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第一章
コードネームは「ミスター・A」
「ええ、それはもう……!」
喜び勇んで答えながらブランドンははた、と気づいた。相手を言いくるめようとしていたのに、話の腰を折られて思い通りに進められていないことに。
いや、勝負はここからだ。ブランドンは再び抜け目のない笑みをみせた。
「承知いたしました。では、何とお呼びすればよろしいので?」
「そうだな」
客はしばらく考えたあと、仮面越しにでもはっきりと分かるほど目を輝かせた。
「ミスター・Aとでも呼んでもらおうか」
「はあ。『ミスター・A』、ですか」
「ああ。コードネームのようで面白いだろう?」
全く面白くはないのだが、そこは商売人。機嫌よく笑う客――ミスター・A――に合わせ、ブランドンは如才なく声を上げて笑った。
「ではミスター・A。お言葉ではございますが、私共といたしましても、出来うる限り最上のお品をお見せしております。一体何がお気に召さなかったのか、教えていただけないでしょうか」
「何がだと? 本当に分からないのか?」
「ええ。残念ながら」
「ふむ」
ミスター・Aと名乗る客は尊大なしぐさで脚を組んだ。遠慮という言葉を知らぬげな客の長い脚が、ブランドンの視界を横切る。
この野郎。ちょっとばかり脚が長いからって自慢しやがって。
平均より若干脚の短かめなブランドンは、顔が映りそうなほど磨かれた靴先を腹立ちまぎれにちらりと見おろし、ぎょっとして目をひん剥いた。
彼が履いているのはなんの変哲もない、優美なまでにクラシカルな黒の革靴だ。だがブランドンは見逃さなかった。最上級レザー独特のシボと見事なステッチ。これは間違いなく国内で一番人気のある皮革工房「サットン」の、しかも一番腕のいい職人の手によるものだ。
アッパーからソールの革まですべてその職人が自ら裁断し、ヒール部分は曲線に合わせてカットした革を一枚一枚積み上げて作るという手間のかけよう。金も時間もたっぷりかかった贅沢なビスポークシューズは「履く宝石」とまで称され、王族ですら数年待ちと噂されるほどの人気ぶりだ。
ちなみに、今ブランドンが履いているのも同じ工房のものだが、どれだけ金を積み伝手を頼っても一番腕のいい職人に依頼することは叶わず、結局これは三番手の職人のものである。
三番手といえど人気工房であれば大したもので、初めて履いたときにはあまりの心地よさに感動したものだが、目の前に最高の職人によって作られた極上の靴をぶら下げられれば喜びは半減だ。
これ見よがしに突き出された足を凝視するブランドンへ、その客は傲慢な口調で告げた。
「ではもう一度聞こう。ブランドン、お前が一番初めに持ってきた懐中時計だが、最新の仕掛けを組み込んだ最上級のものだと言ったな」
「はい」
ブランドンはハッとして、いそいそと時計を取り出した。
「先ほどもご説明しましたとおり、蓋にエナメル彩を施した美しいものであるうえに、最新の技術を惜しみなく搭載しております。こちらは大変希少なもので、時計を蒐集される方々でもなかなかお持ちでない、入手困難なものとなっております」
彩色されたフェイスを披露しながら得意げに説明する。
「こちらのレバーを押していただければ、チャイムを鳴らして現在時刻をお知らせいたします。この仕掛けが非常に精巧でして、目の肥えたお客様も垂涎の……」
言葉を途切れさせたブランドンの視線は、ミスター・Aがおもむろに取り出した懐中時計にくぎ付けとなった。
「そ、それは……!」
ハンターケースの蓋が音もなく開かれる。現れたのは傷一つないクリスタルの文字盤だ。そこからは精巧なムーブメントが芸術品のような美しさで配置されているのが見えた。おまけに。
「そ、そ、その刻印は、ま、まさか」
「うん?」
蓋裏に刻まれた「louis#000」の文字。ブランドンは我が目を疑った。これは国内どころか世界的にも有名な時計職人ルイ・ギブソンの刻印だ。
ルイは正に時計界における天才で、他の追随を許さない自由な発想と確かな技術力から、時計の歴史を塗り替え数百年早めたとまでいわれている。
顎が地面につきそうなほどあんぐりと口を開けたブランドンを横目に、ミスター・Aはあっさりと答えた。
「これか? 俺が投資している時計職人からもらった試作品なんだ。ほら、売り物でない証拠にシリアルナンバーも『000』となっているだろう?」
ミスター・Aは片手で蓋を閉めると、慣れた様子でベストのポケットにそれをしまった。ハンターケースと合わせたゴールドのウォッチチェーンがきらりと光る。
「なんでも、考えつく限りの技術を詰め込んだと言っていたな。お前が今説明したミニッツリピーターに、うるう年まで計算したカレンダー、あとは……重力によって時計が狂うのを防ぐための仕掛けだったか」
「もう一度見せてください!!!!」
目を血走らせたブランドンは、仕事を忘れて客に詰め寄った。何を隠そうブランドンは大変な時計蒐集家なのだ。それも、機械が狂いなく動くさまを延々見ていられるというタイプ。
別に高価なものでなくても構わないのだが、高くなればなるほど当然のごとく動きが複雑になり仕掛けも増え、ブランドンの心を満たしてくれる。結果的にコレクションは高級時計ばかりだ。
そんなブランドンの懇願を、ミスター・Aはにべもなく断った。
「悪いな。あまり見せびらかすなと言われているんだ」
「そんな殺生な! どうか、どうかあと少し、ひと目だけでも!!」
大きな手を男らしく引き締まった顎に当てた客は、プヨプヨとした顎を震わせるブランドンを見下ろした。
「そんなに見たいのか」
「見たいなんてものではありません」
「いいだろう。互いに名前を呼び合う仲だ。特別に見せてやる」
間近でそれを見たブランドンの感動を、どう表現すればいいだろう。
磨かれたゼンマイと針の規則的な動き。見たこともない仕掛けが神の手によるものとしか思えない見事な配置で並んでいる。あるべきものがあるべきところへ収まり、これ以上はあり得ないという正しい秩序が、究極の美と真実がそこにはあった。
うっとりと見つめる視線を、ミスター・Aは時計をしまうことで容赦なく断ち切った。
喜び勇んで答えながらブランドンははた、と気づいた。相手を言いくるめようとしていたのに、話の腰を折られて思い通りに進められていないことに。
いや、勝負はここからだ。ブランドンは再び抜け目のない笑みをみせた。
「承知いたしました。では、何とお呼びすればよろしいので?」
「そうだな」
客はしばらく考えたあと、仮面越しにでもはっきりと分かるほど目を輝かせた。
「ミスター・Aとでも呼んでもらおうか」
「はあ。『ミスター・A』、ですか」
「ああ。コードネームのようで面白いだろう?」
全く面白くはないのだが、そこは商売人。機嫌よく笑う客――ミスター・A――に合わせ、ブランドンは如才なく声を上げて笑った。
「ではミスター・A。お言葉ではございますが、私共といたしましても、出来うる限り最上のお品をお見せしております。一体何がお気に召さなかったのか、教えていただけないでしょうか」
「何がだと? 本当に分からないのか?」
「ええ。残念ながら」
「ふむ」
ミスター・Aと名乗る客は尊大なしぐさで脚を組んだ。遠慮という言葉を知らぬげな客の長い脚が、ブランドンの視界を横切る。
この野郎。ちょっとばかり脚が長いからって自慢しやがって。
平均より若干脚の短かめなブランドンは、顔が映りそうなほど磨かれた靴先を腹立ちまぎれにちらりと見おろし、ぎょっとして目をひん剥いた。
彼が履いているのはなんの変哲もない、優美なまでにクラシカルな黒の革靴だ。だがブランドンは見逃さなかった。最上級レザー独特のシボと見事なステッチ。これは間違いなく国内で一番人気のある皮革工房「サットン」の、しかも一番腕のいい職人の手によるものだ。
アッパーからソールの革まですべてその職人が自ら裁断し、ヒール部分は曲線に合わせてカットした革を一枚一枚積み上げて作るという手間のかけよう。金も時間もたっぷりかかった贅沢なビスポークシューズは「履く宝石」とまで称され、王族ですら数年待ちと噂されるほどの人気ぶりだ。
ちなみに、今ブランドンが履いているのも同じ工房のものだが、どれだけ金を積み伝手を頼っても一番腕のいい職人に依頼することは叶わず、結局これは三番手の職人のものである。
三番手といえど人気工房であれば大したもので、初めて履いたときにはあまりの心地よさに感動したものだが、目の前に最高の職人によって作られた極上の靴をぶら下げられれば喜びは半減だ。
これ見よがしに突き出された足を凝視するブランドンへ、その客は傲慢な口調で告げた。
「ではもう一度聞こう。ブランドン、お前が一番初めに持ってきた懐中時計だが、最新の仕掛けを組み込んだ最上級のものだと言ったな」
「はい」
ブランドンはハッとして、いそいそと時計を取り出した。
「先ほどもご説明しましたとおり、蓋にエナメル彩を施した美しいものであるうえに、最新の技術を惜しみなく搭載しております。こちらは大変希少なもので、時計を蒐集される方々でもなかなかお持ちでない、入手困難なものとなっております」
彩色されたフェイスを披露しながら得意げに説明する。
「こちらのレバーを押していただければ、チャイムを鳴らして現在時刻をお知らせいたします。この仕掛けが非常に精巧でして、目の肥えたお客様も垂涎の……」
言葉を途切れさせたブランドンの視線は、ミスター・Aがおもむろに取り出した懐中時計にくぎ付けとなった。
「そ、それは……!」
ハンターケースの蓋が音もなく開かれる。現れたのは傷一つないクリスタルの文字盤だ。そこからは精巧なムーブメントが芸術品のような美しさで配置されているのが見えた。おまけに。
「そ、そ、その刻印は、ま、まさか」
「うん?」
蓋裏に刻まれた「louis#000」の文字。ブランドンは我が目を疑った。これは国内どころか世界的にも有名な時計職人ルイ・ギブソンの刻印だ。
ルイは正に時計界における天才で、他の追随を許さない自由な発想と確かな技術力から、時計の歴史を塗り替え数百年早めたとまでいわれている。
顎が地面につきそうなほどあんぐりと口を開けたブランドンを横目に、ミスター・Aはあっさりと答えた。
「これか? 俺が投資している時計職人からもらった試作品なんだ。ほら、売り物でない証拠にシリアルナンバーも『000』となっているだろう?」
ミスター・Aは片手で蓋を閉めると、慣れた様子でベストのポケットにそれをしまった。ハンターケースと合わせたゴールドのウォッチチェーンがきらりと光る。
「なんでも、考えつく限りの技術を詰め込んだと言っていたな。お前が今説明したミニッツリピーターに、うるう年まで計算したカレンダー、あとは……重力によって時計が狂うのを防ぐための仕掛けだったか」
「もう一度見せてください!!!!」
目を血走らせたブランドンは、仕事を忘れて客に詰め寄った。何を隠そうブランドンは大変な時計蒐集家なのだ。それも、機械が狂いなく動くさまを延々見ていられるというタイプ。
別に高価なものでなくても構わないのだが、高くなればなるほど当然のごとく動きが複雑になり仕掛けも増え、ブランドンの心を満たしてくれる。結果的にコレクションは高級時計ばかりだ。
そんなブランドンの懇願を、ミスター・Aはにべもなく断った。
「悪いな。あまり見せびらかすなと言われているんだ」
「そんな殺生な! どうか、どうかあと少し、ひと目だけでも!!」
大きな手を男らしく引き締まった顎に当てた客は、プヨプヨとした顎を震わせるブランドンを見下ろした。
「そんなに見たいのか」
「見たいなんてものではありません」
「いいだろう。互いに名前を呼び合う仲だ。特別に見せてやる」
間近でそれを見たブランドンの感動を、どう表現すればいいだろう。
磨かれたゼンマイと針の規則的な動き。見たこともない仕掛けが神の手によるものとしか思えない見事な配置で並んでいる。あるべきものがあるべきところへ収まり、これ以上はあり得ないという正しい秩序が、究極の美と真実がそこにはあった。
うっとりと見つめる視線を、ミスター・Aは時計をしまうことで容赦なく断ち切った。
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