サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月23日(日) 2

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 車が坂を下りきって平坦な道路に出た頃、山野が煩わしそうに瞬きして、ハンドルから左手を離した。彼女はブラウスの胸元にその手を運ぶと、そこに挟んでいたイヴフォンを外しながら言った。
「もう、運転中だっつうの。前が見えないじゃない」
 イヴフォンをスカートの上に転がして再びハンドルを握った山野紀子は、助手席の春木の方に顎を振った。
「別府君から。たぶん、そっちにもかかってくるんじゃないかな。――ほら」
 バッグの中の春木のウェアフォンが呼び出し音を鳴らした。妖怪アニメのテーマ曲である。山野紀子は眉間に皺を寄せて春木を一瞥した。
 恥ずかしそうな顔をしながらバッグからウェアフォンを取り出した春木陽香は、その表面に浮かんだホログラフィー通話のボタン画像に触れた。春木の手に握られた赤いウェアフォンの上に半透明の小さな別府博の上半身が投影される。スウェット姿の彼はすぐに話し出した。
『――ああ、ハルハル。編集長は居る?』
「はい。今、車で……」
「ここよ、隣。今、運転中」
 山野紀子は春木の発言の途中に大きな声で割り込んだ。
 春木陽香はウェアフォンの向きを変えて、その下の方に付いているホログラフィー通信用の「立体カメラ」のレンズを山野に向けた。
 別府博が改めて深刻な顔をして言う。
『たた、大変です。編集長。大変でーす!』
「どうしたのよ。朝からうるさいわね。ていうか、わざとらしいし」
『分かっちゃいました。田爪博士と高橋博士の生体チップの個人識別コード。分かっちゃいました』
 山野紀子は急ブレーキを踏んだ。高いブレーキ音が雑木林の中に響き渡る。春木陽香はダッシュボードに片手をついて前のめりになった。
 山野紀子は体を捻り、助手席の方を向く。春木の手の上の別府をにらむような視線で、彼に尋ねた。
「どういうことよ」
 ホログラフィーの別府博は濃い顔を前に突き出して訴えた。
『どういうことも、こういうこともないですよ。とにかく、分かったんです。――ああ、パパはお話中だからね、向うに行ってようね。はい』
 一瞬画像が乱れ、赤子の声と雑音が交互に届いた。再びホログラフィーが整い、小さな別府が姿を現した。
 山野紀子は前髪をかき上げながら苛立った顔で言う。
「さっさと言いなさいよ」
『だから、分かったんですよ。田爪博士と高橋博士の……』
「生体チップのコードでしょ。本当なの?」
『本当ですよ。ていうか、アクセス用のパスワード自体が。――ええと、まずですね、防災省の個人情報センターにアクセスしようと頑張ってたんです。そしたら、そこから……』
 山野紀子は右腕をハンドルに載せたまま、目を細めて疑うような表情を別府に向けた。
「アクセスしようって、隊員の個人情報を蓄積したデータベースに? そこは防災省職員の中でも上級クラスの人間しかアクセスできないはずじゃない。パスワードが必要でしょ。それが分かったの? どうやって手に入れたのよ」
 春木の手の上の小さな別府博は、広げた手を精一杯に大きく振って山野に説明した。
『だから、思い当たる限りを適当に打ち込んでいったんですよ。寝ても覚めても。朝は自宅で、日中はネットカフェとかで、コーヒーを何杯もお替りしながら。夜帰ってからも自宅で深夜まで。何晩、徹夜したことか……』
 この一週間、別府の姿を見なかったことに納得した春木陽香は、手の上の別府に横からボソリと言った。
「お、お疲れ様です……」
 山野紀子は春木の手に握られているウェアフォンに左手を載せてマイクとカメラを覆うと、小声で春木に言った。
「筋金入りの馬鹿ね。パスワードは天文学的数字の組み合わせがあるから、パスワードとして成立してるんじゃない。一生それを続けるつもりかしら」
 ウェアフォンの上から手を離した山野紀子は、その手をシフトレバーにかけた。前を向いてギアを入替えながら、山野紀子は別府に言った。
「あんたね、外で取材しているのかと思ったら、そんなことをやっていたわけ?」
 車が走り出す。
 ホログラフィーの別府博は、また口を尖らせた。今度は少し肩も落としている。
『そんな言い方しなくてもいいじゃないですか。せっかくデータベースにアクセスできるパスワードを見つけたんですから』
 前を見て運転しながら、山野紀子は言った。
「本当にい? どっかの偽サイトじゃないでしょうね」
 濃い顔を上げた別府博は、くっきりとした眉の下で目をぱっちりと見開いて、はっきりと言った。
『違いますよ。ちゃんと、防災省の田爪健三のデータベースと高橋諒一のデータベースにアクセスできるんですって。僕の自宅のパソコンから実際にアクセスしたんですから』
 高いブレーキ音を鳴らして再び車が急停止した。
 ハンドルを握ったまま、ホログラフィーに向かって山野紀子は言う。
「はあ?」
 山野紀子と春木陽香は一度視線を合わせた。
 山野紀子は再び体を横に向けて、ホログラフィーの別府に言った。
「うっそだあ。そんな馬鹿なあ」
『ああ、信じていませんね』
「今の私の発言に、他にどんな受け取り方があるのよ」
『じゃあ、そのパスワードを編集長のパソコンに送りますから、それで試してみてくださいよ。ちゃんと繋がりますから。偽サイトじゃないですよ。本物の、正真正銘の、防災省のデータベースですからね。いいですね』
 山野紀子は、少しムッとした様子の別府の立体画像に向けて手を振りながら、言った。
「分かった、分かった。信じるから。でも、どうしてパスワードが分かったのよ」
『だから、偶然ですって。昨夜、夜中までやりながら、机の上で寝ちゃったんですよ。そしたら、朝、目が覚めたら、繋がっていました。防災省のデータベースに』
 春木陽香が目を丸くして口を挿んだ。
「え。じゃあ、隊員個人の情報サイトじゃなくて、防災省のデータベースそのものにアクセス出来たってことですか。別府先輩の自宅から」
 ホログラフィーの別府博は、明後日の方を向いて春木に答える。
『そうなんだよ。不思議なことに、ちゃんと繋がるんだ。本当だよ』
 ホログラフィー通信による「立体通話」は一対一の通話しかできないので、別府にはウェアフォンのマイクが拾った春木の音声だけしか届いていない。車の中の位置関係から春木の位置を察したのか、別府のホログラフィー動画は正面にあるはずの自分のウェアフォンのカメラの位置を確認する仕草を挿みながら、後ろを向いた。彼は腕組みをして言う。
「まあ、何ていうのかな、潜在意識が覚醒したってやつ? 俺の眠れる才能が眠っているうちに勝手に働いちゃったのかもしれないね。まいったな、こりゃ』
 ホログラフィーの別府博は春木の手の上で照れくさそうに頭を掻いている。
 山野紀子は首を傾げながら言った。
「覚醒してないじゃない。寝ぼけて打ったら当たったってだけでしょ。まったく」
 春木陽香は少し早口で別府に言った。
「でも、それなら今のうちに、その二人のコードを書き出しといてもらえませんか。コピーして保存しておくか。私か編集長のパソコンに送ってもらってもいいです」
 前を向きなおした別府のホログラフィーは、山野の方を見たまま、キョトンとした顔で言う。
『どして。ハルハルは自宅で見ないの? 今日、日曜だし』
 山野紀子が説明した。
「急がないと、部外者が外部から無断でアクセスしたことがバレて、防災省側が全てのアクセス・パスワードの二次コードを変換しちゃうのよ。そしたら、せっかくのミラクル・ラッキー・ショットも、全てパーでしょ。いいから早くコピーして、さっさとこっちに送りなさい! いいわね!」
 苛立った山野紀子は、つい厳しい口調になっていた。
『あ、はい……分かりました。――はー……』
 溜め息を吐いた別府のホログラフィーは、肩を落として項垂れる。
 春木陽香が山野の顔を見て促した。
「編集長……」
「ん? ――あ、そうか」
 山野紀子は笑顔を作って言った。
「別府君。よくやったわ。ありがと。すごい、すごい」
 顔を上げた別府のホログラフィーは、胸を張って言った。
『あ、いやあ。気にしないで下さい。これくらいのことでしたら、いつでも……』
 山野紀子は春木の手の上のウェアフォンに触れて立体通信を切った。そして、再びシフトレバーを操作しながら呟く。
「まったく……本当に理系なのかしら、あれでも」
 車が再び走り出した。
 ウェアフォンをバッグに仕舞った春木陽香は、運転している山野の方を見て言った。
「とにかく、これで永山先輩にもデータを送れますね」
「そうね。ま、一つ難問をクリアってところね。まぐれだけど」
 春木陽香は、少し間を空けてから山野に言う。
「――それと、私、いくつか気になっていることが……」
 考えをまとめている春木を横目で見ていた山野紀子は、口角を上げると、活気に満ちた張りのある声で春木に言った。
「じゃあ、まずは会社に行きましょ。南米の哲ちゃんにもデータを送らないといけないしね。よーし、勝手に休日出勤して、時間外手当を会社からタップリせしめるわよ」
「はあ……」
 燦燦と射す朝日の中、二人を乗せた車は少し速度を上げて、南北幹線道路へと通じる広いスロープを上っていった。

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