サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月6日(木) 3

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 新日ネット新聞社会部の編集フロアでは、通常通りの朝の繁劇が続いていた。ワイシャツ姿の男たちや髪を後ろに束ねた女たちが、受話器を肩と顎で挟んでパソコンのキーを叩いたり、熱心に資料文書のホログラフィー画像を読んでいたりと、それぞれが取材に出るための準備に追われている。しかし、記者たちの緊張は夕刊記事の締め切り時刻の直前ほどではない。騒々しくも、朝は幾分か平和だと感じつつ、春木陽香は他人にぶつからないように注意しながら、慌しい室内を奥へと歩いていった。フロアの一番奥の「島」には、二人の記者がいた。
 春木陽香はそれぞれに挨拶した。
「あ、シゲさん、永峰先輩、おはようございます。あの……」
 重成直人が空いている真後ろのドアを気にしながら、春木に声を殺して言った。
「デスクの部屋だ。早く、行った、行った」
 社会部長の谷里に見つからないように気を使ってくれた重成に頭を下げて、春木陽香は隣の次長室に入っていった。
「失礼します。春木です」
 神作真哉が答えた。
「入れ」
「だから。なんで、おまえが答えるんだよ。ここは俺の部屋だろうが!」
 上野秀則が床を指差しながらそう言った。
 春木陽香はドアを閉めると、丸いテーブルを囲んで鼎座している先輩記者たちに挨拶をした。
「失礼します。おはようございます」
「ハルハル、遅いわよ。ほら、早く」
 既にそこに座っていた山野紀子はそう言うと、春木に自分の隣に座るよう指示した。
 春木陽香は山野の左前隣のソファーに座った。窓を背にして置かれた一人掛けのオレンジのソファーに座っていた山野紀子は腕時計を見ながら後ろの窓に手を伸ばし、ブラインドを閉じた。山野の右前隣のソファーに座っていた神作真哉が天井の照明を指差した。神作の右前隣に座っていた上野秀則が不満そうに口を尖らせながら立ち上がり、後ろの壁の方に移動する。彼が壁のスイッチを操作すると、天井の照明が少し照度を落とした。上野秀則はブツブツと不平を言いながら、春木の左隣のソファーに戻った。春木陽香は右前隣の山野と視線を合わせて、クスリと笑った。
 四人の中央にある小さい丸テーブルの上には一台の立体パソコンが置かれていた。暫らくすると、その薄い板状の立体パソコンから真上に光が発せられ、そこに永山哲也の上半身がホログラフィー画像で投影された。南米のニューサンティアゴにいる永山哲也からの立体通信だった。
「お、来た来た。久々の永山だな。元気にしてたかな」
 上野秀則が両手をすり合わせて意気込んだ。神作真哉が座り直す。山野紀子も少し姿勢を正して構えた。春木陽香は慌てて髪を整えている。
 山野の方を向いて再生されたホログラフィーの永山哲也は、左右を見回して言った。
『あの、ノンさん。デュアル通信かサイマルタイニーズ通信でって言いましたよね。基本的に立体通話は一対一ですから、別々にホログラフィーにするには、専用カメラじゃないと駄目なんですよ。こっちでは、ノンさんに左右の他の人が半分ずつ合体したものが映っていて、すごいホログラフィーになってますけど』
「……」
 先輩記者たちは固まったまま沈黙していた。
 春木陽香は先輩たちの顔を見た。三人の先輩たちは咳払いをしたり、肩を叩いたりして誤魔化している。春木陽香は、そのような乱れた形で再生された立体画像でどうして山野だと分かったのか永山に尋ねたかったが、要らぬ論争が起こりそうだったので、やめた。
 春木陽香は立ち上がると、黙ってドアの方に向かった。ドアを少し開いて、顔を少し出し、向こうに座っている永峰千佳に小さく手招きする。
 部屋に入ってきた永峰に春木が耳打ちして事情を説明すると、永峰千佳は呆れたように溜め息を吐いて、丸テーブルの所までやってきた。そして、言った。
「じゃあ、とりあえず、皆さんのウェアフォンを立体画像式のチャット通話にして、それで先輩とお話しましょう。私がリンクさせてみますから」
 先輩たちは気まずそうにポケットからウェアフォンを取り出した。四人はそれぞれ膝の上にウェアフォンを置いて立体通話の準備をする。丸テーブルの横に屈んで立体パソコンを操作していた永峰千佳が、全員で同時立体通話ができるように設定し直した。春木が差し出したフェアフォンと立体パソコンの操作アイコンを見比べながら、彼女は言った。
「よしっと。では皆さん、私が合図したら自分のウェアフォンの通話スタートボタンを押して下さい。あ、永山さんはそのままでいいです。じゃ、いきますよ。さん、に、いち、はい、スタート」
 記者たちは一斉に自分の携帯端末の通話ボタンを押した。皆で不安そうに顔を見合わせる。永峰千佳は永山のホログラフィーに尋ねた。
「どうですか。四人とも、ちゃんと別々に映ってますか」
『ああ、オーケー、オーケー。小さいけど、映ってるよ。サンキュー、千佳ちゃん』
 春木陽香は小さく拍手をした。
 永峰千佳はそれを制止しながら、小声で言った。
「じゃあ、うえにょデスク、私はこれで。今日の分の記事があるんで。また何かトラブったら呼んで下さい」
 神作真哉から順に永峰に礼を言った。
「悪かったな」
「ごめんね、助かった」
「さっすがですね、永峰先輩」
「ありがとな……ていうか、『上野』だ。いい加減に覚えろ!」
 永峰千佳は出て行った。
 上野秀則が閉まったドアの方を見て呟く。
「それにしても、意外と便利なヤツだな。『パソコンおたく』だから、独身なのか」
 他の三人が上野に冷ややかな視線を送った。
 三方からの蔑視に晒された上野秀則は、失言したことを気まずそうにしながら、咳払いしてテーブルの上を指差した。
 永山哲也のホログラフィー画像が周囲を見回している。
『改めまして、こんばんわ……じゃない、おはようございますですね』
 永山哲也は腕時計を見た。それは春木が空港でプレゼントしたものだった。それに気付いた春木陽香は、顔を少しほころばせた。
 神作真哉が言った。
「どうだ。もうすぐ、そっちに行って二週間だが、そろそろ帰りたくなってきたんじゃないか」
 永山哲也のホログラフィー画像は苦笑いをする。
『まあ、正直、そんなに遠くに来たって実感が無いですね。こうして、立体通話で毎日家族とも会話できますし、ここの生活も普通の観光地と変わらないですからね。ゲリラ軍の攻撃はここまでは来てないですし、世界中のメディアが交代で入ってきていますから、経済効果もすごくて。この十年で完全にリゾート地になっちゃっていますよ。この街の様子や実情も、先輩に送ったでしょ』
 神作真哉が答えた。
「だな。あんな立派なカジノや保養施設が整った街で快適なホテル生活をしながら、世界中の同業者が、さももっともらしく戦争のレポート記事を書いているんだな。南米戦争が終わらないはずだ」
 ホログラフィーの永山哲也は頷く。
『そうなんですよ。誰も戦闘区域に行こうとしない。協働部隊から貰った画像データや動画データをネット新聞にアップしたり、ニュースで流しているだけですからね。裏取り取材も、この辺にいる非番の兵士たちから話を聞いてるだけですし』
 山野紀子が身を乗り出して言った。
「だからって、哲ちゃんが戦争の現場をレポートする必要は無いんだからね。今回の出張は、あくまで、真明教団の戦地での難民救済活動の取材って名目なんだから。変な気を起こすんじゃないわよ」
 永山哲也は笑いながら答えた。
『分かっています。許可された業務外で死んだら、保険も労災も下りないでしょうから。祥子と由紀を困らせることはしません』
 上野秀則が真顔で言った。
「保険と労災が下りても家族は困るだろうが。無茶はするなよ」
『はい。毎回、温かいご忠告をどうも』
 永山哲也のホログラフィー画像は、上野に手を振ってそう言った。
 春木陽香が精一杯に可愛い声を出した。
「永山先輩。えっと、栄養はちゃんと採るようにして下さい。――」
 山野紀子が笑いを堪えながら、こっそりと自分のウェアフォンの立体カメラのレンズを隣の春木に向けた。それを見た神作と上野も同じようにした。
 ホログラフィーの永山が四方を大袈裟にキョロキョロと見回しながら言った。
『おお、ハルハルだらけ。前後左右、四人とも全部ハルハルだ。ああ、元気だった? ああ、これ、使わせてもらってる』
 永山哲也のホログラフィー画像は、山野に向かって腕時計を見せた。山野紀子はウェアフォンのレンズを自分に向けて、永山に言った。
「この子、哲ちゃんが結婚して子供までいることを知らなかったんですって。あんたも罪な男ねえ」
『ゲッ、こっちのハルハルはノンさんか。あのですね、誤解の無いように言っておきますが、僕は隠してないですよ。普通に接していたんですけど』
 上野秀則もカメラを自分に向けながら言った。
「よーし、おまえが居ない間に、永山がハルハルをたぶらかしたって、言いふらしてやるか」
 ホログラフィー画像の永山哲也は困惑していた。
『ちょっと、ちょっと、人聞きの悪いことを言わないで下さいよ。ハルハルも、何か言えよ』
 春木陽香は先輩たちに向けて必死に手と首を振った。
「あ、違います。私が勝手に独身だと思い込んでいただけで……」
 神作真哉が悪ノリする。
「冗談だよ、永山。心配すんな。カミさんには黙っといてやるから」
『ちょっとキャップ、頼みますよ』
 山野紀子が話を戻した。
「ほら、馬鹿なことばかり話してないで、仕事の話」
 春木陽香は、もっと永山と話したかったが、仕事なので我慢した。
 神作真哉が真顔に戻って永山に尋ねる。
「で、高橋博士の家族が南米に入ったという情報が出てこないというのは聞いたが、その後、何か分かったのか」
『いいえ。ボコタの旧国際空港にまで足を運びましたが、入国した痕跡は無いですね』
 上野秀則が小さな目を丸くして言った。
「ボコタって、大陸の北部じゃねえか。大丈夫だったのか」
『ええ。太平洋上を船で移動しました。物資の運搬船が、海岸線からの短距離ミサイルの射程範囲外を周って、北部と南部の都市を往来していますから、それに乗せてもらって』
「そうか……難儀だったな」
『とにかく、空港の監視カメラの映像を簡易スキャンしてもらいましたけど、類似の人物は一人もヒットしませんでしたね。三日かけて過去十年分の全記録を調べてもらいましたが、何も出てきませんでした』
「他に空港はないの?」
 質問した山野の方を向いて、永山哲也のホログラフィーは頷いた。
『もちろん、カヤオとかイロとかにも生きている空港はあるみたいですが、ゲリラ軍の支配域ですしね。それに、南部のどの空港でも、アメリカ本土からの発着便はありませんから、可能性があるとすれば、北にあるボコタでしょうね』
 神作真哉が言った。
「陸路と海路は」
『まず、海は無いですね。物資の運搬船以外では、民間人を輸送する船は出ていませんから。南アフリカかニュージーランドでも経由すれば別ですけど。南部の港から上陸していれば、もうとっくに手掛かりが見つかっているはずです。東洋人の情報なら、結構、ピックアップしやすいですからね』
 神作真哉は永山の立体画像を指差して言った。
「だが、おまえみたいに物資運搬船に潜り込んで入国しているのかもしれんぞ」
『それならすぐに、情報が出てくると思うんですけどね。ここは今、かなり強力なブローカーが仕切っているみたいですから』
 上野秀則が険しい顔をして言った。
「マフィアか」
『ええ。ゲリラ軍の基になった連中ですよ。その後、肥大したゲリラ軍から追い出された彼らは、各難民都市に流れてきていて、その町のダークサイドを仕切っています。彼らの情報網はかなり緻密なようですから、もし高橋博士の一家が船を使えば、その情報がまた金になる情報として出回るはずです。ですが、それが全く出てこない』
 神作真哉は言った。
「じゃあ、陸路か」
『メキシコ周辺は、戦争とは別に、もともと治安が悪いですからね。だから、記者連中もアメリカから来る場合は、空路でそこを飛び越えて来て、ボコタを利用するんです。そこからなら、アマゾン川流域の北部にある軍人街までも移動路が確保されていますからね』
 上野秀則がしかめて言った。
「そのボコタ空港を使っていないとすれば、まだ、アメリカ国内に居るってことか……」
 永山哲也は改めて周囲を見回して山野の位置を確認すると、彼女に顔を向け直してから言った。
『ノンさん。別府さんの方、どうでした。何か分かりましたか』
「あ、そうだった。ハルハル、別府君、来てた?」
「はい。なんか、アロハシャツを着て、パナマ帽を被っていましたけど。真っ黒に日焼けして。連休でミクロネシアに行ったとか……」
 神作真哉が舌打ちして言った。
「あの野郎。こっちは連休なんて無かったんだぞ。紀子も紀子だ。なんで会社の金であの馬鹿を行かせたんだよ。ハルハルでも行かせてやればよかったのに」
 春木陽香は何のことか分からず、首を傾げた。
 山野紀子は立ち上がると、神作と上野のソファーの間を通って上野の机の方に向かいながら、神作に答えた。
「だって、彼なら英語は話せないし取材も下手だから、司時空庁からも他社からも完全にノーマークでしょ。まず、重要な任務を任されるとは思われていない。だから、あえて彼に行かせたのよ。うえにょ、この電話、借りるわね」
 春木陽香は神作と山野が話している間、永山に話しかけた。
「だけど、お話を伺っていると、永山先輩、やっぱりすごく危ない所に居るんですね」
『まあね。でも、心配は要らないよ。こうやって、ニューサンティアゴのホテルに居る時は、ガラナとかチリビールを飲んで寛ぐことも出来るくらいだから。ほら』
 永山哲也の姿が一瞬下に消え、再び現われた。その手には種類の違う二本の瓶が握られていた。それを見て上野が言った。
「おまえな。飲みながら仕事の報告すんなよ」
『まだ飲んでませんよ。これが終わったら、一杯やりますけど』
 上野の机の横で、受話器を耳に当てた山野が言った。
「そう、分かった。あ、会社からは、別府君の分の出張旅費しか出せないからね。そのつもりで。それじゃ」
 山野紀子は電話を切った。
「やっぱり、ミクロネシアまで船で移動したという話は、本当みたいね」
 席に戻ってくる途中でそう言った山野紀子に、神作真哉が尋ねた。
「ロスの港での目撃情報か。キリバスの人工島行きの船に乗っていたという」
「ええ。別府君が集めた情報では、現地のタクシー運転手が、アメリカから来た日本人の親子連れの顔を覚えていたって。ランダムに十数枚の顔写真を見せて、その中から高橋博士の奥さんと子供たちの写真を選び出したそうよ。その話、信用できるわね」
 上野秀則が尋ねた。
「どこまで乗せたんだ」
「乗せたのは、空港までだって」
 神作真哉が言った。
「空港? そこから飛行機で、またどこかに移動したのか」
 上野秀則は再び尋ねた。
「ていうか、保険なしで飛行機に乗れるのか? 日本で加入していた旅行保険はアメリカの支店で解約したんだろ。その後も新規加入した形跡は無いと」
「船だって同じよ。保険なしでは、普通は乗せてくれない。何か裏の手を使ったのね」
 そう山野が言った後、春木陽香が尋ねた。
「つまり、足取りを探られたくないということですか」
「そうね。マスコミから逃れるためか、あるいは……」
 神作真哉が言った。
「何者かに命を狙われているということかもな」
 上野秀則は神作の顔を見て言った。
「そのままアメリカに帰ったなんてことは無いはずだよな。第三国に向かったか……」
「あそこの空港からは、アメリカ本土以外にも世界中に飛行機が出ているそうよ」
 そう言った山野の後で、ホログラフィーの永山哲也が言った。
『じゃあ、とにかく高橋博士の家族はアメリカからは出ているんですね。そして、ミクロネシアから第三国に移動したということでしょうか』
 山野紀子が頷いて答えた。
「そうみたいね。でも、この話が本当なら、あの三人がどこに行ったか、もう分からないわね」
 神作真哉が椅子から身を起こして言った。
「そうなると、後は二つか。永山、例のタイムマシンを作ったとかいう謎の科学者の話、何か掴めたか」
『ええ。たしかに、こっちの現地人の間では、そういった噂話があります。ただ、どれも都市伝説の域を出ないものばかりで。明日、こっちの日系人の集まりに出てみようと思っています。彼らなら、何か知っているかもしれません』
 神作真哉は顎を触りながら言った。
「そうか。じゃあ、残りはこっちだな。ハルハル、何か田爪健三の身辺で新しく分かったことはあるか」
 すると、ホログラフィーの永山哲也が春木の方を一瞥してから言った。
『いや、キャップ。もうハルハルは新日風潮の記者ですから、僕らと違ってゴールデン・ウィークだったはずでしょう。休みの日くらい、休んでいて当然じゃないですか。しかも新人だから、労組の方でメーデーの集会とかに引っ張り出されたんじゃないですか。忙しかったはずですよ。そんな意地悪な質問をしなくても……』
 神作真哉は鼻先で春木を指してから言った。
「こいつ、連休もほとんど出社して、タイムマシン関係の記事を読み込んでいたんだ。心配しているのは、こっちだよ。おまえからも、少しは休むように言ってくれ」
 永山哲也は優しい口調で春木に言った。
『そうなんだ。駄目だよ、ハルハル。休養も取らなきゃ』
 春木陽香はホログラフィーの永山に御辞儀して言った。
「ありがとうございます。でも、永山先輩も頑張っているので、私も……」
 休養など要るはずもなかった。今の永山の一言で春木陽香は元気百倍だった。
 山野紀子は春木を見て困った顔をしていた。それを見た神作真哉がホログラフィーの永山を指差しながら、春木に言った。
「こいつ、ビールを飲みながら仕事してるんだぞ。そんな先輩に義理立てすることはないだろ。ハルハルも少し休め。な」
『だから、まだ飲んでませんって』
 春木陽香は更に張り切って答えた。
「私の方で分かったことは、田爪健三博士には妻の瑠香るかさんがいて、その人も科学者だったということです。それから、瑠香さんは、ストンスロプ社の会長の娘だということも分かりました」
 山野紀子が腕組みをしながら言った。
「それは知ってるけど、彼女、科学者だったの?」
「はい。大学では物理分野を専攻していて、専門は量子物理学の応用理論。学位は修士号まで取得しています。司時空庁がまだ実験管理局だった頃に、そこに中級研究員として勤務していて、上級研究員だった田爪博士の助手を務めていました。その後、二人は結婚して、瑠香さんは管理局を退職したそうです」
「子供は?」
 山野紀子の問いに、春木陽香は急に小声になった。
「すみません。そこまでは……」
 そして顔を上げて言った。
「でも、彼女と田爪博士の子供のことに触れている記事は、一切ありませんでした」
 上野秀則が神作の顔を見て言った。
「あの論文を書くとしたら、ドンピシャの人物像だな」
 神作真哉が首を傾げながら言った。
「だが、そうだとしたら、田爪博士が姿を現さないのは、変じゃないか。やっぱり、死んでいるのか」
 山野紀子が言った。
「その田爪瑠香さんが、例の上申書に添付された論文を書いたのであれば、いくら科学者だったとはいっても、その内容が科学的に支離滅裂である可能性があるわよね。死んだ自分の夫の恨みというか、名誉を回復するという思いが強過ぎて、あんな長い論文を書いてしつこく司時空庁に送り続けた。あの論文に書かれていた『田爪健三博士に捧ぐ』って、結局、夫に捧げる鎮魂論文ってことじゃないかしら」
 上野秀則が天井を見上げながら言った。
「鎮魂論文かあ。だとすると、話が変わってくるなあ」
 神作真哉は納得が行かない顔で山野に言った。
「専門家が読んでみて、内容がまともじゃなかったから相手にされなかったというのか」
「その可能性もあるじゃない」
 春木陽香が言った。
「科警研の技官さんの読み込みで、はっきりするんじゃないでしょうか」
 神作真哉は答えた。
「ああ。だけど、まだ読み終わっていないだろう。あの論文の精査と内容の検討には時間が掛かるぞ、きっと」
 永山哲也が地球の反対側から意見を述べた。
『そんなに時間は掛けられないですよね。もし、ドクターTの論文の内容が正しければ、司時空庁は事実の隠蔽に取り掛かるはずですから。きっと我々にも何かしてきますよ。こっちはその前に、記事を書けるだけの証拠を集めておかないと』
 神作真哉は永山に言った。
「そうだな。それに、たぶんあの論文は間違ってねえぞ。その証拠に、さっそく圧力を掛けてきやがったからな。なあ、うえにょ」
 神作真哉は腕組みをしたまま、上野の方に視線を向けた。
 山野紀子が尋ねた。
「何かあったの?」
 上野秀則が説明する。
「連休中にな、黒木編集局長から呼び出されたよ。神作と永山に別事件を当てろって。本社からのお達しらしい。業務遂行分析によれば、社会部の記事の仕上がりが遅いんだと」
 山野紀子は憤慨した。
「夕刊にも朝刊にも穴は開けてはいないでしょ。記事の原稿データだって、真ちゃんたちの班は、大抵は締め切り時刻までには出しているじゃない。どうしてよ」
 上野秀則は両肩を上げて、呆れ顔で説明を続けた。
「人員不足が社会部のスピードと記事の質を落としているんじゃないかって言うんだよ。人手が足りていないはずだって。だから、神作に別の班の記事を手伝わせろだと。なのに、海外に行っている永山に帰国命令を出そうとはしない訳だ。おかしいだろ」
 山野紀子は神作を見て言った。
「津田が手を回したのかしら」
 神作真哉は頷いた。
「たぶんな」
 上野秀則は山野を指差して言った。
「山野の所にも、きっと何かを言ってくるぞ。気をつけとけよ」
 一度春木と顔を見合わせた山野紀子は、再び神作の顔を見た。
「で、どうするのよ、真ちゃん」
 神作真哉はソファーに倒れると、頭の後ろで両手を組んで言った。
「そうだなあ、どうするかな。とりあえず……」
 神作真哉が急に大きな声を出した。
「ドウスル五」
 すぐに山野紀子も叫んだ。
「ドウスル四!」
 ホログラフィー画像の永山も言った。
「三!」
 上野秀則と春木陽香は何が起こったのか分からず、キョロキョロしていた。
 山野紀子が春木を急かした。
「ハルハル、早く」
「――え、ええ?」
 危険を察した上野秀則が叫んだ。
「何だか分からんが、ドウスル二!」
 春木陽香もとりあえず言ってみた。
「ど、どうする……いち……で、いいんですか」
「なんだよ、これ」
 上野の問いに山野紀子が答えた。
「子供の頃、やらなかった? 何人かで集まって遊ぶ時とか、これから何するか方針が決まらない時に、後ろから順に番号を言っていくの。で、前から番号順に案を言っていく。言えなかったら、しっぺ」
「しっぺ?」
 そう春木陽香が聞き返すと、神作真哉は人差し指と中指を揃えて立てた手を、音が鳴るほどのスピードで上から下へ振り下ろして見せた。それは枝を落とす大ナタのようであった。焦点が飛んだ春木陽香は、笑顔のまま米噛みに汗を流した。神作キャップが素振りして見せたのは、手の甲とか手首などにパチンとするアレだ。神作キャップの長身から振り下ろされる「しっぺ」は強烈であるに違いない。昔、祖母から食らった「アックス・ボンバー」よりも痛いはずだ。ていうか、ホログラフィーの永山先輩がどうして参加しているのか。先輩には「しっぺ」できないでしょうが……などと春木陽香は色々と考えて混乱していた。そこへ、山野の声が飛んできた。
「はい、じゃあ一番のハルハル、どうする?」
「はあ……」
 マズイ、これは何か言っておかねば。
 そう思った春木陽香は、思いついたことをそのまま言った。
「ええと、とりあえず私は田爪瑠香さんの現住所を探してみます」
 神作真哉は頷いて言った。
「それ、採用。次、うえにょ」
 力強く「しっぺ」の素振りをしている神作を見ながら、春木陽香は胸を撫で下ろした。
 上野秀則は考えながら慎重に答えた。
「あ、んー、そうだなあ、俺はだなあ……」
「はい、不採用。後でしっぺね。次、哲ちゃん」
 すぐにそう言った山野を指差して、上野秀則は必死に訴えた。
「まだ、何にも言ってないぞ」
 ホログラフィーの永山哲也が言った。
『僕はこっちで、このまま、タイムマシンの製造の噂を追ってみます。都市伝説とは言っても、火の無い所に煙は立たないでしょうから』
 神作真哉は、永山が話し終えると同時に言った。
「採用だ。じゃあ、四番さん」
 山野紀子が提案した。
「NNJ社について、少し調べてみようと思うの。どうして、あの会社が司時空庁に介入したがるのか。高橋博士の家族の転居にも絡んでいるし、どうも、この件と何か関係があると思わない?」
 神作真哉はあまり聞いていなかったようで、上の空の様子で頷いた。
「ああ…うん。そうだな。採用だ」
 その後、暫らく間が開いたので、春木陽香は訊いてみた。
「あれ。神作キャップは、どうするんですか」
 神作真哉はまたソファーにもたれると、頭の後ろで手を組んで投げやりな感じで言った。
「俺は暫く通常業務でもやるかあ。このままじゃ、うえにょにも、シゲさんや千佳ちゃんたちにも迷惑がかかりそうだからな。うちの人事規定だと、キャップ以下の立場の兵隊は、全国転勤は当たり前だし、しかも出向もアリだから、たぶん、地方局の販売あたりに回されるかもしれん。ま、その時は、外部からでも協力させてもらうさ」
「真ちゃん……」
 山野紀子は心配そうな顔で神作を見た。彼女が心配しているのは、司時空庁の津田幹雄が新日の上層部に圧力をかけて、神作が転勤になったり、系列会社に出向になるよう仕向けるかもしれないということではなかった。そのようなことは、神作真哉という男は覚悟している。そして、そのような理不尽と戦うのが神作真哉であるし、実際にこれまでもそうしてきた。しかし、今回の神作真哉は違った。販売に回されるだの、外部から協力するなどとは、これまでの神作からは聞いたことがなかった。神作真哉は弱気になっているようだった。そしてそれは、この前のタイムマシンの発射で五人の命が安否不明となったことで、それを阻止できなかった神作真哉が記者としての自信を失っている証拠でもあった。山野紀子は、その点を心配していた。
 すると上野秀則が口を尖らせて言った。
「おいおい、俺を飛ばしているぞ。まだ、なーんにも言ってないですけどね」
 山野紀子は少し苛立った調子で怒鳴った。
「うるさい。あんたがボーっとしてるから、真ちゃんが左遷されそうになっちゃったじゃない。どうすんのよ」
 上野秀則は少し胸を張って言った。
「じゃ、ドウスル二だ。神作真哉キャップ、それから、南米の永山哲也記者、俺の次長権限で君ら二人を『司時空庁情報隠蔽疑惑記事の特任取材チーム』の配置とする。神作、おまえがそこの臨時デスクだ。社会部のチームのキャップと兼任しろ。永山は、とりあえずデスク代理」
「うえにょ……」
 神作真哉は少し驚いた顔で上野を見ていた。
 神作の一言にいつもどおり反応した上野秀則は、神作を指差して言った。
「上野デスクだ。少しは俺にもデスクらしい仕事をさせろ。それに、臨時でもデスクはデスクだからな。神作、これでおまえの転勤も出向も無しだ。ウチの人事規定では、デスク以上は本社勤務となっているからな。社会部のおまえらの穴は、『動物』と『芸能』の各部屋から一人ずつ応援を借りてくるよ。社会部に来たがっている奴、けっこう多いからな」
「うえにょデスク……」
 そう呟いた春木を指差して、上野秀則は言った。
「だから、上野だっつうの」
 そして神作と山野の顔を見て言った。
「とにかく、これで正々堂々と動けるだろ。どうだ、不満か?」
「……」
 神作真哉と山野紀子は顔を見合わせた。二人同時に両眉を上げる。
 神作真哉はソファーから立ち上がり、伸びをしながらドアの方に歩いて行った。
「いやあ、これで俺も、ようやくデスクかあ。少しはデカイつらが出来るな。よかった、よかった」
 山野紀子も立ち上がり、春木の肩を叩いて言った。
「そうと決まれば、仕事、仕事と。ほら、ハルハル、行くわよ」
 彼女はスタスタと歩いていく。春木陽香は山野の背中と上野の顔を交互に見ながらその後を追った。
 神作真哉と山野紀子、春木陽香は部屋から出て行った。少し暗いままの部屋に一人だけ残った上野秀則は、ソファーに座って腕組みをしたまま何度も頷いて呟いた。
「なるほど、そうか、おまえら、俺の英断も無視か。――」
 パソコンのスピーカーから音がする。
『ぷしゅっ』
「プシュじゃないだろ! なにビール開けてんだ、永山あ! こらっ、通信を切るなあ」
 丸テーブルの上の立体パソコンに怒鳴りつけている上野秀則に、ドアを開けて顔だけを出した神作真哉が一言だけ発した。
「上野、サンキューな」
 立ち上がった上野秀則は、ドアの方を指差して怒鳴った。
「だから、うえにょだ! ……しまった」
 神作の姿はもう無かった。ホッとした上野秀則が疲れたようにソファーに腰を降ろすと、ドアの所から今度は春木陽香が顔を出して、言った。
「聞こえましたよ。うえにょデスク」
 上野秀則は必死に手を振りながら言った。
「間違いだ、間違い。俺は『上野』だ。うー、えー、の」
 春木陽香は一言だけ彼に贈った。
「かっこよかったです」
 上野秀則は照れを隠して、わざと春木に怒鳴りつけた。
「いいから早く自分の会社に戻れ、ハルハル!」
 春木陽香はニヤニヤしながら、次長室のドアをそっと閉めた。
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