ギリシャ神話

春秋花壇

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創作

ティアの涙:雨降る七夕の夜

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ティアの涙:雨降る七夕の夜

漆黒の空が、重く、低く垂れ込めていた。アテネの街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ひやりとした夜の帳がすべてを覆い尽くしている。ゼウス神殿の白い大理石の柱は、雨粒に濡れ、鈍い光を反射していた。今日は、遠い東の国で、年に一度、恋人たちが天の川を渡って再会を果たすという、特別な夜。だが、ギリシャの空は、その奇跡を許すまいとばかりに、容赦なく雨を降らせていた。

オリオンの守護者、月の女神アルテミスは、神殿の奥深く、自室で静かに座していた。彼女の心は、空の雨音と同じように、激しく波打っていた。窓の外では、雨が石畳を叩きつける音が、太鼓のように響き渡る。湿った風が、微かにレモンの香りを運び込むが、その香りも、アルテミスの心を慰めることはなかった。

彼女の愛する偉大なる狩人オリオンは、この七夕の夜、最も遠く、地平線の下へと深く沈んでしまう。夏の間、彼の姿は夜空から消え、アルテミスはただ、彼の輝きが戻る冬を待ちわびるしかなかった。年に一度の、東の国の恋人たちの逢瀬の日。その物語を知るたびに、アルテミスの胸は、叶わぬ自らの願いに苦しめられた。

あの悲劇の日以来、オリオンの体から流れ出た温かい血の匂い、彼の絶命の叫び、そして彼の体が冷たくなっていく感覚が、アルテミスの五感に深く刻み込まれている。その自責の念は、何千年もの時を経ても、彼女の心を蝕んでいた。今日のように雨が降るたびに、それは、まるでアポロンが放った矢のように、アルテミスの心を深く貫くのだ。雨粒が窓を叩く音は、かつてオリオンの胸に突き刺さった、あの矢の音のように響いた。

「なぜ、我らはかくも引き裂かれねばならぬのか…」

アルテミスの声は、自室の冷たい壁に吸い込まれていく。彼女の瞳には、星々ではなく、雨に濡れた街の明かりが、涙のように揺れていた。女神としての威厳を保ちながらも、その心は、一人の女としての深い悲しみに打ち震えていた。頬を伝う涙は、雨粒のように冷たく、そして塩辛かった。

その時、遠くの森から、物悲しい笛の音が聞こえてきた。牧神パンが奏でる、慰めの調べだった。その音色は、アルテミスの凍りついた心を、ゆっくりと解きほぐしていくようだった。彼女は、目を閉じた。

(オリオン…)

心の中で、彼の名を呼ぶ。すると、彼女の心の中に、彼との思い出が鮮やかに蘇ってきた。共に森を駆け巡った喜び、獲物を仕留めた時の達成感、そして焚き火を囲んで語り合った、穏やかな時間。彼の笑顔、彼の声、彼の力強い抱擁の温かさ。その全てが、アルテミスの心を満たしていく。だが、その記憶が、同時に深い喪失感を呼び起こす。

「貴方は、私の中に生きている…」

アルテミスは、ゆっくりと立ち上がった。彼女は、弓を再び手に取った。木製の弓の冷たい感触が、彼女の決意を固める。彼女は、オリオンとの再会を、ただ待つだけではないと決めた。彼女は狩りの女神、そして月の女神。彼女にできることがあるはずだ。

アルテミスは、自身の神力を集中させた。彼女の指先から、銀色の光が放たれ、弓の弦に吸い込まれていく。しかし、今日の夜空は、雲と雨に閉ざされている。矢を放っても、その光は天に届かないだろう。その事実が、アルテミスをさらに絶望させた。

「この雨が…この雨が、我らの逢瀬を阻むのか…!」

アルテミスは、苦悶の表情を浮かべ、再び膝をついた。彼女の拳が、床を叩く。その音は、雨音に掻き消された。

その時、彼女の耳に、微かな、しかし確かに聞こえる声が響いた。
それは、東の国の神話に登場する、カササギたちの声だった。
カササギは、年に一度の逢瀬の日、天の川に橋を架けるという。
アルテミスの心に、希望の光が差し込んだ。

「カササギよ…!」

アルテミスは、祈るように、その名を呼んだ。すると、神殿の窓の外に、黒と白の羽を持つ、数えきれないほどの鳥たちが集まってくるのが見えた。彼らの羽は、雨に濡れ、鈍い光を放っている。カササギたちの鳴き声が、雨音の中に、奇妙なハーモニーを奏で始めた。それは、甲高く、時に耳障りだが、今は、アルテミスの耳には、まるで希望の歌のように聞こえた。

彼らは、東の国から、七夕の日に雨が降ることを予期し、アルテミスのもとに集まってきてくれたのだ。彼らの小さな瞳には、確かな意志の光が宿っていた。

アルテミスは、再び弓を構えた。彼女の心には、新たな決意が宿っていた。彼女は、弓の弦に、自身の血を一滴垂らした。その血は、銀色の光と混じり合い、赤く輝く矢となった。それは、彼女の深い愛情と、自責の念、そしてオリオンへの強い想いが込められた矢だった。

「どうか…オリオンのもとへ…!」

アルテミスは、矢を放った。矢は、窓の外の激しい雨をものともせず、真っ直ぐに空へと昇っていく。その矢の後を追うように、無数のカササギたちが、まるで一つの生き物のように、空へと舞い上がった。彼らの羽ばたく音が、雨音を切り裂き、力強い風を生み出した。

カササギたちは、矢の周囲を旋回し、その体に、自らの羽から抜き取った一本一本の羽を、まるで星のように貼り付けていった。カサカサという羽の音が、夜空に響き渡る。彼らの体が、雨に濡れ、凍える中でも、彼らは決して諦めなかった。彼らは、矢をさらに強く、そして速く、天の川へと押し上げた。その羽ばたきは、まるで小さな風の神々が、力を合わせているかのようだった。

そして、カササギたちの献身的な努力によって、赤い矢は、厚い雨雲を突き破った。雲の切れ間から、微かに、しかし確かに、星の光が顔を覗かせた。その光は、オリオン座の、最も明るい星だった。

赤い矢は、その星へと吸い込まれていった。

その瞬間、遠く離れた星々の間で、オリオンは、自身の体に温かい光が満ちていくのを感じた。それは、まるでアルテミスの体温が、直接彼に触れているかのようだった。彼の周囲の星々が、かつてないほど強く輝きを放っていることに気づいた。その輝きは、単なる星の光ではない。アルテミスの愛情と、彼女の呼び声が、そのまま光となって、彼に届いたのだ。そして、彼を包み込む光の奥に、無数の小さな羽の感触を感じた。

「アルテミス…!」

オリオンの心の奥底から、彼女の名が響き渡る。彼は、遠く、地上のエーゲ海を見つめた。雲に覆われていたはずの空の、ほんの一部分だけが、まるで彼らの呼び声に応えるように、ゆっくりと開いていく。その隙間から、アルテミスの放った赤い矢の軌跡が、微かに、しかし確かに見えた。それは、カササギたちの羽によって、天へと続く、まるで星の橋のようだった。

アルテミスは、自身の放った矢が、夜空に確かにオリオンの光を引き寄せたのを感じた。その光は、弱々しいものではなく、以前よりもさらに力強く、そして穏やかな輝きを放っていた。それは、彼女の保護力と愛情が、オリオンの力強さと不屈の精神と結びついた証だった。そして、カササギたちの助けと忍耐が、その奇跡を可能にしたのだ。

彼女は、冷たい石床の上に、そっと座り込んだ。しかし、その顔に、以前のような悲しみの色はなかった。瞳は、穏やかな光を宿している。彼女は、自分の中に、男性性と女性性の両方の側面が、バランスを取り始めているのを感じていた。強さだけでは、何も救えない。冷徹な理性だけでは、孤独に苛まれる。しかし、優しさや思いやりだけでも、大切なものを守ることはできない。勇気と愛情、実行力と忍耐。その両方が揃って初めて、真の力となるのだ。

アルテミスは、胸の奥で、確かな温かさを感じていた。それは、オリオンの存在だけでなく、彼女自身の心の調和が生み出した温かさだった。彼女は、深呼吸をした。雨上がりの潮風の香りが、以前よりも清らかに感じられた。

七月七日の夜。雨は、まだ降り続いていたが、雲の切れ間から見えるオリオンの輝きは、確かな希望の光だった。カササギたちは、役目を終え、満足げに森へと帰っていく。彼らの羽音は、雨音の中に溶け込み、遠ざかっていった。

夜が深まり、空に唯一開いた隙間から、オリオン座の星々が、まるでアルテミスを見守るかのように瞬いていた。その光は、遠く離れた恋人たちを結びつける、希望の光だった。そして、それは、アルテミス自身が、自分の中の全てを受け入れ、調和させたことで生まれた、新しい輝きでもあった。

雨降る七夕の夜は、カササギの献身と、アルテミスの深い愛によって、星の橋が架けられた、奇跡の一夜となった。夜空の星々が、まるで彼らの未来を祝福するように、静かに、そして美しく輝き続けていた。

【了】

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