492 / 1,436
花
白き尾の誓い
しおりを挟む
『白き尾の誓い』
むかし、オリュンポスの麓、風の神ボレアスが吹き下ろす谷間に、ひとりの美しい乙女がいた。名はリュシマキア。銀のように白く輝く長い髪を持ち、森の泉で水を汲み、山の鳥と語らう姿は、まるでニンフのようだった。
だが彼女は神ではなかった。ただの人間の娘――美しさゆえに運命に翻弄される、儚い命。
ある日、戦の神アレウスが、野を越え山を越えた帰り道、偶然、森の泉で踊るリュシマキアを見つけた。
その姿に一瞬で心を奪われた彼は、馬から降りて、そっと泉へ近づいた。
「名を聞かせてくれ、美しき者よ」
リュシマキアは驚きながらも、静かに名乗った。
「私の名はリュシマキア。風と花と共に、ここに生きております」
アレウスは笑い、彼女に手を差し出した。
「私は戦の神、アレウス。そなたの笑顔は剣よりも強い。私の妻となり、オリュンポスに来る気はないか?」
だが、リュシマキアは首を横に振った。
「私には、ここで咲く野の花たちが家族。オリュンポスは、あまりにも遠いのです」
神の求婚を断ること、それは傲慢でも愚かでもない。だが、運命は容赦しなかった。
アレウスは怒らなかった。むしろ、その純粋さにさらに惹かれ、何度も彼女を訪ねては言葉を交わした。
やがて、彼のまなざしにこもる誠意と優しさに、リュシマキアの心も少しずつ揺れ始めた。
だがその恋を快く思わない者がいた。
戦の女神エニオ、アレウスのかつての戦友にして密かに彼を想っていた神だった。
ある夜、嫉妬に狂ったエニオはリュシマキアの家を訪ねた。姿は老女に変えられていたが、声には毒があった。
「お前は、神に恋するとは、身の程知らずだね」
「私は……ただ、彼と話す時間が好きなだけ……」
「では、試してみるといい。もし、彼が真にお前を愛しているなら、どんな姿になっても愛するだろう」
そう言ってエニオはリュシマキアの額に指を触れた。
瞬間、彼女の体は白銀の花へと変わった。長くしなだれる尾のような穂先。葉は風にそよぎ、根は土へと沈んだ。
その姿こそが、「おかとらのお」――後に人々がそう呼ぶようになった植物のはじまりだった。
アレウスは何日も彼女を探し続けた。森を歩き、泉を巡り、風に問い、鳥に呼びかけた。
そして、かつて彼女が踊っていた泉に咲く、白く長い尾の花を見つけた。
「……リュシマキア……?」
風が吹き、花の穂がふるえた。まるで、彼の声に応えるように。
アレウスはその花を手折ろうとしたが、できなかった。彼は膝をつき、静かに語りかけた。
「君を守れなかった。神でありながら、君をこの世界に繋ぎ止めることができなかった。許してくれ……」
その言葉とともに、彼は花の前に剣を捧げた。神の誓い――もう剣を振るうことはない、と。
戦の神は、リュシマキアの名を冠して花を守る神となった。
彼が去ったあと、泉のほとりにそっと咲く「おかとらのお」は、風に揺れながら、まるで誰かを待っているかのように、その白い尾を振った。
時が流れ、神々の記憶も、英雄の物語も風に溶けた。
だが、「おかとらのお」は今でも初夏に咲き、そのしなやかな姿で風と語り合っている。
それは、神に恋し、神に愛されたひとりの乙女の、白き尾の誓い。
永遠に揺れるその花に耳を傾ければ――
もしかしたら、あなたにも、彼女の想いが届くかもしれない。
むかし、オリュンポスの麓、風の神ボレアスが吹き下ろす谷間に、ひとりの美しい乙女がいた。名はリュシマキア。銀のように白く輝く長い髪を持ち、森の泉で水を汲み、山の鳥と語らう姿は、まるでニンフのようだった。
だが彼女は神ではなかった。ただの人間の娘――美しさゆえに運命に翻弄される、儚い命。
ある日、戦の神アレウスが、野を越え山を越えた帰り道、偶然、森の泉で踊るリュシマキアを見つけた。
その姿に一瞬で心を奪われた彼は、馬から降りて、そっと泉へ近づいた。
「名を聞かせてくれ、美しき者よ」
リュシマキアは驚きながらも、静かに名乗った。
「私の名はリュシマキア。風と花と共に、ここに生きております」
アレウスは笑い、彼女に手を差し出した。
「私は戦の神、アレウス。そなたの笑顔は剣よりも強い。私の妻となり、オリュンポスに来る気はないか?」
だが、リュシマキアは首を横に振った。
「私には、ここで咲く野の花たちが家族。オリュンポスは、あまりにも遠いのです」
神の求婚を断ること、それは傲慢でも愚かでもない。だが、運命は容赦しなかった。
アレウスは怒らなかった。むしろ、その純粋さにさらに惹かれ、何度も彼女を訪ねては言葉を交わした。
やがて、彼のまなざしにこもる誠意と優しさに、リュシマキアの心も少しずつ揺れ始めた。
だがその恋を快く思わない者がいた。
戦の女神エニオ、アレウスのかつての戦友にして密かに彼を想っていた神だった。
ある夜、嫉妬に狂ったエニオはリュシマキアの家を訪ねた。姿は老女に変えられていたが、声には毒があった。
「お前は、神に恋するとは、身の程知らずだね」
「私は……ただ、彼と話す時間が好きなだけ……」
「では、試してみるといい。もし、彼が真にお前を愛しているなら、どんな姿になっても愛するだろう」
そう言ってエニオはリュシマキアの額に指を触れた。
瞬間、彼女の体は白銀の花へと変わった。長くしなだれる尾のような穂先。葉は風にそよぎ、根は土へと沈んだ。
その姿こそが、「おかとらのお」――後に人々がそう呼ぶようになった植物のはじまりだった。
アレウスは何日も彼女を探し続けた。森を歩き、泉を巡り、風に問い、鳥に呼びかけた。
そして、かつて彼女が踊っていた泉に咲く、白く長い尾の花を見つけた。
「……リュシマキア……?」
風が吹き、花の穂がふるえた。まるで、彼の声に応えるように。
アレウスはその花を手折ろうとしたが、できなかった。彼は膝をつき、静かに語りかけた。
「君を守れなかった。神でありながら、君をこの世界に繋ぎ止めることができなかった。許してくれ……」
その言葉とともに、彼は花の前に剣を捧げた。神の誓い――もう剣を振るうことはない、と。
戦の神は、リュシマキアの名を冠して花を守る神となった。
彼が去ったあと、泉のほとりにそっと咲く「おかとらのお」は、風に揺れながら、まるで誰かを待っているかのように、その白い尾を振った。
時が流れ、神々の記憶も、英雄の物語も風に溶けた。
だが、「おかとらのお」は今でも初夏に咲き、そのしなやかな姿で風と語り合っている。
それは、神に恋し、神に愛されたひとりの乙女の、白き尾の誓い。
永遠に揺れるその花に耳を傾ければ――
もしかしたら、あなたにも、彼女の想いが届くかもしれない。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる