サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月10日(月) 4

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「お、ちょっ、ちょっ、ちょお! ちょっと待って」
 閉まりかけたドアの隙間からエレベーターの中に別府博が飛び込んできた。そこには薄型の立体パソコンを抱えた永峰千佳が一人で乗っていた。
「おお、永峰さん。お久しぶり」
「お久しぶりですね、別府さん」
 永峰千佳は、そっぽを向いて答えた。
 別府博は永峰が胸の前で抱えているパソコンを指差して、からかうように言った。
「なに? 仕事?」
「当たり前でしょ。職場のエレベーターですよね、これ」
「ふーん」
 別府博は腕組みをして、目を細めながら永峰を見つめた。その馬鹿にしたような態度に腹を立てた永峰千佳は、少し棘のある口調で別府に言った。
「そっちは何ですか。また、誰かのヌード写真の交渉ですか」
「ブー。残念でした。重要な記事の取材でーす」
「重要な記事の取材? 別府さんが」
「失礼だな。君こそ何だよ。また、街の『ご長寿お婆ちゃん』のインタビューかい?」
「それは、この前のクリーニング屋のお婆ちゃんだけです。今回は違いますう」
「なんだよ。教えろよ」
「教えません。取材の秘密は、たとえ系列会社の社員でも、教えられまっせん」
 再びそっぽを向いた永峰に別府博は言った。
「何か、ウチの編集長の真似してない?」
「何とでも、どうぞ。すっごいネタを掴んじゃったから。ふふん」
 余裕の笑みを浮かべた永峰に、別府博もそっぽを向いて言った。
「あ、そうですか。ま、いいけど。こっちは総理府だしね」
「総理府? 何しによ」
「それは言えませんねえ。取材の秘密は教えられませんから。へへへ」
「何か、腹立つわね。その日焼けした顔で言われると、余計に腹立つ」
 永峰千佳は別府を一睨みして、また、そっぽを向いた。別府博はニヤニヤしながら上を見上げている。二人はそのまま黙って、エレベーターが目的の階に着くのを待った。
 程無くしてドアが開いた。新日風潮社の編集室がある階である。別府博が降りようとすると、春木陽香と勇一松頼斗が駆け込んできた。別府博は永峰と共にエレベーターの奥に押し戻された。
 ドアが閉まったのを見て、別府博は春木たちに言った。
「ちょっと、ちょっと。何だよ、二人とも。血相を変えて」
 春木陽香は深刻な顔で別府に訴えた。
「じ、事件なんです。いや、事件になるかもしれないんです」
 永峰千佳が尋ねた。
「事件? どこで何が起こったの」
 勇一松頼斗はエレベーターの階数表示に目を遣りながら答えた。
「起こるかもしれないのよ。これから。――もう、このエレベーター、遅いわね。早くしなさいよ。あの三脚、私の私物なのよ」
「三脚?」
 春木と勇一松の背後で、別府博と永峰千佳は顔を見合わせている。春木と勇一松はエレベーターが新日ネット新聞社の社会部フロアに到着するのを落ち着かない様子で待っていた。
 ドアが開いた。社会部フロアである。春木陽香と勇一松頼斗はドアが開ききらないうちに外に駆け出して、社会部編集フロアへ入るゲートの方に走っていった。
 エレベーターの中に残された別府博は、隣の永峰に言った。
「何だろうね。二人とも」
「さあ。見ていく?」
「まあ、忙しいけど、少しくらい息抜きするか。どうせ昼休みだし」
「別府さんは勤務中、ほとんど息を抜いてばかりでしょ」
 二人はゆっくりとした足取りでエレベーターから出てきた。
 エレベーターホールから歩いてきた別府博と永峰千佳は、社会部フロアへ通じるゲートを通ってすぐに立ち止まった。手前の机の「島」の近くで、神作真哉が頭を押さえてうずくまっている。その横には、三脚を振り上げている山野紀子が立っていた。その後ろで勇一松頼斗がぶら下がるようにして三脚を掴んでいる。山野の腰には春木陽香が抱きつき、必死に山野を止めていた。近くの席の記者たちは身を引いて固まっている。
 頭を押さえながら神作真哉が立ち上がり、苦痛に満ちた顔で山野を見て、言った。
「いってえなあ。何だよ、おまえ、いきなり……」
 山野の後ろから勇一松頼斗が懸命に訴えている。
「お願い、放して。私の三脚を壊さないでえ」
 その下で春木陽香が山野にしがみ付きながら、叫んでいた。
「編集長! 殿中でござる、殿中でござるう!」
 三脚から手を離した山野紀子は、紅潮した顔で鼻を膨らませながら、神作に言った。
「巨乳だからでしょ。美人で巨乳だから、論文の精査を頼んだのね」
 神作真哉は頭を押さえながら言う。
「アホか。あいつは、小中高と同級生なんだよ。俺たちの結婚式にも来ただろうが」
「覚えてないわよ、そんなこと。お酒を飲み過ぎてひっくり返った新郎の介抱で大変でしたからね。だいたい、同級生ってのも怪しいわよね。どう見ても三十台前半じゃない」
 神作真哉は溜め息を吐くと、一言ずつ手を振りながら山野に説明した。
「だから、同級生なの。俺と同じ四十七歳。一九九一年生まれ。よく見りゃ分かるだろう。――ああ、タンコブ出来ちゃったじゃねえか。くそっ」
「童顔でもないのに若く見えることが、余計に腹立つのよ。何なのよ、アイツ」
「知るかよ。年取らない体質か、隠れて何かやってんじゃねえか。俺に言うなよ、俺に」
「じゃあ、もう一回行って訊いてくるわよ」
「編集長! お待ちくだされえ、編集ちょおお!」
 春木陽香が山野の腰にしがみついたまま必死に叫ぶ。
 春木を引きずりながら向かってくる山野を見て、別府博と永峰千佳はゲートの前から退いた。すると、神作真哉が手招きしながら言った。
「おい、おい、おい。紀子、ちょっと……」
「何よ」
 春木を引きずりながら戻ってきた山野に、神作真哉は口の横に手を立てて言った。
「いいから、ちょっと耳貸せよ」
「何よ」
「あのな、アイツはな……」
 耳打ちした神作から頭を離した山野紀子は、驚いた顔で神作に言った。
「はあ? だから、頼んだの? 意味分かんない」
「意味なんてねえよ。ただ、あいつの性格からすると、すっげー頑張って、細かくあの論文を読むと思うんだわ。批判的見地から。今のお前みたいに」
 自分を指差してそう言った神作に対し、山野紀子は口を尖らせて尋ねた。
「今の私……どういう意味よ」
 神作が説明しようとした時、見物人を押し退けて谷里部長が現れた。
「ちょっと、あんたたち、何やってんのよ」
 春木陽香は山野の腰にしがみ付いたまま咄嗟に答えた。
「ち、違います。あの……お昼のエクササイズです。こうやって負荷をかけて、お腹、引っ込めえーって。あ痛っ」
 山野から拳骨を食らった春木陽香は、頭を押さえてうずくまった。すぐ近くの机の上で電話の呼び出し音が鳴っている。神作真哉は春木を立たせながら、周囲の見物人に言った。
「ほら、電話が鳴ってるぞ。誰か出ろよ」
「どうも、信用できないわね……」
 山野紀子は腕組をしたまま、目を細めて神作を見ていた。
 勇一松頼斗は床に座って、三脚に歪みが無いかを確認している。
 呼び出し音が鳴り続ける。黒木局長からの叱りの電話であると、誰もが予想していた。電話に出た者が憤慨した黒木からこの事態の説明を求められることは必至だった。元夫婦の痴話喧嘩に誰も巻き込まれたくはない。電話の呼び出し音は鳴り続けたままだった。
 すると、谷里部長が苛立った声で言った。
「ちょっと、早く誰か出なさいよ」
 慌てて止めようとした永峰に気付かないまま、春木陽香が受話器を上げた。別府博は顔を右手で覆う。
 春木陽香は、その電話のリスクを何ら考えずに、普通に電話に出た。
「はい、新日風潮……違った、新日ネット新聞、編集局社会部です」
 春木のことを心配そうに見ながら、永峰千佳は隣の別府に小声で言った。
「すごい息抜きになりましたね」
「なるか。この後、編集長と同じ部屋で仕事するんだぞ。地獄の方が、まだマシなんじゃないかと思えてきたよ」
 そう答えた別府の方を山野紀子がにらみ付けた。目から光線が出そうである。
「別府う……地獄見せたろか」
「じょ、冗談です。冗談」
 別府博は額を汗で濡らしながら、必死に顔の前で手を振った。
 受話器を肩の上で握ったまま、春木陽香が大きな声で伝えた。
「神作キャップ、あの、キャップと替われって……」
 神作真哉は頭のコブを押さえながら言った。
「いててて……ったく、何で俺が叱られるんだよ。こっちは被害者だろうが」
 そうブツブツと言いながら近寄ってきた神作に受話器を差し出しながら春木陽香は言った。
「外からです。神作真哉に替われって」
「あ? 誰だよ」
「それが、変な名前の人で。外国人ですかね、ダーティー……」
「ああ、いい。替わる、替わる」
 慌てて受話器を受け取った神作の方に、ゆっくりと視線を向けた山野紀子が言った。
「があーいこおーくじいーんですってえ。やっぱり巨乳好きかあ!」
 春木陽香が透かさず山野の前に立ち塞がって、神作の方に突進しようとする山野の肩を押さえながら言った。
「違います、編集長、落ち着いて。男の人でした。男性です」
 山野紀子は鼻の穴を膨らませて叫んだ。
「離婚したら、そっちに走ったのかあ!」
「だから、違いますって」
 必死に山野を押さえている春木の横に、爪楊枝を咥えた上野秀則が現れた。
「おい、お疲れ。どうした、みんなそろって」
 山野紀子が上野に叫ぶ。
「うるさい! 偉そうに登場すんな。うえにょのくせに!」
「くせにって何だよ。名前だろうが。ていうか、俺は上野だし、お前の先輩だし!」
 谷里部長が口を挿んだ。
「ちょっと。いい加減にしてよ。下の週刊誌の人がここで何やってるの。ここは新聞の社会部のフロアよ。部外者は出て行ってちょうだい」
「こっちも取材の話で来てるのよ。この男が美人で巨乳の年齢詐称女に論文を……」
「紀子」
 山野の発言を制止した神作真哉は、谷里部長に言った。
「いやあ、趣味でね、巨乳と貧乳の相関関係についての論文を書いているのが、元女房にバレちゃったんですよ。はははは。下で話し合ってきます。すみませーん」
 上野に付いて来るよう目で合図を送った神作真哉は、首をヒョコヒョコと前に出しながら、エレベーターホールへと向かった。
 春木陽香は谷里部長に愛想笑いをしながら、山野を押してゲートへと向かう。
「はははは、すみませーん。失礼しましたあ」
 すると、重成直人が現れて谷里部長に言った。
「ああ、部長。真明教の記事、少し出来たんですけど、こんな感じでよかったですかね」
 重成直人は原稿を谷里に見せながら、腰の後ろで手を小さく振って、早く出て行くように永峰と別府に合図した。
 永峰千佳と別府博は、三脚を抱きかかえて出て行く勇一松頼斗の後から、ゲートを潜ってエレベーターホールへと向かった。原稿を持って谷里部長がその場を去ると、周りを取り囲んでいた見物人たちも呆れた顔をして自分の席へと帰っていく。
「まったく。頼むぜ、ほんとに。懸けてるんだからよ……」
 重成直人は胡麻塩頭をかきながらボソリと吐いて、ホールでエレベーターを待っている七人の記者たちを遠目に見ていた。

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