サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月25日(火) 10

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 昼休みになったばかりの新日ネット新聞・社会部フロアは、記者たちが出払っていて、誰も居ない。社会部次長の上野秀則だけが一人で番をしている。彼は神作の席に座り、腕組みをして居眠りをしていた。物音がして目を開けると、赤いパーカーを着た包帯頭の女が奥の本棚の近くの席に荷物を置いていた。
 上野秀則は右手で軽く目を擦ると、あくびを噛み殺しながら言った。
「おお、永峰、どうだった。上手くいったか」
 永峰千佳は頭の包帯に手を掛けながら答えた。
「ええ、なんとか。山野さんの思惑どおり、こっちが無理して尾行を振り切ったお蔭で、相手は集中して、こっちに張り付いています」
 永峰千佳は耳の上の結び目を解こうとしたが、解けない。強く結び過ぎたことを後悔しながら、彼女は上野に向けて窓の方を指差した。
 上野秀則は椅子に座ったまま、キャスターを転がして窓際に移動した。ブライドに指を差し込み、上下に広げた隙間から外を覗き込んだ上野秀則は、視線を下と上に順に向けながら言った。
「ああ? なんじゃこりゃ。厳戒態勢並みだな。――ヘリまで出してきたか」
 ブラインドから顔を離した上野秀則は、膝を軽く叩いて言った。
「しかし、これでとりあえずは、陽動作戦は成功っと」
 彼は窓の下の戸棚の扉を蹴って、神作の席まで椅子に乗ったまま滑って移動した。神作の机の前では永峰千佳がハサミを探していた。神作のペン立てにもハサミは無い。そこへ椅子に乗った上野が背後から滑ってきた。永峰千佳は、さっと上野をよける。机に衝突した上野秀則が、ぶつけた肘を庇いながら呻いた。
「いつっ……。かあ、ビリビリきた」
 横に立っている永峰千佳は、それを無視して上野に言った。
「でも、本当に大丈夫なんですかね。ちょっと、やり過ぎじゃあ……」
 上野秀則は腕を振って痛みを散らせながら答えた。
「いや、当たれば特ダネ、大逆転だ。やるしかないよ」
 永峰千佳は、向こう側のドアを見ながら上野に尋ねた。
「谷里部長は?」
「上に呼ばれている。たぶん、司時空庁から社長か副社長に連絡が……あれ、黒木局長。どうされたのですか」
 上野の視界に、こちらに向かって歩いてくる黒木局長の姿が入った。綿帽子のように包帯を巻いたままの永峰が恥ずかしそうに顔を背けながら場所を空ける。
 黒木局長は上野の前に立つと、彼に尋ねた。
「神作君は、何処に行った」
「ああー……ええと……」
 永峰千佳は背中を丸めて包帯頭を上野に近づけると、小さな声で彼に言った。
「私、着替えてきますね」
 そして、顔を隠してコソコソと恥ずかしそうにゲートの方に向かった。
 黒木局長は上から厳しい視線を上野に向けたまま、棘のある口調で言った。
「政治部から苦情が出てるぞ。他人の畑を荒らすなって。上野君、君も元政治記者なら、政治家と記者とのデリケートな関係は分かっているだろ。神作君は社会部記者を続けている男だから、知らんのだよ。この世界には、この世界の仁義ってものがあることを、どうして君から教えてやらないんだ」
 上野秀則は椅子から立ち上がることも忘れて聞いていた。困惑したように彼は言う。
「はあ、すみません。しかし、随分と早い情報ですね。さっき出かけたばかりなのに」
「現場の記者からだよ。恥をかいたと言っていた。担当記者を出し抜いて、有働の私邸を訪ねたそうじゃないか。何しに行ったんだ、いったい」
「はあ……たぶん、真明教の件だと思うんですが……」
 黒木局長は上野を指差して言った。
「思うんですが、だと? 君、部下の行動を把握してないのかね」
 上野秀則は眉を八字にして言った。
「あ、いや、それは……」
「取材じゃありませんよ」
 黒木の背後から声がした。上着を肩に掛けた神作真哉と、きちんと背広を着ている重成直人が歩いてくる。神作真哉は永峰の隣の席の椅子に上着を掛けて、斜向かいの席の前にいる重成を軽く指差しながら言った。
「ちょっと私的な件で、先輩に付き合っただけです」
 重成直人は自分の席にゆっくりと腰を下ろしながら言った。
「いやね、ちょっと、私と有働の間のわだかまりを解きにね」
 黒木局長は怪訝な顔で尋ねた。
「蟠り? 何かあったのかね」
 重成直人は椅子に体を倒して腕組みをしながら言う。
「ああ、そうか、局長はまだ、使い走りの頃でしたからね。ご存じないか。――ま、随分と昔の話ですがね、いろいろ有ったんですよ。デリケートな事情がね」
 黒木の隣に立っている神作真哉が補足した。
「侘びを入れに行っただけですよ。シゲさんも、もうじき定年だ。退職して社を離れたら、一般人ですからね。そうなってまで有働から色々やられたんじゃ、シゲさんも大変じゃないですか。だから、俺が勧めて、頭下げに行って来たんです。俺はその付添い人。喧嘩にならないように」
 疑り深い目で神作の顔を見ながら、黒木局長は確認した。
「ならなかっただろうな。相手は前総理大臣だぞ」
 神作真哉はネクタイを弛めながら答えた。
「一発、ぶん殴ってきましたよ」
 黒木局長は大きく目を見開いて声を荒げた。
「な、なんだって? 何をしてるんだ。ウチの政治部の連中が出禁になるぞ」
 神作真哉は笑いながら顔の前で手を振る。
「冗談ですよ、冗談」
 そして真顔に戻して、黒木に言った。
「でも酷い奴ですよ。けんもほろろでした。そんな昔に何があったのか、俺も詳しくは知りませんけど、黒木局長も察しが付くでしょ。ウチのシゲさんが悪いはずがない。なのに、まあ、あの野郎。まったく……。行って損しましたよ。ねえ、シゲさん。ホント、すみませんでしたね、余計なことをさせてしまって」
 頭を小さく下げた神作に、重成直人は手を振って答えた。
 黒木局長は憮然とした顔で言う。
「往年の記者が退職前に謝罪に行ったのに、請合わなかったというのか」
 重成直人が離れた席から黒木に言った。
「まあ、一応は腹に収めてくれましたけどね。ま、これで終結でしょ。だから、これ以上あまり触らないように、局長から上に言っておいて貰えますか。杉野副社長は、あの当時の事情をよく知っているはずですから、理解してもらえると思いますがね」
 黒木局長は眼球を左右に動かして、少し戸惑いながら答えた。
「――そうなのか……。――分かった。伝えておこう」
 黒木局長は顔を上げると、神作に言った。
「杉野副社長と言えば、司時空庁から副社長に抗議の電話があったそうだ。今、谷里君が上に呼ばれている」
「何の抗議です?」
 神作の問いに黒木局長は眉間に皺を寄せて答えた。
「いや、聞けば、例の週刊新日風潮の記事の件らしい。俺も呼ばれたが、ウチには関係ないと言って、席を立ってきた。君たち、まだあの事件を追っているんじゃないだろうな」
 神作真哉は手を上げて答える。
「まさか。真明教で手一杯ですよ。ねえ、うえにょデスク」
「上野だ。――でも、空き時間なら、追ってもいいんですよね」
 そう尋ねた上野に、黒木局長は素早く顔を向けて言った。
な。空きがあるのか」
 神作真哉が顔の前で手を振りながら言う。
「いいや、とんでもない。今日も、午後は信者たちのインタビュー取りですから。真明病院にも行ってみないといけないし、あとは、真明学園でしょ、文科省と、厚生労働省、会計検査院、ああ、真明教のメインバンクも調べないとなあ……」
 自分の顔の前で折って数えている神作の指を掴んで降ろした黒木局長は、言った。
「もう、分かった。とにかく、真明教の記事はしっかり裏取りしてから書けよ。補助金の流用が事実なら、憲法違反の可能性もあるし、相手には大手法律事務所が付いている。裁判沙汰になったら厄介だからな。まして、政治献金絡みとなれば、政治部への引継ぎ記事ともなる。そうなれば、社を上げて取り組む大ネタだ。他者も追随してくるだろうから、抜いた抜かれたの戦争になるぞ。だから、心して取り掛かってくれよ。頼むぞ」
「了解です」
 そう返事をした神作の目を、黒木局長は一度強くにらんでから、去っていった。
 
 首を伸ばして、黒木がエレベーターに乗ったのを確認した上野秀則は、すぐに神作に尋ねた。
「で、どうだったんだ。有働は」
 スーツの上着を手にとって上野の横に戻ってきた神作真哉は、言った。
「その前に、そこを退けよ。俺の席だ」
「ああ、悪い悪い」
 上野が椅子から立ち上がると、そこに腰を荒々しく下ろした神作真哉は、自分の机の上に上着を放り投げ、ネクタイを外しながら言った。
「ま、シゲさんに酷い当たりだったのは、本当だ」
 重成直人が苦笑いしながら言う。
「退職後の再就職先に、芋の皮剥きの仕事を紹介されたよ」
 上野秀則は憤慨した。
「はあ? 芋の皮剥き? ふざけた奴だなあ」
 昼食を終えた他の記者たちがエレベーターからぞろぞろと降りてきたのを見て、神作真哉は口の前に人差し指を立てた。
「シー。声がでけえよ」
「すまん、すまん」
 謝りながら、永山の席の椅子に腰を下ろした上野秀則は、腕組みをして神作の話の続きを待った。神作真哉は静かな声で言う。
「だが、津田と違って、タイムトラベル事業の拡大には乗り気じゃないらしい」
「有働がそう言ったのか」
 怪訝な顔で尋ねた上野に神作真哉は言った。
「そんな訳ないだろ。お前らが聞き慣れた、政治家トークって奴だよ。俺も帰り道でシゲさんに教えてもらって、納得した」
 上野秀則は振り向いて重成を見た。
 重成直人は両眉を上げて見せる。
 再び前を向いた上野秀則は、腕組みをしたまま神作に言った。
「政治家の連中は絶対に本音を言わないからな。前総理の大物政治家なら当然だな。ていうか、担当記者でもないのに、会ってもらえただけでも奇跡的だよ」
「シゲさんの人徳さ」
 重成を指した神作につられるように、再び振り向いて重成を見る上野。
 重成直人は顔の前で手を振って謙遜する。上野秀則はニヤリと口角をあげた。
 体を捻って後ろを向いている上野に神作真哉が尋ねた。
「あっちの方は」
 上野秀則は、体を戻しながら答え始めた。
「ああ、今、永峰が戻って……」
 彼は発言を止めた。椅子に座っている神作の背後に谷里部長が立っていたからだ。彼女は不機嫌そうな顔で神作を上から睨んでいる。上野の視線に気づいた神作が振り向いた。谷里部長は神作の頭越しに上野に向かって甲高い声を上げた。
「ちょっと、上野次長。どういうことよ。司時空庁の記事は載せないって言ったわよね。社会部の部長は私なのよ。私の決裁が無いと、記事は載せられないのよ。分かってる?」
 上野秀則は、今度は椅子から立ち上がってから言った。
「分かってますよ。どうされたんですか」
 谷里部長は神作の後ろから上野の前に歩み寄ってくると、広げた右手で自分の胸を叩きながら言った。
「今、私が副社長に呼ばれたのよ。私が。司時空庁から、迷惑してるって抗議があったそうよ。どういうことなの、これ」
 谷里部長はしかめた顔を前に突き出してくる。
 上野秀則は谷里から顔を逸らして、目線だけを彼女に向けながら言った。
「記事を載せたのは、下の『風潮』でしょうが。どうして、ウチに……」
「新聞が指示を出してるんじゃないかって言うのよ! どうなの!」
 谷里部長はヒステリックに声を荒げた。
 上野秀則は小指を片方の耳に入れながら、迷惑そうな顔をして答えた。
「出してませんよ。それに、迷惑してるのはこっちじゃないですか。ほら外を見てください、あのオムナクト・ヘリ。こんなんじゃ、他の取材もできないし、ウチの記者たちも落ち着いて仕事が出来ませんよ」
 谷里部長は上野が指差した窓の方を見ることもせず、上野の低い鼻の前に人差し指を突き出して、彼に怒鳴りつけた。
「何かあったら責任を取らされるのはこっちなのよ。そんなの御免だからね。司時空庁からは手を引きなさいよ。いいわね」
 谷里部長は床を踏み鳴らして歩いて行き、自分の部屋に入ると、激しくドアを閉めた。大きな音がフロアに響く。
 上野秀則は呆れたようにそのドアを見ながら呟いた。
「何度も言うけど、責任を取るのが、あんたの仕事でしょうが。まったく……」
 神作真哉もドアの方に視線を向けながら言った。
「部長もいろいろ大変なのさ。プライベートでは、両親の介護に加えて旦那さんの方の親のこともあって大変みたいだからな。金も掛かるだろうし」
 振り向いた上野秀則が神作に尋ねた。
「なんだ、随分と同情的じゃないか。じゃ、この辺で止めとくか」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。ここで手を引けるか。今日は二十五日だ。六月五日まで、あと中十日しか無いんだぞ。この十日で決着を付けることができなかったら、重要な証人が消されちまうかもしれないんだ。分かってんのかよ」
 上野秀則は神作の机の上に右手をつくと、顔を近づけて小声で言った。
「分かってるよ。でも、谷里部長があの調子じゃ、記事を書いても載せてもらえないだろうが。黒木局長も及び腰だし、その上の杉野副社長は、全く当てにならん。下の『風潮』が記事を書いても、発刊は早くても来週の金曜、つまり発射の前日だ。しかも、『風潮』は今時珍しい紙媒体の雑誌。読者数も知れているし、売れるのにも時間がかかる。前日に発売される号に記事を載せても、とても発射を止める効果が出るとは思えん。こりゃ、腹を括らんといかんかもな」
 神作真哉も少し小声で答えた。
「端からそのつもりだ。当日に計画を実行するしか無いだろ。奴らが動けなくなる証拠を手に入れて、一発逆転ホームランだ。それしかない」
 神作の耳元で上野秀則が言う。
「空振ったら、コールド負けだぞ。お前こそ分かってるのか」
「大丈夫だ。こっちには秘策がある」
「秘策?」
 思わず大きな声が出てしまった上野秀則は、再び小声で神作に尋ねた。
「なんだ、そりゃ。もう、計画は動き出してるんだぞ」
 神作真哉はまた小声で言った。
「作戦変更だよ。ま、とにかくハルハルを何とかしないとな」
 上野秀則は内緒話をするような声で神作に言った。
「せっかく一人、身を隠したんじゃないか。後は計画通りハルハルがLustGirlsラストガールズの撮影スタッフに紛れ込んで、隙を見て発射施設内に入り、中から俺とおまえの潜入を支援する。そういう手はずだろ。今更、変えるのかよ」
 神作真哉は腕組みをして、普通の声で言った。
「ああ。でも、この調子じゃ、たぶん撮影のための道路占用許可も下りないぞ。司時空庁が邪魔をするに違いない。――やっぱり、あいつには転職してもらおう。若いし、今のうちなら、まだやり直しも出来るからな」
「転職って……。おまえ、まさかハルハルを使い捨てるつもりじゃないだろうな。あんまりだろ」
「ま、なるべくなら犠牲は出ない方がいいが、やむを得ないようなら仕方ない。ねえ、シゲさん」
 上野秀則は振り向いて、もう一度重成を見た。重成直人は手帳を覗き込みながら頷く。
「そうだな。若い子の方がいいしな」
 前を向き直した上野秀則は、困惑した顔で神作に言った。
「おいおい、山野は知ってるのか。また暴れだすぞ」
「あいつには、さっき伝えたよ。紀子も同意見だ。せっかく連中の目がこっちに向いているうちだから、今のうちにハルハルには、次の就職先でも紹介して、この件からは身を引いてもらおう。怪我もしているし、それくらいのことはしておいてやらないと、いざという時に先輩記者としてこっちが責任を問われちまう。先に手は打っておかないとな」
「言ってる意味が分からんぞ。一番若いあの子はお荷物だってことか」
「そうは言ってねえよ。とにかく、今回の計画は超ヤバイ。最年少のハルハルを巻き込む訳にはいかんだろ。暫く宿直室にでも泊まらせて、頃合いを見て再就職。あいつのためには、それが一番だ。だから、おまえも協力しろよ。いいな」
 上野秀則は納得のいかない顔で首を傾げた。
 後ろのドアの向こうで谷里部長がドアに耳を押し付けて、外の会話を聞いていた。
窓の外ではオムナクト・ヘリが社会部フロアと風潮編集室のフロアの間の高さを上下しながら飛んでいる。新日ネット新聞ビルがある高層ビル街には、赤色灯を回したパトカーがいつもより多く走っていた。
 新首都新市街では人知れず緊張が渦巻いている。南の那珂世湾の向うから、強い風が吹き始めていた。
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