吸収

玉城真紀

文字の大きさ
上 下
13 / 14

日引という者

しおりを挟む
マスターと伊集院の不思議な関係を聞いた日から、おかしなことも起こらず平穏な日々が過ぎていた。
そんなある日。明子がリビングでくつろいでいるとインターフォンが鳴った。
「はいはい」
インターフォンが苦手な明子は、小走りで玄関に向かいながら返事をする。
玄関を開けると、そこには鈴木と見知らぬ一人の老婆が立っていた。
「突然ごめんなさい。ようやく日引さんの体が空いたものだから」
鈴木は、ここに来る事を初めから約束していたかのように言った。しかし、明子にとっては頼んでもいない来訪である。
「・・そう」
気のない返事を返しながら、明子は日引と言われた老婆を見る。
歳は八十歳ぐらいだろうか。背は低く銀髪の髪を頭の頂点でお団子にし、朝顔が描かれた水色の着物をゆったりと着ている。顔は、皺が多くて目がある場所は一応見当はつくが開いているのか閉じているのか分からない。両手を後ろに回し腰を少しだけ曲げて立っている日引は、何となくその辺の老婆とは受ける印象が違う。説明しずらいのだが威圧感を感じながらも安心感がある。威圧感と安心感・・この対義語にもならない非対称な言葉がピッタリと日引には当てはまる。
「あの、少しお時間いただけるかしら。立ち話もなんだしお家の中大丈夫?」
「え?・・ああどうぞ」
鈴木の図々しい一言で我に返った明子は二人を家の中に招き入れた。
「こちらに座って、今お茶入れるわね」
気乗りのしないお客に仕方なくお茶を入れ始める。
「あ、お茶菓子なんて気にしなくて大丈夫よ。でも、もしあるのなら大福がいいわ。日引さんの大好物なの」
「え?・・ご、ごめんなさい。大福はないんだけど・・あ、カステラでよかったらあるわ」
明子は、イライラしながらも平静を保ちお茶とカステラを用意した。
鈴木と日引の前にソレが出されると、早速明子は聞いてみた。
「あの鈴木さん?今日はどんな御用で来られたの?」
鈴木が日引にどんな説明をして連れてきたのかは知らないが、この明子の言葉でこちらもあなた方の来訪の意味が解らないという事はくみ取れるだろう。
「どんなって、前に電話で言ったじゃない。香織ちゃんの事よ。大丈夫大方の内容は日引さんに話してあるから」
(何が大丈夫よ。誰も頼んでないし・・それに、来るなら事前に電話するとかしないのかしらこの人)
心の中で毒づきながら日引を見る。
日引は静かにお茶とカステラを楽しんでいる様だ。入れたばかりの熱いお茶をこくりこくりと息を付かずに一気に飲む。
「あの・・熱くないですか?」
明子は心配になり声を掛ける。
日引は、お茶を全て飲みカステラも綺麗に平らげると、
「臭い!」
と一言大きな声で言った。
「は?」
まさかお茶を飲んだ人からそんな言葉が飛び出すとは思いもしなかった明子は、一瞬呆けてしまった。
そんな明子に構わず、日引は家の中を見回しながら話し始める。
「本当にこの家は何て臭いんだろうね。よくこんな所で生活が出来るもんだ」
「なっ!?」
酷い言われように言葉が出ない。
「この匂いは・・・色々混ざっている様だけど・・大麻も入っているね」
「大麻?大麻ってあの大麻ですか?」
鈴木が驚いて聞く。
「こんなのを作れるのは加奈子ちゃんしかいないね。全く、あれ程言ったのにあの親父。まだ娘にこんなことさせてるんだねぇ」
親父と娘。それに匂いとくれば伊集院の事に当てはまる。
「え?あの・・ちょっと・・それはどういう」
「あんた、もしかしておかっぱでやけに目が細い女の子に会っただろ」
「ええ」
「私とその親子は知り合いでねぇ。う~ん。あの二人というより加奈子ちゃんの母親との方が関係が深いかねぇ。まさかあんな事になるとは思わなかったよ」
日引は一人でしんみりしている。
「確か、子供を産んですぐに亡くなったって聞きましたけど」
「それは誰が言ったんだい?」
「マスター・・あの、その加奈子さんのお父さんからです」
「ふん。適当言ってるよ!自分が殺したも同然のくせに」
「殺した・・・」
新しい情報が一気に入って来るので、明子の思考はパニック寸前だ。
「殺したって・・どういう事・・」
「勘違いするんじゃないよ。あの旦那が、かよさんを本当に殺したんじゃないんだ。殺したようなもんだと言ったんだからね。まぁ、それはあの家族の事でもう遠い昔の事。わざわざ人に言う事でもない。それより大分厄介な事になっているようだね」
「厄介って・・それはもう解決しましたけど」
「それが、全然解決してないのよ行平さん」
鈴木が勢いよく話に入って来る。
「だって、前みたいに香織が一人で話す事もなくなったし物音がする事もなくなったのよ。もう大丈夫でしょ?」
その明子の言葉を聞いた鈴木は、日引の方を見て
「やっぱり手遅れなんでしょうか」
「・・・・・・」
日引は何も答えず黙っている。皺くちゃの顔の中にある目は開いて明子を見ているのか、瞑っているのか分からない。
(手遅れってどう言う事なの?何がどうなってるの?何も起きてないんだから大丈夫に決まってる)
明子は、突然の事に頭がこんがらがってしまっていた。
「お子さんが帰って来るのは何時ごろ何だろうねぇ」
「今・・二時半ですからもうそろそろ帰ると思いますけど」
「じゃあ。それまで待たせてもらおうかね。あ、お茶を頼みますよ。後カステラもね」
「は、はい」
明子は急いでお茶を入れなおしカステラも用意する。
新しいお茶をゆっくりと飲む日引に対し、明子は
「あの、香織が帰ってくる前に説明してもらえませんか?何だか訳が分からなくて」
「まぁそう慌てなさんな。もうそろそろ帰るんだろ?それまで待ちなさい」
「はぁ・・」
明子は恨めしそうに鈴木を見るが、鈴木は素知らぬ顔をして携帯をいじっている。
何とも、体の置き場がなく落ち着かない時間が過ぎていく。
暫くすると、玄関から元気な声が聞こえてきた。
「ただいま~!」
「あ、帰ってきました」
明子が出迎えようと立ち上がるが、それよりも早く香織がリビングの方に入って来た。鈴木は、友達の京子の母親だと知ってはいてももう一人のみ知らぬ老婆に少し驚いたような香織は、探るような目で日引を見ながら小さな声で
「こんにちは」
と言った。
「はい。こんにちは」
「香織ちゃんお帰り。京子と一緒に帰って来たのかな?」
「京子ちゃんは、図書室の本を返してから帰るって言ってたから一緒には帰ってきてないよ」
「そう。早く返しなさいって言ったからちゃんと約束守ったのね」
鈴木はニコニコしている。
「香織、取り敢えずランドセルを二階に置いて来なさい。そのあとちょっとお話があるから」
「ああ。私の方で香織ちゃんの部屋へ行きましょうかね。その場所の方が都合がいいようだから」
「え?香織の部屋でですか?」
「そう。香織ちゃん。お部屋に一緒に行ってもいいかしらねぇ」
「・・・・・」
香織は、明子の顔を見る。どう返事をしていいのか迷っている様だ。
明子としては、ろくに説明もしてくれない上に言いなりになるのは勿論面白くない。ただ、この日引という老婆の雰囲気が有無を言わさないような感じと、何故か信頼できるような雰囲気があるのも不思議でならない。
「じゃあ。みんなで行きましょう。ね?」
「・・・うん」
香織は不思議そうにしながら二階へと上がっていく。それに続く大人三人。
全員が二階に上がった時、日引が顔をしかめ
「ああ。この部屋からだね」
と、明子たちの寝室を指さした。
「ここは私達の寝室になります」
「あんた。ここで炊いてるね」
「え?あ、はい。お香の匂いを香織と主人は嫌がるものですから朝だけこの部屋で少し炊いてます」
「もうやめるんだね。何の効果もない」
「・・・・・」
「さて、香織ちゃんの部屋はこっちかな?」
香織は、自分の部屋の戸を開け日引を招き入れる。
「ほうほう。流石女の子だね。とても可愛らしい部屋だよ・・・成る程ねぇ・・うんうん・・そうかいそうかい」
日引はやたら感心したように部屋を見回し頷きながら納得している。
香織は自分の部屋をほめられたのが嬉しかったのか
「これはね、誕生日に買ってもらった物なんだけど・・こっちはね海に行った時に見つけた物でね・・」
と、日引に自分のコレクションを嬉しそうに見せ始める。元々、人懐っこい子なのだ。
日引は座り込み
「うんうん。ほうこれは綺麗だねぇ。これは凄いねぇ」
などと、香織の見せる物にいちいち相槌を打つ。
明子と鈴木は、二人で部屋の入口に立ちながらその様子を見ていたが、たまらず鈴木の服の裾を引っ張り部屋の外へと連れだすと
「ねぇ鈴木さん。一体どう言う事なの!突然来たと思ったらろくに説明もなしにこんな・・」
「まぁまぁ。行平さん落ち着いて。あの人に任せておけば絶対に悪いようにはならないから。でも前に電話で言っといたわよね?私。お宅にお邪魔するって。日引さんももう高齢だし、それに色々忙しい人なのよ。だからちょっと遅れちゃっただけ。大丈夫。ちゃんと後で説明してくれるから。何だったらご主人もいた方がいいんだけどね」
「え?主人も?あなたねぇ!」
明子が本格的に鈴木に対し文句を言おうとした時だった。
ん~ん~んん~
あの鼻歌が聞こえてきた。
ドキリとした明子が、何処から聞こえてくるのか周りを見回す。どうやら、香織の部屋の中から聞こえてくるようだ。
急いで部屋の中を覗くと、今まで嬉しそうに自分のコレクションを日引に見せていた香織が直立の状態で頭を垂れ体を左右に揺らしている。
ん~ん~んん~
(香織が言っているの?)
日引は黙って香織の様子を見ている。
ん~ん~んん~
「香織・・・」
明子が香織に呼び掛け近づこうとした時、日引が
「あんた。この歌に覚えはないのかい?」
と聞いてきた。
「え?」
(そういえば確か、喫茶店でコーヒーが出来上がるのを見ながらこの鼻歌の事を考えていた時に何となく聞いた事のある歌だなと思ったのだ。この歌・・・)
「あっ!」
「思い出したようだね」
「ええ。妊娠してまだお腹の中にいた香織に聞かせていた歌です」
過去流産を二度経験していた明子は、大事を取り暫く入院生活を余儀なくされていた。病院での生活はとても退屈なもので、テレビを見たり本を読んだりする以外はなるべく動かないようにとの指示。そんな時明子は、無事お腹の子が産まれてくれるよう即席で作った自分の歌をお腹の子に向けて歌っていた。
しかし、そんな毎日のように歌っていた歌も香織が産まれてからは、初めての育児や日常に追われ歌の事なんかすっかり忘れてしまっていた。
明子はその事を日引に伝えると
「そうかい。そんないい歌だったんだね。香織ちゃんはお腹の中で聞いていたんだねぇ」
「確かに、お腹の中の赤ちゃんには外の音が聞こえると言うのは知ってますけど、覚えているものなのかしら?」
「そりゃあ覚えているものさ。大抵は忘れちまうけど、本人の奥底にちゃんと残っている。たまにそれと似たような事があると、どこかで聞いた事があるような・・見たことあるような・・と言う既視感として出てくるのさ」
「ああ。デジャブですね」
鈴木が言う。
「そうそう。その何とかジャブさね。しかし、この歌は香織ちゃんだけが聞いていたようではないようだよ」
「え?」
「あっ!もしかして生まれてこれなかった赤ちゃんじゃないですか?」
「その赤ちゃんにもこの歌を聞かせてやったのかい?」
「・・いいえ。香織の時だけです。今度こそは無事に産まれて欲しいって本当に願ってましたから」
明子たちが話している間も、香織は頭を垂れ体を左右に揺らしながら
ん~ん~んん~
と鼻歌を続けている。
「じゃあ。歌を聞いていたのは香織ちゃんだけじゃないって・・他に誰が聞いてたんですか?」
鈴木が言った。
「もう一人の産まれてこれなかった赤ん坊だよ」
「もう一人?」
明子は、眉を寄せ日引を見る。
「そう。よ~く思い出してごらん。これはね。あんた自身が思い出さないと終わらない問題なんだよ」
日引はやけに落ち着いている。この老婆は全て分かっているとでもいうのか。
「分からないわ。行平と結婚して二回妊娠したけど流れちゃって・・その後香織を妊娠して出産・・・その他に妊娠した経験なんてないから」
明子は昔を思い出しながら話していくが、何も分からず次第にイライラしてきた。
「それより、もうこの事は片付いたはずなんです。あなた方が来たからこうなってるんじゃないですか?伊集院さんが言うには、電車事故で亡くなった人が憑いてるって言ってました。確かに私が実家に行った時、近くの駅の辺りで脱線事故があったし。二人亡くなったそうだから、その内の一人が私か、香織に憑いちゃったんですよ。それも、お香と塩のお陰でやんでいたのに!」
明子は、堰を切ったように早口でまくし立てた。
しかし、鈴木も日引も興奮している明子とは対象に落ち着き払い黙っているだけだ。馬鹿にされているような気になった明子は
「とにかく、出てってもらえます?もう、うちは大丈夫になったんです!また、お香の匂いを嗅げば香織は元に戻りますから」
「ねぇ行平さん。少し落ち着いて。あなたが何を信じたとしてもそれはあなたの自由だわ。でもね。日引さんはは視えている。その視ているモノの感情をよむことも出来る。私もね。物心ついた時からこうだったの。日引さん程ではないけどこの世の者ではないものを感じることが出来る。その事を話せば周りから変な目で見られ化け物扱い。その内言わなくなった。普通の生活を送らなきゃいけないからね。でもね。そのお陰で、私は大切な人を死なせてしまった。私には、その人が何故苦しんでいるのかが分かっていたのに自分の事を守る為に何も言わなかった・・結果、あの人は死んだの。あの時と同じ後悔はもうしたくない。そう思ったから、私はオカルト好きなんて自分から言いふらしていた。例え変な目で見られたとしてもね。香織ちゃんは、京子の大切な友達。それは私にとっても大切な子供と同じなのよ。その子が今・・・」
そこまで話すと鈴木は香織の方に視線を移す。
先程よりも香織は体を左右に振る動きが激しくなっている。
「今、一番苦しんでるのはあなたじゃなく。香織ちゃんなの。ようやくできた子供なら、母親のあなたが真実から目をそらしちゃ駄目なのよ」
「真実って言われても・・・」
「もう一度よく思い出して行平さん」
「・・・・・・」
ん~ん~んん~
この間も香織はずっと、この鼻歌を止める事はなく同じフレーズを繰り返し歌っている。
(そう。入院中にずっとこの歌を歌ってあげてた・・お腹の子に・・お腹の子・・香織に・・香織だけに・・)
その時唐突に頭の中にあの言葉がよぎる。

【お母さんね。私の事なんか忘れちゃってるのよ】

担任の山口が教えてくれた言葉だ。香織が屋上の踊り場で一人で話していた時の一言。
(私の事なんか忘れちゃってる・・私は他に何を忘れてるって言うの?)

【私は・・・私よ・・・お母さん】

そうだ。夢だとばかり思っていたが私は誰かと話していた。私の事をお母さんって呼んでいた者。
私が知らない私の子供がいる。
ん~ん~んん~
ん~ん~んん~
明子は、香織の鼻歌に重ねて自分も同じフレーズを歌い始めた。
自分でも、どうしてそんな事をしたのかはサッパリ思い出せない。
ん~ん~んん~
ん~ん~んん~
ん~ん~んん~
二人の鼻歌の合唱が部屋に響き渡る。
実際鼻歌を歌って見ると、明子はあの病院にいた頃の自分に戻るような感じがしてきた。
まだ、あまり目立っていないお腹をさすり歌う。
ん~ん~んん~
ん~ん~んん~
そう。ゆっくり。ゆっくり。愛おしく、そして不安もあった。十カ月しっかりと私のお腹の中にいて欲しい。そんな願いも込めてベッドの上で歌った。
ん~ん~んん~
「ん~可愛い~んん~。ん~可愛い~ちーちゃんとりんちゃん~。私の~可愛い~ちーちゃんと、りんちゃん~・・・・」
ハミングの部分が次第に言葉になっていく。
「私の・・可愛い・・双子のちーちゃんとりんちゃん。大切な、大切な・・・」
明子の目からは大粒の涙が流れ落ちてくる。
ん~ん~んん~
香織はもう体を左右に揺らすことなく、頭を垂れ鼻歌を歌い立っている。
「双子だったの・・ちーちゃんとりんちゃんって名前を付けてお腹をさすって・・」

妊娠初期。明子のお腹の中に双子の赤ちゃんがいることが分かった。一人産むだけでも大変な出産。ましてや流産を二回経験している明子は医者の判断で即入院となったのだ。しかし、双子と思っていたのに妊娠中期に入った頃の検査時のエコーで赤ちゃんは一人と言われる。その時医者からは「見間違えたのかもしれませんね」としか言われなかった。
楽しみにしていた明子はがっかりしたが、今お腹の中にいる子供が順調に育つよう入院生活を続けたのだ。

明子はゆっくりと香織の側に行き、膝まづくと香織を力強く抱きしめた。
「ごめんね。忘れててごめんね。私には、香織と同じ日に産まれるはずの子供がいたのよね・・本当にごめんね・・」
香織を抱きしめ泣き崩れた。
「お母さん」
香織が母を呼ぶ。明子は俯いている香織の顔を見る。
「思い出してくれたの?」
「ええ思い出したわ。ハッキリと思い出した」
「良かった。香織だけじゃなく私もいるのにお母さん香織の事ばかりだった」
「そうね。そうね。ごめんなさい。あなたもちゃんといるのよね」
「お母さん」
「なぁに?」
「お願いがあるの」
「うん。言って見て」
「私に名前を頂戴」
「名前・・・」
「香織と同じように名前を頂戴」
これで分かった。あの時の言葉
【私は・・・私よ・・・お母さん】
名前がなかったから「私」としか言えなかったのだ。
「わかった。あなたにちゃんと名前をつけてあげる・・・」
明子は、自分の顔に流れ落ちる涙を拭きながら考えた。
「ひなた・・ひまわり・・そう、ひまりが良い。太陽の陽に向日葵の葵を取って陽葵(ひまり)お空に向かって元気よく大きくなってほしいと願いを込めて・・どうかしら?」
「陽葵・・・うん可愛い」
香織はこぼれんばかりの笑顔を明子に向けた。
その笑顔は、今まで明子が見てきた香織の笑顔ではなかった。恐らくこの笑顔は、もう一人の・・陽葵の笑顔なんだろう。ソレを見た途端、また涙があふれ視界がゆがむ。
「陽葵・・・あなたの事は決して忘れないわ」
「うん」
「香織とも仲良くしてね」
「うん。ソレは大丈夫。次は
そう言うと、香織は突然意識を失い倒れてしまった。
「陽葵?陽葵!」
慌てた明子に対し、側で見ていた日引は
「香織ちゃんの体力が限界だったんだろうねぇ。なんせまだ子供なんだから」
「陽葵・・香織は、香織は大丈夫なんでしょうか」
「香織ちゃんの身体は大丈夫だよ。取り敢えず寝かせてあげなさいな」
明子は香織を抱き上げベッドに寝かせた。香織は余程熟睡しているのか起きることなく静かに寝息を立てている。

「思い出しました。どうして忘れてたんだろう。私が妊娠してすぐに入院した理由は双子を身ごもったからなんです。前に流産を経験してますしね。凄く不安でしたが、同時にとても嬉しかった。だから、お腹の中の子供に名前を付けたんです。鈴のようにかわいい子供が産まれるようにとち~ちゃんとりんちゃん。鈴ってチリンって鳴りますよね?その音はどちらが欠けてもいい音にならないでしょ?双子だから二人仲良く育ってほしいと思って付けた名前だったんです」
「成る程ねぇ。それは良い名前だよ」
日引はお茶を飲み顔の皺を多くしながら言った。きっと笑ったのだろう。
香織を寝かせた後、三人は一階に降りてきていた。
リビングのテーブルに座り、お茶を飲みながら話しているのだ。
「きっと、寂しかったんだろうねぇ。自分はちゃんと存在していたのに途中でもう一人に吸収されちまった。その事を忘れずに思い出してくれていればこんな事にはならなかったんだろうけどね」
「吸収?」
「おや。鈴木ちゃんは知らないのかい?稀にあるそうなんだよ。双子を妊娠した時、妊娠初期の段階で母体に吸収され結果的に一人だけが誕生するという。バニシング・ツインと言うそうだけどね。その中で、母体に吸収されるのではなくもう一人の胎児の中に吸収される場合もあるそうだ」
「じゃあ、香織ちゃんの体の中に陽葵ちゃんがいるって事ですか?」
「そう。物理的に何か影響が出てくるかもしれないねぇ。ある人の例だが、腫瘍を手術で取り除いたら、それは腫瘍ではなく小さな骨、髪、歯だったなんて事が世界ではあるんだよ。やはり、その人も双子だったらしいからね。もう片方を自分が吸収しちまったのさ」
その時明子は、あの光景を思い出した。
床に置かれた赤い塊・・ぐちゃっとしたぬらぬらと光る赤い塊・・その塊の中に辛うじて形になっている頭と目。
アレが陽葵何だろう。香織に吸収される前の陽葵・・
「日引さん・・私は、陽葵の事を思い出しました。これからは、どうしていけばいいんでしょうか」
明子は、日引達が家に来てから初めて日引の名を呼んだ。
日引はゆっくりとお茶を飲むと
「それはあんた次第だね。ただ一つ教えてあげられるのは、人の死と言うのはその時はとても悲しいものさ。でも、月日が経つと次第にその悲しみが薄れて行ってしまう。それは、残されたものが前に進むためには必要なことかもしれないが、あれ程大切だと思っていた人を・・あんたで言えば赤ん坊を忘れちまった。人は忘れる生き物だからね。しょうがないさね。だから、度々思い出してやればいいんじゃないかい?二度流産した赤ん坊の方の供養はしてるんだろうねぇ」
「はい。年に一度水子供養に行ってます」
「ふん。水子供養ねぇ。まぁそれはそれでいいと思うよ。でも、今回のケースはちょっと違う。陽葵は、自分が出来る限りの手段で自分を思い出してもらおうとあんたに知らせている。最後は香織の体を使って出てきた。それは、香織の体に陽葵がいるから容易に出来た事だ。まぁ供養もされず思い出しても貰えずに今まで来たんだ。我慢できなかったんだろう。香織の体の中にいる陽葵は、母親の愛情を香織ではなく自分に向けて欲しかったんだろうよ」
「はい・・・」
「これからは、陽葵と香織を大切にしてあげる事だね。元は双子の予定だったんだからあんただったら出来るだろうよ」
「わかりました」
日引は残りのお茶を一気に飲むと
「じゃ、帰るとするかな」
と立ち上がり玄関へと向かった。
明子と鈴木は慌てて日引の後を追う。
「本当にありがとうございました」
頭を下げる明子に、日引は
「いいんだよ。これから大変だろうけど頑張るんだよ。両方あんたの子供なんだからそれと、あのお香はもうやめな。分かったね」
「・・はい。鈴木さんも有難う。今までごめんなさい」
「はは。いいのよ。また京子とも遊んであげてって香織ちゃんに伝えてね」
「うん」
明子は少しほっとした気分で二人を見送った。


行平邸を出た鈴木は、日引を自宅に送るため車を発進させた。
「日引さん」
「なんだい?」
「何か変なこと言ってませんでした?」
「何が」
「え~と・・陽葵と両方を大切にしてあげる事だね。とか言ってましたよね。アレってどう言う意味ですか?確かに双子として生まれるはずだったわけだから両方に母親としての想いを・・というのは分かりますが。何となく引っかかったんですよね」
「ヒヒヒ。鈴木ちゃんも段々分かるようになってきたね」
「あ、やっぱり何かあるんですね?」
「今の香織は、恐らく陽葵だね。香織の人格は心の奥底で眠らされているよ」
「えっ!?」
「あらあら、ちゃんと運転しておくれ。まだ死にたかないからね」
「はい」
「したたかな子だよ。余程独占欲が強いと見える。でも陽葵の気持ちを考えて見ると分からないでもないねぇ。香織の体の中にいた陽葵はずっと見ていたんだよ。大切に育てられて両親からの愛情をたくさんもらっている香織をね。自分もいるのに気がついてもらえない。悔しかったんだと思うねぇ」
「あっ、だからあの時香織ちゃんは・・いや、陽葵ちゃんは「次は陽葵の番だから」って言ったんですね?」
「そう。顔つきも少し変わってたしね。まぁそれはあの母親も気が付いていると思うけど。あんたの子供の京子ちゃんと仲良しだというじゃないか。すこし様子を見てあげな。あの母親は、あんたの事も理解しただろうからね」
「そうですね・・でも、私が京子に頼んで香織ちゃんに渡してもらった人形で解決すると思ったけど駄目だったんです。私で大丈夫でしょうか・・」
「ああ。霊の依り代にしようとした人形だね。確かに今回は失敗だったね。人形に入らず、香織の中に入っちまった。仕方ないさね。さっきも言ったように母親の愛情を受け取れるのは香織なんだ。人形じゃない。だから、人形に見向きもせずに香織の中に入ったのさ。大丈夫。気落ちする事なんてないよ」
「はい・・」
車は、日引の家に向かって走っている。ある交差点で停まっていた時、鈴木がある事に気が付いた。
「あれ?あそこにあった喫茶店無くなっちゃってる」
「ん?」
「あのビルの一階にあったんですよ。最近できたばかりなのに閉めるの早いなぁ。そんなにお客さん入らなかったのかしら」
「・・・逃げ足が速いねぇ。ヒヒヒ」
日引は、着物の襟をただしながら嬉しそうに笑った。
「逃げ足って?なんです?」
「ん?ヒヒヒ。ソレは時期が来たら教えてあげるよ。それより、今日みずっちがうちに来るとか言ってたねぇ。又厄介なこと持ってこなきゃいいけど。持って来るなら大福を持って来いってんだ。全く」
無類の大福好きの日引は、プリプリと怒ったように話すがそれ程嫌がっているようではない。むしろ、日引自身日常の中の非日常を楽しんでいる部分があるのを鈴木は知っている。
「ハハハ」
鈴木は楽しそうに笑った。


しおりを挟む

処理中です...