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◆◇第三章 遠乗り◇◆
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「殿下がお見えです」
礼儀作法の授業中に侍女が声をかけてきた。家庭教師は驚いて背筋をの伸ばし、クレアはちょうど目の前に現れた兄を覚えたばかりの、皇女のみに許されたお辞儀の仕方で迎えた。
「お久しぶりです、お兄様」
「ああ、クレア、ちゃんとやっているようだね」
セラフィスはにっこりと微笑んでクレアを見つめた。
「ほぅ、なかなかに優雅だ」
「ありがとうございます」
クレアは極上の笑みを浮かべて兄に答える。
「私、礼儀作法は得意なの」
「他のは苦手だけど……?」
セラフィスはそんなことを言ってクレアの頬を染めさせた。
「ユーヌスを困らせてはいないだろうね」
「大丈夫です」
クレアは首を縦に振った。
「私、ちゃんとお勉強の方もやっております。……礼儀作法ほど、楽しくはないけど」
「その調子で頑張るんだよ。お前には期待しているからな」
「まぁ……ひとつ……」
兄の言葉にクレアはうなずいた。少し張りつめた表情が浮かぶ。
「そう固くならないで。今日は、時間が空いたのでお前と過ごそうと思ってきたんだ」
「本当?」
クレアの顔に、晴れやかな表情が広がった。セラフィスはクレアの家庭教師に声をかけ、授業の延期を提案する。家庭教師は恐縮したように腰をかがめたまま否もなくうなずいた。
「よし、決まった。クレア、支度をしておいで。馬に乗るよ」
「まぁ、馬でお出かけなの?」
思いもかけぬ外出の誘いにクレアはうきうきと心躍らせた。
「わかりました、衣装を換えて来ますから、待っていて下さいね」
クレアは侍女を呼ぶと、彼女の衣装を収めてあるもうひとつの部屋に姿を消す。
「お兄様、待っていらしてね。帰ってしまってはいやよ」
クレアはぴょんと首を出して兄に声をかけ、彼を笑わせた。
離宮から王宮に移ってこれば、兄とずっと一緒にいられるのだと思っていた。兄と別れてからの八年間というもの、それをずっと望んできた。それなのに王宮での兄は会えない時以上に遠い存在で、ともすればそれが本当にあの兄なのか不安に思うことすらあった。事実、王宮に移ってきてからというものろくに兄妹水入らずの話をする時間すらなかったのだ。
しかし、わざわざ部屋を訪ねてきてくれた兄をクレアは何よりも嬉しく思っていた。クレア、と自分の名を呼ぶ兄の声は限りなく優しくて、クレアは八年前に戻ったときのような幸福を覚えていた。
「姫さま、お似合いですね」
いそいそと部屋を出たクレアにかけられたのは兄の声ではなかった。それは黒い髪をしたあの国一番の魔道師だった。
「エクス・ヴィト」
「お勉強をさぼる口実ができて、良かったですね」
その横にはセラフィスがいて、エクス・ヴィトの軽口を諌めるでもなく笑っている。
「エクス・ヴィト、なぜここにいるの」
「ご挨拶ですね」
肩をすくめて彼は言った。
「姫さまと殿下がおでましだというので、警護役を仰せ付かったのですよ」
「まぁ」
クレアは一気に沈んだ顔をした。
「お兄様とふたりきりではないの?」
視線をセラフィスに向けると、彼はにっこりと微笑んでこう言った。
「それは、またの機会にしよう。今日は少し遠出をするからね、警護がいないと何かの時困る」
「そうそう、後のことはお任せ下さいませ」
「エクス・ヴィト」
セラフィスがわずかに語尾を尖らせてエクス・ヴィトを睨むと、この落ち着いた外見とは裏腹に冗舌な魔道師の頭領は、にやりと笑って首を反らせた。
「行こうか、クレア」
「ええ……でも、どこに行くんですか?」
ふたりの美丈夫に挟まれて歩くと、いささか気後れがする。クレアはそんなふたりの迫力に負けないように胸を張った。
「王都の外れの丘の上だよ。そこからは、王都がすべて見渡せる」
クレアは、馬にひとりでは乗れなかった。馬車で行っては日が暮れてしまうと、セラフィスは自らの白い馬にクレアを乗せ、彼女を支えるようにして自らの鞍の上に腰を下ろした。後ろにはエクス・ヴィトが続く。
「馬に乗るのは初めてか?」
セラフィスが尋ねてきたのに、クレアはうなずいた。
「揺れますわ、大丈夫かしら……」
「大丈夫、私に捕まっておいで」
クレアは体をできるだけ小さくして、兄の腰にかじりついた。そんなクレアをセラフィスは小さく笑いながら見ていた。
「心配することはない」
クレアは目を閉じた。馬の揺れは、ともすれば振り落とされてしまいそうなくらいクレアにはなじみのないものだったが、その不安は兄の体温がかき消してくれた。腕を回す兄の体、そこから伝わる鼓動と温もりがクレアを、まるで母の胎内にいるような安心で包む。
それまどろみにも似た時間で、クレアは、知らず微笑みすら浮かべながら兄に頼りきった。
地を蹴る振動が、本来なら慣れない馬上、不安を呼び起こすものであるはずが、心臓の鼓動のようにクレアを安心させる。それは、まどろみさえ誘う安堵。
「降りられるか」
セラフィスの言葉に我に返ると、そこは涼しい風の吹く緑の丘だった。すぐ後ろは森になっていて、そのうっそうと繁った様は夜に訪れればいかにも恐ろしいと思われたが、この明るい日のもとではその緑は目にも綾でクレアは思わず嘆息した。
「きれいなところ……」
先に馬を降りたエクス・ヴィトに手を取られ、クレアはその緑の大地に足を下ろした。ふたりが馬をつなぐ間、その足は丘の麓に駆け降りる。
「まぁ」
クレアは言葉を失ったままそこに立ち尽くした。眼下に広がるのは、玩具のように立ち並ぶ建造物。視界のもっとも向こうに見えるひときわ大きなものは王宮か。それを囲むように小さな建物が建ち並び、そして少し離れたところにはさらに小さな屋根が所狭しと顔を覗かせている。太い道が町を貫き、中央に見えるのは碑を建てた広場だった。
「……」
真っ青な空のもと、そこに広がる光景にクレアは口をきくことを忘れた。ただそこに立ち尽くし、自分の存在すら忘れてしまっていたとき、肩を抱かれて振り返った。
「クレア」
セラフィスが、自らもその光景に目をやりながらささやいた。
「これが、私たちが統べる国だ」
クレアは知らず、両手を胸の前で組んでいた。太陽の光に輝くその光景はあまりにも神々しく、クレアは返事もできずにただそこに立った。
「この国の民の命運は、私たちの手の中にある」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。クレアの肩を背後から抱いて、わずかに木々を揺るがす風に吹かれながらセラフィスは言葉を綴る。
「私たちの行動如何で、ここに住むすべての者が生きもし、また死にもする。すべては、私たち次第なのだ」
「はい……」
あとは、誰も何も言わなかった。エクス・ヴィトも黙ってその光景を眺める。さやぐ風だけが音を作りだす。
「お前はまだ若いし、こちらに来たばかりで王宮の生活の堅苦しさばかりが目に付くと思う」
セラフィスはクレアに諭すように話しかけた。
「それをいやだというのはわかるよ、もしお前が庶民の子であったなら、宮廷作法や聖典の解読などに煩わされずにまだまだ跳ね回っていられる年なのだからね」
声は、まるで神殿で聞かされる神の言葉のようだった。
「しかし、お前は王家に生まれた。王家に生まれた者は、日々の糧のために働かなくてもよい代わりに、果たさねばならない義務というものがある。それはなんのためにあるのか、その答えがこれだ」
セラフィスは手を伸ばし、王都の町並みを指し示す。
「私たちは、民の幸福のために生きる。それは、並大抵では得られないけれど、その困難を越えた先にある幸せだ。民の幸せを自らの幸せと思うことができるようになれば、お前は王家に生まれた甲斐を果たすことができたと言えるだろう」
クレアは返事をしなかった。それは咽喉に引っ掛かって、今まで気づくことすらしなかった自覚というものを呼び起こした。
「お兄様、私……」
クレアの言葉はそれ以上は綴られなかったが、セラフィスはすべてわかっているというようにうなずいた。
「いい子だ、クレア。それでこそ私の妹だよ」
肩に回した手をその頭において、セラフィスはあやすように軽く撫でた。それは、離宮にいたころの記憶を蘇らせる。
「私、わかりましたわ。王女としてなすべきことが」
クレアは両手を握り締め、セラフィスを振り返った。再会した時は不満だった。なぜ、兄は昔のような優しい言葉をくれないのだろうか、八年もの歳月の後に再び会った妹をなぜいたわってくれないのだろうか。そんなふうに不満を感じていたことは事実だった。しかし、その澱は今、クレアの胸の奥で溶けてゆく。兄の直面する現実を思い知らされて、そして自らもその妹としての立場をはっきりと自覚した。そして、後に残ったのは今までにも増した兄への敬意。
「お兄様、私、今まで以上にお兄様を尊敬しますわ」
クレアの言葉に、セラフィスは一瞬驚いたような顔をし、そしていつもの柔らかな笑みを作った。
「嬉しいよ、そう言うふうに言ってもらえるとね」
「これで、姫さまにもその自覚がおできになれば嬉しいんですけれどね」
傍らのエクス・ヴィトが唇の端を持ち上げてそう言った。
「まったく、家庭教師たちに同情しますよ」
「まぁぁ、エクス・ヴィトっ!」
クレアは頬を真っ赤に染めてエクス・ヴィトに食ってかかる。
「なんてことを言うの、お兄様の前で!」
「殿下はみんなお見通しですよ、姫さま、頼みますよ?」
クレアはエクス・ヴィトに小さな拳を振り回して見せながら、ちらりとセラフィスの方を見た。
その、菫の花の色にも似た深い瞳の色は、クレアの心臓を握り締める。クレアは風に吹かれるままわずかにうつむいて、その胸に鮮やかに宿る尊敬するべき兄への思慕を感じる。
それがどんな色をしているのか、クレアはまだ知らない。
礼儀作法の授業中に侍女が声をかけてきた。家庭教師は驚いて背筋をの伸ばし、クレアはちょうど目の前に現れた兄を覚えたばかりの、皇女のみに許されたお辞儀の仕方で迎えた。
「お久しぶりです、お兄様」
「ああ、クレア、ちゃんとやっているようだね」
セラフィスはにっこりと微笑んでクレアを見つめた。
「ほぅ、なかなかに優雅だ」
「ありがとうございます」
クレアは極上の笑みを浮かべて兄に答える。
「私、礼儀作法は得意なの」
「他のは苦手だけど……?」
セラフィスはそんなことを言ってクレアの頬を染めさせた。
「ユーヌスを困らせてはいないだろうね」
「大丈夫です」
クレアは首を縦に振った。
「私、ちゃんとお勉強の方もやっております。……礼儀作法ほど、楽しくはないけど」
「その調子で頑張るんだよ。お前には期待しているからな」
「まぁ……ひとつ……」
兄の言葉にクレアはうなずいた。少し張りつめた表情が浮かぶ。
「そう固くならないで。今日は、時間が空いたのでお前と過ごそうと思ってきたんだ」
「本当?」
クレアの顔に、晴れやかな表情が広がった。セラフィスはクレアの家庭教師に声をかけ、授業の延期を提案する。家庭教師は恐縮したように腰をかがめたまま否もなくうなずいた。
「よし、決まった。クレア、支度をしておいで。馬に乗るよ」
「まぁ、馬でお出かけなの?」
思いもかけぬ外出の誘いにクレアはうきうきと心躍らせた。
「わかりました、衣装を換えて来ますから、待っていて下さいね」
クレアは侍女を呼ぶと、彼女の衣装を収めてあるもうひとつの部屋に姿を消す。
「お兄様、待っていらしてね。帰ってしまってはいやよ」
クレアはぴょんと首を出して兄に声をかけ、彼を笑わせた。
離宮から王宮に移ってこれば、兄とずっと一緒にいられるのだと思っていた。兄と別れてからの八年間というもの、それをずっと望んできた。それなのに王宮での兄は会えない時以上に遠い存在で、ともすればそれが本当にあの兄なのか不安に思うことすらあった。事実、王宮に移ってきてからというものろくに兄妹水入らずの話をする時間すらなかったのだ。
しかし、わざわざ部屋を訪ねてきてくれた兄をクレアは何よりも嬉しく思っていた。クレア、と自分の名を呼ぶ兄の声は限りなく優しくて、クレアは八年前に戻ったときのような幸福を覚えていた。
「姫さま、お似合いですね」
いそいそと部屋を出たクレアにかけられたのは兄の声ではなかった。それは黒い髪をしたあの国一番の魔道師だった。
「エクス・ヴィト」
「お勉強をさぼる口実ができて、良かったですね」
その横にはセラフィスがいて、エクス・ヴィトの軽口を諌めるでもなく笑っている。
「エクス・ヴィト、なぜここにいるの」
「ご挨拶ですね」
肩をすくめて彼は言った。
「姫さまと殿下がおでましだというので、警護役を仰せ付かったのですよ」
「まぁ」
クレアは一気に沈んだ顔をした。
「お兄様とふたりきりではないの?」
視線をセラフィスに向けると、彼はにっこりと微笑んでこう言った。
「それは、またの機会にしよう。今日は少し遠出をするからね、警護がいないと何かの時困る」
「そうそう、後のことはお任せ下さいませ」
「エクス・ヴィト」
セラフィスがわずかに語尾を尖らせてエクス・ヴィトを睨むと、この落ち着いた外見とは裏腹に冗舌な魔道師の頭領は、にやりと笑って首を反らせた。
「行こうか、クレア」
「ええ……でも、どこに行くんですか?」
ふたりの美丈夫に挟まれて歩くと、いささか気後れがする。クレアはそんなふたりの迫力に負けないように胸を張った。
「王都の外れの丘の上だよ。そこからは、王都がすべて見渡せる」
クレアは、馬にひとりでは乗れなかった。馬車で行っては日が暮れてしまうと、セラフィスは自らの白い馬にクレアを乗せ、彼女を支えるようにして自らの鞍の上に腰を下ろした。後ろにはエクス・ヴィトが続く。
「馬に乗るのは初めてか?」
セラフィスが尋ねてきたのに、クレアはうなずいた。
「揺れますわ、大丈夫かしら……」
「大丈夫、私に捕まっておいで」
クレアは体をできるだけ小さくして、兄の腰にかじりついた。そんなクレアをセラフィスは小さく笑いながら見ていた。
「心配することはない」
クレアは目を閉じた。馬の揺れは、ともすれば振り落とされてしまいそうなくらいクレアにはなじみのないものだったが、その不安は兄の体温がかき消してくれた。腕を回す兄の体、そこから伝わる鼓動と温もりがクレアを、まるで母の胎内にいるような安心で包む。
それまどろみにも似た時間で、クレアは、知らず微笑みすら浮かべながら兄に頼りきった。
地を蹴る振動が、本来なら慣れない馬上、不安を呼び起こすものであるはずが、心臓の鼓動のようにクレアを安心させる。それは、まどろみさえ誘う安堵。
「降りられるか」
セラフィスの言葉に我に返ると、そこは涼しい風の吹く緑の丘だった。すぐ後ろは森になっていて、そのうっそうと繁った様は夜に訪れればいかにも恐ろしいと思われたが、この明るい日のもとではその緑は目にも綾でクレアは思わず嘆息した。
「きれいなところ……」
先に馬を降りたエクス・ヴィトに手を取られ、クレアはその緑の大地に足を下ろした。ふたりが馬をつなぐ間、その足は丘の麓に駆け降りる。
「まぁ」
クレアは言葉を失ったままそこに立ち尽くした。眼下に広がるのは、玩具のように立ち並ぶ建造物。視界のもっとも向こうに見えるひときわ大きなものは王宮か。それを囲むように小さな建物が建ち並び、そして少し離れたところにはさらに小さな屋根が所狭しと顔を覗かせている。太い道が町を貫き、中央に見えるのは碑を建てた広場だった。
「……」
真っ青な空のもと、そこに広がる光景にクレアは口をきくことを忘れた。ただそこに立ち尽くし、自分の存在すら忘れてしまっていたとき、肩を抱かれて振り返った。
「クレア」
セラフィスが、自らもその光景に目をやりながらささやいた。
「これが、私たちが統べる国だ」
クレアは知らず、両手を胸の前で組んでいた。太陽の光に輝くその光景はあまりにも神々しく、クレアは返事もできずにただそこに立った。
「この国の民の命運は、私たちの手の中にある」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。クレアの肩を背後から抱いて、わずかに木々を揺るがす風に吹かれながらセラフィスは言葉を綴る。
「私たちの行動如何で、ここに住むすべての者が生きもし、また死にもする。すべては、私たち次第なのだ」
「はい……」
あとは、誰も何も言わなかった。エクス・ヴィトも黙ってその光景を眺める。さやぐ風だけが音を作りだす。
「お前はまだ若いし、こちらに来たばかりで王宮の生活の堅苦しさばかりが目に付くと思う」
セラフィスはクレアに諭すように話しかけた。
「それをいやだというのはわかるよ、もしお前が庶民の子であったなら、宮廷作法や聖典の解読などに煩わされずにまだまだ跳ね回っていられる年なのだからね」
声は、まるで神殿で聞かされる神の言葉のようだった。
「しかし、お前は王家に生まれた。王家に生まれた者は、日々の糧のために働かなくてもよい代わりに、果たさねばならない義務というものがある。それはなんのためにあるのか、その答えがこれだ」
セラフィスは手を伸ばし、王都の町並みを指し示す。
「私たちは、民の幸福のために生きる。それは、並大抵では得られないけれど、その困難を越えた先にある幸せだ。民の幸せを自らの幸せと思うことができるようになれば、お前は王家に生まれた甲斐を果たすことができたと言えるだろう」
クレアは返事をしなかった。それは咽喉に引っ掛かって、今まで気づくことすらしなかった自覚というものを呼び起こした。
「お兄様、私……」
クレアの言葉はそれ以上は綴られなかったが、セラフィスはすべてわかっているというようにうなずいた。
「いい子だ、クレア。それでこそ私の妹だよ」
肩に回した手をその頭において、セラフィスはあやすように軽く撫でた。それは、離宮にいたころの記憶を蘇らせる。
「私、わかりましたわ。王女としてなすべきことが」
クレアは両手を握り締め、セラフィスを振り返った。再会した時は不満だった。なぜ、兄は昔のような優しい言葉をくれないのだろうか、八年もの歳月の後に再び会った妹をなぜいたわってくれないのだろうか。そんなふうに不満を感じていたことは事実だった。しかし、その澱は今、クレアの胸の奥で溶けてゆく。兄の直面する現実を思い知らされて、そして自らもその妹としての立場をはっきりと自覚した。そして、後に残ったのは今までにも増した兄への敬意。
「お兄様、私、今まで以上にお兄様を尊敬しますわ」
クレアの言葉に、セラフィスは一瞬驚いたような顔をし、そしていつもの柔らかな笑みを作った。
「嬉しいよ、そう言うふうに言ってもらえるとね」
「これで、姫さまにもその自覚がおできになれば嬉しいんですけれどね」
傍らのエクス・ヴィトが唇の端を持ち上げてそう言った。
「まったく、家庭教師たちに同情しますよ」
「まぁぁ、エクス・ヴィトっ!」
クレアは頬を真っ赤に染めてエクス・ヴィトに食ってかかる。
「なんてことを言うの、お兄様の前で!」
「殿下はみんなお見通しですよ、姫さま、頼みますよ?」
クレアはエクス・ヴィトに小さな拳を振り回して見せながら、ちらりとセラフィスの方を見た。
その、菫の花の色にも似た深い瞳の色は、クレアの心臓を握り締める。クレアは風に吹かれるままわずかにうつむいて、その胸に鮮やかに宿る尊敬するべき兄への思慕を感じる。
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