狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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真実と仮面

第32話 夢の中の百合

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 慎吾と別れた私は、椿京を出て実家へと向かった。
 朝霞邸に戻る勇気がまだ持てず、一人で考える時間が必要だった。椿京から少し離れた実家にたどり着いたのは、日付も変わった深夜だった。

 実家は小さく、質素だったが、温かみのある家だった。両親は既に他界し、追われてこの家を出てから、今は空き家同然になっていたが、私にとっては心の支えとなる場所だった。

 久しぶりに足を踏み入れた家の中は、静寂に包まれていた。埃っぽい空気の中に、かすかに母の使っていたこうの匂いが残っている。僅かに残っていた荷物の中から手拭いを出すと、近くの井戸で足を洗った。

「足が痛い……」

 私は自分の部屋に入り、そこで一人、座り込んだ。
 畳の感触が、幼い頃の記憶を呼び起こす。
 この部屋で、どれほど多くの夜を過ごしただろう。母の読み聞かせを聞いた夜、将来への夢を語り合った夜、そして仕事が決まった時の逸る気持ちを抱えて眠りについた夜……。

「私は、どうしたいのだろう」

 膝を抱えて呟いた。

 慎吾の温かさも、理玖への複雑な想いも、すべてが心の中で絡み合っていた。答えを見つけるために実家に来たのに、一人になると余計に混乱が深まった。
 やがて疲労に勝てず、私はそのまま眠りに落ちた。

 夢の中で、私は桜舞い散る神社にいた。

 狐燈坂の上にある小さな神社。石段を上がった先にある、椿京の街を見下ろす静かな場所。桜の花びらが風に舞い、まるで雪のように地面に舞い落ちている。

 そこに、一人の女性が立っていた。

 黒髪を風に揺らし、白い着物に身を包んだ美しい女性。その横顔は確かに私に似ていたが、どこか大人びて、深い憂いを湛えていた。

 百合の姿だった。

『あなたが……鈴凪さんですね』

 百合は振り返って微笑んだ。その笑顔は優しく、しかし悲しみを含んでいた。

「百合様……」

 私は夢の中でありながら、確かに百合と対話していることを理解していた。

『理玖のことで、辛い思いをされているのでしょう?』

 百合は静かに桜の木の下に歩み寄った。

『私も、かつて同じ道を歩きました』

 百合の表情に、深い経験に裏打ちされた慈愛が浮かんでいる。

「朝霞様は……私を愛してくださっているのでしょうか。それとも、百合様の身代わりとして……」

 こんなことを聞いてみても現状は何も変わらないけれど、私の想いとは裏腹に言葉がこぼれてしまう。そんな私に百合は静かに答えた。

『最初は、そうだったかもしれません……でも、今は違います』

 百合は私の前に座った。桜の花びらが二人の間に舞い散る。

『理玖は不器用な人です。愛することが苦手で、愛されることにも慣れていない。だから、過去の記憶に縋ってしまうのです』

 私の胸の中に、不思議と百合の言葉が沁み込んでくる。

『でも、あなたと過ごす日々の中で、理玖は変わりました。私への想いを重ねながらも、あなた自身を愛するようになったのです』

「本当に……そうなのでしょうか」

『ええ。なぜなら、理玖があなたに真実を告白したからです』

 百合の瞳に、深い理解が宿っていた。

『私には、最後まで真実を語ってくれませんでした。妖の姿も、見せてくれることはありませんでした。災いをもたらすことも、私自身が気づくまで隠し通そうとした』

 百合の声は昔を懐かしむような調子だった。

『でも、あなたには自分から打ち明けた。それは、あなたを本当に愛しているからです。偽りの関係ではなく、真実の愛を築きたいと願ったからです』

 胸が一杯で私の目に涙が溢れてくる。

「なぜ百合様は……朝霞様と別れを選ばれたのですか」

 百合の表情が陰った。神社の境内で、時が巻き戻るように場面が変わった。

 そこには、人間の姿をした理玖がいた。若々しく、今よりも感情を表に出していた理玖。そして、百合が理玖の前に立っている。

『妖と人は決して結ばれてはならないのです』

 夢の中の百合が言った。理玖の表情が絶望に歪んだ。

『あなたを愛していたことに嘘はない。でも、私は人間として生きることを選ぶ――』

 理玖が膝をついた。その背中は深い悲しみに震えていた。

『私の記憶から、あなたに関する全てが消えれば――私たちの契約も解けます。あなたは、本来の力を取り戻せるでしょう』

『百合!』

 理玖の慟哭が神社に響いた。桜の花びらが激しく舞い、まるで天が泣いているかのようだった。
 場面が再び元に戻った時、私は涙を流していた。

『こんな思い出をお見せして、申し訳ありません』

 百合は私の涙を拭った。

『でも、知っておいてほしかったのです。理玖がどれほど愛することを恐れているかを』

「百合様は、恐ろしくはなかったのですか? 生命力を分け与えて短命になることを……」

 私の問いかけに、百合は驚いた表情を浮かべ、両手で私の頬を包み込んだ。

『短命になど、なりませんよ』

「でも……古書で……」

『書籍の情報は必ずしも正解ではありません』

 そう指摘されて、私もはっと気づいた。いつでもすべてを鵜呑みにしないように、様々な書籍に目を通していたのに、なぜ、あの古書だけを信じてしまったのだろう。

「朝霞様と別れてしまったこと……百合様は後悔されていませんか」

 百合は微笑んだ。その笑顔は、深い平安に満ちていた。

『後悔はしていません。私は人間として、平凡で幸せな人生を送ることができました。夫と子どもたちに恵まれ、充実した日々でした』

 百合は立ち上がると、桜の花びらが舞う空を見上げた。

『私と同じ魂を持っていても、あなたは私ではありません。あなたには、あなた自身の道があります』

「私の道……」

『理玖と共に歩む道を選ぶのも、別の道を選ぶのも、すべてあなたの自由です。ただ、一つだけ覚えておいてください』

 百合は私の手を取り、優しく微笑んだ。

『愛することに、正解はありません。恐れることも、迷うことも、すべて愛の一部なのです』

 私は百合の手の温かさを感じた。不思議なことに、それは理玖の手とは違う、人間的な温もりだった。

『あなたは強い人です。きっと、正しい答えを見つけることができるでしょう』

 桜の花びらが一際激しく舞い上がった。その中で、百合の姿が薄れていく。風に揺られるように美しい鈴の音も響いている。その音色が私の心に沁み込んできた。そして薄れゆく百合の姿と共に、鈴の音も遠ざかっていった。

「百合様!」

 私が手を伸ばした時、夢は終わった。
 目を覚ますと、夜が明けていた。実家の静寂の中で、私は一人座っていた。
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