サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月14日(金) 1

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 今日は「週刊新日風潮」の発刊日だ。編集室の記者たちは自分が書いた記事の「反響」が気になって仕方ない。つまり、取材対象者の反応、読者の反応、そして他社の反応である。各記者たちは出社早々から、それぞれの反応を確認するために出掛けていく。もちろん気にかかるのは記事の反響だけではない。週刊誌にとって最も重要なこと――売上部数である。この時代にしては珍しく紙媒体での販売にこだわっている「週刊新日風潮」にとって毎週号の売上部数は今後の発刊継続を占う重要な経営指標であるばかりでなく、マスメディアとしての矜持を保つための重要な要素でもあった。それは記者たち各々にとっても同じであるが、殊更、編集室長にとっては重くのしかかるプレッシャー要素の一つでもある――はずなのだが、「週刊新日風潮」の編集室長・山野紀子はそんなものどこ吹く風と言わんばかりの様子だった。今の彼女にはもっと気にかかることがあった。それを態度には出さないまま、山野紀子はブラインドが閉じられた大窓を背にしてハイバックの椅子にもたれて、あっけらかんとした表情で二人の記者たちと話していた。実際に編集室に一人だけ残っている別府博と、実際にはそこにいない永山哲也である。山野の立体パソコンから投影されている永山のホログラフィーは派手なワイシャツ姿だった。その立体パソコンが置かれている洗練されたデザインの広い机の前で腕組をしながら、別府博が濃ゆい顔の眉を八の字にして言った。
「それにしても、田爪健三って男は、随分な苦労人なんですねえ」
 机越しに山野紀子は尋ねた。
「苦労人? どうして」
 別府博は指を折りながら山野に言った。
「だって、幼い頃に父親が他界。母一人子一人で育って、その母親も田爪健三が大学在学中に他界。自力で大学を卒業したら、防災隊に徴員されて、二年間防災救助業務に従事。その間に、任務の合間を縫って大学院に通う。で、除隊後に赤崎教授の研究所員となってコツコツと下積みして、ようやく博士号を取得」
 山野紀子は片方の眉を上げて言った。
「研究者って、そんなものじゃない。早いうちでしょ、その経歴だと」
「いや、彼って本当の天才じゃないですか。だから、なんか、もっと華やかな感じで、トントントンと上がって来たのかと思っていました」
「まあ、天才であることは確かだけど、誰でもみんな、それなりに苦労しているものよ」
 山野紀子がそう言い終わると、ホログラフィーの永山哲也が、彼には見えていない別府に尋ねた。
『田爪博士の親戚とは、コンタクトが取れたんですか』
 別府博は、パソコンの上に浮かんで明後日の方を向いて話しかける半透明の永山の像を見ながら答えた。
「はい。でも、全然だめです。田舎特有の閉鎖的感覚っていいますかね。電話しても、全く取り合ってもらえなくて。しかも、田爪健三やその母親のことを悪く言う人までいますよ。こっちが名乗ってもいないのに」
 山野紀子は怪訝な顔で言った。
「何かあったの?」
 別府博は鼻に皺を寄せて、首を横に振った。
「何も無かったからでしょうね。田爪健三の母親は気取っていたとか、地域の飲み会に参加しなかったとか、懇親会で若衆の裸踊りが始まったら一人だけ席を立って帰ったとか、家の玄関にいつも鍵を掛けていたとか、そんな話ばっかりです。ああ、田爪健三の死んだ父親の遺産処理で弁護士に依頼したとんでもない女だとかとも、言っていましたね」
 山野紀子は椅子の背もたれに身を倒したまま、目を大きく見開いて言った。
「何よ、それ。全部、当然のことじゃない。地域の飲み会って、あれでしょ。茣蓙ござ敷いて、その上でベロンベロンのおっさんたちと酒盛り。未亡人が参加する訳ないじゃないよ。私だってシングルよ。娘の学校行事でも、宴席の参加はなるべく控えるわよ。変な噂を立てられたくないもの。セクハラしてくるオジサンもいるし。ここの人たちと、たまーに慰労会するくらいならいいけど、お酒はねえ。真ちゃんがいる時は別だけど……」
 南米からインターネットを使ったホログラフィー通信で話を聞いていた永山哲也が、地球の反対側から口を挿んだ。
『鍵を掛けていたり、正規の遺産処理をしただけで、文句を言われるのかい?』
 別府博は苦々しい表情をしながら、永山に説明した。
「それが田舎なんですよ。永山親子が親戚縁者と縁を切っていたのも分かる気がします。あの手の田舎人たちは自分たちの常識が社会の常識だと思ってる。ほら、山村地域とかで、庭に回ってきて、縁側の扉を開けて、こんにちは、いる? ってのが多いでしょ。扉の鍵は、日中はしていないのが当然だと思ってる人も多いんですよ、今だに。そんな土地だから、弁護士なんか立てたら、まるで極悪人扱いなんでしょ。何か、とてつもなく欲深い人間だと思われる。ああ、嫌だ、嫌だ」
 別府博は首を何度も横に振った。
 永山哲也のホログラフィーは、腕組みをしながら溜め息を漏らす。彼は言った。
『じゃあ、なんていうか、意識的に結構に遅れた町なんだね。そんな所で少年期を過ごしていた訳か。前々から優秀だったんだろうから、苦痛だったろうなあ。確かに、そういう意味では、苦労人かなあ……』
 山野紀子は両手を肩の高さに上げて、目を閉じた。
「どうだかね。田舎の人間が皆そうだとは限らないでしょ。たまたま周りに質の良くない人間が多過ぎたってだけかもよ。実際、私の故郷はそうじゃないし」
 高い背もたれから背中を離した山野紀子は、ホログラフィーの永山を指差した。
「それで、哲ちゃんの方はどうだったの?」
 ホログラフィーの永山哲也は手帳を開きながら答えた。
『例の科学者については、依然として不明ですね。ただ、調べるにつれて噂はかなり精度の高いものになってきていて、北に上がるほど人々の話が一致しています。つまり、ただの作り話ではないようです』
 山野紀子は更に尋ねた。
「真明教の方は?」
『ああ、こっちの地下マフィアとは関係ないようですね。彼らに真明教とコンタクトをとる道筋をつけるよう依頼してみましたが、接点がないので出来ないと断られました。カルト宗教とは関わり合わないと』
「別にカルトじゃないでしょ。ていうか、哲ちゃん、地下マフィアの連中なんかと接触してんの? 危ないでしょ」
 椅子から更に身を乗り出して心配する山野を相手にはせずに、ホログラフィーの永山哲也は、見えないはずの別府の方を見るふりをして、彼に言った。
『別府さん。防災省で調べて欲しいことがあるんだ』
 別府博はホログラフィーに顔を向けずに、パソコンのマイクに口元を近づけて言った。
「何ですか」
 ホログラフィーの永山哲也は、明後日の方を向いたまま別府に話しかけた。
『田爪博士や高橋博士が防災隊に入隊した頃は、強制的に入隊させられるって奴が実施されていた頃だと思うんだけど、その頃の資料とか無いかな。過去の所属隊員の個人情報までは、さすがに入手できないと思うから、一般的な解説資料でいい。何か手に入らないだろうか』
 腰を曲げたままの別府博は、顎を掻きながら言う。
ってアレですよね、旧自衛隊から救助部門を切り分けて、それに消防を統合して『防災隊』が正式発足した頃に、十八歳以上の国民から半ば無理やりに隊員を徴収して、世間から大批判をくらった。防災隊を所管する防災省にとっても黒歴史でしょうから、あんまり話が出てこないと思うんですよねえ。まあ一応、防災資料館か、直接、防災省の広報に訊いては見ますけど。でも永山さん、何が知りたいんです?」
 ホログラフィーの永山哲也は一度手を振ると、その手で後頭部をポンポンと叩きながら説明した。
『――ああ、いやね、死んだ親父からさ、昔の防災隊のことを聞いたことがあったんだ。たしか、あの当時の隊員は旧式の生体チップを強制的に埋め込まれていたはずなんだよ。危険救助活動で二次災害に遭った時の身元確認のために。あの二人も強制徴員された世代だから、体のどこかにチップを埋め込まれているはずだ。手術で除去しているかもしれないけど、そういう人はあまり聞いたことが無い。たいていの元防災隊員がチップを体内に残している。その生体チップの個人コードを認識するアプリがネット上の闇サイトにあるはずだから、それはこっちで探す。別府さんは、過去の隊員の認識コードを入手する方法を探して欲しいんだ。とりあえず方法を探るだけでいい。これ、大変だと思うけど、やってもらえるかな』
 山野紀子が口を挿んだ。
「要するに、二人の個人識別コードが欲しいわけね。でも、そんなもの手に入れて、どうするのよ」
 永山のホログラフィーは、今度は山野の方を向いて話した。
『いや、もしも、こっちで田爪や高橋を名乗る人物に出会ったら、その真偽が一発で判るじゃないですか。本物の田爪博士や高橋博士なら、生体チップのコードが一致するはずですから』
 パソコンの立体カメラの撮影ゾーンに入っている山野紀子は、腕組みして考えながら永山に言った。
「うーん、そうねえ。二人とも、写真も古いのしかないからねえ。十年以上も前の写真だもんね。人相が変わっていたら、会っても分からないかあ……」
『それに、田爪博士が死んでいる可能性が大きいとしても、もしかしたら遺体が見つかるかもしれません。あるいは、高橋博士の遺体か何かが見つかるかもしれない。その時のためにも、この際、二人の認識コードは入手しておいた方がいいんじゃないかと思って』
「それもそうね。別府君、手に入れられる?」
 別府博は一度首を傾げると、険しい表情をしながら考え込んだ。そして、返事を待っている山野に、自信なさそうに下を向きながら小声で返事をした。
「――まあ、やってみます……」
 山野紀子は再び椅子に身を投げて言った。
「あら、うちの秘密兵器が随分と頼りない返事だわねえ。やっぱり、ここの次期編集長は他の人かなあ」
 別府博は慌てて顔を上げると、はっきりとした口調で山野に反論した。
「なに言ってるんですか。認識コードくらい、チョチョイのチョイですよ。大船に乗った気でいて下さい。パパッと探してきますから。パパッと。じゃ、行ってきます」
 山野に敬礼して見せた別府博は、回れ右をして後ろを向くと、肘を直角に曲げて拳を腰の高さに上げたまま、スタスタと廊下の方に走っていった。別府の後姿を怪訝な表情で見つめながら、やがて首を傾げた山野を見て、ホログラフィーの永山哲也が尋ねた。
『秘密兵器? 次の編集長の候補なんですか、彼』
 山野紀子は顔の前で大きく手を振りながら答えた。
「そんな訳ないじゃない。無理、無理。ていうか、恥ずかしくて外に出せないって意味では確かに秘密兵器だけど。それにしても、随分と簡単に走り出す大船ねえ。あれじゃ、手漕ぎ舟じゃないよ」
 廊下の方の覗き込んでいる山野に永山哲也が言う。
『ノンさん……』
「ん?」
『――酷過ぎます』
「あら、そう? 頼んだのは、哲ちゃんじゃない」
『まあ、そうですけど、とりあえず入手方法が分かればいいんですから。あまり無理させなくても……ああ、そう言えば、ハルハルのことも、こんな風に虐めてないでしょうね』
「あれ、気になる? じゃあ、ハルハルに、哲ちゃんが心配してたって教えとこう。きっと、いつもの十倍は張り切って仕事するわよ、あの子」
『あのねえ、ノンさん。僕は妻帯者ですよ。からかわないで下さい』
「冗談よ、じょーだん。祥子さんと由紀ちゃんには、ちゃんと連絡してるの?」
『ええ。毎晩、ちゃんと。ああ、毎朝か』
 山野紀子はニヤニヤしながら永山に言った。
「うちの朝美が言ってたわよ。由紀ちゃんが南米のファッションにハマッてるって」
『南米の?』
「なんかね、ドレッドヘアー? あれに似せたカツラを作ってるんですって」
 永山哲也の像は自分の顔を手で覆いながら、下を向いた。
『あちゃあ、またコスプレかあ。それにそれ、ジャマイカでしょ。今度は誰に成りたいんだよ、ボブ・マーリーか。まったく、勘弁してくれよ……』
 山野紀子はクスクスと笑いながら、永山に言った。
「せっかくお父さんに見せようと思って一生懸命に作ってるんだから、ちゃんと帰ってきてあげないと。だから、無茶したら駄目よ」
 永山哲也は面倒くさそうに答えた。
『はーい。分かってます。キャップと同じこと言ってますよ』
 山野紀子はパソコンに手を伸ばしながら、言った。
「ま、とにかく、百に一つ、いや、万が一、別府君が運よく田爪健三と高橋諒一の個人識別コードを防災省から手に入れる――なんてことが出来たら、すぐにそっちに送るわ。まあ、無理だろうけど」
『だから、酷過ぎますって。方法の検討だけでいいですから。だいたい、そんな簡単に識別コードが手に入るわけ……』
 永山が話している途中から、山野紀子は話し始めた。
「とにかく、また連絡してちょうだい。ああ、それにしても、やっぱり立体通話の方が便利ね。周りから見られちゃうっていう難点はあるけど、イヴフォンと違って相手のリアルタイムの表情が分かるから。――と、いうことで、そいじゃあねえ。チャウ」
 山野紀子はポルトガル語で「じゃあね」と告げると、通信を切断するホログラフィー・ボタンに指を伸ばした。永山哲也は、慌てて早口で言う。
『あ、ちょ……ハルハルは今、何を調べ……』
 永山のホログラフィーが消えた。一方的に通信を切断した山野紀子は、少し長めに溜め息を吐くと、椅子から立ち上がり、後ろの窓に近付いた。閉じられたブラインドに人差し指を差し込んで隙間を開けた彼女は、そこから外を覗きながら独り言を呟く。
「まさか、私たちが何者かに監視されているとは、言えないわよねえ。哲ちゃん、意外と心配性だからなあ」
 山野紀子は誰も居ない編集室からビルの下を覗きながら、不安を漏らした。
「あの子たち、大丈夫かしら……」
 街はいつになく静かである。梅雨の重苦しい湿気がビルの下の往来を覆っていた。
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