狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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妖たちの黄昏

第46話 現在への帰還

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 いつの間にか、雨が止んでいた。

 理玖は顔を上げ、窓の向こうに広がる薄紫の空を見つめた。いつの間にか夜が白み始めている。古い書物の頁を捲る音だけが、静寂の中に響いていた。

 百合の記憶は、まるで古い傷のように疼いている。百年という歳月を経てもなお、彼女の面影は理玖の心に深く刻まれていた。記憶を封じたはずなのに――なぜ今になって、これほど鮮明に蘇るのか。

「理玖様?」

 扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。理玖の肩がわずかに強張る。

「入れ」

 短く答えると、障子がそっと開かれた。鈴凪が寝間着姿のまま、心配そうな表情で書斎を覗き込んでいる。髪は寝癖でわずかに乱れ、素足が畳の冷たさに小さく震えていた。

「お休みになられていないのですね」

 鈴凪は心配そうに問いかけながら、静かに歩み寄った。

「何か、悪い夢でも?」

 理玖は答えない。ただ、鈴凪の存在を意識するだけで、胸の奥に複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。

 鈴凪の仕草、声の調子、気遣うような眼差し――それらすべてが、百合の記憶を呼び起こす。同じように、百合も理玖を案じて深夜の書斎を訪れることがあった。同じように、理玖の心の内を察しようとしてくれた。

「理玖様、顔色が悪いです」

 鈴凪は理玖の前に立ち、心配そうに顔を覗き込んだ。

「何かあったのですか?」

 理玖は鈴凪から視線を逸らした。近づかれるほど、百合との重なりが増していく。同じ人間の匂い、同じ温もり――しかし、百合はもういない。目の前にいるのは鈴凪だ。別の人間だ。
 それなのに、なぜこれほど心が乱されるのか。

「……あなたに、心配をしてもらうようなことはない」

 感情を抑えようとすることで声が低くなり、突き放すような物言いになってしまう。鈴凪の表情がわずかに曇る。

「でも、昨夜からずっと――」

 鈴凪は言いかけて、言葉を呑み込んだ。理玖の様子がいつもと違うことを、敏感に感じ取っているのだろう。

「お一人で抱え込まずに、私にも聞かせてください。理玖様が苦しんでいるのを見ているのは、辛いのです」

 理玖の奥歯が軋んだ。鈴凪の言葉は、あまりにも百合に似ていた。同じように理玖を案じ、同じように寄り添おうとしてくれた百合の姿が、鮮明に脳裏に浮かんでくる。

「詮索するな」

 自分の声が、思いのほか厳しい響きを帯びていた。鈴凪がびくりと身を竦ませる。理玖は自分でも驚くほど、きつい口調で鈴凪を拒絶していた。
 こんな言い方をするつもりなどなかった。ただ、どうにも抗えない感情の揺らぎに、鈴凪を気遣う余裕がなくなっていた。
 鈴凪の目に、一瞬、傷ついたような光が宿った。しかし、すぐにそれを隠すように俯いてしまう。

「……申し訳ございませんでした」

 小さく呟いて、鈴凪は立ち上がろうとした。その時、鈴凪が懐に入れている銀の鈴が微かに鳴った。チリン、と澄んだ音が書斎の静寂を破る。
 理玖はハッとして鈴凪を見た。その音は――理玖が百合に渡した鈴と、同じ音色だった。

 鈴凪は立ち止まり、振り返った。

「理玖様、あなたは今、とても深い悲しみの中にいるのですね。それは、きっと私には関係のないことなのでしょう。でも――」

 鈴凪の声は、先ほどよりも静かで、温かい口調だった。鈴凪は理玖の前に膝をつき、理玖の手に、そっと自分の手を重ねる。

「お一人で背負うには、あまりにも重すぎるのではありませんか?」

 理玖の手が鈴凪を振り払おうとピクリと動くも、その温もりに触れた瞬間、体が強張った。百合の手と同じ――細く、芯の強さを秘めた手だった。

「あなたは……あなたは、分からないのだ。あなたがそばにいることで、私がどれほど――」

 言いかけて、理玖は口を噤んだ。これ以上は言えない。百合への想いと、鈴凪への想いが絡み合い、自分でも整理がつかなくなっている。その苛立ちを鈴凪にぶつけるなど、してはならない。
 鈴凪は理玖の手を握ったまま、静かに微笑んだ。

「分からなくても構いません」

 鈴凪の声は、穏やかで優しかった。

「でも、理玖様が辛い時に、そばにいることはできます。何もできなくても――ただ、そばにいることなら」

 懐の鈴が、また小さく鳴った。今度は、鈴凪の感情に呼応するように、温かな響きを含んでいる。
 理玖は鈴凪を見つめた。朝の光が障子を通して差し込み、鈴凪の横顔を柔らかく照らしている。その表情は、百合にも似ているが、やはり鈴凪だけのものだった。百合よりも若いけれど、同じように芯の強さを秘めている。

 そして何より――鈴凪は、まだここにいてくれる。理玖に寄り添おうとしてくれる。

「鈴凪、私は――」

 その時、屋敷の向こうから華の気配が近づいてくるのを感じた。いつもより急いでいる。何かあったのか。
 理玖は鈴凪の手を離し、立ち上がった。

「華が来る。何かあったようだ」

 鈴凪も慌てて立ち上がった。理玖の変化を敏感に感じ取り、緊張に身を強張らせている。廊下を急ぎ足で歩く音が聞こえてきた。そして、遠慮なく障子が開かれる。

「旦那様」

 華の声は、普段の落ち着きを欠いていた。

「不穏な気配を感じます。街の向こうから――人間たちの、妙な動きが」

 理玖の表情が瞬時に険しくなった。

「朧月会か」

「恐らく。そして――」

 華は鈴凪を一瞥してから、理玖に向き直った。

「奥様を狙っているようです」

 鈴凪の顔が青ざめた。理玖の拳が、音を立てて握り締められる。

「詳しく話せ」

「はい。数日前から、街の各所で朧月会の者たちが動き回っています。この屋敷の周辺を探るような動きも確認されました」

 華の声は、抑制されているが緊迫感に満ちていた。

「今夜には何らかの行動に出るものと思われます」

 理玖は窓の外を見つめた。穏やかな朝の光景が広がっているが、その向こうに潜む危険を肌で感じている。

 百合を失った記憶が、再び心に重くのしかかってきた。今度は鈴凪が狙われている。また、守れないのか。また、失ってしまうのか。

「理玖様」

 鈴凪が理玖の袖を引いた。

「私が……私がいることで、皆様にご迷惑を」

「黙れ。鈴凪は何も悪くない。悪いのは――」

 理玖は拳を握り締めた。過去の記憶と現在の状況が混在し、胸の内で激しい感情が渦巻いている。

「鈴凪を狙う連中だ」

 華は理玖の変化を察したのか、わずかに眉をひそめた。いつもの理玖なら、もっと冷静に状況を分析していた。今の理玖は、心の奥に激情が渦巻いて抑えきれない。それに気づいているのだろう。

「旦那様、落ち着いてください」

 華の声は、優しく諭すような響きを含んでいた。

「まずは冷静に対策を――」

「分かっている」

 理玖は深く息を吸い、感情を抑制しようと努めた。それでも、百合の記憶と鈴凪への想いが絡み合い、心の平静を保つのは困難だった。
 鈴凪が理玖を見つめていた。鈴凪の表情は、理玖の内側を読み取っているかのように見える。理玖が何かを抱え込んでいること、そしてそれが自分と関係していることを、直感的に理解しているようだった。

 朝の光が次第に強くなり、書斎を明るく照らしている。それに反して三人を取り巻く空気は、どこか重苦しいものだった。

 理玖の心に、百合への誓いが蘇っていた。今度こそ、守り抜く。たとえ何を失うことになっても――。
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