狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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朧月会の襲撃

第51話 朧月会の隠れ家

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 椿京の郊外、山の中腹にひっそりと佇む廃寺――。

 かつては多くの参拝者で賑わっただろうその寺も、今では朽ちた柱と苔むした石段だけが、往時の面影を留めていた。本堂の屋根は所々が崩れ落ち、月光が境内を斑に照らしている。

 ここが、朧月会の隠れ家の一つだった。

 鈴凪は本堂の奥、畳の上に横たえられていた。封印術の影響で意識を失っていた彼女の頬に、蝋燭の炎がゆらゆらと影を落としている。その手には、銀の鈴がしっかりと握られていた。

 術者たちが彼女を囲むように座り、慎吾はその中央で膝をついていた。その表情には、使命を果たした満足感と、なぜか拭えない複雑な想いが混在している。

「よくやってくれた」

 朧月会の長老格である術者が、慎吾の肩に手を置いた。白髪の老人で、深い皺に刻まれた顔には、長年妖と戦ってきた者の厳しさが宿っている。

「これで、あの忌まわしい狐の手から、この娘を救うことができる」

「はい……」

 慎吾の返事は、どこかぎこちなかった。理玖の涙を流す姿が、まだ心に引っかかっている。

「慎吾よ、どうした? 浮かない顔をしているが」

 長老の問いかけに、慎吾は慌てて首を振った。

「いえ、何でもありません。ただ……」

「ただ?」

「あの狐は、本当に鈴凪さんを騙していたのでしょうか」

 慎吾の言葉に、周囲の術者たちがざわめいた。長老は眉をひそめる。

「何を言っているのだ。妖が人間を愛するなど、そんなことがあるはずがない。あれらの行動は全て、人間を食らうための偽りの感情だ」

「でも、あの狐は泣いていました。まるで、本当に鈴凪さんを失うことを悲しんでいるかのように……」

「惑わされてはいけない」

 長老が厳しい声で諫める。

「妖の演技に騙されるな。奴らは人を欺くことにかけては、千年の歴史がある。その涙も、苦悶の表情も、全ては演技なのだ」

 慎吾は俯いた。理性では長老の言葉が正しいと分かっている。分かっていてなお、心の奥で小さな疑問が芽生えていた。

 その時、鈴凪の瞼がゆっくりと開いた。

「あ……ここは……」

 鈴凪が起き上がろうとすると、慎吾が慌てて駆け寄る。

「鈴凪さん! 大丈夫ですか? 気分はどうですか?」

 鈴凪の瞳が慎吾の顔を捉える。しばらくぼんやりとしていた彼女の表情が、徐々にはっきりしてきた。

「慎吾……さん? ここは、どこですか?」

「安全な場所です」

 慎吾は優しく微笑む。

「もう大丈夫。あの化け物の手から、あなたを救い出しました」

 鈴凪の表情が一変した。

「化け物……理玖様は……! 理玖様はどこですか!」

「鈴凪さん……もう心配いりません。あの化け物はここにはいません。あなたは自由になったのです」

 鈴凪は慌てた様子で立ち上がろうとしたが、まだ体に封印術の影響が残っているのか、よろめいた。慎吾はとっさに鈴凪を支えた。

「無理をしてはいけません。まだ体調が完全ではないのです」

「理玖様は……理玖様は無事なのですか?」

 鈴凪の問いかけに、術者たちが顔を見合わせた。長老が鈴凪の前に出る。

「娘よ、まだ妖の術が残っているようだな。だが安心せよ。我々が、お前の心に巣食う邪悪な影響を取り除いてやろう」

「邪悪な影響って……」

 鈴凪が困惑の表情を浮かべた。

「私の心に、そんなものはありません。私は、私は理玖様を――」

「――愛している、と言うつもりか?」

 長老の声が厳しくなる。

「それこそが妖の術の証拠だ。人間が妖を愛するなど、自然の摂理に反している」

「そんなことはありません!」

 鈴凪の声に力がこもる。

「理玖様は優しい人です。私が辛い時、いつも支えてくれました。私が悲しい時、そっと慰めてくれました。私が嬉しい時は、一緒に喜んでくれました。それが……それは偽りなどではありません!」

 慎吾の胸が痛んだ。鈴凪の言葉には、確かに真実の響きがあった。

「鈴凪さん……」

「慎吾さん、お願いします」

 鈴凪が慎吾の手を握る。

「理玖様のところへ帰らせてください。私は……私はあの人と一緒にいたいのです」

 慎吾は鈴凪の手を見つめた。その手は震えているが、瞳には強い意志の光が宿っている。

「鈴凪さん、あなたは……本当に、あの狐を愛しているのですか?」

「はい」

 鈴凪の答えに迷いはなかった。

「心の底から、愛しています」

 長老が苛立ちを露わにする。

「まだ術が深く根を張っているようだ。仕方がない。強制的に浄化するしかあるまい」

 長老が懐から取り出したのは、古い巻物だった。それには、記憶を消去する強力な術式が記されている。慎吾はそれを見て、鈴凪の手を強く握り返した。

「その術は……記憶消去の術ですか?」

「そうだ。妖に関する記憶を全て消し去り、娘を正常な状態に戻すのだ」

「待ってください!」

 慎吾は思わず長老の前に立ち塞がった。

「それは、あまりにも……」

「慎吾、おまえまで妖に惑わされるつもりか?」

 長老の瞳が鋭く光る。

「この娘のためを思うなら、苦痛な記憶は消してやるのが慈悲というものだ」

 鈴凪の顔が青ざめている。鈴凪の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、慎吾には、それがさっきの理玖の涙と重なって見えた。

「やめて……お願いです、やめてください……理玖様との記憶だけは……お願いです、消さないで……」

 その時、鈴凪の手の中で銀の鈴が微かに震えた。

 リン――。

 小さく、か細い音だった。しかし、その音色には今まで聞いたことのない、深い悲しみが込められている。

 長老は巻物を広げ、術式の詠唱を始めた。

「記憶消去の術・忘却の淵……」

「やめろ!」

 慎吾が長老の手を掴む。

「これは間違っています! いくらなんでも記憶を奪うなんて、そんなことをする権利は僕たちにはない!」

「愚か者め!」

 長老に突き飛ばされ、慎吾は畳に倒れ込んだ。

「妖の術に惑わされおって! 目を覚ませ!」

 長老が再び詠唱を始める。光の輪が鈴凪の頭上に現れ、彼女の記憶を消し去ろうとした。

 その瞬間――。

 鈴凪の手の中で、銀の鈴が激しく鳴り響いた。

 リーン、リーン、リーン――!

 それは、もはや鈴の音ではなかった。まるで、魂の叫びのような、凄まじい音響が廃寺全体を震撼させる。

「な、何だ、この音は……!」

 術者たちが耳を押さえる。長老の術式も、この音波によって掻き消されてしまった。
 鈴凪の瞳が、淡く光り始める。

「私の……鈴凪の大切な記憶を……」

 彼女の声が変わっていく。まるで、別の存在が宿ったかのように。

「奪おうというのですね……」

 慎吾はその声色に震え上がった。
 これは、人間の鈴凪ではない。何か、もっと別の、強大な力を持った存在が、彼女の中で目覚めようとしていた。
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