狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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本物の夫婦になるとき

第71話 迦具土烈火の封印

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 夕影山は、まるで世界の終わりのような静寂に包まれていた。
 理玖と鈴凪は、山頂近くの焼け焦げた大地に立っている。かつて迦具土烈火が暴れ回った場所は、今も黒い灰に覆われ、植物一つ生えていない。

「本当に、ここにいらっしゃるのですか」

 私は理玖の手を握りながら、不安を抑えて問いかけた。

「ああ。烈火の気配はまだ残っている。完全に消滅したわけではない。百五十年前と同じように封印をしなければ……」

 二人が歩を進めると、空気が次第に重くなっていく。そして、大きな岩の陰から、弱々しい声が聞こえてきた。

「理玖……来たか」

 朧月会の本部で見た、威厳ある姿はもうそこにはなかった。迦具土烈火は、人間の老人のような姿で、岩にもたれかかっている。体の各所から薄い炎が立ち昇っているが、それさえも今にも消えそうなほど弱々しい。

「烈火」

 理玖が迦具土に静かに近づいた。

「おまえとの戦いに決着をつけに来た」

「決着?」

 烈火は嘲笑した。

「見ろ、この様を。私はもう、戦う力さえ残っていない」

 私は迦具土を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が湧き上がるのを感じていた。恐怖、憐れみ、そして……理解しがたい親近感。

「迦具土烈火様……」

 私も理玖の横に立った。

「私は朝霞鈴凪と申します」

 迦具土は私を見上げると、瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。

「ほう……鈴の娘か。いや……少しばかり違うようだな」

 迦具土の目が私の内側まで見透かそうとするように細まる。

「お前の中に、あの女の魂を感じる。水無月百合……」

 私の胸の奥で、何かが共鳴するような感覚があった。

「百合様の記憶は、確かに私の中にあります。でも私は鈴凪です。理玖様を愛する、一人の女性です」

「愛……」

 迦具土は苦い笑いを浮かべた。

「理玖よ、お前は人に堕ちたのか」

「堕ちたのではない」

 理玖は静かに答えた。

「愛によって昇華したのだ」

 迦具土は何も言葉を発しないまま、長い間、私たちを見つめていた。やがて、深いため息をつく。

「私は……間違っていたのかもしれぬ」

 迦具土の声に、初めて迷いの色が浮かんだ。

「私は人を憎み続けた。人が妖を恐れ、排除しようとすることに怒り続けた。だが……」

 迦具土は私を見つめる。

「お前を見ていると、人にも妖を理解し、愛することのできる者がいることが分かる」

 私は懐から銀の鈴を取り出した。それは、理玖から贈られた大切な鈴。

「迦具土烈火様」

 腰を落として岩にもたれている迦具土の頭の上で、私は鈴を軽く振る。清らかな音色が、焼け焦げた大地に響いた。

「あなたの怒りも、悲しみも、すべて理解できます。長い間、一人で戦い続けてこられたのですね」

 迦具土の瞳に、涙のようなものが浮かんだ。

「鈴の娘よ……お前の音は、なぜこうも心に響くのだ」

「あなたが本当は、戦いたくなかったからではないでしょうか」

 私がそう答えると、迦具土は驚いたような表情を見せた。

「戦いたく……なかった?」

「はい。あなたは人を憎んでいるのではなく、理解されないことに傷ついていただけなのではないでしょうか」

 迦具土は長い沈黙の後、静かに笑った。

「ふふ……なるほど。この老いぼれの心を、一人の人間の女性に見透かされるとは」

 理玖が迦具土の前に膝をついた。

「烈火、長い戦いを終わりにしよう。おまえも、私も、もう十分に戦った」

「理玖よ」

 烈火は理玖を見つめた。

「お前は本当に、人として生きるつもりか」

「ああ。鈴凪と共に、新しい世界を作りたい」

 迦具土は空を見上げた。夕日が山の向こうに沈もうとしている。

「いつか……お前たちの子孫が、私を目覚めさせる時が来るかもしれぬ」

 迦具土の体が、薄い光に包まれ始めた。

「その時は、私も共に新しい世界を見てみよう。妖と人が理解し合える世界を」

 光が強くなり、迦具土の姿がゆっくりと薄れていく。

「理玖よ、鈴の娘よ……幸せになるがよい」

 やがて光は消え、そこには一つの小さな炎だけが残った。それは岩の隙間に静かに潜り込み、深い眠りについた。

「これで……終わったのですね」

 私は理玖の手を握った。

「ああ。長い因縁が、ようやく終わった」

 二人は山を下りながら、手を繋いで歩いた。夕日が二人の影を長く伸ばし、新しい未来への道を照らしているようだった。

 その夜、朝霞邸の奥座敷で、理玖と私は初めて心から通じ合っていた。

「もう仮面は要らない」

 理玖は私の頬に手を添えて言った。

「仮面、ですか?」

「私は長い間、人間の前では別の顔を見せていた。本当の自分を隠して」

 理玖の九つの尾が、月光の下で美しく輝いている。

「でも鈴凪の前では、ありのままでいられる」

「私もです」

 私は理玖の手を握った。

「理玖様の前でなら、弱い自分も見せられます」

 二人は夜通し語り合った。過去のこと、現在のこと、そして未来のこと。
 契約ではない、真実の愛で結ばれた夫婦として。
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