歪んだ愛情の女

にゃあちゃん

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歪んだ愛情の女

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 身体の歪みは姿勢が原因なのだとはっきりといえるのかも知れないが、心の歪みの原因は定かでない。
定かではないが、いつかどこかで歪んでしまったのである。人間としての真っすぐな心を失くした時に、その歪みは必ず訪れるはずなのだ。
 百合子は実家の農業を手伝い家庭を養っている母みつと病気がちで常に横たわっている父三郎との間に生れた長女である。百合子には三歳下に妹の芳枝がいた。みつが、朝から晩まで三キロ離れた実家に出向いていた為、百合子は幼いながらも芳枝の面倒を見ていたのであった。ほとんど寝床にいる三郎は、食事の支度などはしていた。その姿を見ていた百合子は、あまり調子のよくない三郎を助けていたのだった。
 まだ、そんな状況を把握できていないのんびり屋の芳枝にはみつの心を解らずに生きていた。実家を出たみつに、分けてもらえる野菜や米はあったが、充分に生活できるお金をいただくことはほとんどなかったのだ。もう少し収入を得る為に、実家から帰ってきたみつは、内職をしていたのだ。百合子は、みつの内職姿をずうっと見ていた。内職は簡単な作業であったこともあり、百合子も手伝えるようになっていた。
 のんびり屋の芳枝は、そんな苦労に気付かず生きていた。勿論、百合子も手伝ってほしいと言ったことはない。芳枝には、自分の世界があるらしく、何を見ていても自分の為にならないことはしたがらなかった。損得勘定の芳枝は、歌が好きだった。歌をうたいながらでも出来る事があっても、何も手伝う事無く生きていた。芳枝という人間は、不器用なのか何もしない。百合子は、三郎が夕方動き出さない時には、自ら台所に立ち四人分の食事を作っていた。それを横目にしても素知らぬ顔で芳枝は、たんたんと自分の事に専念していたのであった。そんな芳枝に気付いていた百合子であったが、自分の仕事であると思い、夕食の支度をこなしていたのだ。
 みつが帰ってくると、百合子は食卓に料理を並べた。野菜だけは欠かさず食べられる環境であった為、毎食野菜中心の生活であったのだ。みつは疲れた身体でも座る事無く、内職の準備を始めていた。みつは子どもたちを優先に食べさせ、残った物を食べていた。三郎が子どもたちの食事が終わる頃、寝床から起きてきた。三郎が「後片付けは出来そう」と言ったので、百合子はお願いした。みつは、簡単に夕食を済ませて、再び内職に取りかかったのだ。百合子も手伝いに入ろうとしたが、まだ宿題が終わっていなかった事もあり「後で手伝う」と言い、慌てて宿題を済ませた。芳枝も小学生になっていたが、自分の宿題を終わらせた後、好きな読書をしていた。それから、食事の後片付けを終わらせた三郎は、寝床へといった。
 百合子は、いつもみつの身体の事を心配していた。農家育ちとはいえ、休む暇もなく働き詰めの毎日であるみつのことが不憫で仕方なく思えていたのであった。来年小学校を卒業する百合子であったが、しっかりとみつの背中を見ていたのだった。
 小学校を卒業した百合子は、近くの川に来ていた。よく幼い頃、芳枝を連れて川の浅瀬で水遊びをしていたのだ。その時と同じ、穏やかにそして規則正しく流れる川の流れであった。しかし時として、川は突然変異したかのように、規則的から不規則的に急激に変わる瞬間を百合子も何度となく見てきた。その先にあったのは、川の氾濫であった。川の氾濫が起こると、必ずと言って床上浸水に自宅がなる為に、その度にみつと一緒に百合子は、一階の物を二階に滑車を使い上げていた。
 そんな時でも、三郎はあてにはならず、自分の身を二階に動かすことに必死になっていたのだ。百合子は確かに楽しんだ川であったが、川の猛威には勝てず、悩まされてきたのだった。そんな川も今日は穏やかなのだ。ここまで無事大きくなれた事をこの悩まされた川に感謝していた。なぜならこの年にして、自然には逆らうことは出来ないことを知ったから、逆に自然を味方につけたいと思ったからなのだ。
 中学に進んだ百合子だったが、みつの身体が心配という事もあり、家庭に少しでもお金を入れたいと思い、新聞配達のアルバイトをしたのだった。百合子は、友達と遊ぶことも無く「貧乏暇なし」と言い、断り続けていたのだ。
 その時、三郎は近くに大きな病院が出来たことを知り「診察を受けてみたい」とのん気に言ったのだ。診察費や治療費などといった先立つお金がないことを知っているのかわからないが、ここのところ毎日のように言ってくるのだった。しかし、百合子は自分の進学の為のお金を稼いでいるのであって、三郎の治療の為のお金ではなかった。この後、芳枝の進学する為のお金も必要となる事を考えると、今、三郎にお金をかける事が難しかった。とりあえず、診察だけ受けてみてから考える事にしたのだ。その為にも、百合子の働きは欠かせないものとなっていた。
 ふと気が付くと、友達とは学校で会うだけとなり、小さい頃あれだけ遊んでいた友達に彼氏ができたりと、変化もあった。この変化は、人だけではなく街全体にも訪れていたのだ。こんな田舎街にお洒落な喫茶店なんかなかったはずであったのに、いつできたのか知らないうちにできていたのだ。
 そんな急速に変わりゆく変化に、百合子の家庭だけは取り残されていたのだった。少しずつ世の中が豊かになっていることに気が付いた。しかし、我が家に至っては、懐が豊かになることはなく、百合子の心もあれだけ澄んでいたはずであったのに、荒んでいくのであった。三郎と芳枝は似た者同士であるのか、少しずつ便利になっていく街に逆行することなく、それらを頼ろうという気持ちで生きているのだった。
 勿論頼るのは簡単である。お金さえあれば、何でも欲しいものが手に入り、家の中までも豊かにしてくれる。その三つの代表が、三種の神器であるテレビ・洗濯機・冷蔵庫であった。百合子は自分の仕事として、洗濯もしていた事もあり、洗濯機の存在を知った時、どれだけ欲しいと思ったことか言わなくてもわかることであったが、そんな気持ちのわからない芳枝は「うちは三種の神器買わないの?」と言ってきたのだった。我が家の大黒柱はみつ一人であり、四人食べさせるだけで大変であった。この状況をわかっていないのは、三郎も同じであった。
 三郎は料理担当である立場として、冷蔵庫を要求してきたのだった。百合子からしたら、呆れて開いた口が塞がらなかった。この状況を見兼ねた百合子が、新聞配達を始めたことを全く理解出来ていないのだ。こんなのん気者が同じ屋根の下に暮らしていると思うだけで、百合子は気が滅入るのであった。百合子のこんな気持ちを理解してくれる人はこの家にただ一人みつだけであるのだ。三郎の病院に行きたいという気持ちに応える為、みつはタクシーで向かった。検査の結果医師から「手術が必要」と言われた。みつは一人で数日考え、実家でお金を借りる事にしたのだ。もともと三郎は大工をしており、手術をして体調が良くなれば元の大工に戻れるかもしれないからであった。
 三郎が大工をしている姿を見た事のない百合子には、信じがたいことであった。早速みつは、父親に頭を下げる為に実家へ出掛けた。苦労をしているみつのことを父親も心配していたこともあり、すんなりお金を貸してくれる事になった。子どもだった百合子にとって、こんなことで三郎の身体が元に戻るとは思ってもおらず、三郎は永遠に百合子にとってお荷物の存在となり生涯面倒をみる事になるのではないかということを、子どもながらに頭の中で思い巡らせていたのだった。
 それから一ヵ月後に、三郎の手術が行われた。我が家では、三種の神器よりもこの手術を優先にしたのだ。その甲斐あって、三郎は起きられるようになり、身体を動かせられるようになった。
 やがて、退院した三郎は、大工の仕事に就いたのだった。みつの実家への借金返済として、実家のリフォームをしていた。他にもお得意様が増えていき、仕事も軌道に乗り出したところで、やっと洗濯機を購入する事にした。ちょうど季節は冬になった頃でもあり、毎日寒い中洗濯をしていた百合子にとっては、タイミングよく我が家の一員となってくれ、洗濯機が神様のように思えたのだった。続いて夏前には冷蔵庫が、我が家の一員として増えていった。
 三郎の仕事が順調になり始めた途端家族の歯車が狂ってきたのだ。三郎はそもそも、徴兵検査を受けても身体上に問題があり、免れていた程であった。そんな三郎が、一気に健康を取り戻した結果、どこで何をしているのかわからない行動を取り始めたのだ。すべて、みつの実家の借金を返済出来てはおらず、みつは「早急に返して欲しい」と三郎に言い放った。みつの言葉も頭にないのか、次第に三郎の仕事の帰りが遅くなっていくのだった。みつは、百合子たちに気持ちを伝える事にした。芳枝もその頃中学三年生になっていたのだ。
 みつは「芳枝が高校を卒業すると同時に離婚するから」と二人に話した。その気持ちがわかる百合子は、一言「わかった」と呟いた。三郎は、人が変わったように、女遊びをするようになっていった。みつは、後三年の我慢と言い聞かせていた。百合子もその頃から少しずつ変わってきていた。みつにははっきりとはわからなかったが、何かしら考えているように感じていた。
 やがて三年の月日が流れ、芳枝が高校を卒業した。みつは、離婚後実家の離れで生活する事になっていた。百合子は、三年前に実家を離れ大阪で就職していた。そんな百合子が一家離散前に突然帰ってきたのだ。明後日には、芳枝も就職の為、この土地を去る事になっていた。そんな時のことだった。百合子は、いずれ年老いていく両親の面倒を見る事を約束させてきた。百合子は「私がお父さんを見る」と先に言った。必然的に芳枝がみつを見ることになった。このことは、両親にも報告して百合子は大阪へそそくさと帰っていった。百合子はちゃっかりとしており、考えた結果三郎を選んだ事になるのだ。
 百合子は幼い頃から、みつの後ろ姿を鑑として見ていたはずであったが、みつではなく三郎に鞍替えしたという事になった。芳枝には、選ぶ権限はなく万が一何かあった時にみつを頼る事にしたのだった。勿論頼る限り面倒を見る事は付き物であった。そんな突然の了解を三郎は、同じタイミングで知った。三郎は、芳枝と同じく明後日家を出る事にしていた。みつの結婚生活は、あまりにも過酷なものであったが、慰謝料を三郎に請求しており、お互いに納得しての離婚となった。三郎はこの後、女のところに居候することになっていた。別れを迎える最後の晩餐には、みつが手料理を振る舞い我が子との別れを惜しんでいた。
 芳枝には常に甘え根性がある為、もう少し側に置いてやりたい気持ちのみつであったが、大人になった芳枝を養うことは出来ないと自分に言い聞かせていた。これから先、一段と豊かな暮らしが待っている芳枝を逆に縛る事になり兼ねなかった。母親だからこそ子の幸せだけを願ってのことでもあったのだ。父親としてこれからすることが無くなったと感じた三郎は、百合子に渡した同額を芳枝にも渡したのだった。そんな事とは知らない芳枝は、遠慮していたが、翌朝になり、有り難く頂戴する事にし、家を出て電車に乗った。
 田舎を離れた芳枝は、街の工場で住み込みをして働いていた。僅かな初任給であったが、みつにお金を送った。みつは現在実家で暮らしてはいたが、長兄にすべて権限があり、方身が狭い想いで暮らしていた。そんな中での芳枝からの仕送りは、有り難かった。みつはこの三年間、仕送り代わりに野菜を百合子に送っていた。母親としてみつ自身出来る事はやってきたつもりであったが、百合子にとっては有り難迷惑だった事に気付いたのだ。
 みつはそれ以来、百合子に送るのを止める事にした。しかし芳枝は、みつの作った野菜を楽しみにしてくれていたので、芳枝のリクエストに応じて送っていた。芳枝は、たくさん届く野菜を同じ工場で働く同僚たちにお裾分けをしていた。物々交換をお互い受け入れしていたのだ。芳枝は初めての都会暮らしに満足していた。何もなく真っ暗な田舎暮らしとは対照的に明るい夜の街を週末堪能していた。そんな夜の街で芳枝は晴彦と出会った。大学を卒業したばかりの晴彦であったが、技術者として就職しており、ある程度のお給料は見込めると話していた。その直後「結婚をしたい」と言われた芳枝であった。三年間は社会人として働くことを決めていたこともあり「三年後ならば」と言い、お互いそれまでお金を貯めることにしたのだ。芳枝は週末になると、晴彦のアパートに行き、節約料理を作っていた。勿論野菜は、みつから送られる食材をふんだんに使わせてもらっていた。みつとはこうした形で繋がっていた芳枝だったが、三郎と百合子とは日を追うごとに疎遠になっていくのであった。けして芳枝から離れていった訳でもなく、幾度となく百合子に便りを書いても返信されなかったのだ。
 それが一変して百合子からの便りがきたのだ。百合子が結婚するという報告をしてきたのだ。一家離散となった家族であったこともあり、結婚式はしないことになったが、相手の紹介だけはしたいという趣旨の手紙であった。この機会に芳枝も晴彦を紹介しようと思い、一緒に会う事にしたのだ。総勢六人が急遽集まる事になり、両親には田舎から出てきてもらう事にした。田舎者のみつは、野菜など段ボールに詰め風呂敷を覆いかぶせて、それを背負ってホテルにきたのだった。みつとの久しぶりの再会に芳枝は涙ぐんでいた。早速晴彦を紹介した芳枝は、この盆休みに二人でみつの実家に行く事を約束したのだ。百合子は側で挨拶するタイミングを待っていた。一家離散した家族の再会となったが、百合子は淡々と結婚相手を紹介した。どんな人なのかという事も百合子は語らず、三郎に祝い金をもらっていた。帰り際にみつは「これ持っていって」と言い、袋に詰めた野菜を百合子に手渡した。
 百合子は、祝儀も用意してくれないみつを不満に思い、さっさと食事を終え、帰っていった。あまりにも変わってしまった百合子にみつは驚いていたようであった。挨拶した際、百合子の旦那の名前が聞きとれなかったが、便りに佐々木と書いてあった。佐々木がどんな職業に就いているのかも知らなかったが、定職に就いていないことはわかった。百合子は、結婚後も仕事を辞めずに働くことになっており、百合子はお金に困っているのだとみつは勘ぐった。百合子は、大阪に出てから人が変わったように生きていた。佐々木のことを好きになった百合子には、何も見えてはおらず、目の前にいる佐々木さえ一緒にいてくれればいいようであった。結婚しても変わらず佐々木を養い続けている百合子のことを気にしてか、毎月三郎は仕送りをし続けていた。時々、日雇いの仕事をしている佐々木は、常に暇を持て余してはお金もないのにゴルフをしているのだった。こんな佐々木の姿を知っているのは百合子だけであった。百合子は、貯蓄をしたお金をすべて佐々木に使われてしまったのだ。
 普通の幸せを手に出来る芳枝を、羨ましく百合子は思っていた。そんな百合子の事が気になりだした芳枝は、佐々木と別れるように手紙を書いた。何度書いても返事は無く、これ以上何を言っても無駄であると晴彦に言われ、百合子と距離をとることにした。芳枝は、三郎から仕送りをしている話を聞いていた。そのことから、百合子がお金に困っているのだとわかったのだ。百合子の苦労も知らない佐々木は、自分の趣味に没頭していた。こんな金遣いの荒い佐々木の事を好きだという百合子はおかしいのだと芳枝は思っている。
 晴彦の実家は裕福であるが、親には頼らず自立していた。晴彦は堅実家である為、芳枝は信頼ができるのであった。ある時、百合子は三郎の老後を見る事になる為、トイレなど水回りを今のうちに修繕したいから、修繕費が欲しいといってきたようであった。三郎自身が修繕すると言ってもお金でいいとのことだった。百合子は、何だかんだ言って三郎に無心していた。このことは、三郎がみつに相談したことで、芳枝はみつから知る事となった。百合子は、三郎を見るつもりも無いのではないかと心で思っていたが、三郎が傷つくので何も言わずにいた。みつから百合子とは付き合わないように言われた芳枝だったが、晴彦と結婚する事だけ百合子に報告した。
 結婚式には、芳枝の両親も駆けつけてくれた。晴彦と相談した結果、百合子を呼ばないことにしたのだ。両親と話し合い、百合子が佐々木と離婚したら付き合うことにした。晴彦は結婚後、今まで以上にみつの実家と付き合うようになり、里に帰ったタイミングで農作業を手伝っていた。本格的に手伝うのが、初めてだった晴彦は、農家の苦労を知った。一緒に手伝う予定であった芳枝は、体調が優れず見ているだけとなった。そんな芳枝に「妊娠しているのかもね」とみつが言った。みつはその後、農作業を晴彦に教えていた。ここの甥っ子たちは、担い手になっていないのが実情であった。農家として現状を支えているみつは、もはやいなくてはならない存在となっていた。
 本来ならば、甥っ子たちに農作物を育てて家族を養ってほしいところであったが、一家を支えるだけの収入となると、大変なことであった。みつの甥っ子たちも、実家を離れ一般企業に勤めだしていた。そんな甥っ子たちも、芳枝にとっては従兄になるのだ。芳枝はいつまでも子どもらしさを残していたこともあり、従兄から可愛がられていた。芳枝が百合子のことを従兄に相談したら「大阪で一度百合子に会ってみる」と言ってくれた。   
この連休中に体調の変化があった芳枝は、みつのいうとおり妊娠していたのだ。早速、晴彦の両親にも報告したら、喜んでくれていた。こちらで出産しても晴彦の実家は近くにある為、里帰り出産を選ばないことにしたのだ。百合子から突然手紙が届いた。従兄たちと大阪で会ったという内容であった。芳枝が、百合子の結婚という幸せを喜んでいない事が気に入らないらしく、なぜ、素直に喜べないのかという内容が記されていた。
 その便りを受け、芳枝は慌てて返事を書いた。百合子は勘違いをしているからである。結婚に対して喜べないのではなく、結婚相手の佐々木が問題である事、金遣いの荒い佐々木を養う事が無駄である事や、百合子が折角稼いだお金も感謝なく使うお金にだらしのない佐々木が許せないのであった。このままだったら、百合子の幸せがだんだん遠のいていくばかりであることに早く気付いてほしかったのだ。芳枝は最後に、今妊娠中であることを付け加えた。
 それから間もなく、百合子から便りがきて『妊娠おめでとう』という言葉が真っ先に書いてあった。百合子は、佐々木と一緒にいられるだけで幸せなのだという気持ちを知った。その手紙の最後に『私も子どもがほしい』と書き綴られていた。
 この手紙を受け取り、これ以上芳枝には何も出来ない事がわかった。その年の暮れ、芳枝は娘を出産した。娘は『あかね』と名付けられた。晴彦は、我が子に一日中べったりとしていた。暫くして、田舎から初孫に会う為に、みつが来てくれた。みつはたくさんの野菜を持って来てくれた。あまりにも可愛い初孫に、うっとりしているみつがいた。みつは滞在中、ご飯を作ったり、洗濯をしたりと動いてくれていた。働き者のみつは、最後にアルバムの整理をして帰っていった。結婚してすぐに妊娠した芳枝は、片付けが苦手な事もあり、アルバムを整理しないで放置していたのだった。その箱詰め状態の写真を見て、丁寧にアルバムに収めてくれた。母親とはなんて有り難い存在なのだろう。晴彦は、娘想いのみつを大事に思っていた。
 あかねは、順調に成長し生後六カ月を迎えた頃、百合子から手紙が届いた。『私もミサの母親になった』と書かれていた。確かであるが、妊娠はしていなかったはずなのだ。この事に、びっくりして最後まで読んでみると、佐々木の遠い親戚から赤ちゃんをもらったということであった。赤ちゃんの母親は、まだ高校生であるとのことだった。相手の男とも今後結婚する予定もないということもあり、出産後すぐに乳児院へ預ける予定だった赤ちゃんであったというのだ。百合子は、なかなか子どもに恵まれなかったこともあり、その赤ちゃんの母親になることを決心したと書いてあった。百合子の手紙の最後に『これで父親になる佐々木は、きっと改心してくれるはず』と書かれていた。
 その文面を読んだ芳枝は「甘いな」と呟いた。実の子どもでもない子に対して、そんな気持ちが起るような男ではないからなのだ。例え実の子であってもこの佐々木には全く子を養う想いなんてあるはずもないのだ。この芳枝の悪い予感は当たっていた。百合子は『子どもの分の仕送りもしてほしい』と三郎に伝えてきたのだ。三郎は仕方なく、今までの倍の金額を仕送りする事にしたのだ。相変わらず定職に就かない佐々木は、一人で三郎に会いに百合子の里に行った。佐々木は三郎に「お金を貸してほしい」と言いに行ったのだ。
 佐々木は「百合子の生活費に使う」と言ったので貸す事にした。「この事は百合子には内緒にしてほしい」と言うので、何も言わずに貸す事にした。三郎はこの事を誰にも伝えないでいる事が不安になり、みつだけに話した。みつは三郎に「この件は誰にも言わない」と言ったが、お金に困っている百合子を不憫に想うのであった。
 それから暫く平穏な暮らしが続いた時の事、再び佐々木が三郎を訪ねてきた。三郎は、佐々木を見るなり「お金を返しにきたのか」と言った。佐々木の表情を見ていたらそんな事ではないとは思っていたが、あまりにも佐々木のふてぶてしい態度に腹が立ち言ったのだった。佐々木は、再びお金を要求してきたのだ。今度は「教育資金を借りたい」と言ってきたのだ。あの手この手と品を変えやってくる佐々木を許せない三郎であったが「今回が最後だから」と言い切った。佐々木の罠にハマった形となったが、二度と借りにこないと約束させお金を持たせ帰らせた。この事も三郎は、みつに話した。「もうこのようなことは二度とないから」と安堵して話した。
 みつはこの事を芳枝に話す事にした。芳枝は、現在第二子を妊娠中であった。佐々木からの教育資金という言葉に違和感を覚えた。その時、この言葉が嘘である事もわかった芳枝は、何とかして百合子を別れさせたかった。このままでは、子育てにも影響するからである。芳枝はこの事実を百合子に知らせた。百合子はこの事を知ってもびっくりすることなく、最近羽振りがいいので何かあったのではないかとうすうす気づいていた事が返信された手紙に記されていた。三郎には迷惑を掛けた事を詫びる内容の手紙であった。しかし、当の本人の百合子の気持ちは、勿論離婚するという選択肢がない事が書き綴られていた。
 それから数カ月後、芳枝は再び娘を出産したのだ。出産の時、晴彦はあかねと待合室にいた。女の子とわかった晴彦は『あかり』と名付けた。あかねは、すっかりお姉ちゃんらしくなっていて「あかりちゃん可愛い」と言って、抱っこをしたそうにしていた。そんな可愛い姉妹はすくすくと育っていた。晴彦の仕事も順調で、経済的にも芳枝は恵まれて、子育てに没頭していた時に、百合子から手紙が届いた。
 百合子は、子どもを連れて久しぶりに実家に帰りたいと言ってきた。実家というとみつの実家に行きたいということであった。百合子が、三郎の老後を見る事になっていたこともあり、百合子は帰りづらく一家離散以降戻ったことがなかったのだ。勿論みつは了承したが、条件提示をしたのだった。それは佐々木に二度とこの地を踏ませないことであった。百合子は渋々であったが、了承した。
 暑い夏のお盆休みに、久しぶりに百合子と会う事になった芳枝は、家族みんなで実家に向かった。百合子の子どもたちとは初めての対面となる。実は、百合子は佐々木との実の子をあかりが生れた数カ月後、出産していたのだ。その子は男の子で肇という。この事を芳枝たちは最近知ったのだった。勿論ミサの出生は、大人だけの秘密となっている。無事に成長しているのか心配であったが、百合子の子どもらしくちゃっかり者であった。特にミサは自己中心的な性格のようで、少しわがままに育っていた。あかねとあかりとも年齢が近い事もあり、子ども同士で遊んでいた。しかし、一緒に遊んでいたあかりはミサに少し違和感を感じていた。
 ミサは嘘を平気でついたり、意地悪なことを仕掛けてくるのであった。あかりには、このようなお友達を持ったことはなく、ただ異質な子に見えたのである。あかりはこのミサの事を常に警戒するようになった。姉のあかねは鈍感な子であった為、あかりはあかねにもこの事は話さなかった。勿論あかりは、親である芳枝にも話さなかった。子どもなのにこんな嘘をつくなんて何か理由があるのではないかと考えていたのだ。そんなミサの事をあかりは不憫に思えたのだった。あかりはミサの事を、温かく見守ってあげたくなった。
 芳枝の実家は、母屋と離れに分かれていた。晴彦と肇以外女性であったので、晴彦以外は、離れで雑魚寝することになった。一方晴彦は、芳枝の従兄と仲良く母屋で寝る事になっていた。離れにいる子どもたちは、大人より早く就寝する事になった。確かにあかりが寝る姿勢に入った頃は、電気も消えて大人たちも寝たふりをしていた。他にも寝たふりをしていたあかりがいたのだ。あかりは寝たふりではなく、突然しゃべりだした声がうるさくて寝られなかったのだ。その会話を一部始終聞いていたあかりは、ある言葉に反応してしまい、大人たちに寝ていなかったことがバレてしまった。
 その言葉とは「ミサが自分の子どもでないから可愛く想えない」という百合子の発言であった。そこであかりは、思わず飛び起きてしまったのだ。この百合子の愛情はおかしいとあかりは感じていた。それはミサが我が子でないという事でも無く、一般的な考え方そのものがおかしいと感じていたのだ。昨夜、一緒にご飯を食べていた時に、その事に気が付いていた。
 この百合子という人が、みんなのお茶碗にご飯をよそってくれていたその順番に違和感を覚えたのだ。この百合子は、真っ先に肇の分をよそいだした。その次にミサそれからあかねとあかりであった。普通であったら、我が子は後回しではないか・・・・・・というこの百合子という人の感覚の違いが気になっていたのだった。
 実は、あかりが最後となったけれど、特に何も言わなかったが、この感覚はおかしい人なのだと思っていた。勿論たいしたことではないが、社会的なルールもこの百合子は欠如しているように思えていたのだ。こんな事を考えていたあかりは、寝られなくなっていた。
 あかりは「この事は、墓場まで持っていって」と百合子に釘を刺された。ミサの性格の歪みを感じていたあかりは、やっと納得ができたようであった。ミサは、寂しい想いがもしかしてあったのかも知れないと感じたあかりは、ミサの事を一番に想うようにしてあげたくなっていた。その翌日も、相変わらず、ミサからの無理難題な攻撃を受け続ける事となったあかりは、仕方なく笑顔で回避していくのであった。
 この回避力は大人顔負けで、だんだんとミサの事が嫌になっていった百合子は、うまく回避できずに、二人の関係が徐々に悪化をたどり、罅が入っていった一因でもあったのだ。あかりは、いろいろと頭の中で、分析していた。百合子の幼少期の事も気になり、みつに何となく聞いてみたりした。そんな中でわかった事は、常に姉として妹である芳枝よりも我慢しすぎていたことであった。確かに一人目の子の特権として、下の子が生れるまで愛情は独占できるが、生れてからは、この百合子という人は、その分の愛情を芳枝に譲り、我慢していたのだと思われた。
 それに加えて、みつには出来なくなった事までもするようになり、自分が甘える余裕がなかったに違いないのだ。百合子が、成人して一家離散になった時に、やっと今までの対価が手に入ると思ったのではないか。その対価を求めた主として、病を克服した三郎に向けられたのではないかと思った。この事から、百合子は突然老後の話をしだして、三郎をみると決めたのではないかと考えたあかりであった。百合子は常にみつを慕っていたのは確かであった。しかし、百合子が求める対価をみつからは得られない事も確かであった。これらを比べた時に、あの利口な考えを持つ百合子にとって、三郎の方が対価を得られると考えたのであろう。このような考えから、突然、一家離散前にあの発言が起こったのだと推測されたのだ。あかりは一人で、理解が出来ない百合子やミサの事を必死に考えたのだった。ミサがこれから素直な子どもに育ってくれる事だけを願いたかった。こうして、所謂親族の会は、心底仲良くではなく終わった。
 あれから、あかりと共にミサたちも成長していた。そんな時、突然晴彦の職場に佐々木が訪ねてきたのだ。今度は、晴彦にお金を貸してほしいということであった。相変わらず、定職には就いておらず、暇を持て余していたのだ。晴彦とは、一度しか会ってもいないのに、親しげに会いにきたのだった。お金を貸す謂われのない晴彦は、きっぱりと断ったが、それ以来毎日のように、職場に来るようになっていた。佐々木の事を芳枝に相談した。芳枝は、自分なりに謝罪をした。しかし毎日となったら、晴彦の仕事にも影響しだしているのだ。こんなやり口でくる佐々木を回避するには、赤の他人になるしかなかった。
 こんな形で、芳枝が離婚する事になった。子どもたちも何かが及んではいけないと思い、晴彦が子どもたちを引き取る事にした。晴彦は実家で子どもたちと住む事にした。その近くにアパート借り芳枝は住む事にした。離婚をしても、芳枝は子どもたちの住む晴彦の実家に足を運び、ご飯を作ったり、習い事に連れて行ったりしていた。佐々木は、恐ろしい男であった。この時から、親族としての最低の付き合いであっても、佐々木とは距離をとるべきだと考えに至った。急に離婚をすることになった芳枝だが、勿論住居費などの支援は晴彦からはあった。しかし、身内に因ることで晴彦を苦しめたのは事実であった。
 この事が事実である以上、晴彦にすべて甘えられないと自覚した芳枝は、仕事に就くことにした。子どもたちのこともしないといけなく、パート勤務をすることにした。離婚をしても、子どもたちにとっては、あまり変わらない生活が送れるように、毎朝早く起きた芳枝は、晴彦の実家にいき、朝食を作り一緒に食べていた。食べ終わったら、晴彦や子どもたちを送り出していた。それから、簡単に掃除、洗濯を済ませ、急いで職場に向かっていた。仕事帰りに買い物に行き、晴彦の実家で夕食を作っていた。
 こんな芳枝の生活が何年間も続いた頃、突然三郎が倒れた。三郎は、以前は女と同居していたが、今は一人暮らしをしていた。倒れた時に発見したのが、採れたての野菜を持ってきたみつだった。みつは、毎月三郎から僅かであるが、今も慰謝料という名目のお金をいただいていた。お返しという訳ではないが、みつに出来ることをしていたのであった。ちょうどその時に三郎を発見したのだ。みつは慌てて救急車を呼んだ。
 しばらく入院した三郎は、少し体調が戻り退院した。それでも何もかも一人では出来なくなっていた三郎は、約束通り百合子を頼る事にした。以前三郎が来る事を想定し、トイレなど水回りを修繕したはずであったが、百合子はきっぱりと断った。行き場を失った三郎を見兼ねたみつは、三郎と一緒に暮らす事にした。芳枝はみつを気遣い、時々、三郎の介護を手伝いに来ていた。
 芳枝は何度か百合子にも来るように声を掛け続けたが、結局一度も介護はおろか、見舞いすら現れなかったのだ。こうして、晩年百合子を頼ろうとした想いにも破れた三郎は、寂しさと悲しさを残し亡くなっていったのだった。三郎のみつに伝えた最後の言葉は「佐々木から借金を返してもらえ」という言葉であった。この言葉は、みつの胸にしまい、百合子を葬儀の為呼んだ。そうしたら、佐々木ものこのことついてきたのだ。みつは、三郎と離婚したままであったこともあり、喪主を務める訳にはいかず、百合子に託した。
 百合子は、三郎の葬儀中演技なのか、ずうっと泣いていたのだった。芳枝はその姿を見て「泣くぐらいならば、お父さんが生きている時に一度でも来てほしかった」と呟いた。この三郎の葬儀は、自宅で行われていた。告別式は無事に終わり、この後、親族のほとんどが焼き場に行く事になった。その時、突然佐々木が「不在にするのも不用心だから、その間留守番をしておく」と言った。香典もたくさんあったこともあり、みつは留守番を佐々木にお願いすることにした。それ以外すべて、焼き場に行き最後のお別れをした。
 そこでも、百合子の泣き声が響いていた。芳枝は、三郎が亡くなる一週間一緒に過ごしていた。とうとう動くことが出来なくなった三郎の最後の介護をする為に、駆けつけていた。百合子自身が言いだしたあの言葉を、簡単に裏切り、三郎に何もしなかったのに、お金だけ巻き上げたと人から言われても何も言えない状況であったのだ。こんな怒りを同じく覚えたのは、みつであった。こんな日だからと思い、怒りを抑え自宅に戻った時には、既に遅かったのだ。留守番を頼んだはずの佐々木はいなかったのだ。慌てて香典袋の中を確認した。
 確かに袋は残っていたが、お金だけそこから抜かれていた。佐々木もお金と共に消えており、誰の犯行かすぐにわかった。この事を計画したのは佐々木だろうが、百合子も同罪である。香典を盗むという罰当たりな行動に、話す気力もなくなった。百合子たちにもこの場から早くいなくなってほしいと願うみつであった。
 百合子は、ここまで三郎の為に来てやったのだから当然交通費は最低でももらってからでないと帰らないと言わんばかりの顔をしていた。どこまでも汚い考えの百合子の事が嫌になった芳枝であった。みつはこの後、交通費を子どもの分を含めて三人分渡した。百合子はまだ足らないという顔をして、佐々木の分も要求してきたのだ。みつは、三郎の最後の言葉を黙っていようと思ったが、百合子に伝えることにしたのだ。みつの腹の虫も収まらなかったので、いい機会になったのだ。
 こんな百合子の事を最後まで信じていた三郎が、気の毒になったみつであった。みつも我が子だから百合子の事も可愛いと思っていたが、到底ここまでされたら、冗談でも可愛いと言いたくもないのだ。このやり取りを遠くから見ていたあかりは、百合子ならやり兼ねないと思っていたのだった。晴彦は現在、芳枝と離婚している事もあり、平日に行われた告別式に来られなかったが、百合子たちも帰ったこともあり、週末に来たのだ。百合子には二度と来てほしくないと言っていたみつであったが、今度は百合子の方から「三郎の介護が出来なかったので、みつを見るから」と言い、お金を要求してきたのだった。
 勿論きっぱりと、みつは断った。みつは「芳枝にみてもらうからいい」と断ったはずであったが、お金のほしい百合子は、諦めることなく、せっせと長期の休みには顔を出し、お金を要求するのであった。調子のいい百合子の事が気になるみつであったが、来たら嬉しくなり、三郎同様にお金を与えてしまうのだった。
 やがてみつの孫たちも成長し、結婚を迎えていた。百合子は、血のつながりのないミサの結婚式にはみつを呼ばなかったが「祝儀だけは欲しい」と言い、ちゃっかりもらうのであった。みつは芳枝の子どもたちの事は、可愛がっていたが、未だに例の佐々木の件で離婚をしている形となっている責任もあり、あかねとあかりの結婚式を欠席する事にした。あかねやあかりの友達は、離婚していることを知らない為、芳枝は堂々と母親として、出席することにした。みつも出席したかったが、百合子を産んだ母親であることは事実であり、晴彦の親族に会わせる顔がなかったのだ。
 こんなに辛い思いをなぜみつがしないといけないのかがわからなかった。ミサは、旦那の車に乗り、頻繁にみつの元を訪れるようになった。その度に、百合子から言付けられているお金をみつに要求するのであった。百合子は自身が動かずしてお金を得ようと考えたのだ。あまり百合子のことをよく思っていないみつにとって、ミサに行かせた方がいいと思ったのであろう。ミサ本人は、未だに出生の秘密を知らないでいた。知らないからこそ、この厚かましい行動に出られるのであった。当時まだ子どもであったあかりは、誰にも話していなかったからでもあるが、周りの大人たちもこの事を一切語らないできた。あかりは大人となったが、話す必要のないことである為に、今後も話すことはない。最近ミサが、よくみつの元を訪れる事を、あかねやあかりはいいようには思っていない。百合子の代わりにお金を無心していることを知っているからである。
 朝から晩まで、農作業を続けているみつであっても、その対価分の収入として得ている額は少ない。それなのに、そこから奪いたいという百合子たちの気持ちがわからなかったのだ。あかりは、出来るだけ自由に使えるお金をみつに残してほしいと思っていた。今まで苦労してきたみつには、自分のご褒美として自分の為にお金を使ってほしいとあかりは考えていたからである。しかしみつは、なかなか自分の為に使う事が出来ない性格で、自分よりも子どもの為を想う気持ちが強く、あんな百合子に対しても、口先だけは悪く言うが、本心ではきっと思っていないのがわかったのだった。勿論歳を重ねてきたみつにとって、寂しい気持ちもあるのであろう。
 しかし、そんなみつの良心につけ込むこのやり口には、どんな人であっても賛同は出来ないはずであるのだとあかりは確信していたが、今更人間性が変わる訳でもなく『自分がみつに出来る事をしてあげたい』と思いつくのだった。あかりは、みつに旅行をプレゼントすることにした。一人では行きにくい為に、みつと芳枝とあかりの三人で行く事にした。田舎暮らしのみつは、旅行をした事もなかったのだ。折角なので、あかりはお小遣いもみつに用意した。国内旅行であったが、すべてが初めての経験になったみつであった。
 まず、飛行機に乗った事が無いみつは、飛行機に乗る事を伝えていなかったこともあり、離陸前から手に力を入れて、顔は強張っていたのだった。それだけではなく、何かブツブツと言っているのだ。隣にいたあかりは「くわばら、くわばら」とはっきり唱えている声を聞いたのだ。初めて聞く『くわばら、くわばら』に周りの人もびっくりしていた。こんな感じて、旅がスタートしたが、みつは喜んでくれていた。
 初めてみる景色に、みつは満足しているように思えた。そんな時、突然みつが泣きだした。自分の育てた子どもが、あんなに酷い子どもになってしまい、これまで育ててきた自分が駄目な人間なのだと思っていた事を話しだした。最後にみつは、子どもの頃の百合子は、本当にいい子だったのだとあかりに話した。「おそらく我慢させすぎた事から人間が変わってしまったのだと思っている」と続けた。旅も終りに近づき、みつにとっては恐怖の時間になった。再び機内で、みつの唱える声が聞こえてきた。この声の可愛さに、あかりはホッとするのだった。
 それから数日後のことであった。どこで聞いたのか知らないが、みつが旅行に行ったことが百合子に知られたのだ。みつの旅行中、みつを訪れたミサが、知ったらしかった。それを知った百合子は、みつがすべて旅行代金を支払ったと思い、その分の同額を要求してきたのだった。みつは、あかりに連れて行ってもらったことを話したが、信用せず自分たちの取り分を主張してきたのだ。お金を渡すまで、迷惑を掛け続ける百合子は、佐々木の借金で常に首が回らないのであろう。それを知っているみつは、要求額に応じる事にした。それとは真逆の生活の芳枝には、孫が出来た。あかねとあかりの子どもであった。
 みつに早速、会いに行ったあかねとあかりは、用意してくれていた出産祝いに「ありがとう」と言った。二人が連れていったのは、五月の連休であった。まだ子どものいないミサは、旦那を連れて同じタイミングで来たのだ。再び、あかねとあかりに渡した同額を、ミサは要求してくるのだった。今回の名目は、出産祝いであった。しかし、自分たちには子どもがいないからもらえない事が腑に落ちないみたいであった。
 確かに病弱なミサは、子どもを産めない身体であった。自分にないものを持っているあかねやあかりの事を、嫌いなのかも知れないと感じていた。そんな時ミサの口から「あかりの事、お母さんは嫌いだ」と話していた事を伝えてきたのだ。あかりは幼少期の頃から、百合子に可愛がられていない事に気付いていたので、特にびっくりもしなかった。あかりは、ミサの出生の秘密を知ってしまった時から、百合子の気持ちに気付いていたのだ。
 あかりは、はっきりと『嫌い』という言葉を言われ、逆にホッとした。勿論あかり自身も百合子の事は、嫌いまでも無いが、けして好きでも無いのだ。こんな関係が長く続くのも、あかりとしても辛くなる為、あかりは百合子に出来るだけ会わない事に徹した。
 さらに月日が流れ、あかりの子どもたちも大きくなっていた。相変わらず、百合子たちの考えは、一般常識からかけ離れていた。数年前から病気を患っていたみつであったが、とうとう一人で病院に行くことが難しくなり、芳枝のアパートで暮らす事にしたのだった。
 あかりも結婚後、その近くで暮らしていたこともあり、時々、みつを病院へ連れて行った。昨日芳枝が、病院に連れて行ったその夜中の事である。みつがおぼつかない足で、トイレに向かったらしく途中で転んで、頭を強く打ちつけたようであった。すぐに気が付いた芳枝であったが、既に意識がなく、慌てて救急車を呼んだ。あかねやあかりに夜中連絡したが、待つ事無くみつは息を引き取った。百合子にも連絡をしたが、すぐには向かえないと言われてしまった。ただ、一言「最低プランの葬儀にして」と百合子が注文してきたのだ。
 この葬儀費用を差し引いた金額を、きっちりと分けると、みつの遺産について、以前から百合子の気持ちを伝えられていたのだ。芳枝の気持ちとして、最低プランの葬儀にする気持ちはなく、せめて人並みプランにしてあげたいと考えていた。その考えを以前から百合子に伝えていたが、その気持ちに関しては芳枝の身勝手であると言い切られていた。身勝手なのは、百合子ではないかと言い返したくなったが、これ以上話してもわかる人ではなかったのだ。話にはまだ続きがあり『万が一、芳枝の身勝手なプランで葬儀をする時には、自分の自腹でならばしてもいい』と話を終わらせていた。芳枝は、みつへの想いを込めたい気持ちもあり、自腹で上乗せになる金額を出す事にしたのだ。それだけではなく、みつは遺言を残していたのだ。
 遺産となるお金からまず、あかりに百万円渡してほしいと書かれていたのだ。勿論、他の孫たちにはそんな言葉を残しておらず、あかりは特別であったのだ。みつが、その特別な想いを持っているあかりの事を、百合子は根に持つくらい嫌いであった。最後までみつは、あかりの事を心配し『あかりにお金を渡してほしい』・・・・・・と言っていたのだ。あかりは、孫の中で一番みつに可愛がられていた。その気持ちに感づいた百合子は、あかりの幼い頃から例のミサの出生の件の前から嫌がっていたのだった。情にもろいみつは、いつかこんな結末を言ってくるのではないかと、想定していたのだ。
 その勘の鋭さはさて置き、この事実に百合子の腸が煮えくり返っている状態であった。しかしみつの遺言と言える言葉は、他の誰でもなくあかりたった一人の事だけであった。一貫して、変わらなかったみつの気持ちは、あかりへの想いだけであったのだ。百合子は渋々了承し、さっさとお金を渡してほしいと要求してきた。
 金融機関に残されているお金はすぐには出せない事もあり、手持ちの芳枝のお金を『早くくれ』と言わんばかりに、要求してきたのだ。ひとまずこれで百合子との縁が切れると思っていたが、今度は、芳枝からお金を奪う計画に変えてきたのだ。それ以来、足繁く芳枝のアパートに通うようになっていた。最初が肝心であるにも関わらず、突然来た百合子を、家に招き入れてしまったのだ。今となっては、取り返しのつかない事をしてしまったと後悔する芳枝であった。そんな二人の関係が、百合子の思う壺になっていったのか、百合子と同じく我が子であるにも関わらず、あかりのことを会う度に、貶し合っていたのだった。
 あかりは、芳枝の何気ない発言に自分のことを悪く想っていると感づいた。結局芳枝から『みつからのお金は自分が預かっておく』と言われ、みつの想いは届かずじまいとなった。それ以来、あかりは芳枝に頼ることなく、晴彦の両親である祖父母を見送ることに決めたのだった。その間も、芳枝からは電話一本入る事も無く、晴彦の両親は悲しみに堪え、旅立っていった。
 突然芳枝にかかってきた電話の主は、晴彦だった。あかりへの気持ちを、遠回しに探る為にかけたのだった。たった二人きりの姉妹という気持ちが強いのか、なぜか子どもの事や孫の事よりも、百合子の事を想っていたのだった。その気持ちが聞けた晴彦は、今後の事をあかねとあかりに話す事にしたのだ。芳枝との再婚の時期を、佐々木の動向を見て考えると言っていた晴彦だったが、結論としてない事を伝えたのだ。
 子どもの事を、悪く言う母親の気持ちがわからなく、孫たちとも会ってほしくないと思えたからなのだ。この晴彦の気持ちは、以前、あかりから聞いた芳枝の何気ない発言が発端であったが、はっきりと芳枝本人の気持ちを確認した上で決定したことであった。芳枝には「いつか再婚しよう」と声を掛けていた晴彦だったが、最後の電話で「再婚はないから」と伝えたのだ。その言葉と共に、失うものがあった。それは経済力である。今まで、住居費などかかるものすべて晴彦が支払っていたが、それもなくなる事になったのだ。
 芳枝はその言葉に驚いたようで、突然の別れに動揺していた。そんな時、百合子が入院する事になった。既に悪化を辿っている病は、余命を半年と区切ってきたのだ。命が突然区切られた百合子をどうにかしてほしいという気持ちで、セカンドオピニオンでの手術を試みるも手遅れだという事で、機会すら与えられる事無く、然るべき時期を待つ事となった。百合子の我が子であるミサにもこの事は告げられた。
 ミサは病弱ではあるが、今のところ命が急に危なくなるような事はないのだが、常に気をつけなければならないということらしい。ミサには、最期まで出生の事を秘密にしておくつもりでいた百合子だったが、あかりに明かされないかが、心配であるのだ。その百合子の気持ちを芳枝は話す事にしたが、あかりは芳枝には会いたくないので、電話で済ませたのだった。親子とは思えないくらいあっさりした会話に、あかりはびっくりしたが、芳枝は何とも思っていなかったのだ。子どもの頃から、優先順位を自分が一番だと思っていた芳枝にとって、我が子に対する気持ちがないのは当たり前なのかもしれない。
 この電話の最後に芳枝は「以前預かったみつからのお金は、私が使うから」とあかりに言い、切れたのだ。あかりの事より自分のことが大事である芳枝なのだった。我先にというこの芳枝の想いを、幼い頃から気付いていたあかりは、むしろ芳枝への気持ちはなかった。何があろうとも、みつからの気持ちだけは受け取ることが出来るので、金品という冷たい固体的なものではなく、いつまでもあかりの心を温めてくれる気体的なものの方がずうっとよかったのだ。
 あれ以来、穏やかな日常を迎えていたあかりに、珍しく一本の電話が鳴った。それは芳枝から、かかってきたのだった。突然会話を始める芳枝を、不審に思いながら会話のすべてを聞くことにしたあかりは、相槌すら打たず、ただ聞くことに専念していた。すると、芳枝から勢いのある甲高い声で「聞いているの?」と言ってきた。あかりは咄嗟に「聞いている」と返した。
 芳枝は、一カ月程前に百合子が亡くなったことを話したのだった。その葬儀代も芳枝が出す事になったらしく、頭にきていると言っているのだ。告別式の知らせをしなかったのは「百合子がそもそもあなたの事が嫌いだからと、遺言としてあかりには来てほしくない」と言われたから、声を掛けなかったと伝えてきたのだ。すでに、あかりには用無しの事案に、芳枝はあかりに何を求めているのかが、不思議で仕方なかった。この事を伝えたかった芳枝の気持ちがわからなかった。
 このような話、当の本人が聞いていい気はしないのだ。それなのにも関わらず、一部始終したかった話を終えた芳枝は、気がすっきりしたように、穏やかな声に戻っていた。あかりにしてきた話の中では、聞くに堪えない内容もあったのだ。芳枝がした事は、ただあかりを傷つけただけであった。そんな事お構いなしの芳枝は、自身の気持ちは落ち着いた様で、最後に「これから、毎月援助してほしい」と言ってきた。
 老後は、晴彦と暮らすことになっていた芳枝は、あまり貯蓄もしていなかったのだ。確かにあかりの為に、ご飯を作りに来てくれていたのは事実であり、そのせいで仕事も時短でしか勤務できなかったのだ。
 この恩を仇で返すことが出来ないあかりは、要求に応じる事にしたのだ。この事は、晴彦には内緒にする事にした。晴彦の口から、芳枝との再婚は無いと聞かされた時、考え直してほしいと思ったあかりであったが、真の愛情に欠ける芳枝と生涯暮らしたとしても、きっと晴彦の心が幸せを感じられる事はないのだろうと確信さえしたのだ。
 あの時、出した晴彦の結論が正しかったのだ。晴彦は、今までの事をすべてみた上で、結論付けた事がわかった。二人の母親であるみつは、とても情の深い人であった。だから、自分の事よりも、子どもたちである百合子と芳枝の事は、愛情をかけて育てていたはずであった。それなのに、どこで歪んでしまったのか、心ごと醜い姿となってしまった姉妹であった。もしかして、みつが仕事をしている時に、例えみつ本人でなくても、みつの代わりとして一緒に自宅にいた三郎が、愛情を与えてくれていたら、こんな事にはならなかったのだろうか。百合子と芳枝の心の歪みは、悲しい事に、こんな形で形成されていったのかもしれない。
 この姉妹は共に、幼い時、喉の奥からほしがった愛情を求め続けた結果、幸せになりたいと思ったのであろう。この幸せを手にするには、お金が必要と考えた百合子の前に、佐々木が現れ、佐々木にお金を渡すと過ちの愛情が、思い通り手に入り、ずうっとそれに左右されてきたのだろう。佐々木はお金がないと動く男ではなかった。
 そんな男に、過ちの愛情を教えられた百合子は、人生を無駄にしてしまった。この姉妹にとってお金は、唯一、幸せを買えるものだと勘違いしてしまったのだ。あかりは、こんな勘違いをし続けている芳枝であるが、芳枝の幸せの為に生きる事にした。そしていつか芳枝の心の歪みが、綺麗なサークルに変わる事を期待したのだ。
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