サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月10日(月) 3

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 昼休み。新日風潮社の編集室の記者たちは皆、昼食に出かけていた。先輩たちが居ない静かな部屋の中に、麺を吸い込む音が響く。春木陽香は自分の席で黙々と醤油ラーメンを啜っていた。その隣では、ワイシャツ姿の勇一松頼斗がネギ塩ラーメンを食べている。
 午前中、春木陽香と勇一松頼斗は、新日ネット新聞の契約情報から判明した田爪健三博士の家を訪れた。田爪の妻、瑠香に会うためである。しかし、田爪邸は既に人手に渡っていた。二人はそのまま法務局に向かい、その土地と建物の登記情報を確認したが、法的にも問題なく第三者に所有権が移転されていた。ただ、その移転日付は、高橋博士の自宅と同様に、田爪が失踪した第二実験の直後だった。春木陽香は直感的に何か危険なニオイを感じ取っていた。何としても田爪瑠香の居所を突き止める必要がある。二人は瑠香の母校である東京の大学を本日中に訪ねてみることにした。そこで、事情を報告するために一旦会社に戻ってみると、山野も別府も居なかった。二人が戻るのを待つ間、机に座って報告書を作っていると、他の先輩記者たちから昼休みの留守番役を言い渡された。今朝、山野編集室長から正式に特別チームの一員に抜擢されたばかりの春木陽香であったが、下っ端の新人記者であることに変わりはない。彼女は楽しみにしていた社員食堂のレタス鮪丼を諦め、先輩たちが戻ってくるまで空腹に耐えた。すると、せっかくの昼休みに留守番を任された新人記者を気の毒に思ったのか、勇一松頼斗がラーメンの出前を頼んでくれた。
 ラーメンが届くと、それを机の上に置いて並んで座った二人は、競うように熱々の麺を口に運んだ。昼休みはもうすぐ終了する時刻だったが、先輩たちは誰も帰ってこない。午後の東京行きのリニア列車の時刻を気にして壁の時計をチラチラと見ながら、春木陽香は急いで麺を啜った。タキシードの上着を脱いで蝶ネクタイを取った勇一松頼斗が、隣で、釦を外したワイシャツの襟をパタパタと動かしながら言った。
「ハフッ。熱い……。ここのラーメン、美味しいでしょ」
「ホント、美味しいですね。チャーシューも厚めだし」
「出前を頼んだのが、ウチだからよ。ここ、新日風潮社の御用達なの。ウチにだけ特別に出前してくれるみたいよ。上の新聞社の連中には絶対に内緒だからね」
「はい。職務上の秘密は絶対に漏らしません」
「よーし、いい心構えね。編集長が聞いたら、喜ぶわよ。きっと」
「編集長が、ですか? 喜んでくれるかな……。いっつも怒られてばかりだし」
「ハルハルに期待してるのよ。だから、いろいろと指導してくれるの。ドゥーユーアンダスターンド?」
「――ですかねえ。叩かれてばかりですけど。どうして、すぐに叩くんでしょうね」
「それが、あの人の愛情表現なのよ」
「愛情があったら、叩かないですよね、普通」
「素直なのよ。直結型ね、あれは」
「直結型?」
「感情が運動神経に直接伝わるタイプよ。すぐに表情が顔に出るでしょ、あの人」
「表情は顔にしか出ないと思いますけど……」
「そうじゃなくて、分かりやすい顔をするってことよ。怒った時は怒ってますって顔だもんね。ま、ありゃ、嘘がつけないから、政治記者を続けるのは大変だったんでしょうね」
「そう言えば編集長、どうして、こっちに異動になったんですか。新日風潮社の本社移転で、東京の新聞社から異動になったって言ってましたけど」
「よく知らないけど、あの人のことだから、どうせ、本社のお偉いさんにでも噛み付いたんでしょ。真っ直ぐだもんね、編集長」
「まあ、そこは、好きな所ですけど……」
「だけど、あんたよりは、ずっと大人だからね。気をつけなさいよ。ああ見えて、結構な駆け引き上手だったりするから。頭もキレるし。ああ、違う意味でも直ぐにキレるけど」
「優しい人だとは思いますよ。――でも、なんで叩くかな」
 春木陽香は指先で頭を掻いた。
 勇一松頼斗はニヤリとすると、再びラーメンを食べ始めた。するとそこへ、ヒールの音を激しく鳴らして、肩を怒らせた山野紀子が帰ってきた。二人は慌ててラーメンの器に顔を隠す。
 山野紀子は二人の後ろを速足で通り過ぎ、自分の机の横で立ち止まって腰に手を当てた。春木と勇一松は器の中で麺を咥えたまま、目線だけを山野の背中に向ける。彼女は右足のヒールの先で小刻みに床を鳴らしていた。
 激しく頭を掻いた山野紀子は、横の机を強く叩いた。
「ああ! 腹立つわ。何よ、あの女。ムカつく!」
 大きな打撃音にビクリとして両肩を上げた春木と勇一松は、麺を噛み切って器から顔を上げた。一度二人で顔を見合わせると、春木陽香から順に恐る恐る山野に尋ねた。
「ど、どうしたんですか。編集長」
「女って誰よ」
 山野紀子は振り返ると、両手を広げて二人に訴えた。
「技官よ、技官。岩崎いわさきカエラっていう、科警研の女研究者!」
 春木陽香が目をパチクリとさせながら言った。
「え? 科警研って、もう桜森ろうもり町まで行ってきたんですか。山多やまた区の端の方ですよね」
 山多区は新首都新市街の北西にあり、県境の下寿達かずたち山の麓に広がっている地区である。その中の楼森町は緑に覆われた森林地帯の中に国や企業の研究機関、大学などが集っている地域だ。新日ネット新聞ビルが建っている高層ビル街からは明らかに離れた位置にある郊外型の研究都市である。短時間で往復するには、少し無理があると思われた。
 当然の問いかけをした春木に、山野紀子も当然のように答えた。
「ええ。AI自動車を全速でぶっ飛ばしてきたわ。電圧メーターが降り切れるまでアクセル踏みこんで。腹たったから」
 椅子を横に向けた勇一松頼斗が眉間に皺を寄せて言った。
「危ないわねえ。どうしたのよ、一体」
 山野紀子は腕組みをして、紅潮した顔で答える。
「どうしたも、こうしたも、ないわよ。会っていきなり、怒りマックスよ」
「会っていきなり? そんなに態度が悪かったんですか、その技官さん」
 春木の問いに対し、山野紀子は首を横に振った。
「いや、悪くなかった。至って普通。むしろ、好感度抜群よ。性格も良さそうだし」
 春木と勇一松は再び顔を見合わせる。
 勇一松頼斗が冷静に山野に尋ねた。
「で、何が問題なのよ」
「若いのよ」
「わかい?」
 首を傾げてそう聞き返した春木に指先を向けて、山野紀子は言った。
「そ。どう見ても三十台前半。いや、服で誤魔化したら二十代後半もいけるわね。しんちゃんと同級生なら、私よりも一つ上のはずなのに、お肌もツヤツヤ! 腹立つう!」
 勇一松頼斗が呆れた顔で言った。
「それで、車を飛ばして帰ってきたわけ……」
 山野紀子は勇一松の前まで少し出て、指を振りながら必死に訴えた。
「しかも、しかもよ。その人、美人なの。超美人。それにスタイルも抜群。胸もこんなに大きくて……」
「あら、今度、グラビアのモデルを頼もうかしら」
 四十六歳の山野紀子は、爪を噛みながらブツブツと呟いた。
「あれは絶対に何かやってるわね。皮膚交換手術とか、人工脂肪の注入とか……」
 春木陽香は椅子に座ったまま、遠慮気味に山野に確認した。
「あの……それで、その技官さん、岩崎さんでしたっけ、その人に早く論文の真偽判定をするようには言ったんですか」
 山野紀子は春木を指差して言った。
「そうよ。そしたら、その技官、何て言ったと思う?」
 春木陽香は答えた。
「うーん……ぺチャパイさんのご要望には応じられませんわ、とか。あ痛っ」
 春木の頭上に一発落とした山野紀子は、真顔で春木に言った。
「違うわよ。失礼ね」
 そして、再び自分の机の前に歩いていきながら、身振り手振りを交え、悪意に満ちた再現口調で事情を説明した。
「この論文は既存の物理理論の大修正につながるかもしれない難しい内容だから、その吟味には時間が掛かります、ですって。プロにはプロとしての視点と精査のレベルがありますから、早々に適当な返事は出来ません、だってさ。挙句には、ちょっと本気で読み込むつもりだから、邪魔しないで帰ってもらえますか、と来たじゃない。――きいいい。ホント、腹立つわ!」
 春木陽香と勇一松頼斗は、三度顔を見合わせた。
 話し終えた山野紀子は、会議室側の壁際の机の前をスタスタと歩き始めた。そして、その端にある勇一松の机の前で身を屈めると、起き上がった。彼女の肩には勇一松の三脚が担がれていた。山野紀子は、そのまま編集室の出口の方に歩いていった。
「ちょっと、上に行ってくる」
 三脚を肩に担いで狭い廊下を歩いていく山野に、春木陽香が言った。
「はあ……あの、編集長。田爪博士の家は売られていて、別の人が住んでいました。私たち、午後からリニアで東京に……ああ、行っちゃった」
 勇一松頼斗は怪訝な顔で廊下の方を見つめながら呟いた。
「いったい何に怒ってるのよ、あの人」
 春木陽香は再び箸に麺を引っ掛けて上げながら、勇一松に言った。
「その技官さんが言っていることは、その通りですよね。内容が内容ですから、じっくり読んで吟味してもらわないと。いい人だったんなら、何が問題なのかな……」
 一度首を傾げてから、再び麺を啜り始めた春木の隣で、勇一松頼斗はスープだけになった器を両手で持ち上げながら言った。
「ありゃ、嫉妬ね。放っておきましょ。お腹空いている時の中年女の嫉妬が一番厄介だからね。触らぬ神に祟り無しって、昔から……神、――神作こうさ……」
 勇一松頼斗は慌てて器を机の上に置いた。
 箸を止めた春木陽香は、一拍置いてから隣の勇一松頼斗と顔を見合わせる。一瞬の間の後、春木陽香は箸を器の上に放り投げて素早く立ち上がり、同時に立ち上がった勇一松頼斗に言った。
「と、止めないと!」
「私の三脚う!」
 二人は狭い廊下の先のドアまでバタバタと駆け出していった。
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