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お菓子づくり
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翌日、あたしは葵さんの部屋で目が覚めた。どうやら泣き疲れて、そのまま眠ってしまったらしい。
なんとなく恥ずかしくなって、早めに部屋に戻る。蓮君はすでに起きていて、着がえも済ませていた。
「……心配しましたよ。お風呂に行ったまま、帰ってこなかったので」
のぼせてるんじゃないかと思い、わざわざ見に行ってくれたようだ。途中で葵さんに呼び止められ、状況を知ったという。
「……ごめん。あと、ありがと」
泣いたせいか、目が少し痛い。知られるのがイヤで、つい、俯いてしまった。
「いいですけど。葵さん、うれしそうでしたよ」
「え……そう、なの?」
「なんとなく、ですけどね」
身支度を調えて、朝食へ向かう。するとすでに先に、葵さん、それから泰三さんがいた。
「おう、おはようさん」
泰三さんはすでに食べ終えて、つまようじを使っていた。その隣で、葵さんは黙々と食事をしている。
「おはようございます」
あいさつすると、こっちを見た。
「おはよう」
葵さんは一度箸を置いて、軽く笑う。以前と少しだけ違って見えるのは、気のせいだろうか。
あたしと蓮君は腰をおろす。
「それにしても、家で食う飯はやっぱりうまいねえ」
泰三さんが笑いながら、こっちを見る。なんとなく、目をそらしてしまった。
「これであまいものがあれば最高なんだけど……」
ちょうど千里さんが入ってくる。
「何か食べたいものでも?」
「ふふふ。おれね、お菓子が食べたい」
「……お菓子、ですか?」
「ほら、この間もらったスコーンってやつ。あれとコーヒー。おいしかったなあと思って」
「はあ……」
千里さん少し困ったような顔をする。
「――父上、あれはたまたま頂いたものですよ。この辺では売ってません」
「そうなのかあ? じゃあ、ホットケーキはどうだ? アイスクリームでもいいぞ」
「病人のくせに何を言ってるんですか。あきらめてください」
葵さんはあくまで淡々と言う。
「そう言われたら、よけいに食べたくなってきた」
泰三さんはにやりと笑う。
「よし、決めた。ホットケーキかアイスクリーム、それにプリン。このうち一つでも食べられる食べられるんだったら、病院に戻ってもいい」
急にそんなことを言い出す。
「まあ、食べられるんだったら、だがな」
口振りからいって、どうやらこの辺じゃ手に入れるのが難しいものらしい。
「プリンはあったかいやつな。じゃないと食わん」
「――何言ってるんですか。私が食事を終えたら、平治に車をまわしてもらいます。引きずってでも連れて生きますからね」
葵さんの言葉をよそに、あたしはふと考える。
ホットケーキかアイスクリーム。それにプリン。しかもあたたかいやつ、ということは、たぶん焼きプリンのことだろう。
「……あの」
食事中なので、行儀が悪いととわかっていながら、手をあげる。
「……食べたいですか? その3つ」
葵さんと泰三さんが同時にこっちを見た。
卵と砂糖。牛乳、それから小麦粉。
桐谷家の台所には、この4つが豊富にそろっていた。
「好きに使ってください。後片づけさえしてもらえれば、こっちは構わないので」
千里さんはそう言って、台所を明け渡してくれた。
あたしは彼女の割烹着まで借りて、早速作業に入る。
「えーっと、何から作ろうかな」
オーブンはないものの、フライパンに、それから蒸し器もある。道具も十分だった。
まず冷蔵庫から、卵を出した。するとなんとなく、視線を感じる。
蓮君と、葵さんだった。
「……どうしたんですか? 二人とも」
なんともめずらしい組み合わせだ。
「いや……父のことだし、何か手伝えることはないかと思って、な」
「ぼくも……ヒマなので」
探るような視線を送ってくる。
あたしは少し考えて、
「そうですね。じゃあ、お願いします」
入ってきた二人に、早速指示を出す。
道具を持った蓮君が、あたしにそっとささやいた。
「あの……大丈夫なんですか?」
「何が?」
「その……作れるのかなって」
「もちろん。この3つなら簡単だよ。広いから、3人いても作業もしやすいし」
それが一番大きかった。
「まあ、唯一気になることがあるとすれば、プリンの型ぐらいかなあ」
湯飲みでも作れなくはないけど、それだとなんとなくプリン感が出ない。
「……型、型、かあ」
「これはどうですか?」
蓮君が大きめのお皿を指さす。出してみると、大きさといい、深さといい、ちょうどよかった。
「うん。ケーキみたいなプリンになりそう」
あまり作ったことはないが、これはこれでおもしろそうだ。
あたしは軽くうなずいて、卵を割り始めた。
お菓子を作り始めたのは、ちょうど蓮君くらいの歳だったと思う。きっかけは単純に、火を使わないものが多かったからだ。
うちは父親と二人なので、食事というとどうしても、買ってきたものか、インスタントに頼ることが多かった。父と過ごせればよかったので、そのことに不満なかった。でも自分でもやってみたい、という気持ちは、やっぱりあったのだ。
父がいない時にガスを使うことは止められていて、そうなるとやれるのは、お菓子作りだった。そのほとんどが、オーブンレンジさえあれば、なんとかなるものだったからだ。
クッキーやケーキ。プリンにパイ。材料と手順さえきっちり守れば、お菓子は応えてくれる。自分の手で、何かが変わる瞬間やそれまでの課程が、楽しくてしょうがなかった。そうするとだんだん、父も一緒になるようになり、火を使うこと、ついでに料理も覚えた。
「穂乃香、次はどうするのだ?」
材料を計り終えた葵さんが尋ねる。あたしはざっと手順を説明した。
「なるほど。卵を泡立てるのか」
葵さんにはホットケーキの生地作りをお願いした。ここにはベーキングパウダーがないので、ふんわりとした生地にするためには、卵を泡立てる必要がある。泡立て器がないので、けっこう力がいる作業だけど、彼女は自分から、やりたいと言ってくれたのだ。
「ほの……姉さん、こっちは?」
蓮君には、プリンだ。卵と砂糖、牛乳を混ぜて、きめ細かい生地にするために、ザルに入れてこしてもらう。簡単だけど、根気がいる作業だ。
そしてプリン用のカラメルと、アイスクリーム作り。アイスクリームメーカー……なんてものはもちろんないので、材料を鍋に火にかけながら作ることにした。
それぞれの作業に没頭していると、
「……おれも、何か手伝おうか?」
泰三さんが顔をのぞかせる。なんとなく様子を見にきたようだ。
「大丈夫です。父上は向こうに行っていてください」
葵さんはそう言うものの、あたしはなんだかかわいそうに思えて、
「あ……じゃあ、葵さんを手伝ってあげてくれますか? 卵を泡立てるの、大変なので」
泰三さんの目が輝く。葵さんは渋々だったけど、あたしの言うとおりにしてくれた。
アイスクリームの種を冷凍庫に入れ終えると、あたしは蓮君のプリンを手伝った。もう型に入れるだけで、彼は慎重に、そして丁寧に、型へと流しこんでいく。
「……ちなみに蓮君は、好きなお菓子とかある?」
何気なく、聞いただけだった。もちろん、小声で。
「ぼく……ですか? そうですね。甘いものはふだんあまり食べないんですが」
そういえば、と思う。昨日もアイスコーヒーを飲んでいた。しかもブラックで。
「嫌いってこと?」
「そこまで敬遠してないです。おいしいとは思いますし。ただなんていうか……お菓子やケーキって、うれしい時や楽しい時に食べるものじゃないですか」
「うん、まあ、ね」
そうじゃなくても、食べる時はあるけど。
彼にとってきっと、はそういう認識のものなんだろう。
「だからその……そういう時のために、とっておこうと思って。特に一番、好きなものは」
「一番好きなものって?」
「――内緒です」
めずらしく、子どもらしく笑った。
ちらり、葵さんと泰三さんのほうを見ると、ケンカしながらも仲良く作っている。
やっぱり、親子なんだな。
見ていると微笑ましくなった。
「それにしても、良かったんですかね」
型を蒸し器に入れ終えると、蓮君が言った。
「千里さん、追い出した形みたいになってしまって」
「あ……うん」
思ったよりも作業に時間がかかってしまい、お昼までに間に合わなかったのだ。すると泰三さんが、千里さんに平治さんと外に行くよう、言ってくれた。
気を遣ってくれたんだろうけど、やっぱり少し気になる。すると、
「構わん。あいつはちょっと働きすぎだからな。たまには休んだほうがいーんだ」
聞こえていたのか、泰三さんが言った。
「……父上が言っても、説得力がないですよ」
「それに、一応仕事だ。お使いを頼んだ」
「足りないものでも?」
「ああ、この家では見たことがない」
泰三さんはにやりと笑う。あたしはなんとなく、わかった気がした。でも、あえて言わない。
「そっちはどうですか? 生地、できました?」
確かめさせてもらうと、なかなか良い感じだった。
「じゃあ、焼きましょうか」
いよいよ、ホットケーキだ。
何度もやっていることでも、場所が違えば勝手が違う。あたりまえのことであれば、あるほど、だ。友達の家で初めてクッキーを焼いたとき、上手くいかなかったことを思い出す。
電気オーブンとガスオーブン。ホットプレートとフライパン。それだけでも焼き加減など、微妙に変わったりする。
フライパンに油をひき、ほんの少し、生地をたらす。それで焼き加減をはかるのだ。
「――よし」
こんがり、きれいな色に仕上げる。すると3人とも、ほっとしたように息をもらしたのがわかった。
「……うまそうだなあ」
そんな声を聞きながら、ホットケーキを続いて2枚、3枚と焼いていく。
「――ぼくもやってみたい」
そんな声がして、あたしは蓮君と交代する。彼は真剣な顔をして、同じくホットケーキを焼いていく。
「――私も」
「――おれも」
続いて二人からも声が上がった。
半分取り合いになりながらも、順番にホットケーキを焼いていく。なかなか上手で、生地があっというまになくなった。
テーブルは、ホットケーキでいっぱいになった。それから、大きなプリン。後はアイスクリームだけだ。まだ固まるまで時間がかかるので、一度休憩ということになった。
泰三さんは縁側で転がり、蓮君も居間で大の字になっている。
「……なんか、良いな」
葵さんもめずらしく、壁に寄りかかっていた。
「何が、ですか?」
冷たい麦茶を飲んでいると、セミの声がした。
「父上がいて、おまえたちがいて、この状態が、とても心地よい気がしてな」
「みんなでがんばった後だから、よけいに、ですか?」
「きっとそれもある」
確かに、とあたしも思った。
いつも何か作る時は、一人がほとんどだ。それはそれで楽しいけど、今日みたいなのも、悪くなかった。
正直にいえば、一人の時よりも、何倍も疲れた。なのに、楽しかった。そんなふうに思う自分もいる。
「穂乃香は、確か私よりも一つ下だと言っていたな」
ふと、思いついたように、葵さんが言った。
「あ、はい……そうです」
麦茶が入ったコップを置く。
「私は今年学校を卒業したばかりだが、先に終えてしまっているが、もう将来はどうするか、決めているのか?」
「あ……ええっと……」
「言いたくなければ、無理にとはいわない。ただ今日の手際は見事だった、と思ってな。もしやそういった道に進むのかと、ふと、聞いてみたくなったのだ」
葵さんの言いたいことはわかる。お菓子作りのことを言ってるんだろう。それを将来の道に生かさないのか、と。
「いえ……あたし、は……」
何もここで決めることじゃない。葵さんはあたしの将来に、なんの関係もない人だ。でもだからこそ、正直になれるような気がした。
「……わからなくて。お菓子作りは好きだけど、ケーキ屋さんがいいかっていうと、なんか違う気もするし。看護師さんもいいなって思ってて……」
「看護師、か。それも立派な職業だな……」
「……父が、看護師なんです。大変な仕事だけど、だからこそ尊敬してる部分も多くて。それに……」
この先は、言おうかどうか迷う。母のことだ。
昨夜、葵さんのお母さんの話を聞いたばかりだ。彼女のことだから、妙な気を遣ってしまうかもしれない。すると、
「……だれかのために生きる、というのは、とても尊いことだと、私は思う」
葵さんがそっと、まるで歌うように口にする。
「ただそれと同じくらい、自分に正直になることも大切で、美しい生き方だと、私は思っている」
彼女の髪が、やわらかな日差しに包まれる。きらきらとしていて、とてもきれいだった。
「……なんて、な」
葵さんは少し照れくさそうに笑った。
「迷っているなら、今決める必要はないんだろう。どの道を選んでも、おまえはきっと幸せになる。そう思っておけばいい」
言われた瞬間、泣いてしまいそうだった。でも、泣かない。恥ずかしい思いは、昨夜だけでじゅうぶんだったからだ。
「時間は、ないと思っていてもあるものだ。意外にな」
そうかもしれない、と思った。
進路希望は白紙のままでも、あたしは内心、焦っていたのかもしれない。決めきれない自分に、どこか腹が立っていたのかもしれない。
「なんか、ちょっと安心しました」
素直に言葉が出た。
「そうか。なら、よかった」
二人で顔を見合わせる。
時代も立場もちがう。それでもちゃんと、わかりあえる。気持ちが通じる。
あたしが心底ほっとしていた、その時だった。
「ただいま帰りました」
玄関のほうから、千里さんの声がする。
「旦那様、お嬢様、ただいま戻りました」
千里さんがすぐに居間へとやってくる。すると泰三さんが起きあがった。
「おお、千里。帰って来たか……例のものは?」
「もちろん、買ってきました。こちらでお間違いないですか?」
千里さんが袋から出したのは、メープルシロップだった。
やっぱり、と思う。
ホットケーキには欠かせないものだからだ。
「さすがは千里だ。これでホットケーキが食べられる」
「それとですね、旦那様。途中でお客様にお会いしまして、せっかくなのでお連れしました」
「……客? おれにか?」
泰三さんが尋ねると、千里さんは不敵な笑みを浮かべる。そして、
「すぐに、お連れしますね」
一度姿を消し、戻ってきた。そして顔を出したのは――。
「泰三さん、一日ぶりですね」
あたしは、これ以上ないくらいに、目を大きく見開いた。
そこに立っていたのはそう、父――日向真澄だったからだ。
なんとなく恥ずかしくなって、早めに部屋に戻る。蓮君はすでに起きていて、着がえも済ませていた。
「……心配しましたよ。お風呂に行ったまま、帰ってこなかったので」
のぼせてるんじゃないかと思い、わざわざ見に行ってくれたようだ。途中で葵さんに呼び止められ、状況を知ったという。
「……ごめん。あと、ありがと」
泣いたせいか、目が少し痛い。知られるのがイヤで、つい、俯いてしまった。
「いいですけど。葵さん、うれしそうでしたよ」
「え……そう、なの?」
「なんとなく、ですけどね」
身支度を調えて、朝食へ向かう。するとすでに先に、葵さん、それから泰三さんがいた。
「おう、おはようさん」
泰三さんはすでに食べ終えて、つまようじを使っていた。その隣で、葵さんは黙々と食事をしている。
「おはようございます」
あいさつすると、こっちを見た。
「おはよう」
葵さんは一度箸を置いて、軽く笑う。以前と少しだけ違って見えるのは、気のせいだろうか。
あたしと蓮君は腰をおろす。
「それにしても、家で食う飯はやっぱりうまいねえ」
泰三さんが笑いながら、こっちを見る。なんとなく、目をそらしてしまった。
「これであまいものがあれば最高なんだけど……」
ちょうど千里さんが入ってくる。
「何か食べたいものでも?」
「ふふふ。おれね、お菓子が食べたい」
「……お菓子、ですか?」
「ほら、この間もらったスコーンってやつ。あれとコーヒー。おいしかったなあと思って」
「はあ……」
千里さん少し困ったような顔をする。
「――父上、あれはたまたま頂いたものですよ。この辺では売ってません」
「そうなのかあ? じゃあ、ホットケーキはどうだ? アイスクリームでもいいぞ」
「病人のくせに何を言ってるんですか。あきらめてください」
葵さんはあくまで淡々と言う。
「そう言われたら、よけいに食べたくなってきた」
泰三さんはにやりと笑う。
「よし、決めた。ホットケーキかアイスクリーム、それにプリン。このうち一つでも食べられる食べられるんだったら、病院に戻ってもいい」
急にそんなことを言い出す。
「まあ、食べられるんだったら、だがな」
口振りからいって、どうやらこの辺じゃ手に入れるのが難しいものらしい。
「プリンはあったかいやつな。じゃないと食わん」
「――何言ってるんですか。私が食事を終えたら、平治に車をまわしてもらいます。引きずってでも連れて生きますからね」
葵さんの言葉をよそに、あたしはふと考える。
ホットケーキかアイスクリーム。それにプリン。しかもあたたかいやつ、ということは、たぶん焼きプリンのことだろう。
「……あの」
食事中なので、行儀が悪いととわかっていながら、手をあげる。
「……食べたいですか? その3つ」
葵さんと泰三さんが同時にこっちを見た。
卵と砂糖。牛乳、それから小麦粉。
桐谷家の台所には、この4つが豊富にそろっていた。
「好きに使ってください。後片づけさえしてもらえれば、こっちは構わないので」
千里さんはそう言って、台所を明け渡してくれた。
あたしは彼女の割烹着まで借りて、早速作業に入る。
「えーっと、何から作ろうかな」
オーブンはないものの、フライパンに、それから蒸し器もある。道具も十分だった。
まず冷蔵庫から、卵を出した。するとなんとなく、視線を感じる。
蓮君と、葵さんだった。
「……どうしたんですか? 二人とも」
なんともめずらしい組み合わせだ。
「いや……父のことだし、何か手伝えることはないかと思って、な」
「ぼくも……ヒマなので」
探るような視線を送ってくる。
あたしは少し考えて、
「そうですね。じゃあ、お願いします」
入ってきた二人に、早速指示を出す。
道具を持った蓮君が、あたしにそっとささやいた。
「あの……大丈夫なんですか?」
「何が?」
「その……作れるのかなって」
「もちろん。この3つなら簡単だよ。広いから、3人いても作業もしやすいし」
それが一番大きかった。
「まあ、唯一気になることがあるとすれば、プリンの型ぐらいかなあ」
湯飲みでも作れなくはないけど、それだとなんとなくプリン感が出ない。
「……型、型、かあ」
「これはどうですか?」
蓮君が大きめのお皿を指さす。出してみると、大きさといい、深さといい、ちょうどよかった。
「うん。ケーキみたいなプリンになりそう」
あまり作ったことはないが、これはこれでおもしろそうだ。
あたしは軽くうなずいて、卵を割り始めた。
お菓子を作り始めたのは、ちょうど蓮君くらいの歳だったと思う。きっかけは単純に、火を使わないものが多かったからだ。
うちは父親と二人なので、食事というとどうしても、買ってきたものか、インスタントに頼ることが多かった。父と過ごせればよかったので、そのことに不満なかった。でも自分でもやってみたい、という気持ちは、やっぱりあったのだ。
父がいない時にガスを使うことは止められていて、そうなるとやれるのは、お菓子作りだった。そのほとんどが、オーブンレンジさえあれば、なんとかなるものだったからだ。
クッキーやケーキ。プリンにパイ。材料と手順さえきっちり守れば、お菓子は応えてくれる。自分の手で、何かが変わる瞬間やそれまでの課程が、楽しくてしょうがなかった。そうするとだんだん、父も一緒になるようになり、火を使うこと、ついでに料理も覚えた。
「穂乃香、次はどうするのだ?」
材料を計り終えた葵さんが尋ねる。あたしはざっと手順を説明した。
「なるほど。卵を泡立てるのか」
葵さんにはホットケーキの生地作りをお願いした。ここにはベーキングパウダーがないので、ふんわりとした生地にするためには、卵を泡立てる必要がある。泡立て器がないので、けっこう力がいる作業だけど、彼女は自分から、やりたいと言ってくれたのだ。
「ほの……姉さん、こっちは?」
蓮君には、プリンだ。卵と砂糖、牛乳を混ぜて、きめ細かい生地にするために、ザルに入れてこしてもらう。簡単だけど、根気がいる作業だ。
そしてプリン用のカラメルと、アイスクリーム作り。アイスクリームメーカー……なんてものはもちろんないので、材料を鍋に火にかけながら作ることにした。
それぞれの作業に没頭していると、
「……おれも、何か手伝おうか?」
泰三さんが顔をのぞかせる。なんとなく様子を見にきたようだ。
「大丈夫です。父上は向こうに行っていてください」
葵さんはそう言うものの、あたしはなんだかかわいそうに思えて、
「あ……じゃあ、葵さんを手伝ってあげてくれますか? 卵を泡立てるの、大変なので」
泰三さんの目が輝く。葵さんは渋々だったけど、あたしの言うとおりにしてくれた。
アイスクリームの種を冷凍庫に入れ終えると、あたしは蓮君のプリンを手伝った。もう型に入れるだけで、彼は慎重に、そして丁寧に、型へと流しこんでいく。
「……ちなみに蓮君は、好きなお菓子とかある?」
何気なく、聞いただけだった。もちろん、小声で。
「ぼく……ですか? そうですね。甘いものはふだんあまり食べないんですが」
そういえば、と思う。昨日もアイスコーヒーを飲んでいた。しかもブラックで。
「嫌いってこと?」
「そこまで敬遠してないです。おいしいとは思いますし。ただなんていうか……お菓子やケーキって、うれしい時や楽しい時に食べるものじゃないですか」
「うん、まあ、ね」
そうじゃなくても、食べる時はあるけど。
彼にとってきっと、はそういう認識のものなんだろう。
「だからその……そういう時のために、とっておこうと思って。特に一番、好きなものは」
「一番好きなものって?」
「――内緒です」
めずらしく、子どもらしく笑った。
ちらり、葵さんと泰三さんのほうを見ると、ケンカしながらも仲良く作っている。
やっぱり、親子なんだな。
見ていると微笑ましくなった。
「それにしても、良かったんですかね」
型を蒸し器に入れ終えると、蓮君が言った。
「千里さん、追い出した形みたいになってしまって」
「あ……うん」
思ったよりも作業に時間がかかってしまい、お昼までに間に合わなかったのだ。すると泰三さんが、千里さんに平治さんと外に行くよう、言ってくれた。
気を遣ってくれたんだろうけど、やっぱり少し気になる。すると、
「構わん。あいつはちょっと働きすぎだからな。たまには休んだほうがいーんだ」
聞こえていたのか、泰三さんが言った。
「……父上が言っても、説得力がないですよ」
「それに、一応仕事だ。お使いを頼んだ」
「足りないものでも?」
「ああ、この家では見たことがない」
泰三さんはにやりと笑う。あたしはなんとなく、わかった気がした。でも、あえて言わない。
「そっちはどうですか? 生地、できました?」
確かめさせてもらうと、なかなか良い感じだった。
「じゃあ、焼きましょうか」
いよいよ、ホットケーキだ。
何度もやっていることでも、場所が違えば勝手が違う。あたりまえのことであれば、あるほど、だ。友達の家で初めてクッキーを焼いたとき、上手くいかなかったことを思い出す。
電気オーブンとガスオーブン。ホットプレートとフライパン。それだけでも焼き加減など、微妙に変わったりする。
フライパンに油をひき、ほんの少し、生地をたらす。それで焼き加減をはかるのだ。
「――よし」
こんがり、きれいな色に仕上げる。すると3人とも、ほっとしたように息をもらしたのがわかった。
「……うまそうだなあ」
そんな声を聞きながら、ホットケーキを続いて2枚、3枚と焼いていく。
「――ぼくもやってみたい」
そんな声がして、あたしは蓮君と交代する。彼は真剣な顔をして、同じくホットケーキを焼いていく。
「――私も」
「――おれも」
続いて二人からも声が上がった。
半分取り合いになりながらも、順番にホットケーキを焼いていく。なかなか上手で、生地があっというまになくなった。
テーブルは、ホットケーキでいっぱいになった。それから、大きなプリン。後はアイスクリームだけだ。まだ固まるまで時間がかかるので、一度休憩ということになった。
泰三さんは縁側で転がり、蓮君も居間で大の字になっている。
「……なんか、良いな」
葵さんもめずらしく、壁に寄りかかっていた。
「何が、ですか?」
冷たい麦茶を飲んでいると、セミの声がした。
「父上がいて、おまえたちがいて、この状態が、とても心地よい気がしてな」
「みんなでがんばった後だから、よけいに、ですか?」
「きっとそれもある」
確かに、とあたしも思った。
いつも何か作る時は、一人がほとんどだ。それはそれで楽しいけど、今日みたいなのも、悪くなかった。
正直にいえば、一人の時よりも、何倍も疲れた。なのに、楽しかった。そんなふうに思う自分もいる。
「穂乃香は、確か私よりも一つ下だと言っていたな」
ふと、思いついたように、葵さんが言った。
「あ、はい……そうです」
麦茶が入ったコップを置く。
「私は今年学校を卒業したばかりだが、先に終えてしまっているが、もう将来はどうするか、決めているのか?」
「あ……ええっと……」
「言いたくなければ、無理にとはいわない。ただ今日の手際は見事だった、と思ってな。もしやそういった道に進むのかと、ふと、聞いてみたくなったのだ」
葵さんの言いたいことはわかる。お菓子作りのことを言ってるんだろう。それを将来の道に生かさないのか、と。
「いえ……あたし、は……」
何もここで決めることじゃない。葵さんはあたしの将来に、なんの関係もない人だ。でもだからこそ、正直になれるような気がした。
「……わからなくて。お菓子作りは好きだけど、ケーキ屋さんがいいかっていうと、なんか違う気もするし。看護師さんもいいなって思ってて……」
「看護師、か。それも立派な職業だな……」
「……父が、看護師なんです。大変な仕事だけど、だからこそ尊敬してる部分も多くて。それに……」
この先は、言おうかどうか迷う。母のことだ。
昨夜、葵さんのお母さんの話を聞いたばかりだ。彼女のことだから、妙な気を遣ってしまうかもしれない。すると、
「……だれかのために生きる、というのは、とても尊いことだと、私は思う」
葵さんがそっと、まるで歌うように口にする。
「ただそれと同じくらい、自分に正直になることも大切で、美しい生き方だと、私は思っている」
彼女の髪が、やわらかな日差しに包まれる。きらきらとしていて、とてもきれいだった。
「……なんて、な」
葵さんは少し照れくさそうに笑った。
「迷っているなら、今決める必要はないんだろう。どの道を選んでも、おまえはきっと幸せになる。そう思っておけばいい」
言われた瞬間、泣いてしまいそうだった。でも、泣かない。恥ずかしい思いは、昨夜だけでじゅうぶんだったからだ。
「時間は、ないと思っていてもあるものだ。意外にな」
そうかもしれない、と思った。
進路希望は白紙のままでも、あたしは内心、焦っていたのかもしれない。決めきれない自分に、どこか腹が立っていたのかもしれない。
「なんか、ちょっと安心しました」
素直に言葉が出た。
「そうか。なら、よかった」
二人で顔を見合わせる。
時代も立場もちがう。それでもちゃんと、わかりあえる。気持ちが通じる。
あたしが心底ほっとしていた、その時だった。
「ただいま帰りました」
玄関のほうから、千里さんの声がする。
「旦那様、お嬢様、ただいま戻りました」
千里さんがすぐに居間へとやってくる。すると泰三さんが起きあがった。
「おお、千里。帰って来たか……例のものは?」
「もちろん、買ってきました。こちらでお間違いないですか?」
千里さんが袋から出したのは、メープルシロップだった。
やっぱり、と思う。
ホットケーキには欠かせないものだからだ。
「さすがは千里だ。これでホットケーキが食べられる」
「それとですね、旦那様。途中でお客様にお会いしまして、せっかくなのでお連れしました」
「……客? おれにか?」
泰三さんが尋ねると、千里さんは不敵な笑みを浮かべる。そして、
「すぐに、お連れしますね」
一度姿を消し、戻ってきた。そして顔を出したのは――。
「泰三さん、一日ぶりですね」
あたしは、これ以上ないくらいに、目を大きく見開いた。
そこに立っていたのはそう、父――日向真澄だったからだ。
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