切り裂き語り 少女の鮮血と清らなる魂

月森あいら

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羽澄美桜の真実を語る、第九章

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 清め地蔵の前の血は、どうなっているのだろう。
 通りがかるごとに、いつもべとべとと濡れた艶を放っていたコールタールの流れたような痕。あれはどうなっているのか、常に気になっている。学校があるときは毎日前を通っていたけれど、夏休みの今は近くに行く理由もなかった。
 海翔が地蔵の呪いを受けるのかもしれないとなると、ますますじっとはしていられない。家にいても死ぬときは死ぬのなら、それなら張本人の目の前で死んでやる。そのように開き直った夜の、翌日。
 その日、海翔が清め地蔵に足を向けたのは、夜遅くなってからだった。慶太の家に遊びに行き、今日は母の仕事が遅くなるということを何気なく告げると、慶太の母が夕食を食べて行けと誘ってくれた。久々の宅配弁当ではない食事に気を惹かれてしまい、ついつい長居してしまったのだ。
 母には連絡をしているからいいようなものの、街灯もあまりない夜の田舎道には、恐怖をかき立てられた。
 恐る恐る道を歩くと、行く手に清め地蔵が見える。街灯の光に照らされて、薄ぼんやりとした中にある地蔵の姿には恐怖を煽られ、海翔は立ちすくんでしまった。
 海翔の視界の向こうには、血だまりが広がっている。海翔の記憶通りに、それは変わらずぬるついてべたべたと、靴の裏に染みついてくるように思えた。
 その上に足を下ろすのは恐ろしく、遠巻きに海翔は立った。血のにおいの混じる、夜風。吹きさらしの中、傷だらけの地蔵が立っている。その不気味さは夜の暗さとも相まって、今まで以上に不気味な光景に感じられた。
(なんでここ、通っちゃったんだろう……)
 にわかに、自分の行動の愚かしさに気がついた。このような場所で立ち尽くしていれば、誰かの目について痛くもない腹を探られるやもしれない。
(早く帰ろう)
 そう思って踵を返しかけた海翔は、静けさの中に足音を聞いて、どくりと胸を跳ねさせた。思わずまわりを見回し、隠れる場所を探した。
 とっさに、清め地蔵の後ろに隠れる。小さな地蔵ではあるが、まわりには木々も茂っているし、この暗闇の中なら海翔の体を隠してくれるだろう。
 軽い足音だった。女の子のサンダルの音――同時に街灯に照らされた姿に、海翔は驚いて息を呑み下した。
(羽澄さん……!)
 歩いてきたのは、美桜だった。手にはピンクの小さなポーチを持っている。
(羽澄さん……町にいるんじゃ……?)
 美桜は、ひとりだった。誰もついてきている気配はない。彼女は迷うことなく清め地像の前にしゃがみ込んだ。慣れた手つきで左腕の袖を引っ張りあげ、すると夜目にも鮮やかな白い包帯が現われる。
 海翔は思わず、くっと息を呑んだ。きつく巻かれた包帯の下には、どのような傷があるのだろう。そして美桜は、清め地蔵の前で何をしようとしているのか。
 ふぁさり、と包帯がほどかれる。片手で包帯を巻いたりするのは難しいだろうに、美桜は易々とやってのける。その下から覗いた傷に、海翔はどきりと胸が跳ねるのを感じた。
 この少し遠い場所から見ると、手首は不自然なほどに盛り上がっていた。幾重にも重なった傷のせいだ。治った傷は白く、傷の治りかけで盛りあがった肉には、まるでブレスレットのように新たな赤い傷が走っている。
 その上をまた傷が斜めに入っていて、そこはまだ治りきっていない。ぱくりと、真っ赤な肉が見えている。
(う……、っ……)
 それはあまりにも生々しい図で、海翔は思わず目を逸らしてしまう。しかし同時に眩しいものが目を射て、海翔ははっと視線を美桜のほうに向けた。
(なんだ……あれ)
 街灯があるとはいえ、美桜の手のひらに乗るような小さなものまでは見届けられない。しかしそれが確かにきらめいたことを知って、海翔は目を凝らした。
(……剃刀?)
 そのきらめきに、海翔はぎょっとする。薄明るい街灯の下だからこそ、鈍い光がよけいに禍々しく海翔の視線を奪った。
 やはり美桜は、慣れた調子で剃刀を握る。刃を手首の上に置いて、いきなりずくりと刃を押して傷の中に埋もれさせると、ひと息に手前に切り裂いた――。

 じゃく、り……っ……。

 肉を切り裂く、身の軋むような音がする。その音と重なるように、潜められた声が聞こえる。
「お願いします」
 小さな声で、美桜がつぶやいた。
「わたしを、清めてください。お願いです、穢れたわたしを、清めてください……」
 しきりに小さな声でそう言いながら、美桜は手首の傷を広げていく。

 じゃく、ぢゅ……ぐちゅ、ぐちゅ……。

 傷が切り開かれ、裂かれ、深い傷から血が洩れあふれる。美桜は血がしたたるのにも構わずに、なおも同じ言葉をつぶやきながら、さらに手首の傷を大きくしていく。見ている海翔が全身の怖気を感じるくらいに、ためらいのない動きだった。
 刃を傷の中に食い込ませたまま、美桜は何度も前後に剃刀をしごいた。するとじゅくりという音とともにますます傷が大きくなり、したたる血も増える。
 いつしか血は美桜の足もとを真っ赤に汚しており、鉄のにおいが海翔のもとにまでぷんと広がってくるまでになった。
(血……、この、血)
 清め地蔵の前を通るたびに気になっていた、血の痕だ。清め地蔵の前、不快なにおいを放っていた不気味な痕は、この小柄な少女の手首から溢れだす、祈りのための供物だったのだ。
「清めて……清めてください。わたしを、清めて……」
 身を隠した清め地蔵の後ろで、海翔は少女の祈りを聞いていた。繰り返し紡がれる祈りは、どこか狂信的に見える。その手首を伝って流れる血も、そのどこか黒っぽい色が、この光景の不気味さを彩っている。
(清めてもらいたいんなら、地蔵に傷をつけるんじゃないのか。どうして、自分に……)
 そして、なぜ美桜は繰り返し「清めてください」とつぶやいているのか。なにを清めるというのだろうか――少女は、あれほどに清らかなのに。
(そう、思ってるのは俺だけ……? 実は、羽澄さんは……?)
 海翔の知っていることなど少ない。実のところ美桜にはたくさん秘密があって、海翔には及びもつかない世界の人間なのかもしれないのだ。
 なおも美桜は手首から血を流しながら、傷を剃刀で扱いている。手首を切っても死ねないとはいうが、それほどに深い傷を作ってしまえば出血多量で死んでしまうのではないか。
(だめだ……、そんな、こと……)
 出ていきたい衝動を、懸命に抑えた。きっと、この光景は美桜にとって見られたくないものだろうから。しかし自らを切り刻む少女を前に、黙ってもいられない。
(そんなこと、してちゃだめだ……)
 海翔が思わず腰を起こしたのと、じゅくん、という音を立てて美桜が剃刀を引いたのは、同時だった。ぱっと、花が開くように赤い血が散った。それに思わず、目を奪われた。
 しかし花はすぐにしたたる血となってこぼれ落ち、アスファルトを汚す。美桜は右手だけでポーチの中を探り、ガーゼを取り出す。傷をガーゼで覆い、何枚か重ねて、やはり右手だけで包帯を巻いた。
 その一連の動きがあまりにもなめらかだったので、海翔は思わず見とれた。美桜は最後に清め地蔵に丁寧に手を合わせると立ちあがり、その場を去ってしまう。
「……あ」
 美桜の後ろ姿が、どんどん遠くなる。残されたのは彼女の流した血のにおい。むっとするほどに濃くあたりに広がっている、禍々しいにおいだ。それを見つめている地蔵は、果たして何を思ってか――。
 海翔は、隠れていた場所から姿を現わす。あたりはしんと静まり返っていて、しかしいきなり響いた音に、海翔は思わず声をあげそうになった。
「な、んだ……、蛙か」
 かたわらの田圃の蛙が、鳴き出したのだ。今まで静かだったのに急にいっせいに鳴き出されると、ただの蛙でも恐怖を呼び起こされてしまう。
「……帰ろ」
 海翔は努めて気丈にそう言って、踵を返す。そして美桜が姿を消したのとは、違う方向に足を向けた。



 あれは、単なる自傷行為などではなかった。
 美桜が手首を切るのは、清め地蔵に願をかけての行いだった。その光景を見てしまったからこそ、海翔は彼女の行為の真実を知りたいと思ってしまう。彼女が「清めてください」と願う、その意図。いったいそれは、なんなのか。
「で、も……」
 知る手がかりなど、海翔にはない。まさか正面切って訪ねるわけにもいかないし、学校のない今では美桜に直接会う機会はない。転校してきたばかりの海翔には伝手さえなくて、やきもきと毎日を送るばかりだ。
 そんな日々の中、海翔はときおり清め地蔵のもとに向かった。しかし時間が合わなかったのか、あの日以来美桜に出くわすことはなかった。無駄足を残念に思ったり、しかし彼女が手首を切っているところなど見たくはない――。
 相反する気持ちのまま、毎日清め地蔵の前に通った。人とすれ違いそうになると地蔵の後ろに隠れる。すると向こうからやってくる者は海翔に気づかない。ここは意外といい隠れ場所なのだと思うとともに、美桜はあのような行為を繰り返し、人が来そうになるとここに隠れていたのではないかと考えさせる。
 ――なんのために? 清めるとは、なんのことだ?
 美桜のことを、何も知らない自分がもどかしかった。しかし知る術などないもやもやとした感覚のまま、海翔は清め地蔵の前に立ち尽くした。



 清め地蔵の前は、やはり血の痕がアスファルトに色濃く残っている。それは不気味に赤黒く広がっていて、ここで手首を傷つけていた少女のことを鮮烈に思い出させる。
 血の痕に足を載せると、べたべたと靴裏で粘りを見せる。そのことにますます少女のことを思い出す。そして自分にはいつ清め地蔵に呪われるのか、などということを考えてしまう。
 そんな思いでじっと清め地蔵を見つめていた海翔は、背後に人の気配を感じて、振り向いた。
「羽澄さん……」
 そこにいたのは、美桜だった。手には花と小さな水筒を持っている。思わず声をあげたが、しかし応えはなかった。彼女はじっと立ち尽くし、まるで海翔がその場所から退くのを待っているかのようだ。
「あ、ごめん……」
 美桜は、なにも言わなかった。ただ、なんの感情も見受けられない表情のまま一歩を踏み出し、しゃがむと供えてあったを取り替え、カップ酒の瓶に水を満たす。
「この、お花……、羽澄さんが、供えてるの?」
「そう」
 短く、美桜は言った。慣れた手つきで花の入れ替えをする美桜の目には、海翔は映っていないかのようだ。
「……信心深いんだね。なんかこういうの、意外っていうか……」
 美桜は、何も言わなかった。地蔵に手を合わせ、うつむいて何ごとかをつぶやいている様子は敬虔で微笑ましくもあり、同時にどこか狂信じみているようにも見えた。
 本当に、美桜には海翔のことが目に入っていないらしい。一心に何ごとかをつぶやいている彼女の口は、少し動いている。
(やっぱり、清め地蔵に清めてくださいって、お願いしてるのか……?)
 声は聞こえなかったし、「なにをお願いしてるの?」などと訊くことができるわけもない。さりとて、立ち去るという選択肢は海翔にはなかった。
(気になる……、のは、これが、清め地蔵のまえだから……)
 ただでさえ、気味の悪い傷だらけの地蔵。粘ついた血のにおうアスファルト。そのようなものなど気にもしていないかのように、一心に祈る少女の姿。
 ここで美桜は、繰り返し手首を切っていたのだ。ちらりと彼女の左手首を見ると、やはり包帯が巻かれている。その下には無数の傷があることを海翔はすでに知っていた。傷の上にまた傷を重ね、白く盛りあがったところをまた切り裂いて。真っ赤な肉が見えたのが今でも海翔をぞくぞくとさせる。
 思い出すだにそれは、あまりに気味の悪い光景だった。今にも美桜がポーチを開けて剃刀を取り出しそうで、目の前に海翔は思わず眉をひそめていた。
「……あ」
 やがて美桜が立ちあがり、振り返った彼女は驚いた顔をした。ずっと後ろに立っていた海翔のことは、すっかり忘れていたらしい。
「信心深いんだね」
 再びのその言葉に、美桜は目をすがめただけだった。海翔の言ったことをどう思ったのか、表情からはまったく見当がつかない。
 さわり、と夏の風が吹く。それは美桜のスカートを揺らし、髪を揺らした。古ぼけた、傷だらけの地蔵の前、黒く長い髪の美少女が立っている――それは一幅の絵のようであり、しかし海翔にはどうしても不気味な図と映ってしまう。
「信心……とか、そんなんじゃないわ」
 ゆっくりと、美桜は言った。そしてひとつ、くすりと笑う。
 その笑みはその場の不気味さをいや増していた。美桜が人形じみて美しい少女であるからこそ、笑顔ではなかった人形が笑ったかのような、異様な感じを受けたのだ
 その笑みのまま、美桜は言った。
「城戸崎くん……信じてる? 清め地蔵の、呪い」
 まるで次の受業の科目を尋ねるかのように、美桜は淡々とそう言った。
「な……っ!?」
 美桜の言葉に、海翔は仰天した。しかし美桜がじっとこちらを見つめているものだから、返事をしないでいるわけにはいかなかった。
「呪いなんて、そんな……あるわけ、ない」
 自分も呪われるかもしれない。そんな恐怖を押し隠した、いささか震える声で海翔は言った。
「ふぅん」
 とたん、美桜は海翔との会話に興味を失ったように笑みを消してしまう。地蔵のほうを振り返り、目を伏せると、言った。
「呪いのせいで、死んだのよ」
「……死んだ、って……?」
 海翔の頭に浮かんだのは、海翔が転校してから立て続けに起こった、少女たちの一連の死だった。咲希に咲良、玲奈。
「あれは、呪いよ。清め地蔵さまの、呪いなの」
 全身に鳥肌が立ったように思った。頭の中を小さな虫が走りまわっているように感じる。
 呪い、だなんて。しかもその地蔵を目の前にしてそのようなことを言うとは、美桜の心理がわからない。
「城戸崎くんも、呪われちゃうかもよ?」
 ぞくり、とした。死が、海翔のすぐ近くにやってきている――そんな思いが蘇った。美桜の言葉はどこか誇らしげで、表情には微かに笑みが浮かんでいて。海翔は、背を震わせる。
 自分の言葉を誇るように、美桜は顔をあげた。そして、包帯を巻いたほうの手首を持ちあげ、自分の口もとに当てる。
「……た、から」
「え?」
 手を口に当てたということだけではなく、美桜の言ったことは聞き取りづらかった。海翔に聞かせようとは思っていないのかもしれない。ただ、自分に言い聞かせるためだけに言ったのかもしれなかった。
「……、だか、ら」
 さあっ、と夏の風が吹く。血のにおいが渦のように巻いて、海翔を包む。そのむっとするにおいに海翔は眉をしかめ、しかしそれこそが地蔵の呪いの具現だとでもいうように、美桜はスカートの裾を揺らしながら、微笑んだ。



〈羽澄旅館〉は、無人のまま、打ち捨てられたように建っていた。
 美桜もその父も、もちろん従業員たちも誰もいないという。その証に、まわりをぐるっとまわってみても、どこにも灯はついていなかった。清め地蔵の前で美桜に会ったときは、彼女はひとりで町から戻ってきていたのだろうか。
 今、海翔は、羽澄旅館の裏手にいた。海翔の自宅と同じような、アルミ板の勝手口がある。そこは固く閉まっていたが、すぐそばの窓、やはりアルミのサッシに囲われた窓が、ほんの少し開いている。指が入るか入らないか、というくらいの細い隙間だけれど、その窓には鍵がかかっていないことが知れる。
「…………」
 海翔は、じっとその窓を見つめた。何度かまばたきをし、しかしはっと気がついて、まわりを見まわす。
(俺の考えることなんだから、誰だって考えるよな……)
 今、人がいないのは、たまたまだろう。いつまでも立ち尽くしていては、痛くもない腹を探られるかもしれない。海翔は慌てて、その場に背中を向けた。
(……でも)
 ――清め地蔵さまの呪いで、死んだのよ。
 昼間に清め地蔵の前で会った美桜の言葉と、連なる死。咲良の死の現場にステンレスクーラーがあったという話。さらには、海翔も呪われると言ったときの表情。
 すべてが、美桜に集約しているように感じる。だから海翔は清め地蔵の呪いの根拠を探らんと羽澄旅館に足を向け、こうやって戸惑っているのだ。
 事件が起こったばかりのころなら、ドラマで見るように刑事が出入りしていたりしたのだろうけれど、今は。歩の話もあったし、住人がいるのならもっと警戒するだろう。
 今の羽澄旅館は無人だ。人はいない。
(……うん)
 海翔はうなずき、どくん、どくん、と鳴る心臓を必死に抑えながら、コンクリート塀を見あげていた。
 動いても音を立てない布でできたジャージに身を包み、羽澄旅館の裏に立っている。意気込んで来てみたはいいけれど、いざとなると緊張を押さえきれない。誰もいない。わかっていても痛いほどに打つ胸を、ぎゅっと押さえる。
 それでも夜遅くの通行人にでも出くわさないうちに、と海翔はコンクリート塀に手をかけた。空いている穴に足をかけ、自分の身長よりも少し高い塀を昇る。
「……っ、しょ、っ」
 勢いをつけて上を乗り越え、塀をまたいだ恰好で、手を伸ばす。わずかに開いた窓に指をかけ、ゆっくりと引くと、案の定がらりと開く。
「わ、っ……!」
 思わぬ大きな音が立って、驚いた。とっさにまわりを見まわし、音を聞いた者がないか確かめる。しかし視界に動くものは映らず、海翔はほっと息をつくと、そのまま大きく窓を開けた。
 その向うの網戸も開けて、足を伸ばすとサッシに掛ける。細心の注意を払って体重を移動させた。入り込んだ先は大きな流し台で、食器を洗うところに靴で入り込んでしまったことに慌てる。
 ぎしっ、ぎしっ、と響く音にますます見つかることを恐れて身が強ばった。しかし、誰かが現われる気配はない。見咎め、聞き咎める者が現われる前に、慎重に、同時に素早く流し台から降りる。
 広い台所は、暗かった。それでもその広さがわかったのは、窓から射し込む街灯のおかげだ。腰からは懐中電灯も吊してある。手を離しても落ちないようにビニールロープで腰に縛ってあるそれを掴み、さらに気を遣いながら、同時に足早に台所を出た。
 出たところには、廊下がある。台所もそうだったけれど、廊下も広い。当然だ、ここは旅館なのだ。作る料理も大量、廊下を行き来する者の数も普通の家の比ではないはずだ。
 大人四人は横並びに歩けそうな廊下は、台所と平行になっている。左か右か、どちらかに行かなくてはいけない。
(……左!)
 海翔がそう思ったのには、根拠があった。右は、やや埃っぽくはあるがきれいに掃除されている。凝った猫足の台があり、その上に花瓶があった(もっとも、生けられた花は枯れていたが。つまり人死にがあって以来、花の入れ替えをするような者も必要もなかったということだ)。
 対照的に、左は掃除が行き届いていない埃っぽさがあるように思ったのだ。懐中電灯で照らしてみると、確かにうっすらと隅に埃が溜まっている。恐らく右は、表の玄関に。左は旅館の住人などが使う場所、少なくとも客を通す場所ではない――つまり、家族のプライベートスペースがあるはずなのだ。
(たぶん、こっちに羽澄さんの部屋も……)
 つまり、人が死んだ場所がある。そう思うとぞくりと背を這うものがあったが、いつまでもここに立っているわけにはいかない。人はいないと判断したけれど、単に眠っているだけかもしれないのだから、敏速にことを済ませなくてはならない。
 海翔は、すぐさま左に曲る。靴のまま歩くのは気が引けたけれど、もし見つかったとき、迅速に逃げなくてはいけないから。自分にそう言い訳しながら、廊下を歩いた。
 すぐに、突き当たりがあった。右手に階段があり、それが海翔の家にもあるようなごく簡素なものであることから、こちらが家人用のスペースであることが知れる。
 手すりを握り、そっと足を置く。
 階段は、一歩踏み出すたびに、ぎしっ、ぎしっ、と音がした。それにいちいちびくつきながら、二十段ほどある階段を登っていく。
 あがりきると、そこには暗闇が広がっていた。息を凝らしてあたりを探る。人の気配を感じないのは、気のせいだろうか。そう願っているからだろうか。ごくり、と唾を飲み込みながら懐中電灯であたりを照らす。
 一階に比べて二階が暗いのは、表の街灯の光がここまでは届かないからだろう。そのぶん、神経が鋭敏になるような感覚を味わいながら、海翔はあたりを照らして目を凝らす。
(どこ……、なんだろう)
 引き戸に、木のドア。どれが、美桜の部屋だろうか。このような夜中に女の子の部屋を捜しているというのは妙な背徳感があって、心臓がおかしな具合に跳ねた気がした。
(いや、そういう目的じゃないから!)
 ではどういう目的だ、と問う者もないのにひとりで言い訳をし、いずれにせよ、どういう目的であっても今の海翔は充分に、誰かに咎められる理由がある。その前に、早く。
「あ……、ここ……」
 美桜の部屋は、意外に早く見つかった。というのもわかりやすく、木のドアに札が掛けてあったからだ。『MIO』と書かれた木のプレートは、手作り感が満載だ。そういえば小学校の図工の時間にこういうものを作っていた女子がいたけれど、美桜もその口だったのだろうか。
「……失礼、します……」
 誰に言うわけでもない、同時に聞く者があっては困る挨拶をして、ドアノブをまわす。ドアは簡単に開き、同時に海翔は眉をしかめた。
(……血?)
 女の子の部屋だから、甘い匂いでもすると思ったのに。妙に鉄くさいような気がする。しかしそのにおいが海翔を取り巻いたのは一瞬で、すぐに消えた。
 そのにおいは、初めて美桜に近づいたとき、感じたにおいを思い出させる。
(なに……?)
 この部屋で死んだという、咲希の残したにおいかと思った。しかし彼女は窒息死だったと、歩が言っていた。咲希の血が流れたのではない――それとも、ほかの誰かの?
(誰が……ここで、血を流した?)
 しかし、それにこだわっている場合ではない。急がなければ――目的の場所にやってきたのだから。
(でも……)
 しかし懐中電灯の照らす部屋は、いかにも捜査の行なわれたあとという雑然さを残していた。散らかっているわけではない、むしろ整然と片づいているのだけれど、この部屋のそもそものありようではない、主の意図とは違うようにしつらえられた。そのように感じられる。
(どこを探せば……?)
 あちこち照らしてみるけれど、手がかりなどあるはずもない。そもそも海翔自身、具体的ななにかを求めてここに入ったわけではないのだ。ただ、真実が知りたくて――なにかのあったその現場に足を踏み入れれば、見つかるものがあるように感じたから。
(バカか……俺は)
 灯の届くどこにも、なにもあるわけはない。当然だ、すべては警察の手によって探り尽くされたあとなのだから。中学生の海翔ごときが見つけることのできる手がかりがあれば、すでに警察が見つけている。美桜がなにもしゃべらないからといって、美桜の口以外から真実を見つけ出す方法がないわけはない。日本の警察は、そこまで無能ではないはずだ。
(……帰ろ)
 母が寝たのを見計らって出てきたとはいえ、このような時間に留守にしていることがばれないとも限らない。気づかれれば心配させるだろうし、海翔もどこに行っていたかを言えるわけもない。
 にわかに、そのことが気になり始めた。いったん考え始めると、どうしても気になって仕方がない。自分がこのような行動の衝動に駆られたことさえも、今ではなぜなのかわからないくらいに焦燥は大きく膨れあがった。

 ぼー……、ん……!

「ひ……、っ……!」
 いきなりの音に、思わず悲鳴が洩れた。静かな中、海翔を驚かせたのは、その残響からして柱時計だ。ひとつ打ったということは、一時だろうか。
(夜中に鳴るなんて……、寝るのに、邪魔じゃないのかな)
 それとも旅館という仕事上、真夜中でも時間を知らせるものが必要なのだろうか。飛び出しそうに大きく打った胸を押さえながら、自分を落ち着けるために海翔は意識的に、そのようなことを考えた。
(とにかく、早く帰ろう……、見つからないうちに)
 踵を返す。懐中電灯の光が、部屋にぐるりと弧を描く。
 目に映ったのは、ほんの一瞬のことだった。
「……ん?」

 視界の隅に掠めた、赤――。

 鮮やかなその色にぎょっとしたけれど、『血』であるわけがない。そうであったなら、今まで気づかなかったはずがないのだから。しかしその色からは部屋に入ったときの血のにおいが連想され、海翔は震えながら、その赤いものに近づいた。
「これ……」
 目に入った赤いものは、デスクの引き出しから覗いている。小刻みにわななく指先でつまんだ、それは。
「風船……?」
 膨らませる前の、風船だ。駄菓子屋でもどこにでも売っているような、手のひらに乗るくらいの小さな風船。
 それは、何の変哲もない、と言えばなかったし、おかしい、と言えばおかしかった。風船くらい、あっても奇妙なことはないだろう。同時に、中学生にもなった女の子が風船などで遊ぶだろうか――どうして、こんな場所にしまってあるのだろうか。
 赤い風船を手に、海翔はしばし考えた。しかし部屋の主でもない海翔に考えが及ぶわけもなく、ただふっと、また血がにおったような気がした。
(なんで、風船……?)
 血のにおいは、どこからあふれてくるのだろうか。とっさに海翔は風船をポケットの中に入れ、美桜の部屋を出る。
 先ほどの時計の音以来、海翔の心臓は大きな鼓動を打ち続けていた。この息苦しさから解放されたい。
(そもそも、他人の家に入るなんて……)
 これは、そのつもりがなくとも立派な泥棒に違いない。人に見つかる前に、早く出てしまうに限る。
 海翔は、踵を返そうとした。

 ――ふ、と。

(なに……?)
 目の端に映ったものを、海翔は最初無視した。それに背を向けようとして、遅れて脳に届いた違和感に気づく。
(なに……?)
 微かな街灯の光に照らされて、あるそれは。
「わ、ぁ……っ……?」
 海翔は、大声をあげてしまう。次いでそのまま転んで尻餅をつき、しかし痛みなどは感じなかった。
「あ、ぁ……っ……」
 まともな声が出ない。そこにあったのは、ゆらゆらと揺れる人形――否、人間。足は床についておらず、欄間から伸びた細い紐が、大きく丸いものをからめとっている。そこからは長く体が続き、ゆぅら、ゆぅらと振子のように揺れていた。
「ひぁ……あぁ、……っ……!」
 縄のかかった首は、粘土細工のように長く伸びている。皮膚が伸びきっているのが、懐中電灯の明かりでわかった。
 口が、ぱかりと空いている。中からは舌がべろりとはみ出、端からは血が滲んでいる。手はだらりと重力に逆らわず、そして下腹部が、奇妙にぼこりと膨らんでいた。
「あぁ……あ……っ……ぁ!」
 それは、首つりの状態の人間だった。欄間からぶら下がっていて、薄暗い中、規則正しく揺れている――。
 海翔は叫び続け、その間も首つりの人間はなにを言うこともなく、ただ揺れていた。



 海翔が夜中に見つけた首つりの遺体は、羽澄旅館の主のものだった。
 つまり、美桜の父親だ。彼がなぜ旅館に戻ってきていたのか、近所の者は知らないし、美桜は町の親戚宅にいたという。
 遺体は、自殺だと知らされた。遺書はなかったらしいが、踏み台代わりの椅子が転がっていたこと、スリッパが揃えて脱いであったこと――なによりも、きちんとスーツをまとっていたことが決定打になった。客を迎えるとき以外、スーツ姿など見たことがないという従業員の証言から、その恰好は自殺の覚悟だと判断されたらしい。
 海翔は第一発見者になったわけだが、こっそりと人の家に忍び込むという行為を、みっちり説教された。
「人死にがあったところってどんなのなんか、見てみたかったんです……」
 それが、海翔のした苦しい言い訳だった。美桜の言動が気になって、などと本当のことを言うと藪蛇になりそうだったし、海翔が叱られるのはどのみち一緒だ。それなら、直接美桜に累が及ぶようなことになるのは避けたかったのだ。


「あんた、なにやってんの……」
 不法侵入で警察の厄介になってしまった海翔は、迎えに来てくれた母に叱られた。それでも泥棒をしたわけではないことや(ポケットの中の風船は見つからなかった)、海翔が忍び込んだからこそ遺体の発見が早まったことに対する猶予などで、自宅に帰ってくることができた。
「人の死んだ場所が見たいなんて、あんた、おかしなこと考えるのね」
 母の呆れた調子に、海翔は肩をすくめるしかない。母に迷惑をかけてしまったことには、面目なかった。このことが母の職場に広まって、仕事に影響を与えることがなければいいがと願うばかりだ。
「まぁ、あんたが忍び込んだおかげで、羽澄さんのご主人は早く発見されて……それは、よかったのか悪かったのか、だけど」
 ふたりだけの家、ダイニングルーム。海翔は、ただ身を小さくするばかりだ。
「あんまり、よけいなことしないのよ。そうでなくても清め地蔵に興味持ったり、こっちに来てからあんた、なんかおかしいんだから」
 おかしい。母の言葉は正しい。確かに、そのとおりだ。この村には不可解なものがありすぎる。清め地蔵、続けざまの死。そして、そのすべての鍵を握っているのは――羽澄美桜。
(羽澄さんは、こっちに戻ってきたみたいだけど……)
 美桜の言葉を、思い出した。清め地蔵の呪いで、人が死ぬという。美桜の父が死んだのも、呪いなのか。警察は、妻に出て行かれ自分の家で人死にがあり、そんな心痛の中での自殺だという見方らしいが、それもすべて、清め地蔵の呪いなのか――。
 海翔がどうしても、そのことが気になる理由。次々と起こる死に付随する、奇妙なもの。それが海翔にとっては、初めて耳にするものではなかったからだ。
(魔法瓶。……そして、風船)
 あの日のことが真夜中の幻ではなかった証、とっさに無人の美桜の部屋から持ち出してきてしまった赤い風船は、いまだに海翔のポケットの中にあった。血のような赤さは禍々しく映る。
(……羽澄さんのお父さん)
 母の呆れまじりの説教に神妙に向き合いながら、海翔は考える。
(亡くなったのは……清め地蔵の呪い? 本当にそうなのか? 呪いなんて、本当にあるのか……)

 ――あれは、呪いよ。清め地蔵さまの、呪いなの。

 美桜の言葉が、蘇る。
 彼女は、心底それを信じているというふうだった。自分の願いの邪魔をする者には、清め地蔵の呪いが降りかかる。それでは、賀村咲希も、月野木咲良も寺瀬玲奈も、美桜の父も――ああ、なんとたくさんの死者が出たのだろうか。
 それらがすべて、呪いだなんて。そのような非現実的なことがあるわけはないと思いつつも、美桜の言葉が気になって仕方がないのだ。死が、足音を立てて近づいて来ているように感じてしまうのだ。
 警察の取り調べは終わり、海翔は自宅からあまり出ないように指導されている。むやみな行為をして警察に疑われるのは遠慮したいところだけれど、海翔にはどうしても拭い去れない恐怖があって、同時に美桜のことが気になって仕方がないのだ。



 母の目を盗んで、海翔は毎晩清め地蔵のもとへ向かった。闇に紛れて、清め地蔵の後ろに息を潜めて隠れているのだ。
(清め地蔵の前だったって、言ってた……)
 清め地蔵、に連なって思い起こすのは、傷だらけのあの異様さ、美桜が手首を切る光景。そして通るたびに見た、前の道路にべったりと広がっていた血、その腥いにおい。
(……血?)
 つながって思い出したのは、美桜の部屋に入ったとき鼻をついた血のにおいだ。部屋には血痕などなかったはずなのに、確かに血の鉄くささを感じた。
 ――血。美桜は、いつも長袖を着ていた。手首には、いつも包帯を巻いていた。もちろん、あれがリストカットの痕だなどと海翔も単純に信じているわけではないけれど、季節はずれの恰好に隠された体に、包帯ときては――その下の傷、そして流れたのかもしれない血を連想しないわけにはいかなかった。
 あわせて、美桜の部屋で漂っていた血のにおい。あれは海翔の気のせい――いや、違う。確かに海翔の鼻は、血のにおいを嗅ぎ取った。
(中学生が遊ぶようなものじゃない風船。女の子には不釣り合いな大きな魔法瓶。清め地蔵の前の、血……)
 ごくり、と海翔は固唾を呑んだ。
(地面をべとべとにするくらいの、大量の血、……血のにおい)
 なにもかも、一見おかしい点はないようで、同時にあまりにも奇妙だった。なぜそれが、そこにあるのか。それをどうしても考えてしまう、どこか居心地の悪い違和感。
 同じく美桜の、今にも消えてしまいそうなはかない姿。咲希たちの皮肉、嘲笑に耐えていた姿を思い起こすに、さらに違和感は強くなるのだ。
 少女たちの一連の死に、美桜はどう関係があるのか。もちろん、美桜が容疑者であった、もしくはいまだにある、ことが原因であることは事実だ。
 しかしそれだけではない、いろいろなことが、美桜につながっていく――それは海翔の考えすぎだろうか。警察も同じように考えているのだろうか。捜査はどのくらい、進んでいるのだろうか。
(俺、なにしたいんだろう……)
 そんな疑問を抱くようになったのは、侵入から三日目のことだった。清め地蔵の後ろ、自分はこのようなところでなにをしているのか。おまけに美桜は現われない。もっとも仮に現われれば、それはそれで海翔を焦燥させるのだけれど。
(やめよう……警察に見つかっても、なんだし)
 そう思い、腰をあげようとする。そこに、かつんかつんと複数の足音が聞こえ、海翔は身を縮み込ませて来る者を見やる。
(羽澄さん……)
 ひとりは、美桜だった。抱えている袋にまわした腕に、ぎゅっと力を入れている。美桜の顔が隠れてしまうくらいに、大きな包みだ。
 一緒に歩いているのは、後明優芽。ツインテールの、兎を思い出させる同級生だ。白地に、ピンクやオレンジでアルファベットのちりばめてあるTシャツ。膝丈の迷彩柄のパンツ。足もとは踵の低いミュール。仁王立ちになって腰に手を当て、訝しげに美桜を見ている。
「なに、それ?」
「なんでも……」
 小さな声でそう言って、美桜は包みを足もとに置いた。古くてがたがたしているアスファルトの石にぶつかり、底から、ごりっ、と鈍い音がする。
 そんな美桜を訝しげに見ていた優芽だったけれど、袋のことを追及することはやめにしたらしく、そのまま歩いて近づいてきた。ひとつだけの街灯が彼女を淡く照らしている。
 ふたりは、なにも話していない。連れ立ってはいるものの、ふたりに間には距離がある。美桜は無表情だけれど、優芽のほうは怒っているようだ。
 ふたりは、清め地蔵の前に立った。咲良は腕を組み、いらいらした調子で言った。
「ねぇ、咲希ちゃんたちのこと。どういうことなの?」
 美桜は、すぐには答えない。視線をうつむけて、清め地蔵の前に立っている。そんな美桜に、咲良はますます苛立ったようだ。
「本当に、あんたが殺したの?」
 単刀直入過ぎる優芽の問いに、海翔がぎょっとした。しかし美桜は是とも否とも答えずに、咲良の前に立っている。
「咲希ちゃんは、あんたの部屋で死んでたってね。原因は、窒息死……あんたがなにも関係ないなんて、わたしは信じないからね」
 美桜の返事を待つまでもない、優芽はすでに確信を得ているようだ。ただ、美桜の口から真実を知りたいと思っているらしい。
「咲希ちゃんたちに、なにしたの?」
 優芽は、言葉を飾らなかった。遠慮無く声をあげる。
「あんたが、なにも関係ないなんて思わないよ。警察になにも言わないってことは、知らないんじゃなくて、なにも言えないんじゃないの? 言えないようなこと、したんでしょう?」
 もう一歩、優芽は美桜に近づいた。美桜は反射的にというように腰を引き、しかし足もとの袋から遠のくことはなかった。
「なによ、なにか言いなさいよ。でなけりゃわたし、このまま走って駐在所まで行くから」
 美桜は、顔をあげた。じっと見据えられて優芽はたじろいだようだったけれど、きゅっとくちびるを噛んで美桜の眼力に負けないようにしているようだ。
 ゆっくりと、美桜は口を開いた。
「清め地蔵さまの、お導きなのよ」
 海翔は、目をしばたたかせた。それは、美桜の正面に立つ優芽も同じだった。
「清め地蔵さまは、わたしの清めの儀式を見ていてくれてる……でもほかの人間に儀式を見られたら、その人は死ななくちゃいけない」
 美桜は、意味のわからない言葉を繰り返す
「死んで、なかったことにしなくちゃいけないの。見たことを、なかったことにしないと」
「はぁ?」
 大きく顔を歪めて、優芽は言った。
「なに言ってんの、あんた? ちょっと、頭おかしい……?」
 海翔は、密かに優芽に同調した。美桜の言うことは、意味がわからない。そこまで清め地蔵に心酔してしまっているのか。彼女の口調は不安を煽り立てる。
「賀村さんはね、うちの旅館に来てた野球部の人たちが気になるって、わたしの家に泊まりに来たの」
 なにか、誇らしいことを話すように美桜は言葉を綴る。
「キャプテンの人、紹介しろって何度も何度も。わたしだって、別にキャプテンの人と仲いいとか、そういうわけじゃないのに」
 くちびるを噛み、嘆息する。そんな美桜は今まで知っていた美桜のままなのに、清め地蔵の話をするときは、どこか狂信者めいた気味の悪いものになってしまうのだ。
 それは、美桜が美しい少女であるから、よけいに異様だ。異端、異体、奇異。最初彼女を見たときに、美しい少女だとは思いながらもどこか違和感が拭えなかったのは、そのせいか。清め地蔵を狂信する思い込みに囚われているからなのか。
 低い声で、美桜は続けた。
「で、賀村さんが言ったの。わたしの怪我のこと……知ってるって。理由がわかってるって。そのことは、絶対に知られちゃいけないのに」
「なによ、咲希ちゃんが知ってたことって……」
 たじろぎながら、咲良は問う。美桜は少し、悲しそうな顔をした。
「賀村さんも……見なければ、死ぬこともなかったのに。清め地蔵さまの怒りに触れることも、なかったのに」
「清め地蔵の、怒り……?」
 心底気味悪そうな表情を隠しもせずに、優芽は言った。美桜はうなずく。
「賀村さんはね、わたしのこの怪我のこと、さんざん聞いてきたの」
 長袖の左腕を少し振って見せながら、美桜は言う。
「終いには、包帯取って見せろって……わたしの、儀式の証なのに」
 ごくり、と咲良が息を呑むのが聞こえるような気がした。彼女は、恐る恐る言葉を継ぐ。
「だから……咲希ちゃんを、殺した……?」
「別に、殺そうとは思ってなかった。けど、あんまりうるさいから、枕で顔を覆ったの。しばらく暴れてたけど、静かになったから見てみたら……」
 嘲笑するように、美桜は言った。
 咲希が静かになったその先は、想像するまでもない。咲希の死因が窒息死というのも、納得できた。
「……あんたが、殺したの……?」
 固唾を呑みながら質問してくる優芽に、美桜はにやりと笑った。その笑みは、海翔の知っている美桜のものではなかった。清め地蔵を盲信的し、ほかのものはなにも目には入っていないかのような。
「そうだって言ったら……どうする?」
 美桜の言葉は、薄ら寒かった。夜とはいえ走った怖気に、海翔は自分を抱きしめる。にやりとした美桜の微笑みは、そのまますっと真顔になった。
 優芽を見つめる美桜は、その大きな瞳をかっと開く。
「そして……」
 その声は、咆哮のようだった。かわいらしい美桜の口から出るにはあまりにも禍々しいもの言いで、海翔はぎょっとした。
「後明さんも、よ!」
 あっ、と思ったときは、遅かった。美桜は、袋の中から手で掴めるくらいの大きさの瓶を取り出した。素早くふたを開け、中身を優芽に向かってぶちまけたのだ。彼女の顔に、琥珀色の液体がかかった。
「きゃ……、っ……!」
 突然のことに避ける余裕もなかったらしい優芽は、それを全部顔に浴びてしまった。
「やぁぁ!」
 優芽の、悲鳴があがる。
「な、に……こ、れっ!」
 濃い、アルコールのにおいがあたりに広がった。美桜は優芽がパニックに陥っている間に、もうひとつ袋に入っていたもの――大きなステンレスクーラーの中に左手を突っ込み、取り出したものを握ったまま、優芽に体当たりした。
「きゃぁ……っ、あ、っ!」
 優芽は、簡単に転んだ。瓶の中に入っていた酒は、においからしてもアルコール度が高いのだ。それが目に入っては、しばらくはちゃんとものを見ることも不可能だろう。
「やだ、や、め……っ!」
 美桜は、仰向けに転んだ優芽の上に馬乗りになる。叫び声をあげるアルコールくさい優芽の顔、顎の関節を右手でがしりと掴んだ。そして左手に掴んだものを、叫ぶ優芽の口に押し込んでしまう。
「……う、ぐっ!」
 無理やりに、力任せにぐいぐいと突っ込む。口の自由を奪われた優芽は、声をあげられない。横たわり体も美桜に押さえつけられたまま、美桜の手にしているものを咽喉の先へと飲み込みかけてしまっている。
「ぐ、う……っ……」
 それを口の奥、咽喉奥にまで押し込んで。暴れる体を全身の体重と力で押さえ込み、優芽の口が飲み込むことはできない、しかし吐き出すこともできない絶妙の大きさのそれを、ひたすらにぐいぐいと押しつけ続ける。
「う、……ぐぅ、……っ……」
 優芽は暴れようとするものの、美桜は全力の力で彼女を押さえ込む。呼吸を奪われた人間の抵抗する力はものすごいけれど、美桜も負けてはいないだろう。なにしろ美桜にとっては、こうするのは初めてではないのだから。
 逃げようとする優芽と、そうはさせじとのし掛かり体重をかけ、その口に息を奪うものを押し込む美桜。ふたりの攻防が、薄い街灯の射す中行なわれる。
 あまりにすばやく起こった突然のできごとに、海翔は唖然と目を見開いていた。はっと我に返る。声をあげて清め地蔵の後ろから飛び出し、ふたりのもとに駆け寄った。
「やめろよ、なにしてんだ!」
 いきなりの美桜の行動に、驚きのあまり動けなかったとは情けない。しかし海翔のあげた声は美桜を驚かせるのに充分だったらしく、彼女はびくりと大きく反応した。
「やめろ、やめるんだ!」
 美桜が振り向く前に美桜を後ろから羽交い締めにし、引きずり下ろす。
「きゃ……、っ!」
 優芽のうえから、美桜は転がり落ちた。しかし海翔の手は離れずに、優芽の口に押し込めていたものが手から離れ、かたわらにころりと転がった。
「やめろ、羽澄さん!」
「城戸崎……くん……?」
 海翔は美桜から腕を離さず、完全に優芽と引き離してしまう。優芽は、はぁはぁと大きな息をしながら、大きな目を開けて美桜たちを見やっていた。
「やめろ……こんな、こと。やめるんだ」
「城戸崎くんに……関係、ない」
 今にも再び、美桜が凶器を手にして再び優芽に襲いかかるような気がした。海翔は腕を離さない。今度は、美桜が暴れる番だ。
 しかしたいして鍛えてはいないとはいえ、男子の力は圧倒的だ。美桜は海翔の腕の中でじたばたとするだけで、逃げることはできなかった。
「離してよ……、やめてよ、城戸崎、くんっ!」
 しかし海翔は美桜の体の自由を奪うことをやめず、そのまま叫ぶように、それでいて興奮を抑えるように、美桜の耳に言葉を注ぎ込んだ。
「こうやって……賀村さんたちも、……?」
 自分で言葉にしながら、海翔の胸はどくりと鳴った。美桜の手によって死んでいった、少女たちのことが、脳裏を駆ける。そして今は、激しく呼吸をしながら、しきりに目を擦っている優芽の姿が目に映った。
 美桜を羽交い締めにしたまま、海翔が目をやったのは地面に転がっている丸いものだ。美桜が、優芽の口に突っ込んでいたもの。
「……氷?」
 きゅっ、と美桜はくちびるを噛んだ。地面に落ちて砂まみれになっていたけれど、それは握り拳ほどの大きさの氷だった。この暑さにもう溶け始め、地面に小さな水たまりを作ってはいたが、明らかに氷――それも、きれいに丸い、型に填め込んで作ったかのような形だった。
「これで……これを、口の中に突っ込んで。それで、息ができないようにしたのか……?」
 海翔の問いに、美桜はひゅっと息を呑んだ。しかし四肢はなおもぎゅっと固められていて、身動きはできないようだ。
「月野木さんも寺瀬さんも、こうやって……? 氷を咽喉に突っ込んで、それで痕が残らないようにしたっていうのか? 氷だったら、溶けちゃって凶器も指紋もなにも見つからないもんな……?」
 自分を押さえ込みながら、冷静にそのようなことを言っている自分が不思議だった。なぜか美桜は、大きく目を見開く。
「なに、言ってるの……? 城戸崎、くん……?」
 かけられたアルコールの刺激が弱まってきたのだろう。目の前の優芽が、なおも目をしばたたかせこすりながら、美桜を見ている。
「凶器とか、指紋とか……どういうこと? なに、言ってるの?」
 美桜は、海翔の言葉の意味がわからないというようだ。どこかあどけなく、まるで子供のような表情で海翔を見あげているのだ。
「そんなもの、普通の家の冷凍庫じゃ凍るのに時間がかかるし、人目にもつく。でも旅館の、業務用のなら……強力だから時間もかからないし、家の人も隅にまで目は届かないだろう。それを使って、ああやって、口の中に押し込んで」
 海翔の、美桜を拘束する力が強くなる。逃げないようにしなければ。
「風船を、口に入るくらいの大きさに膨らませて。その中に水を入れて、凍らせたんだな。その氷で、賀村さんたちを……」
 美桜は、まるで子供のように海翔を見あげている。海翔の言葉は、自分とは関係ないとでもいうようだ。
 そして美桜は、ゆっくりと言った。
「みんな、清め地蔵さまのお導きなのよ。清め地蔵さまがわたしを清めてくれるって、そのためには、誰にも見られちゃいけないって……」
 徐々に美桜の声が、うわずってきた。自分の言っていることに興奮してきたのだろう。目は見開かれ、呼気が荒くなってくるのがわかる。
「まだ、後明さんを――あのことを知っている人を、そのままにはしておけないから。清めの儀式を、続けなくてはいけないから」
 叫ぶように、美桜は言った。

 ――清めなくちゃ。清めなくちゃ清めなくちゃ。清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清め清め清め清め清め清め清め清め清め清清清清清清清清清清清清清清!

「だって……!」
 悲痛な声で、美桜は声をあげた。
「だって、だって……賀村さんは、見たんだもの。見られちゃだめなのに、見て……。見られちゃ、だめなの。だめなのに……っ!」
 清め地蔵に清めてもらうには、願をかけているところを見られてはならない。以前母に聞いたことを、思い出した。
「それを、賀村さんは月野木さんたちに言って……このままじゃ、みんなに知られちゃう。みんな、わかっちゃう。わたしの……わたしが、清め地蔵さまに清めてもらうのを……」
 美桜は、掠れた声を張りあげた。
「清めの、儀式を!」
 海翔は、ごくりと息を呑んだ。そんな海翔の手から、逃れようと美桜は暴れる。つかまっていてはいけないのだ、早く、早く、大切なことを済ませなくては――。そう叫んでいるように見えた。
「清め地蔵さまが、清めてくれるの……穢れた、こんな穢れた、わたしを……だから、早く、早く!」
 叫びは、真夜中の空気を揺るがせた。優芽が、大きく目を見開いているのがわかる。その、優芽を。美桜の儀式のことを知っている、優芽を――。
「わたしの、穢れた血、体……清めないと。清めなくちゃ、清めなくちゃ……。なのに、それなのに!」
 なのに、と美桜はもう一度、大きく叫んだ。
「清めの儀式は、見られちゃいけないのに。知られちゃいけないのに。それなのに、賀村さんは……だから、だから」
 だから、とまた美桜は、わめくように言う。目を擦っている優芽を睨みつけ、声をあげた。
「後明さんも、知ってるんでしょう? だめよ、そんなの……知ってる人は、いちゃいけないの。じゃないと、わたしの穢れは清められない……!」
「羽澄さん!」

 ――彼の声が、煩わしい。自分を拘束する腕だけではなく、その声もが美桜を縛りあげる。痛い、と思った。剃刀を体中に当て、傷を作って血が流れても、これほどには感じることのなかった痛みが、美桜の全身を襲っている――。

 痛みを振り切るような声で、美桜は叫んだ。
「清め地蔵さまに、清めてもらうの……清めてもらうんだから、邪魔しないで! 離して、どっか行って!」
「羽澄さん、落ち着いて!」
「やだ、やめて、離して……やめて、やめてよ!」
 美桜は暴れた。しかし海翔の力は強くて、美桜の小さな体は易々ととらえられてしまっている。彼女は、逃げられない。儀式を続けられない。
「清めるの……清めるの、……清めるん、だから……!」
 その声は、わななきとともに夏の空気の中に響いた。体を大きく仰け反らせて、美桜はなおも叫ぶ。
「清めなくちゃ……!」

 ――咽喉が、大声にちりっと焼けて、絶叫は血の味がした。



 で、と、大きなため息とともに、椅子に座っている歩が言う。
 〈唐傘亭〉の作業部屋、歩の手もとには黒髪の人形が一体が坐っていた。その首ははずされてかたわらに置かれ、首からは紐が伸びている。
 歩は今、人形の腕を填め込んでいた。四肢のパーツはその紐につながり、首でとめて最後に首を填めるらしい。
 片腕はまだなく、首も横に置いてある。頭にも、まだ目が填め込まれていない。真夜中に暗がりで見るようなことがあれば悲鳴をあげてしまいそうだけれど、歩の淡々とした作業の手もとにあるぶんには、どのような人形ができあがるのかとわくわくする気持ちが湧きあがる。
 もっとも、今のふたりの話題は、わくわくするどころではないのだけれど。それどころかあまりにも陰鬱な、口にするだけで重い気分になる話だった。
「美桜ちゃんは、清め地蔵に願を掛けてたっていうんだね」
 はい、と海翔はうなずいた。歩の前、やはり腰を下ろしている海翔は上目遣いに彼女を見やる。ゆっくりと、口を開いた。
「清め地蔵に傷をつけるだけでは、足りないと思ったらしいです。地蔵だけじゃなくて、自分にも傷をつけなくちゃいけないって、思い込んで……」
 事実、美桜の体はその左手首だけではなく、全身が傷だらけだったらしい。主な傷は左半身に集中していて、右はそれほどではなかったのは、彼女が右利きだったからであるようだ。
「で、清め地蔵の前で自分に傷をつけてるところを、咲希ちゃんに見られた、と」
 海翔は再びうなずく。
「夜中、ランニングしてた賀村さんがたまたま通って。清め地蔵に清めてもらいたくて傷をつけてるときって、人に見られちゃいけないんでしょう? だから、見られちゃったことで清めが成り立たないと思って……」
 だから、と海翔は言葉を切り、息をつく。
「見た人を、見ていないことにしなくちゃいけないって、思ったらしいんです」
 海翔はそのまま少しくちびるを噛んで、そして、続けた。
「……見た人だけじゃなくて、賀村さんが羽澄さんのことを言った、ほかの三人も……。そのままには、しておけないって思ったみたいで」
「……そう、……」
 何度目かになる、歩のため息が洩れた。
「なんで、そこまで思い込んだんだか……」
 しかし、それ以上ふたりはなにも言わなかった。美桜が、そこまで――自分を穢れていると思い込み、とことんまで傷つけ、儀式を見た者を殺し――すべてが美桜の手になるものであるかは判然としないものの、複数の殺害と殺人未遂にまで至った理由――彼女を追いつめたそもそもの原因を、ふたりとも知っていたからだ。
「羽澄さん、精神鑑定を受けるらしいです。その結果で、どうなるかが決まるって」
 精神鑑定、という言葉が重く響いた。確かに美桜の行動は、尋常ではなかった。精神鑑定を判断した警察の選択は正しいのだろう。あのはかなげで、たおやかな花のようだった美桜が獣のように豹変するところを、海翔も見たのだから――それでも、その言葉はふたりを黙らせてしまうに充分の力を持っていた。
「羽澄さんのお父さんも、死んじゃったけど書類送検はされるみたいです。お父さんの虐待も、娘を追いつめた……一因だって」
「罪深いね……、子供を、そこまでしちゃうなんて」
 しばらく、沈黙が続いた。かつ、かつ、と歩の作業の音だけが響く。
 殺人未遂の現場にいた海翔はこの一連の事件についていろいろ聞かされていたけれど、どこまでを話していいものか。悩ましいところではあったが、歩は話すまでもなく、さまざまなことに気がついているようだった。
 そもそも、美桜のことを気にしていた歩だ。その心配はこのような結果を迎え、歩の心痛もいかばかりのことかと思う。
 しかしそのような表情は見せず、顔をあげて歩は言った。
「海翔くん、君は、どうしてあの場に居合わせたの?」
「あ、それは……」
 海翔は、居住まいを正した。背を伸ばし、歩に向き合う。
「羽澄さんのことが、気になって……だからときどき、清め地蔵のところに行ってて。それで、たまたま……出くわしたんです」
 どうして、気になったのか。それを歩は、追及しなかった。
「俺が行かなくても、警察がちゃんとマークはしていたらしいです。よく考えたら当たり前なんだけど、どうしてもじっとしてられなくて……」
「君は……」
 少し口ごもり、歩は言葉を探しているようだった。海翔に向けた視線を、しばらく惑わせる。うろついていた瞳は海翔をとらえ、じっと見つめるとつぶやくように言った。
「美桜ちゃんだって、気がついてた?」
「……あ」
 海翔は、くちびるを噛んだ。うつむき、しばらく口をつぐんだのち、うなずいた。
「風船とか、魔法瓶とか……血、……とか……」
「血、か」
 ふぅ、と歩は引っかかるようなため息をついた。
「美桜ちゃんが、あんなことしてたなんてね……」
 清め地蔵の前に、幾重にも重なった血痕があったことはもちろん警察も掴んでいた。それが美桜の血液であることも判明しており、そのことから美桜が単なる容疑者ではない、なんらかの形で被害者である可能性もあると考えられていたらしい。
 そう、確かに美桜は被害者だった。母に捨てられ、父に虐待され、級友たちにいじめられていた。美桜はそれを自分の『穢れ』ゆえだと思い込み、それを清めるためにあのような行為に身を染めた。
 美桜の母には、彼女なりの事情があったのだろう。父にも、彼だけを責められない理由があったのかもしれない。結衣も咲希も、咲良も玲奈も。美桜の父も。しかしすべてが美桜を追いつめ、悲嘆の蕾は惨劇の大輪を開かせた――。
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 なければ、美桜が思い込むことはなかった。美桜が追いつめられることはなかった――否、清め地蔵が彼女の救いであったのなら、存在する意義はあったのだ。しかしそれは、間違った方向に美桜を導いてしまった。
 歩は、首を振った。彼女の手は、かちり、と人形の腕を填め込んだ。これで、両腕が体に填められた。
「さぁね……。どのみち、あれはあそこに、ある。美桜ちゃんの生まれる前から。君も、あたしも、生まれる……ずっとずっと、前から、ずっと」
 歩の言葉は、歌のように響いた。
「そして、これからも」
 美桜のような少女は、以前にもいたのだろうか。清め地蔵は、少女たちを救ったのだろうか。少女たちは救われたのか――美桜は、咲希たちを殺すことによってその清めを完全なものにすることができたのだろうか。ともすれば海翔は、彼女の『清めの儀式』邪魔をしてしまったのだろうか。
 優芽の命が犠牲になるべきだったとは思わない。しかし美桜にとって、海翔のしたことはいかなる影響を及ぼしたのか。美桜にとっていいことであったのか、そうではなかったのか。
 歩はそれ以上なにも言わず、人形の頭を取りあげた。かたわらにあるガラスの眼球をつまみ、頭の中に指を入れて填める。
 人形の瞳は、黒だった。吸い込まれそうな黒――歩が、目の輝きを得た人形にやはり黒いウィッグをかぶせ、整える。
 坐るその人形は、どこか美桜に似ていた。美しく隙のない美貌を持ちながら、氷でできたような白皙。今にも消えてしまいそうなはかなさ、それでいてどこか異形めき、見る者をぞくりとさせる異体の姿。
 黒の中、ただ一匹の白い蟻、複雑に絡みあった模様の翅を持つ蝶、どろりとしたたり落ちた血の一滴――海翔が初めて美桜を見たとき感じた、あの印象。美桜のあの異様さは、心に秘めた執念のような思いから生まれていたのだ。自らを傷つけ、たくさんの少女たちを殺すまでに至った、妄執にも似た狂った絶叫から生じていたのだ。
 ふたりは、人形を見つめた。自らの美しさを知ってか知らずか、人形はただ静かに、目を光らせてそこに坐っている。
 美桜は、今――。
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