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六章
忌み憎み恨みすら
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――カクリシにいる人たちが、正しい場所に戻れますように
「後悔は抱えたままがいーんじゃないかと思ってさ」
椋伍が短冊をコヨリへ渡して告げると、彼女は唇に笑みを湛えたまま紙面から視線を上げた。
その瞳には、着崩した学ラン姿の弟がどう映っているのだろう。
椋伍はその見た目にそぐわない、ひどく落ち着いた表情でしんみりと呟きつづける。
「やった事がどんなに最低なことでも、取り返しがつかないことでも、ごねた分だけ時間が過ぎるだけで戻せるわけじゃないじゃん。いつか報いが来る時までそれは抱えてる。死んでからも一緒で……それにも終わりは来る」
「……」
「その終わりを迎えられるような場所から、ダイゴが色んな人を引き離したから、みんなにちゃんと戻って欲しい。……姉ちゃんにも」
真っ直ぐな未来を描く台詞を、沈みそうな声で紡ぐ椋伍を、コヨリはゆったりと瞬きを繰り返して見つめた。
そのまま彼女は短冊を胸の辺りで抱え、満足そうに口角を持ち上げ、椋伍から離れた。
向かう先は本殿の右脇。その奥へ続く森への入口である鳥居だ。
祭りの参加者達はその黒い霞をたゆたわせ、道を開ける。
何度も椋伍の口は躊躇いがちに開き、すぐに閉じた。
喜んでいいのか、悲しめばいいのか分からないような色を顔に浮かべ、ゆっくりと遠ざかっていく白無垢に手も振れない。
鳥居を目の前にした時だ。
「姉ちゃん!!」
それは乞うように叫んで呼び止めた。
椋伍よりも僅かに高い背丈。金色に光るカフスボタンを付けた品質のいい赤いシャツ。ハリのある白いスラックス。左側を掻き上げ撫でつけた深いブラウンの頭髪。
ダイゴと呼ばれたその男は、その全てを泥水や苔、海藻、黒い髪の毛、ありとあらゆるもので薄汚くし、再び椋伍とコヨリの前に姿を現した。左手には、ゆみのボールペンが握られている。
「ダイゴ……流石にしつこ過ぎンだろ!!」
「オレが……」
「はぁ!? 何!?」
「待って、待って。オレが、首、持ってくるよ。アヤメサマだって何だって、村だって、姉ちゃんの邪魔になるなら全部潰すから」
「お前……」
「村なんか忘れて帰ろうよぉ、姉ちゃん」
オレの叫びだ。
悟るなり、椋伍は言葉を紡げなくなった。
ダイゴは嗚咽混じりに訴えかけながら、ふらふらとおぼつかない足取りで、一歩、また一歩と前へ進み出る。
細道への鳥居の前で背を向けたままのコヨリへ、びっしりと髪の毛が絡まった右手を伸ばされるが、遠い。
自分の脇を通り過ぎようとするソレに「やめろよ」と喉の奥で呻き、ガシッと椋伍はダイゴの手首を荒々しく引っ掴んだ。
「姉ちゃんを殺したのはオレとお前だって、お前が言ったんじゃねーか!! 憎んで憎んで生きることにしがみついてたら、今ごろ姉ちゃんはアヤメサマに染まって村にもなんも残ってねーし、オレらなんか真っ先に祟られてる!! あの格好見てなんでまだそんな事言えンだよ!!」
「……」
「時任コヨリの弟ならしゃんとしろッ!!」
「うるせぇええええなァアアアアアアアこのゴミクズ野郎ォオオオオアアアアアア!!」
コヨリが歩き出した。
そのためなのか、椋伍の言葉が刺さったからなのかはもはや分からない。
ダイゴは野太く空気を震わせると、椋伍に掴みかかろうとし――ビタン、と地面に倒れ伏した。
「は?」
椋伍もダイゴも理解が追いつかない。
起き上がろうともがくダイゴが、それでもビタン、ビタンと見えない何かに地面へ押し付けられ、顔面も含めた全身を砂利まみれにしている。
「どうなってんだクソがぁああああああ!!」と苛立ちを増すダイゴから視線を外し、コヨリを見る。
彼女は足を止め、僅かに振り返ってやや上の方を見ていた。
椋伍が視線を辿った時だ。ギャアギャアという鳴き声で空が騒がしくなった。
星で満ちた高い空から、すう、と腕が伸びている。細く白い腕だ。子どものように指は短く、それでも幼くは見えない手。
「ユリカさん……?」
思わずといったふうに椋伍は呟くものの、眉をひそめ、決め兼ねている。
その間に腕は星空から幾つも伸びた。
森や市街地のそこかしこに潜んでいたらしい魑魅魍魎を、まるでミミズや蟻にそうするようにすいすいと摘んで、引き上げては消えていく。
「何だ!? 何してんだお前、テメェ!! お前がやってんのか!?」
「いや、オレじゃなくて」
憤怒と抵抗で息を荒くするダイゴに、椋伍がどう説明したものか言い淀む内に、空からの細腕は全て消え、またひとつ現れた。
今度は真っ直ぐ、椋伍達の元へと伸びていく。
「え、オレ? オレも!?」
「何がだよ、何やってんだよ!! オイ!!」
「どっち? ていうか誰?」
「だから何がだよ!!」
「あっ」
腕はダイゴを選んだ。
つまむのではなく、椋伍の傍らで止まって掌を上向かせ「来い」と一度人差し指を曲げる。
グン、とダイゴの体は浮き上がり、突風にさらわれるゴミ袋のように空へと舞い上がるのを、口を開けて椋伍はただ見届けて
「アァアアアアアアアッ何だよックソがックソがァアアアアアアアアア!!」
罵詈雑言が遠のき、ふつりと消えた。
もうどこにもダイゴの姿はない。
腕は何故かその場に留まり、ゆっくりと椋伍に手の甲を傾けて見せた。
人差し指が伸びている。指しているのは、コヨリが佇む鳥居の方角だ。
それを察するより前に、
「わたしが見えなくなったら、石碑へ」
コヨリの澄んだ声が背後から耳を掠め、椋伍は勢いよく振り返った。
その姿は石階段を上がり、鬱蒼と生い茂った木々と傾斜によって、もう白無垢の裾あたりまでしか見えなくなっている。
もう一度椋伍が傍らを見ると腕は消えて、代わりに血に染まった駕籠があった。
「は……? 何これ」
覗き込もうとするも、背後から、ざ、ざ、と砂を蹴る音がして、跳ねるように椋伍は振り返った。
薄墨の村人達だ。景色はセピアに染まり、椋伍の目の前で地面を忌々しげに蹴っている。
着物の裾で口を覆い、何度も、何度も。
地面には駕籠から続いた血が落ちており、それを消そうとしている様子だった。
――おそろし おそろし
――舌を噛み切り なおあの様
――やはり 忌み子 祟りの子
――おそろし にくらし
「見届けろ。弟だろう」
「え……」
陰湿な過去の住人に目が張り付いていた椋伍を、そっと上向かせる声が掛けられた。
深く低い女の声。もう久しく聞いていない。
椋伍が探した先にその人の姿も、コヨリの姿もなく、代わりに屈強な体つきの過去の住人がひとり、枝のように細い女を担いで石段を上がろうとしていた。
血は、その女から流れ落ちている。
辿りながら鳥居の前に立った椋伍は、すう、と息を吸う。
「……。見届ける。全部」
息を吐き、拳で軽く胸を叩く。
椋伍は自身を促した言葉を振り返りながら、その石段に足をかけた。
――勘弁してくれ
女を担いだ男が泣き言を言う。
――俺を祟らんでくれ 村のせいだ 村のせいだから
女は口をきけない。
白い着物に溶けそうなほど白い腕に、血が幾筋も伝っては落ちていた。
ふと椋伍は気づく。景色が雪で満ちている。
「ユリカさんが、死んだ日……」
虫も鳴かない寒空の下、粗い造りの神棚が据え置かれた拝殿に、この後彼女は置き去られ、つかの間のカミサマとなり、そして言いがかりをつけられた末に拝殿ごと依代を焼かれるのだ。
――頼む 頼む
道が開け、旧拝殿にたどり着いた。
中に横たえられた女はうつ伏せなのだろう。遠目から見ていた椋伍からは、担いできた男の背中が邪魔になっていたが、ふくらはぎの向きで察した。
もうこの過去はここで終わりだろう。
「右に道がある……」
あそこを通れば石碑があった広場に着くはずだ。意識が僅かに逸れた椋伍が、河童に運ばれた順路を思い返していると
――忘れるな
女がきけないはずの口をきいた。
――菖蒲を 忘れるな 末代まで
――ひぃいい!
言葉の途中で男はガンと戸を閉めた。
余韻を残して全てが霞のように掻き消え、炭になってしまった旧拝殿だけが椋伍の前に転がる。
「……。最後くらい憎んだっていいのに」
やりきれなさを零すと、椋伍は学ランの袖で一度頬を擦り、そっとその場を後にした。
「後悔は抱えたままがいーんじゃないかと思ってさ」
椋伍が短冊をコヨリへ渡して告げると、彼女は唇に笑みを湛えたまま紙面から視線を上げた。
その瞳には、着崩した学ラン姿の弟がどう映っているのだろう。
椋伍はその見た目にそぐわない、ひどく落ち着いた表情でしんみりと呟きつづける。
「やった事がどんなに最低なことでも、取り返しがつかないことでも、ごねた分だけ時間が過ぎるだけで戻せるわけじゃないじゃん。いつか報いが来る時までそれは抱えてる。死んでからも一緒で……それにも終わりは来る」
「……」
「その終わりを迎えられるような場所から、ダイゴが色んな人を引き離したから、みんなにちゃんと戻って欲しい。……姉ちゃんにも」
真っ直ぐな未来を描く台詞を、沈みそうな声で紡ぐ椋伍を、コヨリはゆったりと瞬きを繰り返して見つめた。
そのまま彼女は短冊を胸の辺りで抱え、満足そうに口角を持ち上げ、椋伍から離れた。
向かう先は本殿の右脇。その奥へ続く森への入口である鳥居だ。
祭りの参加者達はその黒い霞をたゆたわせ、道を開ける。
何度も椋伍の口は躊躇いがちに開き、すぐに閉じた。
喜んでいいのか、悲しめばいいのか分からないような色を顔に浮かべ、ゆっくりと遠ざかっていく白無垢に手も振れない。
鳥居を目の前にした時だ。
「姉ちゃん!!」
それは乞うように叫んで呼び止めた。
椋伍よりも僅かに高い背丈。金色に光るカフスボタンを付けた品質のいい赤いシャツ。ハリのある白いスラックス。左側を掻き上げ撫でつけた深いブラウンの頭髪。
ダイゴと呼ばれたその男は、その全てを泥水や苔、海藻、黒い髪の毛、ありとあらゆるもので薄汚くし、再び椋伍とコヨリの前に姿を現した。左手には、ゆみのボールペンが握られている。
「ダイゴ……流石にしつこ過ぎンだろ!!」
「オレが……」
「はぁ!? 何!?」
「待って、待って。オレが、首、持ってくるよ。アヤメサマだって何だって、村だって、姉ちゃんの邪魔になるなら全部潰すから」
「お前……」
「村なんか忘れて帰ろうよぉ、姉ちゃん」
オレの叫びだ。
悟るなり、椋伍は言葉を紡げなくなった。
ダイゴは嗚咽混じりに訴えかけながら、ふらふらとおぼつかない足取りで、一歩、また一歩と前へ進み出る。
細道への鳥居の前で背を向けたままのコヨリへ、びっしりと髪の毛が絡まった右手を伸ばされるが、遠い。
自分の脇を通り過ぎようとするソレに「やめろよ」と喉の奥で呻き、ガシッと椋伍はダイゴの手首を荒々しく引っ掴んだ。
「姉ちゃんを殺したのはオレとお前だって、お前が言ったんじゃねーか!! 憎んで憎んで生きることにしがみついてたら、今ごろ姉ちゃんはアヤメサマに染まって村にもなんも残ってねーし、オレらなんか真っ先に祟られてる!! あの格好見てなんでまだそんな事言えンだよ!!」
「……」
「時任コヨリの弟ならしゃんとしろッ!!」
「うるせぇええええなァアアアアアアアこのゴミクズ野郎ォオオオオアアアアアア!!」
コヨリが歩き出した。
そのためなのか、椋伍の言葉が刺さったからなのかはもはや分からない。
ダイゴは野太く空気を震わせると、椋伍に掴みかかろうとし――ビタン、と地面に倒れ伏した。
「は?」
椋伍もダイゴも理解が追いつかない。
起き上がろうともがくダイゴが、それでもビタン、ビタンと見えない何かに地面へ押し付けられ、顔面も含めた全身を砂利まみれにしている。
「どうなってんだクソがぁああああああ!!」と苛立ちを増すダイゴから視線を外し、コヨリを見る。
彼女は足を止め、僅かに振り返ってやや上の方を見ていた。
椋伍が視線を辿った時だ。ギャアギャアという鳴き声で空が騒がしくなった。
星で満ちた高い空から、すう、と腕が伸びている。細く白い腕だ。子どものように指は短く、それでも幼くは見えない手。
「ユリカさん……?」
思わずといったふうに椋伍は呟くものの、眉をひそめ、決め兼ねている。
その間に腕は星空から幾つも伸びた。
森や市街地のそこかしこに潜んでいたらしい魑魅魍魎を、まるでミミズや蟻にそうするようにすいすいと摘んで、引き上げては消えていく。
「何だ!? 何してんだお前、テメェ!! お前がやってんのか!?」
「いや、オレじゃなくて」
憤怒と抵抗で息を荒くするダイゴに、椋伍がどう説明したものか言い淀む内に、空からの細腕は全て消え、またひとつ現れた。
今度は真っ直ぐ、椋伍達の元へと伸びていく。
「え、オレ? オレも!?」
「何がだよ、何やってんだよ!! オイ!!」
「どっち? ていうか誰?」
「だから何がだよ!!」
「あっ」
腕はダイゴを選んだ。
つまむのではなく、椋伍の傍らで止まって掌を上向かせ「来い」と一度人差し指を曲げる。
グン、とダイゴの体は浮き上がり、突風にさらわれるゴミ袋のように空へと舞い上がるのを、口を開けて椋伍はただ見届けて
「アァアアアアアアアッ何だよックソがックソがァアアアアアアアアア!!」
罵詈雑言が遠のき、ふつりと消えた。
もうどこにもダイゴの姿はない。
腕は何故かその場に留まり、ゆっくりと椋伍に手の甲を傾けて見せた。
人差し指が伸びている。指しているのは、コヨリが佇む鳥居の方角だ。
それを察するより前に、
「わたしが見えなくなったら、石碑へ」
コヨリの澄んだ声が背後から耳を掠め、椋伍は勢いよく振り返った。
その姿は石階段を上がり、鬱蒼と生い茂った木々と傾斜によって、もう白無垢の裾あたりまでしか見えなくなっている。
もう一度椋伍が傍らを見ると腕は消えて、代わりに血に染まった駕籠があった。
「は……? 何これ」
覗き込もうとするも、背後から、ざ、ざ、と砂を蹴る音がして、跳ねるように椋伍は振り返った。
薄墨の村人達だ。景色はセピアに染まり、椋伍の目の前で地面を忌々しげに蹴っている。
着物の裾で口を覆い、何度も、何度も。
地面には駕籠から続いた血が落ちており、それを消そうとしている様子だった。
――おそろし おそろし
――舌を噛み切り なおあの様
――やはり 忌み子 祟りの子
――おそろし にくらし
「見届けろ。弟だろう」
「え……」
陰湿な過去の住人に目が張り付いていた椋伍を、そっと上向かせる声が掛けられた。
深く低い女の声。もう久しく聞いていない。
椋伍が探した先にその人の姿も、コヨリの姿もなく、代わりに屈強な体つきの過去の住人がひとり、枝のように細い女を担いで石段を上がろうとしていた。
血は、その女から流れ落ちている。
辿りながら鳥居の前に立った椋伍は、すう、と息を吸う。
「……。見届ける。全部」
息を吐き、拳で軽く胸を叩く。
椋伍は自身を促した言葉を振り返りながら、その石段に足をかけた。
――勘弁してくれ
女を担いだ男が泣き言を言う。
――俺を祟らんでくれ 村のせいだ 村のせいだから
女は口をきけない。
白い着物に溶けそうなほど白い腕に、血が幾筋も伝っては落ちていた。
ふと椋伍は気づく。景色が雪で満ちている。
「ユリカさんが、死んだ日……」
虫も鳴かない寒空の下、粗い造りの神棚が据え置かれた拝殿に、この後彼女は置き去られ、つかの間のカミサマとなり、そして言いがかりをつけられた末に拝殿ごと依代を焼かれるのだ。
――頼む 頼む
道が開け、旧拝殿にたどり着いた。
中に横たえられた女はうつ伏せなのだろう。遠目から見ていた椋伍からは、担いできた男の背中が邪魔になっていたが、ふくらはぎの向きで察した。
もうこの過去はここで終わりだろう。
「右に道がある……」
あそこを通れば石碑があった広場に着くはずだ。意識が僅かに逸れた椋伍が、河童に運ばれた順路を思い返していると
――忘れるな
女がきけないはずの口をきいた。
――菖蒲を 忘れるな 末代まで
――ひぃいい!
言葉の途中で男はガンと戸を閉めた。
余韻を残して全てが霞のように掻き消え、炭になってしまった旧拝殿だけが椋伍の前に転がる。
「……。最後くらい憎んだっていいのに」
やりきれなさを零すと、椋伍は学ランの袖で一度頬を擦り、そっとその場を後にした。
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