サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月7日(金) 4

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「お疲れ様でしたあ」
 ショルダーバッグを肩に掛けて、永峰千佳は自分の机を後にした。
 向かいの席で古い革製表紙の手帳に何かをメモしていた重成直人が、老眼鏡と額の間から永峰の後姿を覗きながら、小声で言った。
「お疲れ。――ご苦労様でした、後輩さん」
 新日ネット新聞社の社会部フロアは夕飯時になると人の出入りが激しくなる。夕刊の記事をサーバーにアップロードし終えた日勤組の記者たちが帰宅の途につき、夜勤組の記者たちが出勤してくる。そこに、社員食堂で夕食を終えた当直の記者たちが戻ってきたり、仮眠室に出て行ったりするので、エレベーターホールと社会部フロアを仕切る動体感知センサー付きの狭いゲートの前は、結構な混雑を呈していた。だからと言って、フロアの中が賑やかという訳ではない。ほとんどの夜勤組の記者たちは朝刊の記事に必要な取材にそのまま直ぐに出かけて行き、フロアに残るのは日勤組の各チームの中でシフトが組まれた当直記者だけである。
 今夜の神作真哉のチームの当直勤務は重成直人の番だった。先輩記者に配慮して、普段は重成の分の当直ノルマを神作と永山、永峰、そして時々に上野が交代で請負っていたのだが、永山が南米に取材に出向いたために、退職前の重成も幾分かの当直勤務をこなさなければならなかった。老眼鏡を掛けて、使い古した革製の手帳に今日の雑記を丁寧に書き込んでいる重成に、神作真哉が申し訳ない様子で言った。
「シゲさん、いいんですか。やっぱり、俺が残りましょうか」
 重成は手帳に書き込みをしながら答えた。
「なに言ってるんだ。本来は俺のノルマだろ。それに、神作ちゃんは当直ばかりで、ろくに帰宅してないじゃないか。たまには帰れよ」
 神作真哉は自分の席に座ったまま、頭を掻いて言った。
「いや……なんか、先輩に当直を割り振るのは、どうも気が引けて。やっぱり、今日は俺が残りますよ」
 重成直人は書き終えた手帳を閉じて、老眼鏡を外しながら神作に言った。
「そう年寄り扱いするなよ。それより、神作ちゃんこそ大丈夫かい。もう何日も帰宅してないだろ。そろそろ文字通り『男寡おとこやもめうじが湧く』なんてことになってるんじゃないか」
「かもしれんですね。家に帰ったときのことを考えると、ぞっとします」
 神作真哉は両手を上げた。
 重成直人は上着を掛けた椅子の背もたれに倒れながら、神作に言った。
「あっちの家には帰ってるのかい」
「あっちの家?」
「マンションだよ。朝美ちゃんも、会いたがっているんじゃないか」
 神作真哉は顔をしかめながら答えた。
「どうですかね。一応、たまに顔は出してるんですけどね。まあ、二人で仲良くやってるみたいですし」
「そうかねえ。それでいいのかねえ」
 心配そうな顔をしている重成に、神作真哉は投げやりな口調で言った。
「職場も家庭も、似たようなものですよ。モチベーションが下がりまくりです。来週も記事の真明しんめい教をやらんといかんのですからね」
 神作真哉は自分の机から永山の机の向かいの机の上に崩れて広がった紙の資料の山に手を伸ばし、その中の一塊を面倒くさそうに自分の机の上に置いた。
 背もたれから身を離した重成直人が片頬を人差し指で掻きながら言う。
「神作ちゃん、ナメて掛かるとスコンとやられちまうかもしれないよ。こっちはこっちで随分と手強いネタだぞ、こりゃ」
 重成直人は机の引き出しを開けると、何かを探し始めた。
 神作真哉は首を伸ばして遠くの重成の席を覗いた。
「へえ。何か出てきたんですか、シゲさん」
「ああ。まずな、宗教法人真明教団の教祖だよ」
 重成直人は引き出しから取り出した紙片を指で弾いて神作の方に飛ばした。
 神作真哉は長い腕を伸ばして、回転して飛んでくるその紙片を掴んだ。それは写真だった。見ると、金糸の混じった黒い法衣姿で大きな扇子と数珠を握った初老の男が写っている。その見覚えのある顔を確認して、神作真哉は重成に言った。
「予言者・南正覚みなみしょうかくですか。こいつ、テレビや雑誌で有名人ですもんね。で、こいつに何か不信な点でも?」
「それが出てこないから、不信なんだよ」
「というと」
 神作真哉は、怪訝な顔で重成に視線を戻した。
 重成直人は古い手帳を再び開いて、調べた内容を記した頁を探しながら言った。
「下の名前の『正覚しょうかく』ってのは、法名だ。たぶん、戸籍上の名前も、家裁の許可をとって変えているはずだ」
「ああ、宗教家はよくやりますからね。ということは、前の本名は不明。だから、履歴も不明。そういうことですか」
「そう。東京オリンピックの前だったかな。二〇二〇年頃から突如、メディアに姿を出すようになって、例のあれで、一気に信者数を伸ばした」
「二〇二五年の核爆発テロの予言ですよね。まぐれですよ、あんなの」
「だが、あの爆発では幾つもの偶然が重なって、奇跡的に死傷者はゼロだった。そこまで的確に予言していたんだぞ。数年前から公然と。その後の社会情勢なんかも、いろいろ言い当てているじゃないか。あながちニセ予言者とは言えんかもしれんぞ」
 作った真顔でそう言った重成の方を覗いて鼻で小さく笑った神作真哉は、少しからかうような口調で言った。
「そのうちシゲさんも、真明教の信者たちとお揃いの『黄色いジャージ』を着て出勤してくるんじゃないでしょうね」
「馬鹿言え。この腹じゃ似合わんよ」
 重成直人は自分の太鼓腹を叩いてみせた。
 神作真哉は苦笑いをして答えた。
「まあ、何であれ、今や世界中の真明教信者数は、推定で一億人を超えていますからね。馬鹿に出来ない相手であることは確かですね。それに、顧問弁護士法人が、あの美空野みそらの法律事務所ときてる」
「日本一の規模の法律事務所だからな。そういえば、ストンスロプ社グループの顧問も美空野じゃなかったかね」
「そうです。だから、突っ込んだ記事を書くなら、かなりネタを固めてから慎重に検討して書かないと。ウチの会社ごと潰されかねませんもんね。こりゃ、司時空庁をほじくっていた方が楽でしたかね」
 神作真哉は南の写真を机の上に放り投げた。
 重成直人は腕組みをすると、再度椅子に身を倒した。横に積まれた資料の山越しに、神作に険しい顔を向ける。
 重成直人は後輩の目をじっと見ながら忠告した。
「結局、上の指示はそういう事なんだよ。神作ちゃんも気をつけな。油断していると、俺みたいになるぞ」
 一瞬間を開けた神作真哉は、大きく首を横に振ってから、はっきりと先輩に答えた。
「馬鹿言わないで下さいよ。俺はシゲさんに憧れて、記者を続けてきたんですからね。定年まで『現場の記者』ってやつを通して下さいよ」
「嬉しいねえ」
 重成直人は口ではそう答えたが、首は横に振っていた。
 神作真哉は眉間に皺を寄せて重成に尋ねた。
「――で、やっぱり、その真明教の教義ってのは、予言者・みなみの発言に従って未来を変えることなんですか」
「まあ、そうだな。正確には、南正覚の予言を信じて、その起こるはずの未来の害悪を避けるために、今、何をするべきなのかを知って、行いを正すことが、奴らの宗教上の理念らしい。『信じて、やれば、できる』だと」
「何か、どっかの資格予備校のキャッチコピーみたいですね」
 それを聞いた重成直人は、一度後ろを向いて部長室のドアが閉まっていることを確認してから、神作に耳打ちするように小声で言った。
「永山ちゃんが言ってたとおり、高橋諒一博士のパラレルワールド肯定説と通じるところがあると、改めて思わんか」
 神作真哉は腕組みしながら天井を見上げて、独り言を発するように呟いた。
「過去に戻れば、そこから未来が変わって別の時間軸上に分岐する。――なるほど、タイムトラベルした人間は未来の出来事を知っている訳ですから、行動次第では、起こるはずの害悪を起こらないようにすることが出来る。確かに、似ていますね」
「神作ちゃん」
 重成直人が小さく背後を指差した。重成の後ろのドアが開き、谷里が部長室から出てきた。彼女は一度だけ神作に厳しい視線を向けると、そのまま黙って重成の横を通り、壁際の本棚に沿って出入り口のゲート方まで歩いていった。
 神作真哉は谷里を視線で追いながら、口を尖らせて言う。
「帰るんなら、くらい言えねえのかよ」
 今度は重成直人が苦笑いしながら、鼻の上に皺を寄せて言った。
「ま、あくまで真明教の関連施設への補助金や助成金の流れを追うのが、会社の取材方針だからな。本論に戻そうや、神作キャップ」
 歩きながらこちらに注意を寄せている谷里に聞こえるように、重成はそう言った。
 神作真哉は谷里を気にすることもせず、重成に尋ねた。
「真明教が運営しているのは、病院と学校でしたっけ」
「ああ。それは、永山ちゃんが念入りに調べていたよ。一応、俺の方でも確認した」
 重成直人は再び手もとの手帳を捲りながら言った。
「ええと、まず、医療法人真明会。病院名は真明病院だ。それから、学校法人真明学園。中高一貫校と大学をそれぞれ経営している。それと、財団法人真明教団育英資金。株式会社ニューライツっていう人材派遣会社もあるな。事実上、真明教が全額出資して設立されている。登記簿に役員として名前は出てこないが、今の大株主は南正覚だ。その他にも、臓器移植をする人への手術費を支援するための財団法人も設立準備中……だと」
「そんなに手広くやっていて、しかも全部赤字なのに、何でわざわざ、南米戦争の戦地にシェルターを作ったり、スラム街の住人に食料や医療物資を配ったりするんでしょうね」
 手帳を閉じた重成直人が言った。
「そこだよな。医療法人や学校法人に入った公的資金が、全てそっちに流れている可能性もある。南米に何か旨い話があるのかもしれんな」
「永山が言っていたんですがね、現地では地下マフィアの連中が混乱地域を裏で牛耳っているそうで、陰でいろいろと儲けているらしいんですよ。そこら辺と関係あるのかもしれませんね」
「援助物資の横流しか。アフリカ戦争の時も、ユーラシア中央紛争の時も、支援団体のフリをして随分とやっていた奴らがいたからな。こりゃ、現地の永山ちゃんに少し頑張ってもらう必要があるかもな」
 神作真哉は口を縛って返事を留保した。彼は重成の目を見て言う。
「とにかく、まずはこっちの方で調べましょう。そもそも、なぜ赤字続きの真明教関連団体に公的資金が投入され続けているのか。そこからでしょう」
 重成直人は再び腕を組んで言った。
「そうだな。そうなると、たぶん、裏で官僚たちを動かしている政治家がいるな」
 神作真哉は机の上に身を乗り出した。
「お、元政治部のエース記者の勘ですな」
「そう言われたのは大昔の話だよ。年寄りを煽てても、何も見返りはもらえんぞ」
「いや、南の予言よりは、ずっと当てになります。先輩」
「なあにを」
 重成直人は立ち上がりながら、神作に向けて大きく手を振った。そして、椅子に掛けていたジャケットを羽織ると、手帳をその内ポケットに仕舞った。
「じゃあ、ちょっとばかり、古巣のダチでも当たってみますかね」
「あれ、これから出かけるんですか」
「ああ、金曜の夜だ。各社の政治部の連中は政治家を追っかけて『夜駆け』に出るはずだ。寺師てらし町の西地区にある料亭街あたりをウロウロしてりゃ、知った顔に会えるはずだよ」
 重成直人は少し考えていたが、人差し指と親指を出した手を神作に向けると、それを動かしながら小声で言った。
「どうだい、神作ちゃん。ついでに一杯」
「いいですねえ。――って、シゲさん、勤務中じゃないですか。マズイでしょ、それ」
 困惑する神作に重成直人は悪びれた様子も見せずに堂々と答えた。
「なに言ってんだ。素面の元同僚に政治部の連中がネタ話する訳ないだろう。取材のためだよ。取材は仕事じゃないか。それに、当直時に何処で夕飯を食おうが自由だろ。どうせ十一時までは仮眠の時間だ。居ても居なくても同じさ。まして取材なら、出かけていいに決まっている」
「そうきましたか。――じゃあ、俺は大先輩からの実務指導も兼ねてってことで、お供させてもらいます」
「そうこなくっちゃ」
 重成直人は揚揚と壁際の本棚の前を歩いていった。
 立ち上がった神作真哉も重成を追って速足で同じように歩いていく。途中、本棚の前で何かを探している谷里に出くわした。二人は谷里に軽く一礼してからその後ろを通り過ぎると、無言のまま出入り口ゲートを通過してエレベーターホールへと向かった。
 本棚を見回すことをピタリとやめた谷里素美は、歩いていく二人の様子をじっと見ていた。彼らがエレベーターに乗ると、手に持っていたウェアフォンを耳の下に当てる。
「――はい。今、出て行きました。まったく、当直勤務の途中だというのに。――はい、そうですか。分かりました。では、またご報告します」
 ウェアフォンをバッグに仕舞った谷里素美は、暫らく目を細めて神作チームの席を見つめていた。
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