ギリシャ神話

春秋花壇

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創作

ハーベストムーンの皆既月食

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ハーベストムーンの皆既月食

 ――秋の夜、黄金色に輝く満月が天を照らしていた。
 それはハーベストムーン。大地の収穫を祝う神々の灯火であり、人間にとっては豊穣の約束そのものだった。

 村人たちは広場に集い、パンの香ばしい匂いと葡萄酒の甘い香りに包まれて踊っていた。
 笛と太鼓の音が響き、笑い声が夜空にこだました。

 だが、その月を見上げて一人だけ笑えない者がいた。
 狩人の青年リュカオン。
 彼は妻を病で失い、収穫祭の喜びを分かち合う心をなくしていた。

「……なぜ月は、あんなにも冷たく光るのだろう」
 葡萄酒の香りさえ、彼には苦味しか残さなかった。

 その時、彼の前に白い衣の女神が降り立った。
 長い髪は夜風に揺れ、瞳は月光を宿している。
「リュカオン、あなたの嘆きは月に届いています」
「……誰だ」
「私はセレネイア、月を司る乙女。今宵、あなたに試練が訪れる」

「試練……?」
「ハーベストムーンはまもなく影に覆われる。皆既月食の闇は、心に潜む喪失を映し出すの。あなたが恐れているものを、すべて」
「……そんなもの、もう十分だ」
「逃げてはならない。影を受け入れたとき、光は再び生まれる」

 その言葉に、リュカオンは息を呑んだ。
 空を見上げると、月がゆっくりと赤銅色に染まり始めていた。

 影が広がるにつれ、世界は静寂に包まれていく。
 笛や太鼓の音もやみ、村人たちの歓声は不安のざわめきへと変わった。
 冷たい風が吹き、焚き火の火が揺らぐ。
 草の匂いは湿り気を帯び、空気は重く沈んだ。

「見ろ、月が消える!」
「不吉だ!」

 人々の声が恐怖に染まる。
 その中で、リュカオンだけが目を逸らさなかった。

「……妻よ、今どこにいる」
 彼の瞳に、月の赤が涙のように映り込んだ。

 やがて、闇の中から声が響いた。
「リュカオン……」
 亡き妻、ディオーネの声だった。
 振り向くと、薄闇に彼女の姿が浮かんでいる。
 白い衣は影に溶け、輪郭は儚げに揺れていた。

「どうして僕を置いていった……!」
「私は置いていったのではない。死はただの通過点。けれどあなたは、ずっと影に囚われている」
「僕は……忘れられないんだ」
「忘れなくていい。ただ、悲しみに飲まれ続けてはいけないの」

 ディオーネの声は優しかった。
 それでも胸に突き刺さる。

 セレネイアが横から囁く。
「リュカオン、選ぶのです。影に留まるか、光へ歩むか」

 リュカオンは拳を握り、夜空を仰いだ。
 皆既月食の赤銅色の月が、まるで血の涙を流しているようだった。
 冷たい風が頬を刺し、涙の塩辛さが唇に触れる。

「……僕は、生きる」
「ほんとうに?」ディオーネが問う。
「君を愛している。その想いは消えない。だが――これからは、その想いを抱いたまま前を向く」
「ならば、私は安心して眠れる」

 ディオーネの輪郭は光に溶け、やがて消えていった。

 その瞬間、月が再び輝きを取り戻した。
 赤銅の闇が退き、純白の光が夜を満たしていく。
 村人たちは歓声を上げ、笛と太鼓が再び鳴り響いた。
 焚き火の炎が勢いを増し、焼きたてのパンの香りが空腹を刺激する。

 セレネイアは微笑み、リュカオンに言った。
「あなたは影を受け入れた。だから光を得たのです」
「……妻に会えたのは、幻か」
「幻ではない。月食の闇は心を映す鏡。彼女はあなたの愛の中に生きている」

 リュカオンは深く息を吸い込んだ。
 冷たい夜気が肺に満ち、やがて温かな力に変わっていく。

「セレネイア……ありがとう」
「感謝するのは月ではなく、あなた自身の勇気よ」
 女神は夜空に溶けるように消えた。

 リュカオンは公園のベンチに腰を下ろす村人たちの歓声を背に、ただ空を見上げた。
 そこには輝きを取り戻したハーベストムーン。
 秋の実りを祝う光が、大地を優しく包んでいた。

「……これからは、この光とともに生きよう」

 月の下、リュカオンの目にはもう恐れはなかった。
 ただ確かな未来への一歩が、胸の奥で息づいていた。

(了)

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