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第七章
王太子からの招待②
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通された謁見室は意外なほど小さかった。
とはいえ三段ほど高く設えられた壇上と、アレクシスの立つ場所までは十メートルほど離れている。両端には騎士と数人の男女が並び、静かな緊張感が漂っていた。
アレクシスは今、真っすぐに伸びる緋毛氈の上で王太子が現れるのを待っている。仰々しい対面ではないと聞かされていたが、いかにも「謁見」じみた環境に妹の言葉を思い出した。これはハリントンに身の程を思い知らせるためのものではないかという言葉を。
扉前の従僕から目配せをされ、片膝をつく。顔を伏せるアレクシスの耳に扉の開く音が聞こえた。そして続く、複数の人の気配。
ドクン、と心臓が強く打った。微かに聞こえる衣擦れは女性のものだ。
まさかと思いながら、アレクシスはどうしても誘惑に抗うことができなかった。許しも得ずに顔を上げる。
――クラリス……!
そこにはアレクシスが繰り返し夢に見た、恋焦がれた人が立っていた。
肩までだったプラチナブロンドは七か月分伸び、形よく結われていた。クリーム色のドレスの裾はたっぷりとしたひだと同色のシルクフラワーで飾られている。ウエストは菫色のリボンでキュッと結ばれ、ふんわりとした印象のドレスを引き締めていた。
考えてみれば、女性として装うクラリスを見るのは初めてなのだ。アレクシスは食い入るようにその姿を見つめた。
「顔を上げてくれ……とは、言う必要がないようだね」
ハッとして見れば、クラリスの隣には王太子ジョージともう一人、背の高い男性が立っていた。
クラリスとよく似たその男性には左腕がない。上着の左肩から先が頼りなく揺れている。クラリスの兄で、今はシエルハーンの国王に即位したルークだった。
アレクシスは無礼を詫びるように一度顔を伏せたが、我慢できずにすぐ顔を上げた。クラリスは部屋に入った時からずっと俯いていてこちらを見ようとはしない。
「紹介しよう。シエルハーン国王のルーク陛下だ。陛下、彼が先ごろからお伝えしているハリントン男爵家の当主、当代の『ジョナサン・ハーヴェイ』です」
ルークはしばらくの間黙ってアレクシスを見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「妹と弟が世話になったと聞いた。礼を言う」
短く言ってすぐに口を閉ざす。ジョージは苦笑しながら言葉を引き継いだ。
「実は陛下と私は旧知の間柄でね。あんなことが起きる前に、ルフトグランデへの留学も検討されていたんだよ。同じ王太子という立場もあって、僕からもお勧めしていたんだ、ご兄妹弟が順番に外の世界を経験してはどうかとね。しかし、クラリス殿下については母君の反対があって、実現は難しかろうとも思っていた。適齢期の姫だ、他国に出すのは何かと制約がある。だがヴィクター殿下が成長なさる頃には、きっと両国の関係は今よりももっと密になっているだろうと、よく話し合ったものだ」
名を呼ばれて初めて、クラリスが伏せていた長い睫毛を持ち上げた。
蝶が羽ばたくようにして瞬いた菫色の瞳の、何という美しさ。
一瞬だけ合った視線は、しかしすぐに逸らされる。それを知ってか知らでか、ジョージはクラリスの手を取って自分の隣に引き寄せた。
「ハリントン卿。分かっていると思うが、クラリス姫とヴィクター殿下がそちらにいたことは内密にしてくれ。王族が身をやつして君の家に引き取られていたとなると、無用な勘繰りを受けかねない。特に、姫の醜聞は避けねばならん」
「…………承知しております」
王太子はアレクシスにそう告げながら、視線は隣国の王女へ向けたままだ。クラリスも手を握るジョージを見つめている。
アレクシスは二人の間に流れる親密な雰囲気を目の当たりにして、激しい衝撃を受けていた。どう見ても誤解しようのない、二人だけに通じる感情が見て取れる。
アレクシスは独り自嘲した。
とんでもない自惚れだ。どんなに離れていても、婚姻の申し出を断られてさえ、クラリスの心は自分のものだと信じきっていた。
周囲の圧力でやむを得ず違う男に嫁ぐのだと、本当は自分のことを愛しているのだと、苦しく切ない日々の中でそれだけがひと筋の光明だったのだ。
現実はこんなにもはっきりと彼女の気持ちを表しているではないか。王太子への恋心を。
思えば男爵邸を出た後、クラリスは弟と二人王城に滞在していた。その頃から想いを育んでいたのだとすれば、過去にほんの少しだけ心を寄せた男のことなど忘れ去ってもおかしくはない。
アレクシスだけが取り残されている。クラリスはとうに新しい人生を歩んでいるというのに。
思わず顔を背けると、胸につけられた勲章が目に入った。妹の言葉が蘇る。女にとってドレスが戦闘服であるのなら、男の主戦場はどこで、何が武器になるというのか。
今のアレクシスにとって、それは身分だった。王女と男爵。金を持っているだけの下級貴族と未来の国王。余りにも違いすぎる身分は、同じ部屋にいてさえ彼らとの遥かに遠い距離を感じさせた。
「――ルフトグランデ王国には、我々も大変感謝している」
それまで口を閉ざしていたルークが突然切り出した。
クラリスと同じ色を持つ、非常に整った容姿の男性だ。小国の王だからと自らを卑下することのない、堂々とした態度と口調。それはおそらく、生まれた時から国を継ぐと定められていたが故のものなのだろう。
辛くなるだけだと分かっているのに、視線がまたクラリスに向かう。自分の意思でコントロールできない、まるで花の蜜に誘われる蜂のようだ。
強い視線に気づかないはずはないのに、クラリスは決してアレクシスと目を合わせようとはしなかった。それどころか持っていた扇を開き、アレクシスを避けるように顔の下半分を覆い隠した。
「知ってのとおり、我が国は叔父が起こしたクーデターのために大きな損害を被った。自国のみで立て直そうにもなかなか思うようにはいかなくてな」
ルークは妹の隣に立つジョージに笑顔を向けた。
「そこに、ルフトグランデから素晴らしい再建計画が提示された。シエルハーン国内の既存事業に梃入れしながら拡大を図り、その間に交易路を整備し人と物の流通を盛んにしていく。……以前から周辺国への流通網については問題視していたんだが、王太子という立場では如何ともし難かった。それを、まさか貴国からの出資で整備できるとは夢にも思わなかったものだ。それもこれも、今はまだ王太子位にある君からの言葉がきっかけで実現したと聞く。どれほど感謝しても足りないほどだ。改めて礼を言うよ」
「いや、そんな大したことはしていないさ。ただ、閣議の席で少しシエルハーンについて話をしただけで。後は全部、優秀な閣僚たちが手配してくれた」
「だが、君のその一言がこれだけの希望をもたらした。我が国にとってかけがえのない恩人だ。この恩は決して忘れない。そうだろう、クラリス」
クラリスはまず兄を見て、そして隣にいるジョージを見上げ、最後にようやくアレクシスを見た。そしてこくりと頷く。アレクシスはそれを黙って見ていた。
その再建計画は自分が考え、手配したものだ。だがクラリスに感謝されたくてしたことじゃない。だから別に、傷つく必要などない。自分にそう言い聞かせた。
「ハリントン卿」
王太子から今までとはやや違う声音で呼びかけられ、アレクシスは緊張を高めながら顔を上げた。先ほどまでとは違い、今度はクラリスの視線を頬に感じる。アレクシスはそれを知りながら、どうしても王女を――愛しい人の瞳を見返すことができなかった。
ジョージはアレクシスの葛藤を何もかも理解しているとでも言いたげに微笑んだ。
「君のことだ。おそらく聞き及んでいるかとは思うが、私たちは結婚することになった」
ぐ、と喉から声にならない声がもれた。
アレクシスは今度こそ思い知った。
覚悟していたはずだ。唯一と思い定め、生涯でたった一人愛すると決めた人が、自分以外の男と結婚する。だがその覚悟など何の役にも立たなかったことを、まざまざと思い知らされたのだ。
アレクシスはやっとの思いで、菫色の瞳の乙女に目を遣った。今度こそはっきりと視線を交わしあう。そして、彼女の睨むような強い視線に込められた想いを受け取った。
――クラリスは王太子妃として生きていくのだ。……葬り去った昔の男とではなく。
往生際悪く痛みを訴える心を宥めていると、ジョージがどこか落ち着かない様子でアレクシスを促してきた。
「ハリントン卿。何か言いたいことはないのか」
王太子の言葉から、アレクシスはようやく今日の対面の趣旨を理解した。結局のところ、これはアレクシスに序列と身の程を思い知らせるためのものだったのだ。
場所柄も弁えず、アレクシスは失笑しそうになった。これほどの侮辱、これほどの屈辱を与えられてなお、クラリスへの想いを断ち切れない自分に呆れたのだ。
もし妹がこの場にいたなら激怒しただろうが、アレクシスは極めて穏やかに頭を下げた。クラリスの前で……いや、彼女を奪った男の前で取り乱したくない、それだけが彼の矜持を保っていた。
「おめでとうございます。お二人の…………これからの人生が幸多からんことを、心からお祈り申し上げます」
深く一礼して立ち上がると、すぐに「失礼いたします」と背を向けた。
本来ならば許可がでるまでその場にいるのが臣下の勤めだ。だがアレクシスはもう耐えられなかった。王太子とクラリスの間に漂う親密な空気に。シエルハーン国王の冷ややかな態度に。そして何よりも、クラリスからの挑むような、非難するような目に耐えかねて、アレクシスは彼らに背を向けたのだった。
旅にでよう。アレクシスは唐突にそう決意した。
クラリスの幸せを願う気持ちに嘘はない。
だが、彼女の中で自らが過去の思い出へと……過ぎ去った在りし日の遺物に成り下がるのを見ていられるほど、アレクシスは強くなかった。
『愛おしい人の気配を色濃く感じる場所で、彼女だけがいないことを突きつけられながら生活できるほど、私は強くない』
父の言葉を、アレクシスは今こそ本当の意味で理解した。まさしく、アレクシスはクラリスの気配を感じるこの国で、これから先生きていくことを断念したのだった。
足早に扉へ向かうアレクシスの背後から、小さな「あっ」という声が聞こえた。
王太子の声だ。許しもなく退出することを咎めるつもりなのだろう。だが知ったことか。これ以上四の五の言うつもりなら、ハリントンに関係する国内資産を全て引き上げてやる。
…………いや、そんなことをすれば経済状況は一気に悪化し、クラリスを悩ませることになるかもしれない。やはりこのまま静かに国を出るのが一番だ。
できるだけ早く出国する方法を頭の中で算段していた時、部屋の両端に立つ人々に騒めきが広がり、同時に後頭部へ衝撃と痛みが走った。
「痛……っ」
何が起きたのか理解できないまま、サッと振り返る。壇上には変わらず王太子ジョージとシエルハーン国王、そしてクラリスが――。
クラリスは菫色の瞳にはっきりと怒りを宿らせてこちらを睨みつけていた。両の手は強く握られて拳になり、わなわなと震えている。
アレクシスの足元に扇が転がっている。勘違いでなければ、それは先ほどまでクラリスが持っていたものだった。
後頭部を右手で押さえたまま、アレクシスは視線をクラリスと落ちた扇の間で忙しく往復させる。周囲の人々はアレクシスとクラリス、そして扇の三点を視線で周回しているのだからもっと忙しなかったが、アレクシスがそれに気づくはずもない。
アレクシスは徐々に理解していった。どうやらクラリスが自分目がけて扇を投げ、それが後頭部に直撃したようだ。
だが、なぜ?
アレクシスは「クラリス……」と呼びかけ、己の立場と場所柄を考えて言いなおした。
「殿下、これは――」
「この、意気地なし!!」
壇上のクラリスは、唖然とする周囲の視線をものともせずに叫んだ。
「『殿下』ってなに? 『これからの人生が幸多からんことを』ってどういうこと? 私の気持ちを知っているくせに、どうしてそんな風に言えるのよ!」
叫びながら大きく足を踏み鳴らす。絶句するアレクシスは、向けられる怒りをただ受け止めるしかない。
「どうして七か月も放ったらかしにするの!? あなたはいつもそう、私があなたを好きだと分かっていて、く、口づけまでしたっていうのに、自分だけは絶対に安全圏から足を踏み出そうとしないんだわ。最低! 嘘つき! この……女たらし!」
焦ったアレクシスは助けを求めて壇上を見るが、王太子たちは二人揃って目を大きく見開き、口をOの形にしたまま呆然と立ちつくしている。普段の妹姫と余りにもかけ離れた姿が信じられないといった状態だ。クラリスは怒りが冷めやらぬ様子で、つかつかとアレクシスの前に歩み寄った。
「あなたは言ったじゃない! 生涯でたった一人の人だ、って。あれは嘘だったの? 私はあの言葉が嬉しくて、宝物で、ずっとずっとそれだけが支えだったのに。それなのにどうして……」
威勢のいい言葉の語尾が震えはじめる。菫色の瞳がみるみる潤んでいった。
「お兄様が、この場であなたが申し込んだら結婚を許すって……そう言ってくれたのに」
ぽろ、と丸い涙のつぶが頬を転がり落ちた。
「私は国のために愛してもいない人と結婚しなければならないって、ずっとそう思っていたわ。だからお兄様の言葉がすごく嬉しかった。だってあなたは絶対に私を誰にも渡さないはずだって、簡単に諦めるはずがないって、そう信じていたから」
瞬きのたびに白い頬を涙が伝う。クラリスはしゃくり上げながら、手の甲で乱暴に涙を拭った。それは王女クラリスではなく、従者フレディの仕草だった。
「どうして、何も言ってくれないの……? あなたも同じ気持ちだと思ったのは、私の勘違い……?」
我慢できなくなったアレクシスは、無言のままクラリスを抱きしめた。ぎゅっとしがみついてくる愛おしい人。言いたいことは山ほどあるはずなのに、言い訳も弁解も説明も、何もかも頭から吹き飛んでいた。
かぐわしいクラリスの香りに頭がクラクラする。このまま連れ去ってしまいたい。
だが、真っ先に確認しなければならないことがある。何度も唾を飲み、アレクシスはかすれ声をやっとの思いで絞り出した。
「クラリス、きみ、声が……?」
とはいえ三段ほど高く設えられた壇上と、アレクシスの立つ場所までは十メートルほど離れている。両端には騎士と数人の男女が並び、静かな緊張感が漂っていた。
アレクシスは今、真っすぐに伸びる緋毛氈の上で王太子が現れるのを待っている。仰々しい対面ではないと聞かされていたが、いかにも「謁見」じみた環境に妹の言葉を思い出した。これはハリントンに身の程を思い知らせるためのものではないかという言葉を。
扉前の従僕から目配せをされ、片膝をつく。顔を伏せるアレクシスの耳に扉の開く音が聞こえた。そして続く、複数の人の気配。
ドクン、と心臓が強く打った。微かに聞こえる衣擦れは女性のものだ。
まさかと思いながら、アレクシスはどうしても誘惑に抗うことができなかった。許しも得ずに顔を上げる。
――クラリス……!
そこにはアレクシスが繰り返し夢に見た、恋焦がれた人が立っていた。
肩までだったプラチナブロンドは七か月分伸び、形よく結われていた。クリーム色のドレスの裾はたっぷりとしたひだと同色のシルクフラワーで飾られている。ウエストは菫色のリボンでキュッと結ばれ、ふんわりとした印象のドレスを引き締めていた。
考えてみれば、女性として装うクラリスを見るのは初めてなのだ。アレクシスは食い入るようにその姿を見つめた。
「顔を上げてくれ……とは、言う必要がないようだね」
ハッとして見れば、クラリスの隣には王太子ジョージともう一人、背の高い男性が立っていた。
クラリスとよく似たその男性には左腕がない。上着の左肩から先が頼りなく揺れている。クラリスの兄で、今はシエルハーンの国王に即位したルークだった。
アレクシスは無礼を詫びるように一度顔を伏せたが、我慢できずにすぐ顔を上げた。クラリスは部屋に入った時からずっと俯いていてこちらを見ようとはしない。
「紹介しよう。シエルハーン国王のルーク陛下だ。陛下、彼が先ごろからお伝えしているハリントン男爵家の当主、当代の『ジョナサン・ハーヴェイ』です」
ルークはしばらくの間黙ってアレクシスを見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「妹と弟が世話になったと聞いた。礼を言う」
短く言ってすぐに口を閉ざす。ジョージは苦笑しながら言葉を引き継いだ。
「実は陛下と私は旧知の間柄でね。あんなことが起きる前に、ルフトグランデへの留学も検討されていたんだよ。同じ王太子という立場もあって、僕からもお勧めしていたんだ、ご兄妹弟が順番に外の世界を経験してはどうかとね。しかし、クラリス殿下については母君の反対があって、実現は難しかろうとも思っていた。適齢期の姫だ、他国に出すのは何かと制約がある。だがヴィクター殿下が成長なさる頃には、きっと両国の関係は今よりももっと密になっているだろうと、よく話し合ったものだ」
名を呼ばれて初めて、クラリスが伏せていた長い睫毛を持ち上げた。
蝶が羽ばたくようにして瞬いた菫色の瞳の、何という美しさ。
一瞬だけ合った視線は、しかしすぐに逸らされる。それを知ってか知らでか、ジョージはクラリスの手を取って自分の隣に引き寄せた。
「ハリントン卿。分かっていると思うが、クラリス姫とヴィクター殿下がそちらにいたことは内密にしてくれ。王族が身をやつして君の家に引き取られていたとなると、無用な勘繰りを受けかねない。特に、姫の醜聞は避けねばならん」
「…………承知しております」
王太子はアレクシスにそう告げながら、視線は隣国の王女へ向けたままだ。クラリスも手を握るジョージを見つめている。
アレクシスは二人の間に流れる親密な雰囲気を目の当たりにして、激しい衝撃を受けていた。どう見ても誤解しようのない、二人だけに通じる感情が見て取れる。
アレクシスは独り自嘲した。
とんでもない自惚れだ。どんなに離れていても、婚姻の申し出を断られてさえ、クラリスの心は自分のものだと信じきっていた。
周囲の圧力でやむを得ず違う男に嫁ぐのだと、本当は自分のことを愛しているのだと、苦しく切ない日々の中でそれだけがひと筋の光明だったのだ。
現実はこんなにもはっきりと彼女の気持ちを表しているではないか。王太子への恋心を。
思えば男爵邸を出た後、クラリスは弟と二人王城に滞在していた。その頃から想いを育んでいたのだとすれば、過去にほんの少しだけ心を寄せた男のことなど忘れ去ってもおかしくはない。
アレクシスだけが取り残されている。クラリスはとうに新しい人生を歩んでいるというのに。
思わず顔を背けると、胸につけられた勲章が目に入った。妹の言葉が蘇る。女にとってドレスが戦闘服であるのなら、男の主戦場はどこで、何が武器になるというのか。
今のアレクシスにとって、それは身分だった。王女と男爵。金を持っているだけの下級貴族と未来の国王。余りにも違いすぎる身分は、同じ部屋にいてさえ彼らとの遥かに遠い距離を感じさせた。
「――ルフトグランデ王国には、我々も大変感謝している」
それまで口を閉ざしていたルークが突然切り出した。
クラリスと同じ色を持つ、非常に整った容姿の男性だ。小国の王だからと自らを卑下することのない、堂々とした態度と口調。それはおそらく、生まれた時から国を継ぐと定められていたが故のものなのだろう。
辛くなるだけだと分かっているのに、視線がまたクラリスに向かう。自分の意思でコントロールできない、まるで花の蜜に誘われる蜂のようだ。
強い視線に気づかないはずはないのに、クラリスは決してアレクシスと目を合わせようとはしなかった。それどころか持っていた扇を開き、アレクシスを避けるように顔の下半分を覆い隠した。
「知ってのとおり、我が国は叔父が起こしたクーデターのために大きな損害を被った。自国のみで立て直そうにもなかなか思うようにはいかなくてな」
ルークは妹の隣に立つジョージに笑顔を向けた。
「そこに、ルフトグランデから素晴らしい再建計画が提示された。シエルハーン国内の既存事業に梃入れしながら拡大を図り、その間に交易路を整備し人と物の流通を盛んにしていく。……以前から周辺国への流通網については問題視していたんだが、王太子という立場では如何ともし難かった。それを、まさか貴国からの出資で整備できるとは夢にも思わなかったものだ。それもこれも、今はまだ王太子位にある君からの言葉がきっかけで実現したと聞く。どれほど感謝しても足りないほどだ。改めて礼を言うよ」
「いや、そんな大したことはしていないさ。ただ、閣議の席で少しシエルハーンについて話をしただけで。後は全部、優秀な閣僚たちが手配してくれた」
「だが、君のその一言がこれだけの希望をもたらした。我が国にとってかけがえのない恩人だ。この恩は決して忘れない。そうだろう、クラリス」
クラリスはまず兄を見て、そして隣にいるジョージを見上げ、最後にようやくアレクシスを見た。そしてこくりと頷く。アレクシスはそれを黙って見ていた。
その再建計画は自分が考え、手配したものだ。だがクラリスに感謝されたくてしたことじゃない。だから別に、傷つく必要などない。自分にそう言い聞かせた。
「ハリントン卿」
王太子から今までとはやや違う声音で呼びかけられ、アレクシスは緊張を高めながら顔を上げた。先ほどまでとは違い、今度はクラリスの視線を頬に感じる。アレクシスはそれを知りながら、どうしても王女を――愛しい人の瞳を見返すことができなかった。
ジョージはアレクシスの葛藤を何もかも理解しているとでも言いたげに微笑んだ。
「君のことだ。おそらく聞き及んでいるかとは思うが、私たちは結婚することになった」
ぐ、と喉から声にならない声がもれた。
アレクシスは今度こそ思い知った。
覚悟していたはずだ。唯一と思い定め、生涯でたった一人愛すると決めた人が、自分以外の男と結婚する。だがその覚悟など何の役にも立たなかったことを、まざまざと思い知らされたのだ。
アレクシスはやっとの思いで、菫色の瞳の乙女に目を遣った。今度こそはっきりと視線を交わしあう。そして、彼女の睨むような強い視線に込められた想いを受け取った。
――クラリスは王太子妃として生きていくのだ。……葬り去った昔の男とではなく。
往生際悪く痛みを訴える心を宥めていると、ジョージがどこか落ち着かない様子でアレクシスを促してきた。
「ハリントン卿。何か言いたいことはないのか」
王太子の言葉から、アレクシスはようやく今日の対面の趣旨を理解した。結局のところ、これはアレクシスに序列と身の程を思い知らせるためのものだったのだ。
場所柄も弁えず、アレクシスは失笑しそうになった。これほどの侮辱、これほどの屈辱を与えられてなお、クラリスへの想いを断ち切れない自分に呆れたのだ。
もし妹がこの場にいたなら激怒しただろうが、アレクシスは極めて穏やかに頭を下げた。クラリスの前で……いや、彼女を奪った男の前で取り乱したくない、それだけが彼の矜持を保っていた。
「おめでとうございます。お二人の…………これからの人生が幸多からんことを、心からお祈り申し上げます」
深く一礼して立ち上がると、すぐに「失礼いたします」と背を向けた。
本来ならば許可がでるまでその場にいるのが臣下の勤めだ。だがアレクシスはもう耐えられなかった。王太子とクラリスの間に漂う親密な空気に。シエルハーン国王の冷ややかな態度に。そして何よりも、クラリスからの挑むような、非難するような目に耐えかねて、アレクシスは彼らに背を向けたのだった。
旅にでよう。アレクシスは唐突にそう決意した。
クラリスの幸せを願う気持ちに嘘はない。
だが、彼女の中で自らが過去の思い出へと……過ぎ去った在りし日の遺物に成り下がるのを見ていられるほど、アレクシスは強くなかった。
『愛おしい人の気配を色濃く感じる場所で、彼女だけがいないことを突きつけられながら生活できるほど、私は強くない』
父の言葉を、アレクシスは今こそ本当の意味で理解した。まさしく、アレクシスはクラリスの気配を感じるこの国で、これから先生きていくことを断念したのだった。
足早に扉へ向かうアレクシスの背後から、小さな「あっ」という声が聞こえた。
王太子の声だ。許しもなく退出することを咎めるつもりなのだろう。だが知ったことか。これ以上四の五の言うつもりなら、ハリントンに関係する国内資産を全て引き上げてやる。
…………いや、そんなことをすれば経済状況は一気に悪化し、クラリスを悩ませることになるかもしれない。やはりこのまま静かに国を出るのが一番だ。
できるだけ早く出国する方法を頭の中で算段していた時、部屋の両端に立つ人々に騒めきが広がり、同時に後頭部へ衝撃と痛みが走った。
「痛……っ」
何が起きたのか理解できないまま、サッと振り返る。壇上には変わらず王太子ジョージとシエルハーン国王、そしてクラリスが――。
クラリスは菫色の瞳にはっきりと怒りを宿らせてこちらを睨みつけていた。両の手は強く握られて拳になり、わなわなと震えている。
アレクシスの足元に扇が転がっている。勘違いでなければ、それは先ほどまでクラリスが持っていたものだった。
後頭部を右手で押さえたまま、アレクシスは視線をクラリスと落ちた扇の間で忙しく往復させる。周囲の人々はアレクシスとクラリス、そして扇の三点を視線で周回しているのだからもっと忙しなかったが、アレクシスがそれに気づくはずもない。
アレクシスは徐々に理解していった。どうやらクラリスが自分目がけて扇を投げ、それが後頭部に直撃したようだ。
だが、なぜ?
アレクシスは「クラリス……」と呼びかけ、己の立場と場所柄を考えて言いなおした。
「殿下、これは――」
「この、意気地なし!!」
壇上のクラリスは、唖然とする周囲の視線をものともせずに叫んだ。
「『殿下』ってなに? 『これからの人生が幸多からんことを』ってどういうこと? 私の気持ちを知っているくせに、どうしてそんな風に言えるのよ!」
叫びながら大きく足を踏み鳴らす。絶句するアレクシスは、向けられる怒りをただ受け止めるしかない。
「どうして七か月も放ったらかしにするの!? あなたはいつもそう、私があなたを好きだと分かっていて、く、口づけまでしたっていうのに、自分だけは絶対に安全圏から足を踏み出そうとしないんだわ。最低! 嘘つき! この……女たらし!」
焦ったアレクシスは助けを求めて壇上を見るが、王太子たちは二人揃って目を大きく見開き、口をOの形にしたまま呆然と立ちつくしている。普段の妹姫と余りにもかけ離れた姿が信じられないといった状態だ。クラリスは怒りが冷めやらぬ様子で、つかつかとアレクシスの前に歩み寄った。
「あなたは言ったじゃない! 生涯でたった一人の人だ、って。あれは嘘だったの? 私はあの言葉が嬉しくて、宝物で、ずっとずっとそれだけが支えだったのに。それなのにどうして……」
威勢のいい言葉の語尾が震えはじめる。菫色の瞳がみるみる潤んでいった。
「お兄様が、この場であなたが申し込んだら結婚を許すって……そう言ってくれたのに」
ぽろ、と丸い涙のつぶが頬を転がり落ちた。
「私は国のために愛してもいない人と結婚しなければならないって、ずっとそう思っていたわ。だからお兄様の言葉がすごく嬉しかった。だってあなたは絶対に私を誰にも渡さないはずだって、簡単に諦めるはずがないって、そう信じていたから」
瞬きのたびに白い頬を涙が伝う。クラリスはしゃくり上げながら、手の甲で乱暴に涙を拭った。それは王女クラリスではなく、従者フレディの仕草だった。
「どうして、何も言ってくれないの……? あなたも同じ気持ちだと思ったのは、私の勘違い……?」
我慢できなくなったアレクシスは、無言のままクラリスを抱きしめた。ぎゅっとしがみついてくる愛おしい人。言いたいことは山ほどあるはずなのに、言い訳も弁解も説明も、何もかも頭から吹き飛んでいた。
かぐわしいクラリスの香りに頭がクラクラする。このまま連れ去ってしまいたい。
だが、真っ先に確認しなければならないことがある。何度も唾を飲み、アレクシスはかすれ声をやっとの思いで絞り出した。
「クラリス、きみ、声が……?」
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毎週火・金曜日00:00に更新します。→完結済みです。毎日更新に変更します。
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