」

「言ってないことに返事はしないわ。」

「僕は、死がわかつとも、共に老い、この愛しい想いを、いつまでも君と共に分かち合いたい。結婚してほしい、ルイ。愛してる。」

「私も愛してる。クライヴ。」
ハーレルイは少し考えて「私を裏切らないで。」と念を押す。死が二人を分かつとも共に、その言葉の意味がどれほど重いものなのか、この男は分かっていない。

「まさか、そんな心配は必要ないよ。そんな事あるわけがない。」

「知識を封印すれば共に年をとって寿命を迎えられるわ。でも魔女ではなくなってしまうから、ただの人間として生きていくしかないし、魔女だった時の記憶もなくなる。」

「それが怖いの?僕も君が魔女だったことを忘れるのが怖い?」

「いいえ。この指輪は愛で愛を縛る特別な指輪。この指輪を私の指にはめる者のことだけ私の記憶に残り、私の記憶から魔女の記録が指輪に吸い取られて封印される。クライヴの記憶に影響も支障もないわ。」
ハーレルイはベッドの中で、魔力を練って作り出した封印の指輪をクライヴに見せる。

僕はルイが魔女だった事を覚えてるってことか。なら、都合が良い時に魔女に戻ってもらうことも出来るかも?なんてね。とりあえず今は指輪が先か。
「……君の指にはめてもいい?」

「今?」

「今。……だめ?」
クライヴはハーレルイを抱き寄せ、口付け、首、肩、乳房へと唇を落としていく。

「んっ、クライヴ?」
ぐいっと、赤い顔のハーレルイがクライヴを軽く押しのける。

クライヴはひょいっとシーツから顔を上げた。力では全く敵わないと苦笑いのクライヴ。
「ルイ。手を出して。」
クライヴが少し強引にハーレルイの左手を探り出した。

「せっかちね。」

「愛してる。」
クライヴの手から、ルイの左薬指にはめられる封印の指輪。

魔力を帯びて輝いていた金色の髪が、ただの金髪に、宝石のように瞳の奥まで澄んでどこまでも吸い込まれそうだったエメラルドの輝きは失われ、エメラルドの瞳孔がドクリと脈打った。

目の前にいた美しい魔女が、ただの人になった瞬間を目にしてクライヴは思わず「ルイ?」と問いかけたが、すぐ気を取り直してルイの額にキスを落とす。別人かと疑ったことはバレなかっただろうかと内心バクバクと心臓が揺れている。

「クライヴ……これを、貴方に。」
ルイの右薬指にはめられた指輪をクライヴの左薬指にはめる。

その様子にホッとして尋ねる。
「これは?」

「私の愛よ。」

「ルイ。なんて可愛いんだ。もう離さないよ。」
僕のものだ。

クライヴの唇がルイの瞳を閉じさせる。



鏡の中の映像がカレンダーのように流れた。

二人のそんな熱い夜も、五年、十年と時が過ぎると共に、枕が二つ乱れる事なく綺麗に並んだまま朝を迎えるようになっていた。

シュミット領地は栄え、貿易も順調、クライヴ伯爵の復興手腕は王都まで届き、王族の覚えもめでたく、クライヴは調子に乗っていた。

田舎から出稼ぎに出てきた十七歳の使用人が「ひとりで食べるご飯ってさみしい。私、友達いないから。」とクライヴの腕に絡みついてきたのが始まりだった。

屋敷で一緒にご飯を食べさせてやりたいと言えば、ルイは苦笑いで受け入れてくれた。

『ハーレ様にあのような顔をさせるとは……百万回殺しても足りぬ』
『ハーレルイは男を見る目がないな』
『ハーレ様に落ち度があると?鏡の分際で知ったような口を』
『事実だろう』
『貴様!ぶち壊してくれる!』
『壊せば続きはどのようにして見るのだ。ふん。』
『あ!こら鏡!お前の顔などいらぬ!ハーレ様を出せ!』
『シトロン。静かにしないと追い出しますよ。』
『!』(オレンジ色がブルーに)
『ハハハハ!』
『ベルダ。ルイがいない間この部屋を掃除しているのは誰ですか?鏡を磨いているのは誰でしょう。』
『……。』(グレーテルがいない日々、埃まみれになっていた視界を思い出す)

ベルダの顔がぐにゃりと歪む。揺れるPHV馬車が映る。

遅くなった帰り道は危ないからとPHV馬車動力が機械の馬車で社員寮まで送っていると、彼女が僕を好きだと、気持ちが抑えられないと言うのでつい、抱いてしまった。ワンピースからあふれんばかりの巨乳は僕の手の中に収まりきらない……僕は何度もPHV馬車で彼女を抱きまくった。というクライヴ目線の妄想が画面に垂れ流されたが、その場面はシトロンによってグレーテルの目は塞がれていた。勿論音声をベルダが流すはずもない。

ある日、巨乳がルイを呼び出して言った。別れてほしいと。ルイはため息を深くこぼした。

次の日、巨乳はいなくなっていた。

「あれぇ~あの、なんだっけ、田舎から出てきてた、親に仕送りして頑張ってた子が最近見かけないなーなんて、いや別に気にしてるとかじゃなくて、田舎から出てきて大変なのにどうし」とここまで言ったクライヴに、お金を渡したら田舎に帰ったとルイが返してこの話は終わった。



息子を授かった。

『ハーレ様に少しも似てないな』
『珍しく意見が合うな。子供は嫌いだ。』
まだシトロンが小さい頃、いじわるな人間の子供に殺されかけ、ルイに助けられた過去があった。ルイと再会した時は、仲間がルイに救われたと言ったが、ルイに助けられたのはシトロン自身だ。
『シトロン……ごめんなさい。』
キュイユッ
画像が一時停止状態で止まる。

グレーテルは小さな女の子なので、何かを察して身を縮めている。
ベルダが無言で画像を止め、シトロンの出方を待っている、圧がすごい。
『……………………グレーテルはすきだ。』
『私もね、シトロンもベルダも大好き。』
一時停止されていた画像が動き出す。

生まれたばかりの赤ん坊を抱くクライヴ。

小さくて、よくこんな小さいのが生きてるなと驚いた。しかも泣き声がすごい。息子が小さいうちは寝室は別にしようと提案した。寝不足で仕事にならないからな。

笑うようになると、とても可愛い。よちよち歩きで俺の後ろをずっとついてくる。仕事に行く時はガン泣きされて参った。

浮気はもうしない。

はずだったんだけどな。

俺は巨乳に弱いらしい。友人のパーティでドリンクを配っていたウサギ耳の女の子。副業の店舗の巨乳客。取引先の爆乳スーツ。

現場を見られたり、罵り合いにまで発展したり、その度にルイは。厄年が終わるまでとりあえず我慢してみようとか。三十代から四十代の境目は多くの男が進退に悩むという論文を僕の為に集めたり。夜中にこっそり泣いているルイに、もう無理、愛されてないなら別れた方が楽になれる、離婚すれば愛されていない事が当たり前になる、愛されていないと泣かなくて済むでしょう?寂しそうに微笑むルイに、いよいよ俺は捨てられると覚悟した。
次の日、愛人達と手を切った。もう浮気はいい、とルイと酒を酌み交わした。

穏やかな、じんわりと心に甘い記憶がルイと僕の間に重ねられて、このまま二人同じ時を過ごしてゆくのだと。クライヴは疑いもしなかった。

息子に可愛い婚約者が出来るまでは。

甘えん坊で、すぐに泣く。機嫌が悪いと思ったら満面の笑顔で踊ったり。見ているだけで癒されるようだ。肌もすべすべでいい匂いがする。

それに比べて年をとると寝起きの加齢臭が特に臭い。ルイは口うるさいくらい話しかけてくるから見ているだけで疲れる。いつだったか、お前といても癒されない、俺はどこで癒されればいいんだ。と酒の勢いを借りて吐き捨てていた。酔いが覚めればどうにも居心地が悪く、屋敷から足が遠のいた。

『またか。もはや病気だな。』
『ハーレルイが甘やかすからつけ上がるのだ。実に不愉快だ。』
『ベルダはまるでクライヴに嫉妬しているように聞こえますがそんなはずありませんよね?』
『なんだと?!鏡が?』
『ハーレルイなどどうなろうと知らん。くだらん。』
『だそうだぞグレーテル。鏡などにハーレ様の素晴らしさがわかるはずもないのだ。』
『そうでしょうか。』
『『そうだ』』

クライヴの息子の結婚式は海辺の教会で行われ、通りすがりのオープン馬車屋根のない馬車が祝福のラッパを鳴らした。

息子が結婚してからは息子達の屋敷に度々泊まるようになったクライヴは、ルイに内緒で可愛い嫁にお小遣いを渡した。

外泊についてルイは仕事だと言えば何も言わないので、週末だけ屋敷に帰って平日は息子のところで寝泊まりするようになり、仕事から帰ると出迎える息子の嫁がとても可愛いかった。

いくら金を払ってもいいから、こんな可愛い嫁と一緒にいたいとすら思う。ルイは田舎でゆっくりしたいと言っているし、どこかに棲家を与えて静かにしていてもらおうと思った。お互いにその方がいいと。

たまには母さんのとこでゆっくりしたいという息子と嫁を連れて週末帰ると、ルイはキレた。

『しゃっ!』
『ハーレルイ!』
『……。』

部屋に閉じこもるルイは放っておこう、面倒臭い、じゃなくてそのうち頭を冷やして出てくるだろう。クライヴはまたいつも通り、ルイはひとしきり泣いたら気が済むだろうと軽く考えていた。

踊りませんかと無邪気に笑う嫁に誘われて、久しぶりに若い女とステップを踏んだ。まだまだ俺もイケる。

弾むステップにくるりとターンした。

足が止まった。足どころか、身体から魂が抜け出たかのようにピクリとも動けない。なぜ僕はこんな大事なことを忘れていたんだろうか。

すぐそこに、僕の記憶の中の、世界一強い魔女がいた。

『きた!ハーレ様!』
『うむ。ハーレルイ。それでこそ私の』
『私の?』
『の……』

「解除」
魔女の口から放たれた言葉はクライヴの右手の指輪を奪った。

記憶の中の美しい魔女があの日囁いた「私の愛」がクライヴの中から消えていくような、肩が重くなるような違和感に襲われる。

「君は……。」
頭の中が真っ白になった。何が起きた?クライヴはルイの艶(あで)やかな美しさに言葉さえ失う。
「……全部夢だったのよ。」
思考の外で話し続けていた魔女の言葉が頭に流れ込んできてハッとした。
夢?
そんなわけない。目の前にいる君は、僕が愛した世界一の魔女ハーレルイなんだから。

「父さん、誰?」
ハーレルイから冷ややかな視線を受ける息子が僕に問う。

息子の嫁は不機嫌にぶすっと頬を膨らませて僕の腕に絡みついている。

ハーレルイの、どうでもいい、というあの懐かしい顔が背を向ける。

ただその無関心は落ちぶれ貴族だった僕ではなく、何度もルイを裏切り続けた男に向けられたものだと瞬時に理解した。

「ま、待ってくれっ!」
ハーレルイの後ろ姿が蜃気楼のように消えていく。

全ては一瞬だった。

金色の腰まで伸びた髪。白く細い四肢と輝くエメラルドの瞳。

ついさっきまでは確かに僕のものだったハーレルイは、何もかもを捨てて消えた。

ふと、壁に掛かる姿見鏡が目に入る。白髪だらけの艶のない髪と、垂れた瞼やむくんだ頬にシワとシミ。やけに腹だけがぽっこりと膨らんだ上半身と。ズボンの股には、四十代半ばからピタリと止まらず漏れ出た汁がシミになって、ジッパーが開いていた。

慌ててジッパーを上げる。

気まずそうに僕から離れる嫁と息子は帰っていった。思えば息子はルイと出会った頃の僕と同じ年になっている。母親がいなければならない年齢はとうに過ぎた。

ルイは僕と息子を捨てたんじゃない。見限ったのだ。

静まり返ったリビングに、クラシックレコードが自動で切り替わる。神秘的なピアノの音が、初期のロベルトが書いたソナタ風幻想曲は約三十分間、僕の涙が枯れ果てる前に途切れた。

ガガガ

音が飛んで、また始めから繰り返される幻想曲は、あと少しというところで音が飛ぶ。

『ハーレ様はお優しい。うんうん。罰も与えずにただ静かに立ち去るだけとは。』(腕を組んで自問自答する大精霊)
『見るのも嫌だったのだろう。それでこそハーレルイよ。』
『素敵な曲ですね。泣きたくなるような。』



クライヴの破滅はすぐに始まった。

ハーレルイにつかえていた使用人達は皆辞めた。
「奥様のいないこの屋敷には何の未練もございません。」
お金だけでは人が居付かないことをこの歳になって知るとは。

常連客も離れた。クライヴ一人では手が回らない、目が届かないところでサボる従業員が増えたからだ。
「手抜きしてるよね。あはは。隠してもわかるって、バカにしないでよ。」
従業員の希望や不満を聞くのは面倒だし金にならないのでルイに押し付けていた。彼女が居なくなってそれが大事な事だったのだと知った。

取引先は飛んだ。賄賂の中抜きが酷くやってられるかと書き殴った手紙を残して。
「支払いは済ませた後なんだぞ?!今までこんな事は一度だってなかっただろう?!契約書はどこだ、ちくしょう!」
清書や整理整頓はルイが片手間に済ませていた、そんな事が仕事に影響を及ぼすとは思ってもいなかった。

何故だ。僕はいつからこんなポンコツになったんだ?ルイがいた頃は……。

いや、僕は、最初から、こういう男だったじゃないか。

僕の親だって、僕にそっくりの。

「貴方。建前と本音が入れ替わってますわ。本音を隠してくださいまし。」

「恩を仇で返すんですか?今止めれば、また初めから信頼関係を築く事からになりますよ?」

今ならわかるよルイ。

ルイは、口うるさく、いつも僕の為に、自分が嫌われる事よりも僕の為にと思って言ってくれていたのに。

ルイと一緒にいた頃は、ルイの言うことを真っ直ぐ受け止めていられたのに。いつから、ルイの言うことがうるさいと思うように?

息子や嫁がルイはうるさいと嘲笑い、避けるようになったのはいつからだ?

僕が他の女と付き合うようになってからか?

僕が、ルイを裏切ってから?

ルイと出会って、僕は、僕の……幸せそうに微笑むルイの笑顔が、苦笑いに変わったのは、いつだ……。

剥がされるカレンダーが逆再生されるように過去映像が脳内再生される。

初めて二人が結ばれるベッドの中で「今日だけ?」と焦らすルイ。

二人が出会った浜辺に、粘液だらけで笑うルイ。

お祖母様助けて……もう一度だけ……世界一強い魔女様助けてください……。

けれどもう、その薄汚れた息からは、薄汚れた息しか出てこなかった。

泣き崩れるクライヴに手を差し伸べるルイはもういない。

ケケケケケケケカカケケ
クライヴの体がビクリと強張る。

それは山脈から領地に響き渡る聞き覚えのある鳴き声だった。


『相応しい末路よの』
『さて。ああ、ハーレルイがひと仕事終えて一旦帰ってくるようだ。明日の朝に帰るとの伝言だ。』
『ひと月ぶりですね!やった!』

ログハウスに、瘴魔の森に、賑やかな声が響く。

ハーレルイが帰ってくると、リスや小鳥達が噂する。

ハーレルイが帰ってくる。
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