サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月6日(木) 2

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 連休が明けた新日風潮社の編集室では、パナマ帽を頭に乗せて半袖のアロハシャツを着た男が、壁際の一番前の机に腰を降ろして周囲の記者たちに話していた。別府博べっぷひろしだった。彼はサングラスの跡を残して真っ黒に日焼けした顔に誇らし気な笑みを浮かべながら、大袈裟な身振り手振りで語っている。
「いや、とにかくさ、もう、風が気持ちいい訳よ。トロピカル・ジュースは美味しいし、砂浜は綺麗だし。もう、最高だったよ。嫁も子供たちも、大はしゃぎでさあ……」
 周囲の席の記者たちは面倒臭そうに彼の自慢話に付き合っていたが、別府博は御構い無しに話を続けた。そこへ、春木陽香が出社してきた。
「おはようございます」
「よお、おっはようさん、ハルハル」
 高々と手を上げて挨拶を返した別府を見て、春木陽香が言った。
「うわ、すごい日焼け。どうしたんですか、別府先輩。それに、その格好……」
 春木陽香は別府の服装を下から上に観察した。
 別府博は胸の前で交差させた両手を素早く左右に広げて、言った。
「ノープロブレム。ミクロネシアの島々を家族で周遊してきちゃったのね。ま、会社が旅費を持ってくれたからなんだけど、さ。とにかく、楽しかったぜ」
「会社が……ですか……?」
 春木陽香には、なぜ別府が会社の費用で海外旅行に行ったのか見当がつかなかった。
 瞬きをしている春木に、別府博は当然と言わんばかりの顔で言った。
「そ。編集長が経理と話してくれてね。ようやくこの会社も、俺の実力を認めてくれたって訳よ。という訳で、はい、これ、お土産」
「はあ……どうも」
 怪訝そうな顔で別府から渡された物を両手で受け取った春木陽香は、それを片方の手で摘まんで持ち上げると、LEDの蛍光灯にかざして観察した。金属製の小さなリングから短いチェーンがぶら下がっていて、その先にオウム貝の形をした金属製の物が付いている。
 春木陽香が首を傾げながら椅子に座ろうとすると、別府博が彼女の肩を叩いた。
「ま、ハルハルも、もう少しの辛抱だ。頑張るんだぞ。俺が編集長になったら、こう、全体をもっと風通し良くしてだな、もっとフレッシュな雑誌に……」
 別府からの「お土産」の正体を理解した春木陽香が言った。
「これ、キーホルダーですか……」
 春木の手からそのキーホルダーを取った別府が、それをいじりながら言った。
「ただのキーホルダーじゃないぞ。驚くなよ。ここをひっくり返すと……、ほら、なんと爪切りに早変わり。こうして元に戻すと……、一見すると貝殻のアクセサリーっぽくて、お洒落だろう」
 爪切りにトランス・フォームする変形キーホルダーを再び両手で受け取った春木陽香は、一応、言ってみた。
「鍵なんて持ってないですけど……ていうか、今時、誰も鍵なんて持ってないと……」
 彼女が住むマンションも、他の家も、車も、大抵は指先の皮膚からDNAの情報を即時に読み取る「接触式簡易DNA識別キー」を採用している。だから、特に「鍵」を持ち歩く必要は無い。春木陽香は口を尖らせて、また首を傾げた。
 別府博は春木を指差しながら言った。
「ヘイ、ヘイ、ユー。先輩からのお土産にケチ付けるのかい」
「いえ、別に……ありがとうございます」
 春木陽香は先輩の厚意に対して頭を下げた。そのまま、ついまた首を傾げてしまう。
 別府博はそれに応じることなく、誰も座ってない山野の机の前に行くと、春木の方を振り向いて、ラッピングされた箱を見せながら言った。
「これは、編集長に。ココナッツ・クッキーとパイナップル・ワッフルのセット。高かったぜえ」
「はあ……。きっと、喜ばれると……思います……」
 春木陽香は精一杯にそう言った。
 別府博は腕時計を覗きながら眉を寄せた。
「でも、編集長、遅いなあ。新聞の方と打ち合わせがあるって……」
 ハッとした春木陽香は、壁の掛け時計を見ると、慌てて席を立った。
「あの、私も上に行ってきます。少し長くなります」
「じゃあ、編集長に会ったら、俺からお土産があるって……おおーい……」
 春木陽香は返事もせずに駆け出していった。
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