真実は何色

にゃあちゃん

文字の大きさ
1 / 1

真実は何色

しおりを挟む
  朝日の眩しさで気が付いた貴夫は、空き地に居た。横たわっていた身体を起こそうとした貴夫であったが、痛みがある事に気付いた。そしてうろ覚えの記憶が甦ってきたのだ。昨夜、この空き地で殴りかかってきた奴がいたことを・・・・・・。
 最近貴夫は、この近くの王子のアパートに一人で住む事になった。なぜなら妻子と別れたからであった。この王子には、祖父の時代に来たのだと聞かされていた。来たのは関東大震災後と聞いていた。そこで町工場を営んでいたのだ。父親の恒夫も祖父の後を継いで、仕事をしていた。こんな家族経営でもあり、貴夫は離婚後、のらりくらりとしていたのだ。ただ一人気楽にしていた為、工場に行かなくても、何の心配もされなかった。誰にも相手にされなくなった貴夫は、面白くなくなり、毎日お酒を浴びるほど飲むようになっていた。
そこで昨夜のことを思い出しながら、家に辿り着いた頃には、完全に朝を迎えていた。眩しさであまりはっきりと目を見開くことができなかった貴夫は、アパートの扉を開け薄暗い室内に入った時に、自分の目を疑った。確かに、昨日穿いていたはずのデニムパンツの色が変わっていたのだ。この部屋から出る前、ネイビーカラーを身につけた事をはっきり覚えていた。それなのに、なぜかブラックに変わっていたのだ。元々昼間でも薄暗い部屋に、貴夫は、電気をつけてよく見る事にした。すると、自分が間違いなくネイビーを着けていた事がわかったと同時に、この不気味に変わってしまったこの色が、血である事もわかった。慌てた貴夫は、パンツを脱ぎ捨てたが、どこも怪我はしていなかった。怖くなった貴夫は、裸になり落ち着く為に、そのまま風呂へ入った。全身どこを隈なく見ても、多少の傷はあったが、血がにじんでいる事もなかったのだ。しかし、打撲はあったようで、かなりの痛みはあった。いったいあの血は、誰の血なのかと思ったが、昨夜のチンピラのものであることがわかった。他人の血で埋めつくされたデニムは、血で完全に黒に染まっていたのだ。出血多量になった相手のチンピラが心配になったが、仲間が四人程いたので、大丈夫かと思い直した。あの戦場となってしまった空き地には、たった一人貴夫が取り残されていただけであった事もあり、大丈夫であろうと思うようになっていった。しかし貴夫は、この辺りでは少し有名人であったのだ。幼少期の頃より、格闘技愛好家である貴夫は、誰よりも強かったのだ。そんな貴夫を相手に喧嘩してくるものもいなかったくらい強かったのだ。その為、喧嘩は一度もしたことがなかったが、昨夜初めてした喧嘩がこんな事態となってしまったのだ。貴夫の昨夜の記憶は、一方的にチンピラが手を出してきたのだ。相手が五人いた為、手を上げざるを得なかった。しかしお酒を飲んでいた為、どこを殴り相手に何をしたのかさえも覚えてはいなかった。この部屋に一人いる事が、怖くなった貴夫は、工場に行く事にした。
 久しぶりに出勤した貴夫に「お酒を飲んでいないのか?」と恒夫が聞いてきた。妻子と別れた理由が、この酒であることを知っている恒夫は、貴夫の顔を見る度に確認してきたのだ。毎日のように聞いてくる恒夫が嫌になり、工場に行かず部屋で一日飲んでいたのだ。しかし、知らない他人の血を見た貴夫は、自分が何をしでかしたのでさえもわからず、ビクビクと怯えていた。間もなくお昼になり、少し進んだ仕事を貴夫は止め、母親民子の作った食事を取る事にした。ここ数日、まともな食事を取らなかった貴夫は、お酒しか受け付けなかった胃に、負担をかけることになるが、ここは頑張って食べる事にした。今まで、有り余っていたエネルギーで、勢いよく話していた貴夫であっが、この日だけは何かあったのかとわかるほど、いつもと違う蚊の鳴くような声で、会話をしていた。
 そんな声を心配して「何かあったの?」と民子が聞いてきた。「何でもない」と貴夫は、ボソボソと言った。その生気のない声に反応したのが恒夫だった。恒夫は「何も語らないことが何かあった証である」と貴夫に諭した。
「では、何かあったが、今は言えない」とだけ貴夫は返した。貴夫は、あの出血の量を考えたら、例え死に至ってなくとも傷害罪に問われる事はわかっていた。しかし、あのチンピラが、どこの何者かもわからない貴夫は、この後人目を気にして生きる事にしようと思っていた。夕方まで何とか仕事をやり切った貴夫は、夕食まで実家に居る事にした。それから、疲れ切った貴夫は、かつての自分の部屋に入り、物色していた。若い頃、被っていたキャップを探し出した。貴夫は頭の中で『この他に、メガネをかけマスクをつけたらいいか』と思っていた。変装しないといけないくらい、自分がおぞましい事をしたのだと自覚した。
 夕食を食べた貴夫は、自宅アパートに戻った。その直後のインターフォンの音に怯えていた。何度となるインターフォンの音に反応しないつもりだったが、電気も点けており、誰がどう見ても居留守がバレているのではないかと思い、出る事にした。『第一声の警察です』という声にどう応えようと思い巡らせていた貴夫は、逃げ切れる訳ないと思い観念したかのように「お待たせしました」と大きな声で言った。そうしたら「家賃払って下さい」と大家さんが来たのだ。家賃の事を忘れるくらいお酒を飲み続けていた貴夫は、手元に現金がないことを伝え「明日持っていく」と応えた。すっかり気が動転していた貴夫であったが『なんだ!警察違うのか』と思わず口に出しかけていたのだった。難を逃れたかのように思えた貴夫は、一瞬気は緩んだが、あの大量出血の主が今どこで何をしているのかが気がかりのままであった。眠れない貴夫は風呂に入ったが、余計に目が冴えてしまい眠れない一夜を過ごした。
 朝方少し眠ったようであったが、日の入らない薄暗い部屋に、少しだけビルの谷間から入った日が、やけに眩しかった。いつもなら、こんな淡い日差しが眩しいと感じる事すらなかったのだ。人目につきたくない貴夫の思いは強くなり、影の人生を生きたくなっていたから、このように感じたのであろう。
 お金を持っていない貴夫は、朝食をいただきに実家へ向かった。それだけでなく、大家さんに支払う家賃も借りに来たのだ。貴夫は、全ての現金を妻子に渡したため、一銭も持っていなかったのだ。例え貴夫が持っていても酒代に消えるのなら勿体ないと思い、全て渡したのだった。この事を知っている民子は、家賃代を何も言わず渡してくれた。その時民子に「家賃代勿体ないからここに住む」と貴夫が言った。「そうしたら」と民子は応えた。  
 離婚後、アパートの一室を借りたのには、理由があったのだ。貴夫は、お酒をやめるつもりは一切なかったのだ。この部屋で、誰の目にも触れず一人で飲みたかったから借りた部屋だったのだ。こんな理由で借りた部屋であったが、こんなおぞましい現実に耐えられず、酒をきっぱりとやめたくなったのだ。もう飲まないと決めた今、この部屋は必要なくなったのだ。それならば、その家賃代分養育費を渡した方がいいと思った。実はこの回答は表向きで、本当は一人であの部屋にいると怖かったからなのだ。インターフォンの音が怖いと初めて想った貴夫は、あの恐怖を一人で体験する事が怖くてたまらなかったのだ。
 朝食を済ませた貴夫は、早速大家さんの元へ行き、退去することを伝えた。実家のトラックに荷物を積み込み、そうそうに引っ越しをした。荷物はそれほどなかった為に、昼食前に終わった。恒夫から「何をする為に借りたのだ」と嫌味を言われたが「勿体ないから」とただ返した。今日になっても、例のあのニュースが流れる事はなかった。そんな現実に安堵したかった貴夫であったが、あれだけの怪我をして病院に行かないという事は何を意味するのであろうと不安になった。確実に病院へ行けば、どうしてこうなったのかと医師に聞かれるであろう。そうなると、その殴った犯人が存在する事になる。やはり、あの大量出血の主が気がかりになるのだった。
 その後も、何の音沙汰もなく月日は流れ、貴夫は王子断酒会に所属し毎日の断酒をこの会の者たちに認めていただき断酒を続けていた。断酒ができるのは、仲間がいるからできるというこの断酒会は、温かかった。しかし、このぬるぬるだけでは断酒が難しい一面もある中で、貴夫は積極的に仲間を励まし続けたのだった。最初から『一年断酒しろ』という言葉は難しくきこえるものであるが「一日断酒」を繰り返すことを仲間に伝えていった。そんなこんなで貴夫は、一年断酒に成功した。
 この事を風の便りで知った元妻の恵子は、いきなり連絡してきたのだ。「再婚したい」と言ってきたのだ。この言葉に喜びを感じながら、あの例のおぞましい事件から一年経った現実に少し戸惑っていた貴夫であったが、何かあっても怖いと感じ、実家で家族と暮らす事にしたのだ。
 こうして、再婚した貴夫は、今も断酒会を続けていた。この会は、命が尽きるまで付き合う会であるからなのだ。それが仲間である。この仲間がいるからやめ続けられるこの会の大きさは、絶大であった。この再婚を機に、恵子も断酒会家族会員となり、一緒に頑張ってくれる事になった。
 それから暫くして、貴夫は工場の経営も任されるようになった。その頃、貴夫と恵子との子どもである幹夫が小学校へ入学した。入学式に出席した貴夫は、びっくりした。都会的な洗練された校舎が、少し羨ましいと感じたくらいの立派な建物がそこには建っていた。こんな生活が待っているとは思っていなかった貴夫だったが、いつどこであの例の事件がニュースになるかもしれないと思うと恐怖でしかなかった。折角の入学式だというのに、チンピラの顔を知らない貴夫は、恐怖のあまり顔を覆い隠していたのだ。逆に怪しい人と思われていた貴夫であったが、どこの誰とわかる方が怖かったのだ。もしかして、幹夫にもその恨みが向かってしまう恐れもある為、気が抜けなかったのだ。こんなビクビクする貴夫に対して、恵子は「この一年で何か言えない事があったの?」と尋ねてきた。「何もないよ」という声も震えていた為、恵子は何かあったのだと思っていた。
 幹夫の晴れの日であったが、貴夫の不可思議な態度に可笑しいと思わざるを得ない恵子は、落ち着かない日々を過ごしていた。どうしても、恵子の知らない貴夫を知りたくなった。毎週集う断酒会でそっと、何かここで話をしていないか尋ねてみたりもしたが、結局のところ恵子の知っていた内容ばかりであった為、何の手がかりも見つからなかった。
 あれから二年が過ぎていた。相変わらずビクビクしている貴夫であったが、理由は誰にも話していなかった。ある時、傷害罪の時効を知る事になった。あと八年間なるべく隠れて生きようと思った。そんな目安と言える人生の壁が貴夫に現れたこの時、警察の者が来たのだ。行方不明者を探しているとのことであった。貴夫に来た理由は、かつて格闘技をしていた時の写真が、行方不明原田の自宅に貼ってあったからという事であった。全く見覚えのない顔に「知りません」と貴夫は応え帰っていった。
 あの時は、確かに知らないと応えたが、もしやと思った貴夫であった。この後嫌な汗が出てきた貴夫は、ブルブルと震えだした。この様子に恵子は「何かあったんだね」と言った。しかし全く記憶のない貴夫には、話す事は断片的であり、相手の名前に関しては、全くわからないと伝えた。貴夫は「一方的に殴りかかってきたのは、あいつらだから」と恵子に念押した。恵子は、行方不明の原田が無事に生きている事を願った。
 あれから、音沙汰なく貴夫は、家族と過ごしていた。貴夫の仕事も断酒も順調で、幹夫は、中学三年になっていた。幹夫は、幼い頃よりこの町工場を継ぐと言っていたが、他にやりたい事も出来たようで、進学校を受験する事にした。貴夫はこの気持ちに賛成であった。いや、むしろ応援していたのだ。幹夫は毎日のように、冬期講習に通い受験に備えていた頃、あのチンピラの方に動きがあった。勿論、動きがあったのは行方不明の原田ではない。原田以外で動きがあったのだ。あのチンピラの中に、政治家の息子がいた。その彼は、都議会議員の息子の友晴であった。父親より突然選挙区を託されたのだった。友晴は、頭の中で原田の事が気になっていた。この原田の事を知っているのは、あのチンピラの中の佐々木と中原であった。もう一人慶介がいたが、先に帰っていた。この犯行を知っている佐々木と中原に、友晴は折衝しだしていた。
 早速、友晴から連絡を受けた佐々木と中原は、喫茶店で会っていた。友晴は、選挙に出馬するなど一切言わなかったが、この佐々木と中原は、友晴と幼馴染であった為、父親が政治家であることを知っていたのだ。たわいもない会話をしていたが、ランチを奢ってもらっていた佐々木と中原は、お腹も満腹になり帰る事にした。
 あれ以来、この三人は会っていなかったが、佐々木と中原だけは、慶介と交流していた。確かに、佐々木と中原もあれ以来、慶介とは会わないようにしていた。その会うきっかけとなったのが、八年ほど前貴夫の家にも来た警察の一件からであった。原田の行方不明という知らせに驚いた慶介が、佐々木にこの件について知っているかという問い合わせからであった。佐々木はその時「何も知らない」と言っていた。中原は「病院に連れて行ったあと、実家に送ると言ったが断られ、その後のことは知らない」と嘘をついていた。慶介は原田とは中学からの親友で自宅も近かった。その為、この二人の説明に納得していなかった。かなり穿鑿してきた慶介だったが、中原は口が立つ奴で、上手く慶介の話を交わしてきたのだ。しかしある時、冗談交じりで慶介が「もしかして、山に埋めたとか」というひと言をいってきた時に、根が真面目な佐々木の目が泳いでいた。その事に気付いた中原は「何言ってんねん」と関西弁で咄嗟に返した。この時、慶介が佐々木の泳いだ目に気付いていないことを願っていた中原は、突然交流しなくなったら慶介が「可笑しい」と感づく為、この三人は交流を続ける事にしたのだった。
 あれ以来、完全に交流しなくなっていた友晴からの連絡が嬉しくなり、この事をつい慶介に、佐々木は話してしまったのだ。看護師として真面目に働いてきた慶介だったが、裕福な家庭の子と思っていた友晴に、以前のように遊び金を奢って欲しくなったのだ。慶介には、父親が政治家であることを言ってなかった友晴は、たまたま佐々木と中原と遊んでいた時に、一緒にいた慶介と原田にも奢っていただけであった。友晴は、進学校の高校へ入学して、それまで仲の良かった佐々木と中原と離れる事になった。その離れた佐々木と中原が通っていた高校で、慶介と原田に出会ったのだ。友晴にとっては、あまり交流のない慶介にわざわざ声を掛けてまで奢る必要性はなかったのだ。それなのに「慶介が一緒に遊びたがっている」と佐々木が友晴に伝えたのだ。中原は「最近、原田のことを聞いてくるようになってきた」と友晴に連絡した。それから数日後、佐々木と中原は、友晴が今忙しくしており、会えないことを伝えた。
 あれからちょうど十年を迎える三カ月前になっていた。季節は二月に入り、幹夫の受験が始まった時のことだった。約八年ぶりに警察が再び貴夫の工場にやってきたのだ。『あと三カ月後に来てほしい』と言いそうになったが、一旦手を止めて話を聞くことにした。その側にいた恵子もドキドキしながら、聞き耳を立てていた。警察から「あの行方不明の原田さんまだ見つからないんです」と話してきた。そして「原田さんは、貴夫さんが憧れの人だったようです」と言葉を続けた。貴夫はファンの子だったんだと思ったが、いきなり殴りかかられて、ファンであると言われても、本当に迷惑な話しであった。この時、同じタイミングで友晴のところにも警察が来ていたが「選挙に出馬されるんですね」と言って帰っていった。同じく、佐々木と中原と慶介のところにも来ていたが、誰一人貴夫に喧嘩を売ったことを言わなかった。原田をはじめ貴夫のことをみんな認識して、あの日喧嘩を売っていたことになるのだった。
 三月になり、幹夫は進学校に合格して中学校を卒業する事になった。卒業式に念の為、マスクをして貴夫は出席した。この頃には、あと二カ月を切っていた。このまま何事もない事を祈りつつ、貴夫は中学校をあとにした。すると「貴夫さん」と追いかけてくる人がいた。一瞬だけ門扉のところで幹夫と写真を撮る際に、マスクをはずしていた。その時、貴夫の顔を見たこの男が、声を掛けて走ってきたのだ。ビックリした貴夫は「どちらさんですか?」と少し不機嫌な声で言ってしまった。よく見ると、一学年下の後輩安田であった。人を避けてきたこの十年、表で顔を出すのは、断酒会だけと決めていたのだ。断酒会の者は、たいてい何かしら捕まった者も多くいるからだった。一番多いのは飲酒運転。飲んでいても運転できるという変な自信が湧いてくるのだ。運転中、依存症特有の離脱症状が出てきた為、手が震えてくる。この震えが起こるのは、身体のアルコールが抜けていく時に起るものであった。その震えを止めるのに、酒を薬のように想い、一瞬の震えを止める為に追い酒をする。しかし、そんな自信に満ちた運転も睡魔に襲われ、事故を起こしてしまう。そこで飲酒運転が発覚して、免許が停止ないし取り消し処分となってしまうのだ。こんな繰り返しをする中で、ドライバーであった者は職を無くし、職を失くしたことで家族だって失くしてしまう。このような自暴自棄にあった十年前に、貴夫の人生は狂いだし、あのおぞましい事件が起こったのだ。貴夫は、自営業であった為に、職は失わないで済んだが、他の者はたいてい職を失っていた。断酒会の仲間には、料理人だっていた。職場で包丁を握る手が震える為、その震えを止めるのに、追い酒をしていたのだ。そんな断酒会の仲間のことを、貴夫は家族のように思っている。この仲間がいなかったら、どこかで野垂れ死んでいたかも知れない。こんな恐怖と背中合わせの人生に、終止符を打たせてくれた一件があの日だったのだ。
 ところで安田であるが、高校時代同じ部活の後輩であった。その頃から、格闘技の世界で有名であった貴夫のことを尊敬していたのだ。この安田と同様に、貴夫のことを崇拝している者は多くいたのだ。恐らく、その内の一人として原田もいたのであろう。この十年影を潜めていた貴夫であった為に、同じ学校に子どもが通っていたことすら安田は知らなかったのだ。学校関係の事は、すべて恵子に任せていた事もあり、すっかり雲隠れ状態になっていた。あの日の話を今は出来ない貴夫は「ゴールデンウィーク後に工場に来てほしい」と安田に言い、早々に別れてしまった。
 あの日から、十年まであと一カ月を切った四月、幹夫の入学式があった。この日は、眼鏡とマスクをつけて貴夫は出席する事にした。さすがに進学校だけあって、生徒の親も上流階級らしき親の姿が目立っていた。この学校関係者ならば、あのチンピラとは縁もゆかりもなさそうに思え少しホッとしていた。そんな時「貴夫さん」と声をかけられたのだ。ビクビクしながら後ろを振り返ると、安田が立っていた。「お前の娘もこの学校だったのか」と貴夫は言った。前回卒業式で会った時に、『ゴールデンウィークに会いに来て』と言っていたが、まさかのここで会ってしまったのだ。今日は、眼鏡にマスク姿である貴夫のことを怪しく思っているのではないかと、変な穿鑿をしながら「何かあったんですか?」という安田の言葉に「ゴールデンウィーク過ぎたらな」と返した。恵子は「待っています」と安田に言った。
 高校生になった幹夫は、この安田とのやり取りを聞いていた。何かあった事に気付いた幹夫は「お酒飲んだの?」と尋ねてきた。見当違いの幹夫の言葉であったが、断酒会の仲間であると安田のことを勘違いして、あと一カ月で断酒して十年になる為に、ここにきてお酒を飲んでしまったのを隠していると思い込んでしまったようであった。その言葉に貴夫は「お酒は飲んでないよ」と返した。これ以上何も聞いてこないことをいいことに、あとラスト一カ月と指折り数えて、あの日が過ぎる事を貴夫は願っていた。
 気がつくと、ゴールデンウィークに入っていた。明日で、あの日から十年が経とうとしていた。朝のニュースで、あの空き地で昨夜殺人事件があった事を知った。恵子も同じニュースを見ていた。貴夫の驚いた顔に、恵子は「ここだったの?」と聞いてきた。恵子は貴夫のアパートの住所を知らなかった為、その現場については詳しくは言っていなかった。しかし、明日を迎えるにあたってのこの事件。何か嫌な気がしていた貴夫であったのだ。
 お昼になり、ニュースで先程の空き地での続報が流れた。被害者の写真と名前が出ていた。貴夫には全く見覚えのない顔であったが、もしや、あの時のチンピラの一味であったのなら・・・・・・と、ラスト一日の不安がここにきて大きくなっていったのだ。貴夫は喉が通らなくなっていた。朝食は、先に済んでいてからのニュースであった為、何事もなく食べられたが、昼食の頃にはますます不安が増して、手の震えが止まらなくなってきていた。その貴夫の見覚えのある手の震えに、幹夫は「やっぱりお酒飲んでしまったんだね」と尋ねてきた。ここにきて説明する方が怖くなった貴夫は「そう、ごめん」と適当すぎる言葉であったが、本当の理由を説明するよりも、手の震えについての理由を説明した方がましだと咄嗟に思ったのだ。目前の断酒十年であったが、幹夫には飲んだ事になってしまった。それもあと一日、何事もなかったら明日訂正すればいいと安易に思っていたのだ。 
 貴夫の手の震えはますます酷くなっていたが、それだけでなく、心の方が大きく揺らいでいたのだ。急に心臓が締め付けられた想いをした貴夫は、ソファーで寝込んでいた。恒夫が朝のニュースから可笑しいと感づいていたが、十年前の事なのかもしれないと思い、何も聞かずにいた。いつまでも落ち着かない貴夫は、工場に行って仕事を始めていた。一人にするのを恐れた恵子は「一緒に行く」と言って自宅を出た。工場と言っても同じ敷地内であったが、約あと半日無事を祈っていたのだ。
 黙々と仕事をしていた貴夫の元に、午後三時過ぎに警察の者がやってきた。昨夜の被害者が、以前あの行方不明の原田と十年前の当時、つるんでいた仲間であることを知らされたのだ。被害者の名前は慶介だという。しかし、あの時のチンピラの記憶は全くない貴夫は「知らない」と変な汗を描きながら応えた。今回の被害者慶介の部屋からも、貴夫の写真があったらしかった。その写真の横に『やっぱり強かった』と感想が書き添えられていたようなのだ。警察の者は、八年前の当時貴夫の元へやってきた時、この被害者の慶介のところにも行っていたことがわかった。何の情報もないまま警察の者は帰っていった。貴夫は、恵子の顔がこの時、青ざめていたことに気付いた。その顔を確認しに、もしかして警察の者が来たのかもしれないと勘ぐった。これ以上、仕事すら手につかなくなった貴夫は、一旦自宅へ戻る事にした。リビングに戻っても幹夫にバレてしまうことを恐れた貴夫は、そのまま恵子と寝室へ向かった。入った途端恵子が「明日あの時の事を話そう」と言った。明日なら、十年という時効を迎えているからであった。あの時の事を話す決意のついた貴夫であったが、食欲が出る事はなかった。そんな貴夫を見た恵子は「外食にしようか」と言った。二人でリビングに行き「外食するよ」といつもより大きな声で貴夫が言った。その声に安心した民子が「工場で何かあったの?」と聞いてきたが「うん」と頷いた貴夫であった。何とか食事を済ませた貴夫は、早く寝る事にした。恵子はそんな貴夫の寝顔をいつまでも見ていた。こうして不安な一夜を恵子は、起きたまま過ごした。
 あの時と同じ眩しい日差しを受けた貴夫は、断酒十年という節目を迎える事が出来た。その横で恵子は「おはよう」と言ってきた。ホッとした想いと起き続けた疲れで、恵子は倒れ込んでしまった。「大丈夫」と恵子は言い、そのまま深い眠りに入った。貴夫は、民子に恵子が眠っていることを伝えると「眠れない日々を過ごさせてしまい、申し訳ない」と言った。民子は、朝食の準備を一人でしてくれていた。幹夫が起きてきて「断酒十年出来た」と貴夫は伝えた。「どうして?」と幹夫は言ってきたが「大丈夫、継続していたから」と少し嬉しそうに言った。
 あっという間に、午前中が終わり、昼食の時間になったところで恵子が起きてきた。ひと言「よく眠れた」という恵子の言葉が嬉しくなった貴夫は「良かった」と言った。「今から簡単にお昼作る」と言って、恵子は作りだした。午後から警察に向かおうと思っていたが、心配していた安田のところに先に行く事にした。警察へは、恵子と二人で行く事になっていたので、貴夫を待っている間、恵子は十年前のあの日の事を、恒夫と民子と幹夫に話しだした。その頃、安田の実家で待ち合わせをしていた貴夫は、昨年亡くなった安田の父親の仏壇の前に座っていた。ここ十年間、断酒会の仲間以外、誰とも交流を持たなかった貴夫は、冠婚葬祭ですら足を運ばなかった。その席では、マスクをつけ続けることも困難を極め、だからといって、ずうっと下を向き続ける事も滑稽であり、それならば欠席する決断が最善であると思った事を、今更ながら安田に話していたのだ。それから、仏壇の前から居間に場所を移して、十年前のあの日の出来事を、記憶のある限り話していた。この話を聞いた安田は、まず、相手から手を出してきた喧嘩であるということ、そして貴夫は一人であった事もあり、かなり不利な立場。その時、貴夫本人がどれくらい殴ったかの記憶もなく、相手が五人いたことを考慮すると、あまりにも謎の多いこの件には、関わらない方がいいように思うと貴夫に伝えた。しかし度々、警察の者が自宅にくる事は、ご近所の手前いいようにとられない事もある為、これ以上関わりはない旨を、こちらから話しに行く方がいいと安田は言ってきた。安田の考えに賛同している貴夫は、この後、恵子と二人で行く事を伝えた。
 家族がすべてを知った自宅に戻った貴夫は、たった一人で体験したおぞましいあの日の事を思い出して再び震えてしまった。正確に何が起こったのかさえもわからない貴夫に、事件性を想わせるデニムのパンツだけが残ってしまったのだ。その物がある限り自分がすべての犯人とされてしまう。相手のチンピラは確かに五人。居酒屋で飲んだ後、後ろからつけられている感覚はあったが、以前もそのようなことがあった為、ただのファンだと勘違いしていた。そうしたら、いきなり殴りかかってきた。一発目は、まだ酔いがさめずかわせなかったが、二発目はかわせた。しかし、この一発目の時に、頭を殴られ倒れてしまった時に、頭を強打した。すぐに立ち上がり、二発目がきたが、そこまでは意識があったから、かわせたのであろう。それ以降、意識はあったが、頭を打っていて記憶がない。このあとは正確に覚えていないが、うろ覚えの記憶では、最終的に二人ないし三人で殴られていたような気がする。身の危険を感じて、思わず一発は本気で殴ってしまったという自覚はある。それが最後の一発となり、恐らく殴った後、そのまま倒れてしまったのであろう。朝日で目を覚ました時には、貴夫だけが一人空き地に居たことを話した。
 それから、恵子に伴い貴夫は、警察へあのおぞましい記憶の残るデニムのパンツを持っていった。
 警察では、事情聴取が始まった。貴夫は、あの日の行動をすべて話した。話し終わった結果、特に、事件性が浮かばなかった。おまけに、十年前の血液のこの主となる被害者が、加害者を訴えていない現在において、何もこの貴夫を留めておく理由はなく、とりあえずこのパンツに付着している血液が、原田の者であるのかを調べる事となった。
 それから、後日貴夫はあのデニムのパンツの血痕が原田の者であったことを知らされた。ここで、警察は動き出した。実際はあの血痕が、原田だけでなく友晴のもあったことがわかった。その為、十年前に原田と会っていた事実がある友晴のところに行き、事情聴取していた。時を同じくして、佐々木と中原のところにも行こうとしていた。
 勿論、この数日前の慶介殺害の翌日にも、友晴と佐々木と中原のところに行き、事情聴取していた。この三人とも、慶介殺害の犯行を認めておらず、ただアリバイを聞くのみとなっていた。しかし、十年前に原田の大量の出血があったことを考えると、何かこの三人に秘密があるのではないかと思っていたのだ。その裏付けをしたく、アリバイを崩しにかかっていた。この三人の内、佐々木と中原にはアリバイがあったが、それでも十年前から行方不明になっている原田のことを聞かないといけなくなったのだ。今回の慶介殺人事件には、十年前の事件が絡んでいると睨んだ警察は、この友晴と佐々木と中原を徹底的にマークすることにした。
 その頃、佐々木と中原は会っていた。この二人の気持ちが合致し、この後行動を共にすることになった。その後、連絡の取れなくなった佐々木と中原を警察が追う事になった。佐々木と中原は、ひたすら西に向かった。目的地として、全く考えていなかったが、最終的に大阪を目指そうと思った。なぜ、逃げないと行けないかも定かではなかったが、逃げ続ける事にしたのだった。
 辿り着いた大阪の地で、あまりにも挙動不審であったこの二人は、警察官に職務質問されていた。その時二人は慌てふためき、逃げようとしてしまったのだった。その行動を起こしてしまった事が逆効果となり、事情聴取を受ける事になってしまった。
 佐々木と中原は、警察にも追われているであろうという前置きをして、本題に入っていった。
 あれは、十年前のゴールデンウィーク最終日の出来事であった。あの日は、みんなでお昼に集合して、ボーリングをしにいった。それから、友晴の車に乗り、ファミレスで遅めの昼食を食べた後、夕方までそのファミレスで時間を潰していた。そのあと、車で居酒屋に行った。この時、全員十八歳だったが、そこで飲酒をしていた。勿論、飲んでもいいという友晴の指示を受けて飲む事になった。慶介は、翌朝バイトが入っていた為、そんなに飲んでいなかった。生真面目な佐々木も酎ハイ一杯飲んだ程度であった。この二人が中心となって、これ以上飲む事を制止していたが、飲める原田を気に入った友晴は、逆に飲ませようとしていた。この二人が居酒屋で少し眠ってしまい、慶介たちは帰るに帰れなくなってしまった。酔いがさめるのを待っていた時に、貴夫の姿を見つけたということであった。原田の憧れの人だった為に、貴夫の居場所を確認しながら、起きる二人を待っていた。呂律が回らないままであったが、原田は何とか起きた。その後、おぼつかない足元であったが、何とか友晴は歩けそうであった。この二人に、貴夫が目の前にいる事を伝えると、急に目が冴えたようで「あとをつけよう」と友晴が言った。この後、貴夫が飲み終わるまで、この居酒屋で待つ事になった。居酒屋の客が、友晴たちと貴夫だけになっていた。今まで飲んでいた貴夫だったが、ここで眠ってしまった。原田は『おいおい』と突っ込みをいれながら、ひたすら貴夫が起きるのを待った。暫くすると、店員が「少し早いですが閉店します」と貴夫に言った。その言葉を聞いた友晴は、お会計を済ませ貴夫が出てくるのを待つ事にした。貴夫は、座りながらお会計を済ませ、ゆっくりと立ちあがり、フラフラと歩き始めた。原田は、憧れの貴夫がこんな姿になっている事が、だんだん許せなくなってきていた。原田の気持ちは、後ろから蹴飛ばしてやりたい気持ちであった。そんな想いが露わになった時、いきなりあの空き地で殴りかかってしまったのだ。友晴は、原田がそんなことをするとは思っていなかったが、勝手に売ってしまった喧嘩であったが、酔っていた貴夫は、身の危険を感じて、応戦してしまったのだ。貴夫のパンチ力は凄く原田が一方的にやられてしまいそうになり、佐々木や中原が止めに入った。
 しかし、その二人でも止められず、結局、友晴と慶介も仲介に入ったのだった。気がつくと、原田は瞼からの出血をしていた。かなり深く切ってしまっていた為、出血がひどく、当時看護学生だった慶介が止血をしてくれた。一方、貴夫は佐々木に一発殴ったあと、その場に倒れてしまった。勿論、死んでもいなかった為、その場に放置することにした。原田を止血した慶介は「原田を病院に連れて行って」と言い、その後帰っていった。慶介が帰った直後、病院へ連れて行こうと思ったが、同じタイミングで貴夫も病院へ行っていたら、自分たちの犯行である事が証明されてしまう為に、病院へ連れて行けなくなってしまったのだ。そうかといって、原田の実家にこの姿で届ける事も出来なくなった友晴は「山に行こう」と言い、友晴の車で佐々木と中原を連れて山に向かった。まだ生きていた原田だったが、友晴の納屋から持ってきたシャベルで穴を掘り、そこに原田を埋めた。疲れ切った三人は、ひたすらもときた道で帰っていった。
 あれから、友晴と佐々木と中原は、会う事すらなくなっていた。幼馴染であり実家が近所であるが、避けているかのように会わなかったのだ。しかし、佐々木と中原だけは、今までと変わらず会っていた。友人を埋めてしまうというおぞましいことをしてしまったが、これはあくまでも友晴の指示。こう二人は言い聞かせ、社会人として新たな人生を送りだしていた。そんな二人が、再び友晴と会うようになったのは、昨年末であった。あの時、友晴に呼び出された喫茶店で、佐々木と中原は現金を受け取ったが、何のお金かわからなかったが、幼馴染のよしみもあり、何も聞かずして、この時現金を二人して受け取ったのだ。その当時は、全く気にもしなかったが、慶介が亡くなった事で、何も見えなかった背景までもが見えるようになってきていた。その鮮明に見えた背景には、慶介を殺害した犯人が映されており、それが誰であるかがわかったのだ。怖くなった佐々木と中原は、逃げる事にしたのだ。そう、警察の者に語った二人であった。それから、二人から原田を生き埋めにした場所を聞いた警察の者たちは、その場所を掘り起こす事にした。
 この二人の筋書きを参考にした警察の者たちは、友晴を参考人として取り調べする事にした。友晴は、十年前に原田を生き埋めした事を素直に認めた。しかし、慶介殺害については認めようとはしなかった。このままでは、慶介の殺害容疑で逮捕されるかもしれないと思った友晴は、慶介が殺害された当日の行動を話す事にした。なぜなら、この日慶介と会う約束をしていた為に、その時間のアリバイもなく誰よりも疑わしい事が確実であったからである。実は、慶介が殺害される二日前に、友晴は慶介に待ち伏せされ、十年前に原田を生き埋めした事をSNSで拡散すると脅してきた。勿論ここで、お金の話しとなったが、ひとまずと言い、二日後に三百万円を要求された。このひとまずという言葉を言われてしまった友晴は、この先もお金を無心されると脳裏に浮かびつつも、この二日後指定された通り会う約束をその場でしたと供述をした。しかし、約束の時間にあの殺害現場となった空き地に行った時・・・・・・と話し始めた時のことであった。
その取り調べの最中に、連絡が入った。生き埋めされた原田の遺体が、見つからなかったという報告であった。警察は、この原田の遺体をどこかに再度友晴が遺棄したのではないかと問いただそうとするが、友晴はあの日以降、あの現場に足を踏み入れていないと言った。この時、友晴は原田が生きている事を確信したのだった。それから、先程の続きであるが、空き地に行った時には、慶介はすでに殺されていたと供述したのだ。
 警察の者から、友晴にアリバイのことを再び聞かれたが、それを証明する事ができなかった。そんな友晴に「やっぱり、お前の犯行ではないか?」と警察の者が言ってきた。友晴は「俺じゃない」と失望したように項垂れ、言い張った。再度、犯行を認めさせたい警察の者が「お前じゃないんだな」と言い、この日は帰らせた。
 今日わかった事実として「原田が生きているかもしれない」と佐々木と中原に友晴が伝えた。友晴は、幼馴染の佐々木と中原に裏切られたように思えて仕方がなかった。そんな素直な気持ちを、二人に投げ掛けた友晴は「俺、アリバイがない」と泣き崩れた。
 そこで地頭のいい中原が「友晴、お前はめられたのかも?」とボソッと言った。友晴がその人物に心当たりはなかったが、考えていた友晴に「原田だろう」と中原が答えた。
 原田は、生きていた。確かに山で埋められていたが、浅く掘った穴に入れられた為、そこから這い上がってきたのだ。酔った勢いであっても、崇拝している貴夫に殴りかかっていったのは事実であり、今、姿を現わしたら貴夫に迷惑をかけるかも知れないと思った原田は、雲隠れに徹していたのだ。この十年という年月、完全に表には出ないと決めた原田は、夜の街の仕事をしていた。完全に裏社会の仕事をしていた原田は、粛々と計画を進めていたのだ。あの日あの時、殺されかけた原田は生き返ったのだ。そして、生き返った原田は、友晴への復讐を考えていたのだった。どのような復讐がいいのか考えた原田は、慶介殺害犯行時間にアリバイのない友晴に、罪を被らせようと思ったのだ。なぜ、生き埋めにされた友晴を殺すのではなく、本来の天敵である友晴から慶介にすり替えた事が、今となっては疑問が残るままとなった。
 慶介を殺害した包丁は、政治家として活躍しようと思い開設した友晴の選挙事務所で見つかったのだ。この事実が公となり、友晴の人生には汚点がつき、誰からも信用されなくなった友晴は、最終的には慶介殺害容疑で逮捕されることとなった。
 逮捕された友晴には、唯一幼馴染の味方がいた。佐々木と中原である。二人は、無実を訴え続けていたが、その確証たるものも残念ながらなかった。それでも、この慶介殺害の犯行が原田であると思い続けていた中原は、どうしてもこれがえん罪であることを暴きたかった。しかし、地頭のいい中原でも、当時慶介に対して充分犯行動機のあった友晴が、何をしようとしても有利に働く事はなかった。勿論、諦めることはなかったが、ただ月日は流れるばかりであった。
 佐々木と中原は、原田を探しにかかった。原田がどこかで生きていると確信しているからであった。しかし、実家とも全く音信不通である為、捜索は難航した。
 そんな原田は、偽名を使い更に変装して、あるところに現れていたのだった。そこは、貴夫の仲間がいるところであり、いつ行っても温かく迎えてくれる王子断酒会であった。そこでは、たくさんの飲酒に関する話しをはじめ、その時に話したい話しなど、思い思いに話されていた。勿論、原田が行ったその時も貴夫は、断酒会に来ていた。それから、貴夫の話が始まった。
 それは今から、十年前のことだった。誰もいない空き地で、いきなり殴りかかられてしまった。離婚後、嫌気のさした貴夫は、居酒屋でかなりの量のお酒を身体に入れてしまい、覚束ない足で歩いていた時に起った事であった。相手が五人もいたが、初めは相手にしなかった。けれども、複数殴りかかられた為に、出してはいけない手を出してしまった。恐らくあの出血量からしたら、相手の瞼に当たったのであろうと思っている。そんな傷害事件を起こしながら、十年経てば時効だと思い、身を隠すようにこの十年生きてしまった。そんな貴夫の話からは、懺悔とも思える言葉が聞けた原田は、やっぱり自分の崇拝している男だと確信した。原田は、この初めて行った断酒会で、話す事になった。原田は、信頼していた幼馴染に助けてほしかったが、助けてもらえず、それ以降、依存症になってしまった過去があると語った。こんな形で、人生を失う事になってしまった事を悔やんでいるという言葉で、原田は締めくくった。この断酒会では、罪を犯したともいえる当事者が責めたてられる場所ではなく、過ちを認め更に心を改めさせてくれるところであるのだ。あのかつて憧れであった貴夫が、この場所を拠り所とした理由がわかった原田は、この後、この街からも姿を消した。
 勿論、貴夫はこの断酒会に原田が訪れていたことに、気付いてはいない。だが、断酒して十年経ったこの時、断酒会から送られる十年表彰を、人間としては罪人であることを理由とし、辞退することにした。貴夫本人としては、こんな汚い人間が受け取れるものではないと思っていたのだ。
何の手がかりもなくなった佐々木と中原は、ここで降参することにした。
それから、更に三年が経った時、佐々木と中原は友晴と一緒に原田を生き埋めした現場にやってきた。あの時と同じ光景が目に飛び込んできた中原だったが、敷き詰められている落ち葉との隙間に、ユウレイタケが生えている事に気付いた。
あれから十年経ち時効を迎え、更に三年経過した今、貴夫の心における傷害罪は黒で、殺人未遂罪は白であり、真実はグレーとなった。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

身体検査

RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、 選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。

処理中です...