狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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真実と仮面

第30話 理玖の思い

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 書斎で夜を明かした理玖は、外が明るくなったことに気づいてようやく顔を上げた。一睡もしていない目は赤く、疲労で霞んでいる。

「鈴凪……」

 彼女の名前を呟くと、胸が締め付けられた。さっきの会話を何度も思い返しても、もっと上手く説明できたのではないかという後悔ばかりが残る。

『本当の私を愛してくれる人は、いるのでしょうか』

 鈴凪の問いかけは、彼女自身に向けられたもののようだった。中庭に立つその姿は、まるで霧の中に立つ迷子のように、頼りなく見えた。

『一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか』

 あの時――理玖は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。間違いなく鈴凪を見ていた。ただ、百合の面影が浮かんでいたのも事実だ。
 その事実を、どう言葉にすれば良かったのか。それが分からない。

 自分の過去が、今の幸せを壊してしまう皮肉を感じていた。説明すればするほど、鈴凪を傷つけてしまう。この状況を、どう修復すればよいのか見当もつかなかった。
 二人の間に横たわる溝は、想像以上に深かった。

「もう、手遅れだろうか……」

 理玖がつぶやいた言葉は、朝の静寂の中に重く響いた。
 書斎を出ると、慌てた様子の華が駆け寄ってきた。

「旦那様、たった今、奥様がお屋敷を出ていかれました」

 華の言葉に理玖は愕然とした。あれからまだ数時間だというのに、まさか、こんなにも早く理玖から離れてしまうなどと、考えてもみなかった。

「そうか……」

「散歩に出ると仰っていましたし、お部屋には荷物も残していらっしゃいます。ですから、すぐに戻られるとは思うのですが……」

 華の声が震えている。理玖は深く息を吸うと、庭の方を見やった。靄に霞む街の向こうで、鈴凪は今どこを歩いているのだろうか。

「昨夜、奥様と中庭にいらっしゃいましたよね。その時に何かあったのですか?」

 華の問いに理玖は答えられなかった。これまでであれば、華には可能な限りの情報と状況を共有してきた。百合のことも、ちよのことも。理玖に何かが起こった時に、判断に困るようなことがあってはならないからだ。

 だというのに、鈴凪のことを話すのが辛いと感じる。鈴凪に理玖の本当の姿を見せたことだけでも話さなければならないと分かっているのに。華は薄々、気づいているのだろうか、大きくため息を漏らした。

「では、追いかけますか?」

 華の問いに、理玖はしばらく沈黙した。そして静かに首を振る。

「いや……今の彼女には……彼女自身がどうしたいのか決めたのであれば、その意志を尊重したい」

 そう言いながらも、理玖の拳は固く握られていた。朧月会のことが頭をよぎる。既に鈴凪には朧月会の椋本が接触している。その後の調べでは、どうやら鈴凪と旧知の仲である真壁という青年も接触を図っている。

 朧月会の中に鈴凪の知人がいるのは問題だ。言いくるめられて、朧月会に囚われてしまう可能性も――。
 妖を敵視する人々の存在。無防備な鈴凪が、危険な目に遭うかもしれない。

「ただ、朧月会の動きは気になる……」

 理玖の呟いた言葉に、華の表情も険しくなった。

「椋本と真壁ですね?」

「ああ」

「では、監視を。それから……やはり私は、奥様を追って様子を窺って参ります」

「目立たぬように。しかし……」

 理玖は立ち上がると、庭を見下ろした。朝の光が徐々に靄を払い、街の姿を浮かび上がらせている。

「何かあったら、すぐに駆けつけられるよう準備を」

「承知いたしました」

 華が一礼して立ち去った後、理玖は一人書斎に残り、静かにため息をついた。こんなことになっても、一日は嫌でも始まっていく。

 椿京の街に響く朝の鐘の音が、二人の運命の新たな局面の始まりを告げていた。
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